02.変化
今でも思う。
本当は、ただの気まぐれだったのではないかと。
授業や宿題でわからなかった部分を質問してみると、要先生は予想に反して丁寧に教えてくれる人だった。
「あぁ、これなー。そうそう、この公式を使うのは合ってるけど…」
いつもの授業中のように張り上げた声ではなく、あたしの正面に腰掛けて間近で説明する姿は、いつもの様子からは想像もできない。
「え? …あっ、先にこの解を出さなきゃいけないんですね。それからこの公式に当てはめて」
「そうそう。そしたら…ほら、求まるだろ」
空いている教室の片隅で、ガリガリと紙に公式を書きなぐりながら解法を説明してくれる要先生は、全然怖くなかった。
あたしのペースに合わせて噛み砕くように、丁寧に教えてくれた。
「わかったか?」
「はい」
「よし」
そう言って満足げに笑いかけてくる先生は、いつもの怒ったような早口ではなくて。
開口一番、馬鹿だの何だのと罵られる覚悟で質問を持ってきたのがそれこそ馬鹿らしいと思えるほど、拍子抜けした。
だからつい、あたしも油断してこんな言葉が漏れてしまうのだ。
「先生、もっと怖い人だと思ってました」
言った瞬間、しまったと思って口をつぐんだけれど。
「そうか? …まぁ、授業中はわざとそんな風に振舞ってるかもな」
「わざと?」
「俺はまだ若いしお前たちとも年が近いから、厳しくしてないと嘗められるのがオチだからな」
椅子の上で伸びをしながらあくびをする先生からは、いつもの厳しい雰囲気など微塵も感じ取れなかった。
それがまた新鮮で。
彼を外面だけで怖がったり煙たがったりしている友人達ならば絶対に見ることの出来ない一面を、自分だけが知っているのだという優越感に浸れた。
このかすかな喜びの名前を、あたしはまだ知らなかった。
この日をきっかけに、あたしは要先生に頻繁に質問を持ってゆくようになった。
「またぁ? むらっち、よくあんな鬼悪魔と二人になれるよね」
「あたしなら絶対、会話続かない」
「ていうか、怖くないの?」
授業が終わった後に、要先生に質問があるから先に帰ってと伝えた友達からは次々と驚き呆れる声が漏れる。
もう慣れっこになったやり取りだけど、あたしは内心ムッとするのを懸命に抑えていた。
要先生は、本当は怖くない人なのに。
誤解してた自分が馬鹿らしく思えるほど、優しい人なのに。
反面、その優しさを知っているのはあたしだけなのだと思うとやはり嬉しくもあった。
「別に。全然怖くないよ?」
「もーう、むらっちがどんどん変人になっていくよぅ」
「むらっち帰ってきてー」
怖くないと答えると、あたしが要先生に近づくことを心配して(?)泣きまねをする子までいて。
失礼な、と思ったけど、なんとなくあたしはこれ以上弁解する気になれなかった。
彼女らに呆れているのではない。
授業から離れた要先生がどれだけ穏やかで気さくで優しいのか、それはあたしだけが知っていればいいことだから。
だから、わざわざ彼女たちに教えるのはもったいないと思ったのだ。
何度も質問を持ってくるあたしは、教務室の講師たちの間でも有名になった。
あたし以外にも質問のために教務室を訪れる生徒はたくさんいるのに、なぜあたしが有名になったのか。それはひとえに、要先生の存在のせいだ。
人気のある講師は他にいるのに「わざわざ」怖いと恐れられ人気の少ない要先生にまっすぐ向かってゆく姿が新鮮に見えたのだそうだ。
そのへんの事情をこっそり話して教えてくれたのは、遊先生だった。
「村上、最近よく要に質問してるよな」
「そうですね」
「あいつ、変に頑固だし偏屈だし、怖くないの?」
さすが生まれた時からの付き合い。遊先生は要先生のことを良く知っている。
要先生が怖いと思われるのは、どうやら昔からのことみたいで、そこを生徒に受け入れられるかを遊先生は心配しているのだろう。
やっぱり遊先生は優しい人だ。
「いいえ? 怖くないし、わかりやすく教えてくれますよ」
「そうなの? へえ…」
正直に感想を伝えたら、遊先生は妙に笑顔になった。
