06.仮定論
大学も本格的に始まって、気分は上々。
のはずなのに、落ち着かない。そわそわする。
久しぶりに感じるこの気持ちの正体にはちゃんと気づいている。
とうとう本番まであと一週間を切った。
今週末の土曜日には、舞台の上で本番の演奏をしているのだ。
「村上先輩」
音楽室の前まで来ると、松永くんが一人で立っていた。
二年生の時に半年間だけ恋人だった彼は、思いつめた顔をしていた。
「え……」
あたしが部活を引退する少し前に別れて以来、彼からは挨拶はおろか、まともに目も合わせてくれなくなった。ずっとあたしのことを避け続けていた。
いつだったか、あたしが少し早めに学校に来て、音楽準備室で譜読みをしていた時に鉢合わせた。そのとき彼は慌ててあたしを避けるように出て行ってしまった。もちろん挨拶もない。目が合ったのも、ほんの一瞬のことだった。
だから、こうして彼が話しかけてきたことに驚いた。
現役の練習が終わった後に、OBの練習が始まる。練習をする場所や楽器の数の都合上、時間を分けている。現役の子達は、練習が終わった後も看板作りなどの準備に忙しく動き回っている。
今はちょうどその入れ替えの時間で、今、ここに彼がいても何の不思議もない。何も知らなかった人間には、単なる先輩と後輩が立ち話をしているように見えるだろう。
けれど、あたしや松永くんと同じ学年の面々は、あたしたちの間に何があったのか、大体知っている。向かい合って立っているあたし達を後輩たちが驚いたように、意味ありげに見てゆく。
「お話があります。少し、いいですか?」
「うん……」
こうして話しかけられたのはどれぐらい振りだろう。別れた時にはメールでやり取りしていたし、それ以降はもう、目も合わせてくれなかった。
歩き始めた彼の後ろに黙ってついてゆく。どんどん音楽室から離れ、中央階段を上り始めた。
この校舎は三階建てで、音楽室は三階にある。中央階段を上ると、あるのは屋上に続く扉のある踊り場だけだ。先々週、あたしが泣いて逃げ込んだ場所だった。
使っていない机や棚などの備品に囲まれて、踊り場はかなり狭い。至近距離で向かい合った。話があると言ったのは彼なのに、じっと何かを考え込むように難しい顔をしている。
ここについてからも松永くんはしばらく黙っていたけれど、意を決したように話し出した。
「俺がどうして先輩と別れたのか、話したことがありましたよね」
やっぱりその話題だったのかと、胸が痛んだ。あたしはただ黙って頷いた。
突然言われたのは、思いも寄らないことだった。
「先輩は俺と付き合ってても、俺のことを好きだと言ってくれても、いつも遠くを見てました。俺に重ねて誰か別の人を見ているようだった」
深刻な顔で、松永くんはあたしだけをじっと見ている。なんとなく目を逸らすことができず、目の前の男の子を見上げた。
「どんなに傍にいても、先輩は俺を見てくれたことはなかった。俺を本当に好きになってくれていないのがわかって、辛かったから、別れてくださいと言いました」
「うん。……ごめんなさい」
見破られていたことは知っていた。別れた時にも、同じ言葉を聞いた。
あの時も、今も、彼は傷ついた瞳であたしを見据える。あたしの責任だ。あたしが、先生のことを忘れようとするために、彼を利用したのだ。
結局それは失敗に終わったけれど、中途半端な気持ちのまま付き合ってしまったことが、松永くんにこんなにもまだ大きな傷を残している。
「ごめんなさい」
何度謝っても彼の傷が癒えることはないだろう。けれど、あたしには謝り続けるしかできない。
けれど松永くんは謝るあたしに首を振った。
「謝って欲しいわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
「俺、この間見たんです。先輩が泣きながら廊下を走って行くのを」
先々週、あたしがここに来た時のことだ。
あの時は自分の気持ちしか考えていなくて、他のことはどうでもよかった。なりふり構わず、周りも見ずにひたすら走っていたから、そこに誰がいたのかなんて知らなかった。
松永くんは今年三年生で、部の中心になって定演を作り上げている一人だから、現役の練習が終わっても遅くまで残っていることが多い。だから、あの時のあたしを見ていてもおかしくはない。きっとどこかですれ違ったのだろう。
「あんなに泣いていた原因は何ですか? 先輩が曲の中でソロをやることも、それが難しいことも聞いていますけど、先輩はそれで泣くような人じゃないはずです」
「……」
「もしかして、俺のかわりにずっと見ていた人が原因ですか? その人はもしかして、谷口先輩ですか?」
すごい力で両肩を掴まれた。痛かったけれど、それはあたしが彼を苦しめた罰なのかも知れないと思った。彼がこれ以上苦しまずにすむのなら、何でもしたいと思った。
「松永くん……」
「どうして!? あんなに泣かされても、先輩は谷口先輩がいいんですか? そんなにあの人のことが好きなんですか?」
悲痛な叫びだった。
少年らしさの残る顔をゆがめてあたしに迫る今の松永くんには、一緒にいたときの穏やかさはなかった。一つしか違わない彼を子供だと思ったことはなかったけれど、そこにいるのは確実に一人の男だった。
「俺じゃ、だめですか? 傷つく先輩は、見てられない」
掴まれていた肩を抱き寄せられて、あっと思ったときには彼の腕の中にいた。
背中に腕を回されて、抱きしめる力は強い。彼の胸に当たった耳からは熱い鼓動が聞こえた。
彼はまだあたしを好きなんだ。
あたしが一年以上も前につけた傷は癒えるどころか、今でも血を流し続けている。あたしのせいで傷ついているのに、あたしが傷つくのを見ていられないと言う彼は彼は優しい人だ。
