01.出会い
冴の中学時代の話です。全部で四話、よろしければお付き合いください。
時々夢に見るたびに思い出す。
あなたと初めて出会った日。
「そういえば、来月から俺の弟もここで先生やることになったよ」
授業が終わった後に居残って、友達や講師と話をしたり、課題を片付けたり。
そんな中で、ふと、谷口遊先生が教えてくれたのが、ことの始まりだった。
そのときは、もうすぐ中二になるというまだ寒い二月のことだった。
学習塾というのは学校に先行して講義を進めるために、学校よりも一ヶ月早い三月が年度の始まりになっている。
毎年、学校の卒業式や終業式と同時に、塾では新しい年が始まってクラスも何もかもが新鮮な状態でいる、というのに違和感を覚える。
谷口遊先生は、そんな、あたしが通っていた塾の英語講師だった。
穏やかな物腰で、優しい笑顔の絶えない人だったから、まだ二十代半ばと若い人だったから、あたしだけじゃなく他の生徒たちにも人気だった。
だから、遊先生の弟なら、きっと彼と同じように穏やかで優しい人だと思っていた。そう信じて疑わなかった。
その後、弟は要、という名前で、担当する科目は数学と理科だと教えてくれた。
遊先生よりも五歳若くて、まだ大学生だということも。
眼鏡の奥で優しく微笑む遊先生の弟、という存在を、あたしはその時完全に甘く見ていた。
同じ兄弟でも、似ているとは限らないということを、すっかり忘れていたのだ。
「今月からこのクラスで数学と理科を教えます、谷口要です。よろしく」
遊先生の予告どおり、弟の要先生はあたしたちの通う塾にやってきた。しかも、あたしのいる特進クラスで教えることになった。
あたしの塾には学力別にクラスが二つある。
片方が進学クラス。塾内の学力テストの点数が一定基準以下の生徒が所属するクラスだ。
そしてもう片方が、あたしのいる特進クラスだ。こちらは学力テストの成績が基準以上の、いわゆる優等生ばかりを集めたクラスで、自然と志望校も高水準の有名校ばかりになってくる。
小規模ではあるが地元では有名なこの塾で、特進クラスに入ることが出来れば、有名進学校合格は確実、と噂されるほどだった。
「なぁんだ、谷口ちゃんとあんまり似てないんだー」
クラスの中の誰かがそう、口にした。あたしも含めて、それはたぶん、クラスのほとんどの思いだった。
谷口ちゃんとは、生徒間での遊先生の呼び名だった。
これからは、谷口が二人になるから、別の呼び名を考えなければいけない。
けれど、それよりも先に考えるべきことが一つ。
「一つだけ、覚えとけよ。俺はガキに馴れ馴れしい口を利かれるのが大嫌いだ」
そう言って、発言した子を含め、クラス中をジロリと睨みつけた人は。
顔も、声も、言葉遣いや性格も何もかも、遊先生とは全然似ていなかった。
似ているのは大柄な人だという一点だけ。
そう、谷口兄弟は身長が高かった。優に180センチは超えているだろう。
今のところ150センチで止まってこれ以上伸びる気配のない、小柄なあたしにしてみれば、羨ましい限りなのだけど。
とにかく、新たに来た要先生(谷口が二人だと紛らわしいので結局下の名前で呼ぶことに落ち着いた)の一睨みでシンと静まり返った教室で、先生は早速授業を開始した。
顔も性格も違えば、授業の進め方も遊先生とは全く違うものだった。
一つ一つ、噛んで含めるような教え方をする遊先生に対して、要先生は「自分の教える内容を解って当たり前」という前提で授業を進めた。
居眠りしている生徒がいれば、遊先生は教壇からやんわりと注意を促すだけだったのに、要先生はわざわざ席まで行って、出席簿で容赦なく頭を小突いた。
穏やかな遊先生からは考えられないほど、口調は乱暴で、いつも眉間にしわを寄せていて、笑顔などほとんど見せない。大きな態度で気さくさのかけらもない。
たちまち要先生についたあだ名は「鬼講師」「マッドサイエンティスト」というものだった。
それぞれの顔立ちから、兄は天使、弟は悪魔の谷口兄弟と、あたしたちの間ではかなりの有名人となっていった。
そんな要先生だったから、授業内容でわからない箇所があっても質問する生徒はかなり少なかった。
さっきあれだけ説明して、こんなこともわからないのか。馬鹿かお前は。
そんな言葉を吐かれるのがオチだと、良くも悪くも並よりも脳の回転が速いあたしたちにはわかりきっていたから。
授業前や授業後に、わざわざ他の理数系講師に質問をする生徒もいたほどだった。
その光景を間近で見ていても、要先生は何一つ気にした様子は見せずに飄々とそれを眺めていたけれど。
「黙って座ってれば格好いいって言えなくもないんだけど」
同じクラスの女の子の一人が、そんなことを言った。
確かに、そうだ。
すらっとした長身には、服の上からでもしなやかな筋肉がついているのが見て取れる。
顔だって、目つきは悪いけれどパーツの一つ一つは整っている。ワイルドな美形の部類に十分入るだろう。
浅黒い肌、意思の強そうなきりりとした眉に、少しつり上がり気味の目。鼻筋はすっと真っ直ぐで、引き結ばれた薄い唇は形よくおさまっている。その唇から発せられる声は低くてよく響く。
「うーん、でもねぇ。やっぱり中身がアレだから」
「いくら顔がよくても性格最悪なんて、ダメダメ!」
「むらっちも、そう思うよね?」
むらっちとは当時のあたしのあだ名で。
あたしは、友人達に一斉に見つめられて、ただ頷くしか出来なかった。
そんなあたしたちの関係が少しずつ変わり始めたのは、それから数ヵ月後。
中学二年生の秋だった。