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ネット小説大賞六 感想六 「蝶」

作者: 山野 緑子


不夜城の吉原は、雪でさえ艶かしく、日毎夜毎交わされる嘘と偽りを本物らしく美しく飾るようだ。

大見世(おおみせ)の一軒に数えられる春山楼の二階奥座敷を与えられている千枝は、自室の窓を薄めに開けて、

降り続く雪を眺めていた。

禿(かむろ)たちが明日の総上げのお祭り騒ぎに障りがないよう、千代紙で作ったらしいてるてる坊主が、

申し訳なさそうに所在なげにぶら下がっている。

「花魁、雪は止みそうにありませんよ。わざわざ湯屋にお出掛けなさるなんぞお止めなさいましな」

遣り手のお滝が心配そうに言いながら、それでも頼まれた湯屋道具を持って、部屋に入ってきた。

「明日は総上げでござんすよ。花魁の大切な日。風邪でも拾いなすっちゃ……。」

大切なのは自分の儲けだろうよ、と口には出さず笑って道具を受け取った。

楼主夫婦に一声かけて、千枝は外へ出た。

春山楼始まって以来の総上げという栄誉をもたらしてくれる胡蝶花魁が湯屋へ行きたいと言うなら、

止める理由がどこにある。にこにこと送り出す。


千枝が振り袖新造(花魁見習い)の頃からの贔屓である長崎屋が、還暦の祝いに春山楼を借りきりたいと、楼主に申し入れてからのこの二月、

見世は地鳴りがするほどの大騒ぎだった。

いくら長崎屋が名だたる大店といっても、吉原の大見世を借りきるなど、いったいどれだけのお銭がいるのか、千枝には見当もつかない。

細やかな雪がほろほろと降る中、供も連れず一人で湯屋へ行くのが、千枝の数少ない楽しみのひとつだった。

花の湯は吉原で古くから営まれる湯屋だ。明けたばかりの朝湯にはめったに客はなく、千枝も気兼ねせずゆったりと湯を楽しめた。

ここには盲目の老いた三助がいる。按摩上がりであろう腕で肩から背中まで流してもらうのは、日頃、華美で重厚な衣装をまとい、結い上げた髪に十数本もの(かんざし)を細い首で支えている千枝には何よりの贅沢だった。

「おじさん、いつもありがとう。生き返った気になるね。」千枝は素直に礼を言った。こちらから話し掛けなければ口を開かない老人だが、

「こちらこそご贔屓に与りやして、ありがたいことでごぜいやすよ。過分なお心付けまで頂戴しやして」

しわがれ声ながら静かに胸に沁みる言葉を返してくれる。その声に励まされたことが何度あったことか……。

湯冷めしないようにと湯屋の主が厚手のどてらを着ていけと持たしてくれた。さすがに花魁の身で着るには人目を憚る代物だったが、

手にするだけでも温かいのが嬉しい。

蛇の目越しに眺める雪が美しく、湯屋で心がほぐれたせいか、閉じ込めたはずの遠い記憶の恐怖と悲しみと切なさとが一度に戻ってくるようで、まぶたをぎゅっと閉じて雪から離れた。


本当はわかっていた。朝、雪が降っているのを目にして、過去の中の明日という日を、部屋に座って、黙って待つのはたまらなかった。

長崎屋の申し入れはありがたかった。ありがたいと思う気持ちを抱く己を恥じながら、しかしやはりありがたいには違いない。

揺れ動く振り子にまるで船酔いしたように、千枝は思い出に引きずられ、文字通り張り裂けそうな心に疲れ果てていた。

「花魁、胡蝶花魁」

顔馴染みの男衆の猪之助が声を掛けているのにまるで気付かなかったらしい。

「ああ猪之さん、すまないね。湯冷めしそうで急いでたんだよ」

「明日は総上げでござんしょう。気持ちも逸るってもんですよ。さ、どうぞ、お行きなすって」

軽妙で小気味いい口調の猪之助の顔は笑っていたが、仔猫でもつかむように少女の首根っこを押さえている、その右腕はいかつい。表向きには吉原の(おんな)たちを守るためだが、ひとたび足抜けでもしようものなら二度とはその気にならぬぐらいに痛め付ける恐ろしい腕だ。

