07.花束
その日は雲ひとつなく晴れていて、これ以上ない本番日和だった。
今日だけは車ではなく電車で会場に向かった。
けれど、本番で着るためのスーツに、楽譜を入れた鞄を持つと意外と大荷物で、電車で来たことを後悔した。電車に乗っている間はいいけれど、会場に使っている市民ホールまでは駅から遠いのだ。歩いて20分。バスはないから、歩くしかない。
「今日、打ち上げさえなければ……」
演奏会が終わると、OBのみで打ち上げを行う。演奏に参加した人も、参加せずにただ聴きにきた人も打ち上げには参加できて、成人した人がおおいから当然アルコールも入る。あたしは未成年だから飲酒を強要されることはないだろうけれど、乗りで飲んでしまう可能性は大いにある。
だから、念のため、車は使わないことにした。
けれど今になって思えば、車で来ていればお酒を断る口実もできたはずだ。なにもこんなに重たい荷物をひきずって歩く必要もなかったのだ。
あと数分歩けばホールに着く頃になってようやくそれに気づいて、あたしは一気に力が抜けた。しなくてもいい苦労をしてしまった。
ため息がもれた。
集合場所に到着したのは、決められた時間の直前だった。それでも、今ここにいるOBは演奏参加者の半分ぐらいだ。
周りの人に挨拶をして、簡単に唇を慣らした。しばらく個人で自由に練習をして、チューニングをする。一度舞台に行って、リハーサルとは名前ばかりの位置あわせを行ってしまえば、本番までは自由な時間だ。
控え室に戻ってくると、麻実に腕を引っ張られた。
「冴、ちょっとこっちに来て」
「え、麻実、ちょっとまって楽器……」
どこに連れてゆかれるのかわからないまま、あたしは楽器だけは控え室に置いておきたいと訴えると、少し怒ったような顔をした麻実が短く息をついた。
「そんなのその辺に置いておけばいいから。早く!」
「冴ちゃん、楽器ならあたしが預かるよ。だから早く行っておいで」
いつになくにこやかな青田先輩に楽器を奪い取られ(ついでに小脇に抱えていた楽譜の束も奪い取られ)いってらっしゃいと手を振られながら、麻実に腕をとられたままのあたしは廊下をずんずん進んでゆく。
あまりに慌しくて周りの様子を見る余裕などなかった。
連れてこられたのは控え室と同じフロアにある、廊下の突き当たりの小さな部屋だった。
軽くノックをし、返事を待たずに麻実はドアを開けた。部屋の中には大場先輩が待ち構えていた。
「お待たせしましたー」
「あれ、大場先輩! リハーサルにも来なかったのにどうして……」
「いいからいいから。冴ちゃん。とにかくこっちにおいで」
「じゃあ先輩、あとよろしくねお願いしますね!」
麻実はあたしの身柄を先輩に引き渡すと、すぐに部屋を出て行ってしまった。
すると、大場先輩はどこからか大きな布の塊を持ってきて、あたしに差し出した。
「はい。これに着替えてね」
「え、でも黒のスーツ……」
「ソリストまで同じ格好をしたら目立たないだろう? お前らは別の服を着るの。あとで髪とメイクも弄ってやるから」
「はあ」
「そういうことで、これ。着替え終わった頃にもう一回来るから」
大場先輩は、着替えをあたしに手渡すと、小部屋から出て行ってしまった。
選択肢も拒否権もあたしにはないのか。つまり、嫌でも何でも、あたしはこれを着なければならないのだろう。
「強引だなぁ……って、なにこれ!?」
思っていたよりも大きくてふわふわした白い塊を広げてみると、それはドレスだった。
真っ白というより柔らかな印象のオフホワイトで、肩を覆う袖はフレンチスリーブになっていて動かしやすそうだ。そこかしこに緻密なレースと刺繍と、布でできた小花の飾りがついている。スカートの布は幾重にも重ねられていて、柔らかな曲線を作っている。すごいボリュームだ。
「ウェディングドレスみたい」
そうつぶやいた自分の声がげんなりした色を持っていても、仕方ない。
女の子たるもの、ウェディングドレスに憧れないわけがない。
けれど、それは自分が結婚する時に限っての話で、ついでに言えばあたしはモデルさんでも女優さんでもないので、花嫁でもないのにこんな場所でこんなドレスを着ることは全然考えていなかった。
もっと大人になってから、大好きな人の隣でこういうものを着て、皆に祝福されるのだと思っていた。
しかも今日は定期演奏会だ。今、麻実や大場先輩があたしをここに引っ張ってきてこれを渡されたということは、つまり、本番でこの衣装を着て演奏しろということでおそらく間違いない。本気なのかふざけているのか。