何を考えているのかわからないけれど、遊先生は「あの要がねえ」なんて言いながら顎のあたりをなでている。
「この間、別の生徒が要に質問しに行って、お前は馬鹿かって怒られて帰ってきたって聞いたけどね」
「えー? そんなこと一回も言われたことないですよ」
ちょっと意外なようで、でも納得もできた。
あたしが最初に想像していた要先生の姿が、まさにそれだったから。
けれど、実際に質問してみたらそんなことは全然なかったのに。
「要先生」
教務室を覗いて、そこにいる彼の姿を見つけたときは嬉しい。
「なんだ、また質問か?」
「はいっ」
振り返って、少し困ったような顔を見せてくれることも。
もうお決まりになってしまった台詞で、声が聞けることも。
いつの間にか、質問よりも、要先生の傍にいるために教務室に通うようになった自分に気づいた。
空き教室で、あたしの正面の席に座って向かい合わせで。
テキストを指差す長い指だとか、数式を紙に書く大きな手だとか。
時折、あたしの理解度を確認するために顔を上げた時の真っ直ぐな目だとか。
落ち着いて話す低い声は、お腹の辺りにじんわり響いてくる。
知らず知らず、形の良い手や髪の掛かる耳元や、口元、目元を見つめてしまう。
「村上、ちゃんと聞いてるか?」
「えっはい、もちろんです!」
時々、こうやって感づかれて釘を刺されてしまうけれど。
それでも目で追うことをやめられない。
こんな気持ちに気づいたのは、もうすぐ夏も終わろうとしている頃だった。
相手が自分より八歳も年上の大学生だろうと、自分がそれに釣り合いの取れていない中学生だろうと、あたしには関係なかった。
あと数ヶ月もしないうちに終わってしまう、一時の感情かもしれない。
ほんの幼い恋心かもしれない。
それでも、あたしは要先生のことを好きだとはっきり思うことができた。
頬が熱くなるのを感じた。
目の前にいる先生に感づかれたくなくて、ずっと下を向いていた。
***
眩しくて、くすぐったい。
ただ一緒にいられれば楽しかった、そんな頃の思い出。
「今度の模試で前回よりも成績が上がっていたら、次の休みにどこでも好きなところに連れて行ってやるよ」
「えっ、本当ですか!?」
「うん。最近頑張ってるしな」
少しだけ口角の上がった先生の顔を、できるならばいつまでも保存しておきたいと本気で思った。
先生が笑うのは珍しいから。
先生が提案を持ちかけてきたのは、秋も深まってきた十月半ば。
十一月の初めに、学校で行われる一斉模試を控えていた。
ことあるごとに要先生に質問に通うようになってから数ヶ月。もう、周りの誰も不自然といわなくなった。
最初のうちは質問が終わるとすぐに放り出されていたけれど、少しずつ世間話もしてくれるようになった。
今日は天気がいいとか、暑いとか、涼しいとか、自分が中学生の頃は何が好きだったとか。
他愛もないことばかりだけど、それでもあたしに語りかけてくれるのが嬉しい。
おかげで、先生について色々知ることができたから。
誕生日が八月であること(もちろん覚えていてプレゼントをあげた)。
通っているのはI大学で、来年は大学院に行く予定だから就職はまだしないこと。
高校生までは吹奏楽部でトランペットをやっていたこと。
高校時代に自分で買った楽器を、今でも宝物のように大事にしていること。
車に乗るのが好きなこと。
他にも、たくさん、たくさん。
先生と話をした内容で覚えていないことはないというぐらい、あたしの頭の中は先生のことで一杯だった。
「えーどこに行こうかな」
「まだ試験受けてもいないのに、何言ってんだ。勉強しろ勉強」
「はあい」
そんなあたしの気分は、ことごとく態度に反映されていたらしい。
「むらっち、最近ゴキゲンだね。模試も近いのに」
「何かいいことあったの?」
学校でも、周りの友達に口々に言われた。
先生と二人で休日に出かけられる。
しかも、先生のほうから誘ってくれたのだ。
どこに連れて行ってもらおうかと考えるだけで、ワクワクした。
けれど、現実はそんなに甘いものではない。