物問いたげな千枝に気付き

「こいつですかい。元はいい暮らしをしていたようでござんすが、二親が死んじまってお定まりの跡目争いか、叔父ってのが売りに来たそうで

加賀美楼で決まったとたん逃げ出しやがったのを見つけたところでござんすよ、まったく世話焼かせやがって」

体が浮き上がるほどきつく引っ張られても泣くどころか、娘は猪之助を睨み付けくちびるを噛みしめている。

まだ十にも満たないだろうに……。

「猪之さん、そんなに邪険にしちゃ楼主さんにも顔が立つまいよ。ちょうど帰り道だ。あたしが送ろう。」

猪之助は慌てたように断ったが半ば強引に娘の手を引いた。娘は千枝の手を振りほどこうと一瞬もがいたが

「逃げるのは勝手だが当てはあるのかい。凍え死ぬかあの男衆に痛い目に合わされたいかい?あたしはどっちでもいいが、正月も近いってのに後生が悪いってもんだ。黙ってついてくるんだね」どてらを無理に羽織らせ、湯屋道具を小脇に挟み蛇の目を持ち、千枝は娘の手を取って歩いた。

娘は諦めたようだ。手を引かれながらも頭をつんと上げる気位の高さと、小刻みに震える手が不安を表しているのに、千枝は昔の自分を見ている気がした。

蕎麦屋に落ち着いても娘は何も話さない。名を問われても歳を聞かれても無言のままだ。ただ、空腹には勝てなかったのか天ぷら蕎麦には箸をつけて手繰っている。

なるほどそれなりの家の子だったのだろう。箸はきれいに持ち、空腹に急いで胃に収めてはいるが"かっこむ"ということはしていない。

着物は擦りきれ洗いにも出していないが上等な絹だ。だが、足袋を履いていない下駄は誰からかのお古のようで、チビている上に娘の足には大きすぎる。

この不格好な下駄をからから鳴らしながら逃げたのか。雪の中を。一人で。当てもなく……。

千枝は熱燗にしてもらった猪口をぐいと空けた。流さない涙が酒の熱さに混じって喉をくだっていく。

もうだめだ。遠くなっているはずの過去が自分を呼ぶなら、応えてやろう。


千枝が吉原に売られてきたのもこの娘ぐらいの頃だ。千枝を売ったのは父に支えていた下僕の一人だった。最後の給金代わりだ、バチは当たるまいともう一人の老僕を足蹴にして連れ出された先が今の見世だった。

千枝の父は浪人していたもののさる藩の役付きまで勤めたお武家だった。千枝は父と母に愛され、慈しまれ、芸妓だった母から手習いや舞い、和歌、茶道華道、三味線、琴と娘として一通り以上のものを身に付けながら育った。豊かではなくても千枝は幸せに暮らしていたのだ。

しかしある頃から父は千枝の知らない男たちに誘い出され、外出が多くなった半面口数が減り、母と言い争いをするようになった。家に幾日も帰らない日が続いたりと、急な変化に千枝はおろおろと不安に揉まれるだけだった。

そしてあの日。雪が積もり始めた朝だった。

父は千枝に見せないよういきなり母の首を掻き切り、抱きしめながら母の絶命を確かめた後、千枝を下僕たちに送らせて父の妻の実家に行かせるつもりだったらしい。

母は父の正式の妻ではなく、江戸妻という立場だったこと、長屋の差配さんが弔いを出してくれたのも、後になってから知った。

下僕の裏切りによって吉原に売られ、迎えを待ち焦がれた日々の心細さ。誰も来てはくれなかった。助けも買い戻そうと思ってくれる者も誰一人いないと悟るまで、無言を貫き、武家の娘だという小さな誇りにしがみついていた。他の女たちの白粉焼けした荒れた肌や蓮っ葉な言葉遣い、品のない不作法な仕草のすべてが疎ましく、私は決してあんな風にはならないと決意していた。だがしがみついたちっぽけな誇りでは腹は満たされず、情けをかけられる時期は過ぎたのだと思い知らされ、そして諦めた。