あたしは人よりも背が低いので、スカートの裾を引きずってしまうのではないかとか、肩や胴回りが無駄に余ってしまうのではないかと心配したけれど、なんのことはない。まるであつらえたように丁度良いサイズだった。生地も柔らかくて着心地も良い。
そのあと髪の毛を纏め上げられ、顔にもメイクを施された。
そういえば大場先輩は美容師だと言っていた。言われてみればこのテキパキした作業には無駄がなくて、しかも仕上がりが綺麗だ。
結局、大場先輩と、あたしの変貌見たさに付きまとう麻実の手から解放されたのは、開演一時間前ぐらいだった。
「よし完成! 我ながら良い出来だな」
満足げに手を叩き自画自賛すると、大場先輩は姿見をあたしの前にもってきてくれた。
「すごーい、冴。綺麗!」
「……ありがとう」
普段とは全く違う形に結い上げられた髪。そしてしっかりと濃い目にメイクされた顔。自分で鏡を見てみても、これが自分だとは信じられない。
綺麗な格好をするのは嫌いではないけれど、ここまで本格的にやるならばそれなりに覚悟が必要だ。突然、何の前触れもなく指図されるまま着飾ることになったので、まだ本番も始まっていないのにもう疲れてしまった。
何もかも、あたしがソリストだから。
人知れずため息が出る。
こんなに疲れると思わなかった。
「そういえば、谷口先輩は?」
準備をしている間、ずっとこの部屋に閉じ込められたままだ。他の人にも会っていないし、楽器にも触っていない。もう少し練習したい部分があったけれど、今からではもう音は出せないだろう。
「谷口? うん。あいつも別の部屋で着替えて準備してるぞ」
麻実に問いかけたはずの答えは大場先輩が与えてくれた。大場先輩や麻実は、あたしと違ってこの部屋に出たり入ったりを繰り返していたので、先生が今何をしているのかわかるかと思ったのだ。
「本当ですか!?」
先生も着飾っているのか。それは見たい。ぜひ見たい。独占してしまいたい。
服が皺にならないよう麻実に助けてもらって腰掛けた椅子から慌てて立ち上がろうとした。
「駄目だぞ、村上。せっかくそこまで支度したんだから、色々崩れないようにお前はここから動かないこと。谷口なんて本番になったらいくらでも見れるし戯れていいから。今は我慢しろ」
表情に出ていたのだろう。そのまま控え室を飛び出して一目散に先生のところへ駆けて行きそうなあたしに、先輩はしっかりと釘を刺した。
時間はもうない。間もなく舞台の幕が上がる。
ホールではついに演奏会が始まったようだった。
三部構成の演奏会の中で、あたしたちOBが演奏するのは、三部の最初だ。
まだ出番までには時間があるので、後輩たちの演奏をこっそり客席から見守るのがあたし達OBの慣例だった。
けれどこんなに目立つドレス姿では、迂闊に客席やロビーを歩き回ることができない。というより、そんな気も起きない。結構楽しみにしていたけれど、予想外のメイクと身支度だけで疲れてしまった。
「冴。そろそろ行くよ」
かすかに漏れ聞こえてくる音を控え室で聞きながら、どれほどの時間ぼんやりしていたのだろうか。
一人残された部屋のドアが開くと、隙間から麻実が顔を出した。黒のスーツを着こんで、ばっちり支度してある。
あたしも黒のスーツを着ると思って持ってきたのに、無駄になっちゃったなぁとぼんやりしているうちに、近づいてきた麻実に腕を引かれた。
「ほら、早く早く! 楽器とか荷物になるのはもう運んであるから」
「あ、うん」
どうしてもこの格好で舞台に立つことに違和感があるけれど、そこは非日常の世界だ。よし、と腹をくくって立ち上がった。
***
一歩一歩、注意深く階段を降りる。
長い廊下を歩いたその先には、光り輝く舞台が待っている。
Clear - 07.花束 ii -
舞台袖につくと、ほとんどのメンバーが既にそこで待機していた。
二部と三部の間に取ってある休憩時間だから、当たり前といえば当たり前だ。
あたしが到着すると、メンバーだけではなく係などで舞台袖に残っていた現役部員たちの視線も一斉にこちらを向いた。
OBたちのスーツも、高校生の制服も、黒や紺という濃い色のものばかりだ。その中にあってあたしの白いドレスは予想以上に目立ち、浮かび上がっている。
「……」
ものすごく居たたまれない。恥ずかしくて自分を抱きしめるようにして小さくなりながら壁際に寄った。
「何してるんだお前」
後ろから掛けられた声は先生のものだった。
振り向くと、先生は白いタキシードを着て、少し長い前髪を後ろに撫で付けている。
「先生……」