塾で特進クラスにいるぐらいだから、元々あたしの成績は悪くはない。
下から数えるよりは、確実に上から数えたほうが早い位置にはいる。
その場所から更に成績を伸ばすのは、口で言うほど簡単なことではないのだ。
50点の答案を60点にするのは比較的簡単だけど、80点を90点に上げるのは難しいと、いつだったか学校の先生が言っていた。
言いえて妙で、たしかにその通りだ。
多少の変動はあるけれど、あたしの努力の仕方が今までどおりなら、成績はほとんど変わらないままだ。
少しでも上位に食い込みたいなら、今まで以上に頑張らなければいけなかった。
けれど、今は頑張るための理由があるから、多少辛くても頑張れる気がした。
毎日の部活と、週に四回も通っている塾やその宿題で、時間を作るのは難しかったけれど、それでも空いた時間を有効に使えるよう頑張った。
これも、好成績を出せれば先生と出かけられるというご褒美があるからこそ。
それをふいにするほど、あたしは愚かではない。
今思えば、愚か者はどちらなのかわからないけれど。
努力の甲斐あって、その試験では好成績をおさめることができた。
学校で模試の結果を配られて、自分の成績を見て、心が躍った。前回よりも学年順位が十番ほど上がっていた。
その日の授業には身が入らず、部活の間もそわそわしていた。
一分でも一秒でも早く、要先生にこの結果を見せたかった。
「先生! 模試の結果出ました!」
家に帰るなりすぐに塾へ向かった。
本当は、この日はあたしのクラスの授業が休みだったけれど、そんなものは関係ない。
「お前、今日は休みだろうが。村上」
呆れた顔で教務室から出てきた要先生は、あたしの様子から結果を見なくてもわかったらしい。すぐに笑顔になった。
「ちゃんと成績上がったのか? 見せろ」
「はい、これ!」
きっとこのときのあたしは、傍から見ていたら飼い主に褒めてもらえる期待に胸が一杯の子犬のように見えただろう。
それぐらい嬉しくて、制服を着替えないまますぐに飛んできたのだ。
「前回よりも十番上がったのか。頑張ったなぁ」
結果用紙に目を通した先生は、用紙をあたしに返しながら頭をなでてくれた。
「模試だけのためにこんなに勉強したの、初めてでしたよ」
「馬鹿野郎。受験のためにはそれぐらい努力しなきゃいけねえんだよ」
途端に撫でてくれていた手が拳骨に変わった。
「痛っ。先生、今本気で叩いたでしょ」
「馬鹿にはそれぐらいしないとわからないからな」
「ひどいー」
殴られた痛みはあったけれど、その部分がなぜだか温かく感じた。
初めてのデートはどこに行ったのだったか。と言っても、デートだと思っているのはあたしだけだったと思うけれど。
とにかくものすごく緊張して、頑張ってできる限りのおしゃれをしていったことだけは覚えている。
習っていたピアノの発表会や、吹奏楽のコンクールで舞台に立つとき以上に緊張して、あたしはガチガチになっていた。
迎えに来てくれた先生の車を見るのは初めてだった。
白のおしゃれな感じのミニバンの助手席に恐る恐る座り込んだ時、あたしは初めて先生にも彼女がいるのではという可能性に思い当たった。この特別な席に座ることが出来るのは、あたしだけじゃないかもしれない。そう思うと苦しくなった。
「なんて顔してんだよ。今更そんなに緊張する必要ないだろ」
そう言って、先生は苦笑いしていたけれど、その日のあたしは、一緒に見た風景よりも、一緒に食べた食事よりも、先生のことで頭がいっぱいだった。
たとえ彼女がいるとしても、ただ二人きりで一緒にいられるだけで嬉しかった。
いつもは皆のものである先生を独占できる、あたしだけに笑顔を見せて優しくしてくれる。その事実だけでよかった。
いつもは塾でしか会わないから、先生の私生活のことなど考えたこともなかった。
考えてみれば先生は成人している大学生で、塾の講師として以外の一面を持っている。あんなに格好良くて、わかりにくいけれど優しい人だから、彼女ぐらいはいて当たり前だろう。
実際、この日に一緒に過ごしてみて、初めて知った一面がたくさんある。
