三話
「結城っ」
不意にぐいっと鞄が後ろに引かれた。
予期しない動きに足がもつれる。バランスを崩した私を支えるように背後に腕が回った。
え、と思うのとほぼ同時、一歩踏み出そうとしていたその場所を勢いよくバイクが通り過ぎた。
「あっぶねぇ」
轢かれかけたことより、すぐ近くで聞こえてきた声に心拍数が上がる。抱き寄せられた、とは少し違うけど先輩の腕が腰を支えているから、すごく、すごく、近い。
命の危機より、こんなことにドキドキしてしまうなんて。ほんと、恋は人を馬鹿にする。
「あ、急に引っ張って悪い。足捻ったりしてないか?」
「は、い。怪我は……」
離れてしまった体温が名残惜しい。
ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
「おう! どういたしまして」
「よく気が付きましたね」
「ああ、ミラーに速度を落とす気配のないバイクが見えたからな」
なるほど。私はミラーなんて見てなかった。
写真を撮ってる時の方が強く思うけど、ふとした瞬間に、世界の見え方が違うと感じる。
鈍感無神経先輩だから見てないように見えても、ちゃんと周囲に気を配ってるんだよね。具合が悪いときは真っ先に気が付いてくれるし。
好きだなあと実感する。
まあ、私が周りがほとんど見えてなかったのは、先輩しか見えないから……と言うと言い過ぎだけど。意識の大半が先輩に向かってるからだ。
「一応ナンバー覚えたぜ。どうする?」
「どうもしなくていいですよ」
「そうか。ま、怪我無かったからそう大事にしなくていいか。……結城が怪我してたらあのバイク許さねえけど」
後半の台詞がものすごく低くて、本気で怒ってくれているのが分かるからまたドキッとしてしまった。
「先輩ってそういうイケメン台詞、好きな人には絶対言えないタイプですよね」
「なっ、ば、い、言えるわ!」
「嘘です。先輩はやるときはやる人なんで言えますよ」
「もちろんだ!」
「けど、好きな人の名前とか絶対呼べませんよね」
「うっ!」
これは図星だったらしく胸を押さえた。やっぱりね。私の前では緋乃さん、なんて呼んでたけど緋乃を呼ぶとき先輩は店員さんと呼びかける。
「お、お前だって呼べんのかよ」
「勿論です」
私は二人きりの時には先輩と呼びかけるが、何人か「先輩」がいるときは普通に名前で呼んでいる。たまに部長呼びで誤魔化したりするけど。
「……ん? そーいや、お前俺の事なんてよぶっけ?」
……このタイミングでそれを気にするとか、実は私の気持ちに気がついてるんじゃないですよね。
もし万が一、いや億が一、気がついててあえて気がつかないふりをしていたら絞め殺す自信がある。
「忘れたんですか? いつも呼んでるじゃないですか。はーくん、はーとって」
「付き合いたてのカップルか! 呼ばれたことねぇわ!」
はーと、のところで丁寧に手でハートマークをつくってやる。
「はっ、まさかお前俺の名前覚えてないのか!」
「流石に覚えてますよ、田中権兵衛先輩」
「違ぇよ! 文字数すらあってない上に本名一字も入ってねえ! あととっさに出てくる名前のセンスがやべえ!」
「うるさいです」
しまった。名前で呼ぶ許可をもらえるチャンスだったのに恥かしさに負けた。
「なあ、結城本当に覚えてるか!? 誤魔化してもわかるんだぞ? 先輩は悲しい」
冷たくなった手を握りしめた。
「覚えてますって。……遠野隼人先輩」
「…………お。おう」
「何照れてんですか、はーくん」
「それはやめろ。親戚のちびがそう呼ばれてんの思い出すから」
このくらいで照れる神経してないくせになんで照れたんだ先輩は。
変なの。
「ちゃんと覚えてたんだな」
「まぁ、最初は本当に名前知らなかったんで」
「俺は10の精神ダメージを負った」
「釣り合いがとれるように身体ダメージも10加えて差し上げましょうか」
「やめて」
鞄を掲げると先輩がふざけて距離をとる。
「名前で呼んでほしいんですか?」
「そりゃな」
「へー」
……よし。頑張れ、私。
先輩がとった距離をこっそりと詰める。腰まで垂れた長いマフラーをくいっと引いて、見上げた。見下ろす顔が少し赤い。
「……――権兵衛先輩」
「誰だよ! 違うだろ!? ここは、そっと隼人先輩、って呼ぶところだろ!?」
うん。自分でもこのひねくれ具合にびっくりです。
「コーヒー奢ってくれれば考えますけど」
「奢る!」
「え、必死」
「うるせー! 呼ばれたいんです」
そっか。呼ばれたいのか。
「あれ。今お前笑った……?」
「嘲笑いましたよ」
「字がちがう!?」
先輩のばーか。