じっと見上げてしまったのは、きっと普段なら絶対に着ないような服を着て、見たことのない髪形をしているからだ。麻実から話は聞いていたけれど、予想以上に格好いい。
黙っていると、先生は眉をひそめて気まずそうに視線を横にずらした。目元が淡く色づいているのは、もしかしててれているのだろうか。
「見るな。恥ずかしい」
「あたしだって恥ずかしいですよ。いきなりこんな格好させられて……」
「おー二人とも、俺の演出は気に入ってくれた?」
満面の笑みで近づいてきたぐっちーは、指揮者らしく黒の燕尾服を着ている。
この笑顔を見るに、今回の計画の言いだしっぺはぐっちーだろう。衣装も何もかも。先週、麻実が言いかけた口をつぐんだのはこの内容だったのだ。
「気に入るって……いきなりこんな格好させられても」
「まあまあ。雰囲気の良いところに悪いんだけど、お前ら二人は俺と一緒に下手から入場するんだよ。楽器だけもって移動してきて」
「はあ……」
異常なまでに上機嫌のぐっちーに、あたしたちは何も言い返すことができなかった。
三部開始のアナウンスがかかり、客席の明かりが落とされてゆく。
いよいよだ。
司会が話している間に、指揮者とソリスト以外のメンバー達が舞台に上がり、支度をする。
曲の紹介が終わると、あたしたちも舞台へ登場する。
まだ暗い舞台を袖から覗いて見て見ると、全員の衣装は当たり前だけど真っ黒なスーツに白いシャツ。指揮者であるぐっちーの服も、そうだ。
白い服を着ているのはあたしと先生だけだから、十分すぎるほど目立つだろう。
注目されるのだ。あたし個人として。
そう思うと急に全身に緊張が走った。今まで、こういう演奏会の舞台に上がっても緊張なんてしたことがなかったのに。あのときは皆と一緒だから、自分だけ目立っているわけではないから、安心できたのだ。
練習したとおりにしっかりと演奏できるだろうか、ちゃんと最初の一音を出せるだろうか。失敗……しないだろうか。
考えれば考えるほどうまくいかない気がする。
自信なんて爪の先ほどもあるわけがない。頭の中が真っ白になってゆく。
どうしよう、怖い。怖い!
「冴」
そっと、後ろから声が掛かった。
「っ!?」
先生の声だとわかっているのに、ビクッと体が跳ね上がってしまう。驚きすぎて、心臓がバクバクいっている。だって今、先生があたしのことを名前で呼んだ。
「この演奏会が成功したら……」
耳元に息を吹きかけるようにそっと出される声が、頭の芯まで響いてくる。
そんなところで囁かないで欲しい。涙が出そうになる。
「……次の休み、どこでも好きな場所に連れて行ってやるよ」
「それって」
何度も何度も聞いたことのある台詞だった。
その意味を問いただそうとして振り返ると、いつの間にか舞台袖に戻ってきていたぐっちーと目が合った。
「何喋ってるんだ。ほら、出陣だぞ」
苦笑してあたしの肩に軽く手を触れて、ぐっちーは明るく輝く舞台を指差した。そのままスタスタと光の中へ歩いてゆく。片手には白く小さな花束が握られていた。
指揮者の後にソリストである先生とあたしが続いて入場する。前を歩く先生の背中を見ていると、さっきまで死ぬほど緊張していたのが嘘のように落ち着いた。
あたしたちの姿を見た観客からどよめきの混ざった拍手が送られた。
それはそうだ。あたしたちだけ、他のメンバーとは全然異なる格好をしているのだから。並んで立ってみると、やっぱり結婚衣装のようだと思った。
かすかな静寂の中、指揮台の横に用意してある椅子に小さな音を立てて花束が置かれた。ぐっちーがあたしに軽く目配せをする。あたしもそれに答えるように頷いた。
いよいよ始まるのだ。
指揮棒が上がった。
ついに夢の舞台が始まる。高揚感が全身を包む。
トランペットの華やかなファンファーレが鳴り響き、曲の始まりを告げた。
話は、小さな村に訪れた旅人と、村に住む娘が恋に落ちるところから始まる。
仲睦まじく過ごす二人。けれど、その時間はあまりにも短かった。
旅立ちの時が迫り、いつか必ず娘を迎えに来ると約束し、旅人は娘のもとを去っていった。
あたしは先生の気持ちを知らなかったけれど、それでも仲良くできて、二人で過ごす時間を持つことができて幸せだった。この時間がずっと続けばいいのに、と何度も願った。
そんな幸せな時間は唐突に終わりを告げた。相手を傷つけることになるとは思わずに、それが相手のためなのだと無理やり自分に言い聞かせて本心とは正反対の言葉をかけてしまった。
後になってどんなに後悔し苦しんでも、もう手遅れだった。
連絡も取れないまま時がたち、傷が段々に癒えてきた頃になって思いがけず再会した。