車の運転をする先生の横顔。人ごみが嫌いだといってうんざりした顔。実は甘党で、休憩にと入った喫茶店でケーキをあたしよりも嬉しそうにほおばっていたこと。
ほんの一面しか知らないくせに、知ったような気になって先生を好きだという自分が恥ずかしかった。
相手は大人なのに、子供じみた恋愛感情を持つ自分が心底嫌だと思った。
先生は帰りに家の前まであたしを送ってくれた。そこまでしてくれなくても自分で帰れると言ったのだが、譲ってくれなかった。
「また明日、塾でな」
そう言って車から送り出してくれた先生の笑顔を見るのも辛くて、曖昧に返事をしたあと、あたしはすぐに家の中に駆け込んだ。
両親が何か声を掛けてきたのも聞かずに真っ直ぐに自分の部屋に戻ると、堪えていた涙が流れてきた。
「…うっ」
一日一緒に過ごして、先生と自分との間にある溝をはっきりと見せ付けられたような気がした。あたしの知らない新しい一面を垣間見れたと同時に、あたしからは手の届かない遠い存在に感じられた。
先生の口車に乗って、あんなに浮かれていた自分が恥ずかしい。
与えられるものしか見ようとせず、それ以外の顔をする先生を知ろうとしなかった自分が情けない。
先生は紛れもなく大人の男性で、あたしはまだ中学生のれっきとした子供。その事実を突きつけられて、今まで気づこうとしなかったことを後悔した。
一度泣き始めると、堰を切ったように次から次へとあふれ出て、あたしはいつまでも涙をとめることができなかった。
***
貴方を想う気持ちは日に日に大きくなってゆく。
けれど、それは誰にも言えない秘密。
初めて出かけて以降も、あたしと要先生は以前と同じように振舞った。
特につかず離れず、今までと同じ。ただ、あたしが要先生に絶対的に懐いていて、要先生もあたしを少なからず気に入ってくれていることは周囲の目にも明らかだった。
「むらっち、あんな鬼講師のどこがいいの?」
塾で同じクラスを取っている進藤愛美が尋ねてきたことがある。
「どこがいいって、別に…。ちょっと厳しいけど普通じゃない? 質問しに行ったらちゃんと教えてくれるよ」
「えー!? 絶対、それは嘘! だって山岡がこの間質問しに行ったら『お前は馬鹿か。これぐらい自分で考えろ』って一刀両断されて帰ってきたって言うよ。谷口がきちんと教えてくれるのは、相手がむらっちだからだよ!」
「…そうかな」
愛美は力説してくれたけど、それが嬉しいのか悲しいのかわからない。
要先生があたしのことを気に入って、特に目をかけてくれていることはわかる。
そうでなければ、試験で成績が上がるたびに二人でどこかに出かけるなんていうことをするはずがない。塾講師は先生にとってはれっきとした仕事だから、本当は一人の生徒を贔屓するような行動を取ってはいけない。
もしも何かの拍子にばれてしまったら、きっと先生はここの講師を辞めさせられるだろうし、あたしもこの塾に通えなくなってしまうかもしれない。
それは避けたかった。なんとしても、要先生の傍を離れたくなかった。
「鬼講師か…」
「俺のことか?」
「えっ!? 要先せ…っ」
一人になった教室でつい声をもらすと、いつの間に来たのかすぐ傍に先生が立っていた。
誰もいないと思っての独り言だったのに、聞かれてしまうなんて。しかも聞かれた相手が当の要先生だなんて。
あまりにもでき過ぎた偶然に驚いて、狼狽してしまう。
「むーらーかーみ。お前まで俺のことを鬼だと思ってたのか!!?」
それこそ鬼のような形相で、片手で作ったこぶしを掲げてあたしを睨みつけてくる。
冗談なのはわかっているけれど、決して目つきがよいとは言えない先生だ。見下ろされていることもあいまって、かなりの圧迫感がある。
「えーまさかまさか。先生は、……」
こちらも冗談で返そうとして、言葉を紡いで。
「先生は? なんだ?」
今、あたしは何を言おうとしたのだろう。
先生は、ただぶっきらぼうでわかりにくいだけなの、知ってますから?
先生は、本当は優しいこと、あたしはわかってますから?