冗談を本気にした先輩は本当に近くの販売機でコーヒーを買ってくれた。暖かいコーヒーを両手でそっと受け取ってベンチに座る。
「ありがとうございます。遠野先輩」
「……隼人」
「ケーキ付きなら」
「足下見やがって……!」
悔しそうな顔を横目に鞄から缶コーヒーを出す。
「実はちょっと前に同じの買ってたんですよね。先輩はこれをどうぞ」
「さんきゅ」
自然な動作で隣に座るので、悔しくて差し出したコーヒーを顔面におしつけた。
「うおおお、つめてぇ!」
「殿、冷やしておきました」
「なんで!?」
騒ぐ先輩を無視してあったかいコーヒーで冷えた手を暖めた。
「せめてほっぺにつけたらな」
「なんで、隼人先輩とそんな恋人みたいな真似しなきゃなんないんですか」
「にしても顔面はない!」
うー、と寒がりながらも先輩はコーヒーを飲む。
「缶コーヒーはやっぱ結城の淹れた奴には適わないな」
「豆がいいですから」
「淹れ方だろ。豆とか時々買ってるけどあんま美味くねぇもん」
「やっぱ私みたいな美少女が淹れるとますます美味しくなるんでしょうね」
「はいはい。そーだな」
そこは美少女に突っ込むところですよ。まったく。
「でも確かに小太郎さんのコーヒー飲んだら缶じゃ満足できなくなりますよね」
「小太郎さん、か……」
その声は聞き取れるか聞きとないか微妙な音量で。……先輩らしくない。
「お前次バイトいつ入んの?」
「しばらくは無いですね」
本当は緋乃がインフルエンザで倒れてる今必要なんだけど、長期休み以外はバイトの許可が降りない。
「どんくらい?」
「んー、次はゴールデンウイークですかね。春休みはあのカフェしまるんで」
「へー、しばらく結城のコーヒー飲めないのか……」
先輩がそう言ってくれたとき、有名なアーティストの曲が私のスマホから流れた。促してくれたので失礼します、と言いながらメッセージを開いた。
母からだ。
「……隼人先輩」
「ん、どうした?」
「飲みます?」
「へ?」
「コーヒー。今から、私んちで」
「…………え」
たった今入った連絡に了解、と返す。緋乃を病院に検査に連れて行っているが、長引いてなかなか帰れそうにないので、終電を逃しそうとのこと。高熱の緋乃を歩かせるわけには行かないので今日はもう病院近くの叔母の家に泊まるらしい。
「コーヒーは喫茶ブレンドしかないですけど」
「え、い、いい家って。それも、じょ、女子のとか! 俺、手土産もってない」
「はあ?」
何をぬかしているのかこの先輩は。
「先輩って女子の家行くときいつも持って行ってんですか? 礼儀正しいのは良いと思いますけど、必須アイテムじゃないでしょうに。それともなんですか。娘さんを下さいとでもいうつもりですか」
「残念だな結城! 俺は女子の家など行ったことがない!」
なぜか偉そうに胸をはる。
ふーん? 行ったことないんだ。なんてホッとして優越感を感じる私は性格が良くないんだろうなぁ。
緋乃だったらきっと。
思い浮かんだ卑屈な考えをコーヒーで飲み下す。
「ま、大丈夫ですよ。家、人いないんで」
「ばっ、」
ば?
「馬鹿お前! それ他の男にはいうなよ!」
「他の男は招きませんけど」
「……はあ」
なんか先輩が脱力した。いや、意味は分かってる。私は鈍感じゃない。けど好きな人に父親みたいに心配されてもね。
「結城、コーヒー飲まないのか」
「ちょっと冷めるの待ってます」
実は極度の猫舌なので、缶コーヒーレベルのあったかさでももう少し冷やさないと飲めないのだ。
「すまん。アイスが良かったか。んじゃ、こっちと交換しようぜ。まだ一口しか飲んでないし」
……関節キスなんですけど。そんなことも気にしない鈍感無神経先輩と家に二人きりになったところで何を心配すればいいんですか。
「結局自分の買ったのを飲むことになりましたね」
「だな。ってか、これぬるい」
「冷たいおててでせっせと冷やしてましたから。あ、やっぱちょっと飲ませて下さい」
体を寄せ、先輩の手ごと包むようにして一口だけ飲む。
「……わぁ、人肌温度。これは嫌ですね」
「ごほっ」
先輩がむせた。美味しくないので一気に無くしてしまおうという気も分からないでもないけど。もう少し冷ませばいい温度になったのに。せき込む背中をぽんぽん叩いてやる。
「ごほっ、すまん」
「あ、先輩! マフラーにコーヒー染みてます」
「まじか!」
先輩のトレードマーク――と勝手に私は思っている――の白く長いマフラーにべっとりとコーヒーのシミがついている。
「うわぁ気に入ってたのに!」
「すぐ落とせば大丈夫ですよ。家近いんで来て下さい」
「え? ちょ、まっ! これなんて急展開!?」
意味の分からないことを叫ぶ先輩の手を引っ張って家に向かった。