花魁になるための素養が身に付いていたのが千枝の運命を決めた。

楼主夫婦の期待を受け、次々と厳しい稽古事が増やされ、千枝から胡蝶という女郎になるまでの記憶のあやふやさがどれだけ救いになっているか、千枝にはよくわかっていた。


気がつくと二杯目の蕎麦まできれいに平らげた娘が無表情ながら小さく頭をさげていた。まわりに客も増えてきていた。

吉原一と名高い胡蝶花魁が棄てられた仔猫のように薄汚れた娘っ子を相手に酒を飲んでいる、こいつぁ珍しいやな

客たちのひそひそ話が騒がしい。千枝は娘を連れて蕎麦屋を出た。

雪は止みそうにない。今年も積もるかもしれない。そろそろ見世に戻って拵えもしなくてはならない。顔見知りの小間物屋を見つけ見世への言伝てを頼んだ。

娘は逃げようとする気力は失ったのかおとなしく歩いている。腹が満たされ、心持ちも落ち着いたらしいのをみとめ、千枝は語り掛けた。

「説教できる柄じゃないが、お前もここで生きていく女郎仲間になるんだ、黙ってお聞きな。

どうやらお前は育ちもよく器量もいい。加賀美楼のおとうさん、おかあさんの言うことをよく聞いて、稽古させてもらえるだけ稽古して、

いつかきっと松の位の花魁になるんだよ。」

「花魁になってどうなるってんですか。花魁だって…どうしたってお女郎なんでしょ」

初めて口を開いた娘の真剣な声音に、千枝は視線を合わせるためにしゃがんだ。

「そうさ。しょせんは女郎にゃ違いないさね。女郎の花の盛りは短いんだよ。どうせ短いならちっとでも長く花を咲かせたいじゃないか

花魁花魁って崇め奉る連中を笑ってやりたいじゃないか。そうだろう?花が萎れて吉原にゃいられなくなって岡場所に流れようが夜鷹にたどり着こうが

いずれ死ねば無縁墓地に投げ込まれるだろうが、あの世にはお前が会いたい人がいるだろう、そう思や怖いことは何もないだろうさ」

そこで千枝は立ち上がった。蛇の目からふわりと雪が滑る。

娘が千枝の言葉を噛み砕いて飲み込んで合点したつもりになっているのに重しを置くように

「今すぐ会いに行ったって会えやしないからね」

娘がびくっと肩をすくめる。

「どんな場所でどんな目に合わされようが生き抜いてこそだからね。急いだって無駄だよ、会う前にすれ違っちまうよ」

娘は一瞬泣き崩れそうに身を震わせたがすんでの処で堪えた。背中は泣いていたが……。


加賀美楼では千枝を下にも置かないもてなしぶりだ。こちらの妓たちの邪魔にならないよう、早見世の客が気付かないうちに帰りたかった。

言伝てを聞いた見世の駕籠が薄く雪を乗せながらちょうど迎えにきた。

乗り込もうとする千枝に、娘が駆け寄り抱きついてきた。そうして千枝を見上げて

「あたしの名は春だよ!あたしも蝶になるから!きっとなってみせるから!」

言うなり見世に駆け戻って行った。


自室に戻り冷えきった体を火鉢で温め、帰りが遅いのを心配していた楼主夫婦、禿や振り袖に甘えきって拵えを済ませ、千枝から胡蝶へと変わっていく

我が身を鏡に写し、鏡越しに雪を眺めた。

春への言葉は千枝が湯屋の三助の老人に言われた言葉だった。後にも先にもたった一度だけ、自ら口を開いた老いた三助が千枝の背中をこすりながら

「胡蝶さん、死に急ぎなすってもあの世で会いたいお方とすれ違いになりやすよ。その時がくればあちらからお迎えに来てくださいやす。

それを待たずに迷子になってもいいんですかい。この世のことはこの世に生きる者が果たさなきゃなりやせん。生き続けるのが役目でございやすよ」

やはり今日のように雪が降り続く朝、やっと一人歩きを許された振り袖新造の千枝は身を浄め、両親の後を追おうと決心していたのだ。明日には水揚げをするという日だった。それを見抜かれ、諭され、千枝は長崎屋の旦那に花魁にしてもらった。


明日はあの日からちょうど二十年目の十二月十四日だ。

大雪の夜だった。母を殺め、娘を下僕に預け、吉良様のお屋敷に討ち入ったはずの父。

千枝はそう自分に言い聞かせ、どうにも仕方のないことだったのだとなんとか折り合いをつけてきた。

だがどうしたことか、泉岳寺には父の名はなかった。

寸前で姿をくらました浪士が一人いたとも、別の密命を受けて泣く泣く討ち入りには加われなかった者がいたとも

噂が噂に乗ってもはや原形がわからない話ばかりが飛び交って一向に真実は見えなかった。

今もわからないままだ。


この日に雪が降らなければ、千枝はただ心で本当は何者だったかしれない父と、その手に掛かった母の供養をするだけで気は済んだ。

だが、雪を見るとたまらなく切なく悲しく、吉原でお腹を空かせてさ迷う十歳のこどもに戻ってしまう。

降り続く雪に埋もれたまま眠りたいと、餓えるほどに思った少女にたまらなく会いたくなる。


今年はそれが叶った。

そして、自分がして欲しかったことをしてやれた。救ってはやれない。ただ覚悟だけは植え付けられたと信じている。


ああ、雪が綺麗だねぇ

明日は長崎屋の旦那にたんと遊んでもらおう

大いに楽しんでもらい、私たちもお銭分の働きをしよう


雪明かりの吉原は艶かしく美しい。

いつか老いさらばえて、無縁仏になろうと、野垂れ死にのシャレコウベになろうと、

冬であれば、雪が降る中、それもまた粋じゃないか。


きりりとした花魁胡蝶の立ち姿に、千枝はすべてを託して生き抜くだけだ。




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