いつもなら簡単に出てくるはずの台詞は、喉から出て音になる前に消えはてた。
なんとなく、ここで口にしてはいけないような気がしたから。
「…なんでもないです! さー、そろそろ帰ろうかな!」
それでも怪訝そうな顔をする先生をはぐらかして、あたしは外に出た。
中学二年の晩秋、寒い夜のことだった。
要先生のことが好きだ。
彼女がいるとしても、先生があたしを見てくれなくても。
もしかしたら、まだ子供なあたしの一時的な熱のようなものかもしれなくても。
けれど、このことは誰にも言えない。言ってはいけない。相手が要先生なら尚更だ。
こんなあたしの気持ちを知られてしまったら、きっと先生は二度とあたしに近づかなくなる。今までのように気さくな話もできず、満足に顔を見ることもできなくなってしまう。
それだけは嫌だった。今の二人の関係を維持したかった。
「村上、この後ちょっといいか?」
授業終了の合図をした後、谷口ちゃん…要先生の兄である谷口遊先生に言われた。
英語を担当してくれている谷口ちゃんとも、今までと同じように質問をしたり、授業の前後に雑談をしたりすることがあるけれど、こうやって先生のほうから名指しで呼びつけられたのは初めてだ。
「はい?」
「ちょっと話がある。すぐ終わるから」
教壇の上から微笑んだ谷口ちゃんの笑顔は、要先生のものとは全く逆の、まさに天使のような優しいものだった。
周りの皆がゾロゾロと帰り支度をして教室を去ってゆく中、あたしは鞄をもたずに教壇の谷口ちゃんの傍まで出た。
「お話って?」
「うん…」
教室の中に、他の生徒が誰もいなくなったことを確認してから、谷口ちゃんは慎重に口を開いた。
「村上、最近要と仲がいいな」
「そう…ですね」
授業中でも常に優しい笑顔を絶やさない谷口ちゃんなのに、今はいつになく真剣だ。
その顔を見て、あたしは何か嫌な予感がした。
「これでもあいつの兄だからさ、不肖の弟が気になるわけだよ、村上」
「はあ…」
おちゃらけたように話すけれど、生返事しか出来ない。きっと、話の用件は…。
「単刀直入に聞くけど、村上は要のことが好きなのか?」
「……」
予想したとおりだった。
友達が相手ならいくらでもごまかして何とでも言える。けれど、この人は講師で、要先生の実の兄だ。きっとあたしの気持ちにも感づいている。
「村上がここで何を言っても、俺はどうする気もないよ。誰にも告げ口しないし、ここで話したことは誰にもばらさない」
ただ気になるだけなんだ。
黙っていると、谷口ちゃんはあたしを安心させるように笑った。
きっと本心からの言葉だろう。あたしが何を言っても、秘密を守り通してくれる。
「あたしは…」
「うん」
いざ言うとなると、唇が震えてうまく声にならない。
谷口ちゃんは、そんなあたしの次の言葉をゆっくりと促してくれる。
「要先生のこと、好き、です」
足元までガクガクする。
暖房は効いているはずなのに、真冬の教室はやけに寒く感じた。
言い終えたあと、ゆっくりと顔を上げてみると、笑顔の遊先生の顔があった。
「ありがと」
ゆっくりとそう言って、肩に手を置いてくれた。
「っ…」
「あーあぁ、泣かなくてもいいんだよ、村上。でも不安だったよな、こんなこと言える相手、なかなかいないもんな。大丈夫、俺一人が知ってる分には問題ないから」
この間、思いきり泣いたはずなのに、また涙が出てきた。視界がゆがんで目の前の顔もよく見えない。遊先生は、突然涙を見せたあたしにひどく狼狽しながらも、そのまま泣き止むまで傍にいてくれた。
教師と生徒だからって、年が離れてるからって、気にしなくていいんだよ。これは悪いことじゃないんだよと、繰り返し励ましてくれた。
あたしは、少しは自惚れてもいいのだろうか。
必要以上に子ども扱いせず、対等に扱ってくれる先生。
あたしだけに、しかめっ面以外の色んな表情や一面を見せてくれる先生。
テストで良い点を取ったら内緒で好きなところへ連れて行ってくれる先生。
あたしは、彼を好きでいてもいいのだろうか。
遊先生の一言があったおかげで、あたしは自分が要先生に関してどれほど思いつめていたのかわかった。
素直な気持ちを明かせないことがこんなに辛いということを、初めて知った。
そして、それを理解して支えてくれる人が一人でもいるだけで、こんなに心が軽くなるということも。