戸惑い、苛立ち、そして古傷をえぐられたような鈍い痛みを伴って。
嫌われるのが怖くて、たった一歩を踏み出すにも心がすくんだ。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。旅人はまだ現れない。
三年が経とうとする頃、彼は戻ってきた。
たくさんの贈り物を抱えて、立派な服を着て。
娘が一番欲しい言葉を囁くのだ。
舞台に出る前に先生に言われた言葉は、あたしが一番欲しいと思っていた言葉だった。
「今度の模試で前回よりも成績が上がってたら、次の休みにどこでも好きな場所に連れて行ってやる」
中学生だったあたしに先生が持ちかけた約束の言葉だった。
この台詞が、あたしと先生を繋ぐすべてだった。あたしたちの関係はこの言葉から始まり、この言葉で終わったのだ。
三年ぶりに再会して、最初はギクシャクして、何度も逃げ出したいと思った。
苦しみながら、それでも逃げずに正面から向かい合うことができたのは、相手が谷口先生だったからだ。彼以外の相手なら、あたしはとっくに逃げ出していた。
一度犯してしまった過ちは、二度と犯したくない。三年間ずっと引きずってきた後悔に、何らかの形でピリオドを打ちたい。先生との関係を、少しでも昔に近いように修復したい。その一心だった。
口では散々文句を言った。麻実にも散々愚痴をこぼしたし、人の見ていない場所でもたくさん泣いた。
けれど結局たどり着いた唯一の答えは、今も昔も変わらない。
あたしは、先生のことが好きだ。
ずっとずっと昔から、離れていた三年間も、無意識のうちに先生を求めていた。
もし、今振り向いてくれるなら、今度こそ離しはしない。
きっと、絶対に。
演奏中、先生と目が合うたび、むず痒い気持ちになった。
トランペットから言葉のない問いかけが聞こえたような気がした。
ホルンはもちろん、と答えた。いつでもどんな時でもひとときもあなたを忘れたことなどないと。
近づき、離れる恋人たちの歯痒さが今ならわかる気がする。
そして、ようやく再会できた時の、喩えようのない喜びも。
旋律と一緒に、あたしも幸せな気持ちに浸ることができた。
演奏が終わると、観客席からの拍手が会場を包んだ。中には「ブラボー」と叫ぶ声もある。
一心に楽器を鳴らしていたあたしは、その様子に、やっと安心することができた。
ぐっちーが指揮台から降りてきて、谷口先生と握手をした。二人とも満足そうな、爽快な笑顔だ。
「村上も、握手」
「はい」
「お疲れ様」
「先輩こそ、お疲れ様です」
握手を交わしながらぐっちーの優しい笑顔を見て、肩の荷が一気に下りた気がした。
もう終わった。
もう、この曲を演奏することはないのだ。それが実感となって湧いてきて、目の辺りが熱くなった。
そのまま谷口先生と握手しようとして先生を振り返ると、ぐっちーに呼ばれた。
「村上待て。最後の一仕事」
と言って、あたしに差し出されたのは、花束だった。演奏中、ずっと指揮台の横の椅子に置いてあった小さくて白い花束。
何も考えずに受け取ると「投げて」と言われた。
「え?」
てっきりあたしにくれたのかと思ったら違ったのか。
「いいから、ぽーんって!」
「ぽ、ぽーん?」
わけのわからないまま、言われるままにその花束を客席に向かって力いっぱい放り投げた。真っ白な花束は、意外と空気の抵抗を受けたようであまり遠くまで飛ばなかった。
客席では大騒ぎで花束の争奪戦が繰り広げられているのを見て呆気にとられた。
教会で結婚式を挙げた花嫁の気分とは、こういうものだろうか。
「冴」
ほら、気のせいではない。やっぱり先生はあたしを名前で呼んだ。
振り返ると、すぐそばに先生が立っている。
さっきまで、演奏中はずっと指揮者の向こう側にいたのに、いつの間にかこちらに歩いてきたようだ。
すっと伸ばされる手をぼんやりと見ていたら、その手はあたしの頬に添えられた。そのまま顔が降ってくる。
唇が合わさったのは、ほんの一瞬だった。
「行きたい場所、考えとけよ」
耳元で低く囁いた先生の声はあまりにも不意打ちで、あたしはドキドキしっぱなしだ。
客席からも、舞台の上からも、黄色い歓声や冷やかし声が後を絶たなくて、それも恥ずかしい。
「せ、先生の馬鹿っ! こんな場所で」
周りには聞こえないように言うと、先生は一瞬だけ勝ち誇ったように笑った。
もうとっくに認めている。油断していたあたしの負けだ。
止まっていた三年間は、今から動き出す。
本編はこれで完結です。読んでいただきありがとうございました!
この後、二人の過去編(冴の中学時代)を数話投稿します。