この優しさにひたることができればどんなに楽で幸せだろう。きっと彼なら、あたしのことを大事にしてくれる。
けれど、彼では駄目だ。
あたしはもう知っている。
「松永くん、ごめんね」
目の前にある胸を押した。
体を離してもう一度見上げた。
「谷口先輩……要先生じゃなきゃ、駄目なの」
生真面目な彼は、目に見えてシュンとした。傷つけたいわけじゃないのに、また傷つけてしまった。誰も彼も皆が幸せになれる方法はないのか。
「どんなに泣いてもいい。あたしは、先生の傍にいたい」
「村上先輩」
「付き合ってたとき、あたし、松永くんのことちゃんと好きだと思ってた。話も合うし、一緒にいて楽しかった。もっともっと好きになって、先生のことを忘れられると思ってた。
でも、先生のことをどうしても忘れられなくて、いつの間にか松永くんに重ねて先生のことを見てたのかもしれない。
中途半端な気持ちで付き合って、たくさん傷つけちゃったよね。ごめんね。いくら謝っても足りないかもしれないけど、本当にごめんなさい」
これがあたしの精一杯だった。
素直に先生のことを好きだと言うことが、この可愛い後輩に対しての、せめてもの償いであり誠意だと思った。
深く頭を下げて、しばらくの間、松永くんは黙っていた。
あたしを見ていたのか、別のものを見ていたのか。何を考えていたのかはわからない。ゴクリと喉の鳴る音がして、震える声で彼はあたしに尋ねた。
「もし先輩が、谷口先輩に出会ってなかったら、俺のこと好きになってくれてましたか?」
頭を上げると、泣きそうに歪んだ彼の顔が俯いていた。
「そのときには、あたしはこの高校に来なかった」
これは自信を持って言えた。
谷口先生がいたから、勉強を頑張ることができた。彼の母校でもある青華高校に入学できたのは、少しでも彼に近づきたかったからだ。
先生に出会わなければ、あたしは今ここに立っていない。全く別の高校に進学し、違う人生を歩んでいたと思う。
「そうですか」
「それぐらい、あたしにとって影響力があって、大切な人なの。だから、ごめんね松永くん。昔も、今も。それからありがとう」
こんなあたしのことを好きだと言ってくれる人がいることが嬉しかった。
彼の気持ちに応えることはできない。けれど、今日こうして話をできたことで、気まずかった関係が少しは修復できたような気がした。
「いえ、先輩の気持ちを聞けてよかったです。お時間とらせちゃってすみませんでした」
そう言って松永くんは少し悲しそうに、けれど笑ってくれた。そしてペコリと頭を下げて、足早に階段を降りて行った。
その後姿は一年前に見たときよりも大きくなっていた。
そういえば彼に抱きしめられたのは初めてだった。
半年も付き合っていたのに、彼に触れたのは手を繋ぐ時だけだった。抱きしめられたりキスしたり、そんなことは一度もなかったのだ。
結果としては残念に終わってしまった。けれど、これでまた以前と同じように楽しく話をできるようになればいい。いつか、笑い話の一つにでもなればいい。
心のつかえがひとつ取れたようだった。
松永くんとの間にあるわだかまりがずっと気になってはいた。ただ、ここ数週間、それを考えるだけの気持ちの余裕がなかっただけで。
だから、彼から話すためのきっかけを作ってくれて少しほっとした。
心配事は何もない。あとはあたしの思う道を進むだけだ。
暖かいもので満たされたようなくすぐったさを感じながら、あたしもゆっくりと階段を下りた。
***
もし、貴方と出会っていなかったら、今のあたしはここにいなかった。
松永くんと話をしていた時間は、短いようで意外と長かった。階段を下りて音楽室の前に戻ってみると、さっきまでまばらだったOBの人数がかなり増えていた。「どこに行ってたの? もう谷口先輩も来てるよ」と麻実に言われて時計を見て初めてぎょっとした。
焦って楽器をケースから出して準備室に向かうと、当たり前のように先生はいつもの場所に座ってマウスピースを片手に練習を始めていた。
一気に現実に引き戻されたような気がした。
といっても、さっきまで松永くんと話をしたこともまぎれもない現実だけど、いつもの練習室の戸を開けた途端、頭の隅に追いやられていた問題が目の前に振ってきたようだった。
「よう」
あたしが来たことに気づいた先生は、こちらを振り向いて少し笑った。
さっき松永くんに声を掛けられた時とは違う緊張感が全身を襲う。あたしは練習室の入り口に立ち尽くしたまま、動けなくなった。
先生は、あたしと二人でここにいる時に笑顔を見せたことはなかった。挨拶を交わしたことも、ほとんどなかった。いつも固い顔で、練習内容や曲についての話だけをした。個人的な話をすることを静かに拒否していた。
なのに、今日は違う。笑顔で声を掛けてくれた。まるで中学生の時に戻ったような気さくな態度で。
けれど次の言葉を掛けられて、ささやかな喜びは吹き飛んだ。
「遅かったな。元彼に呼び出されてたって? もてるな、村上」
ククッと笑いを含んだ声。ニヤニヤと意味ありげにあたしを見る目。すべてが居た堪れない。
「どこからそんな情報が!?」
「お前の同期の、誰って言ったかな。男が言ってたぞ」
同期の男の子といえば、パーカッションの武田くんか。彼なら面白おかしく誰にでもそういう話をしそうだ。でもよりによって今日、このタイミングで先生の耳に入るとは、最悪だ。あぁ……奴には、後で盛大に文句を言ってやろう。
「そうですか」
「で? こんな時間まで何を話してたんだ?」
相変わらず笑ったまま、先生はあたしをからかう。
「先生には関係ないから、答える必要もありません!」
「顔赤いぞ、村上」
先生はそれ以上言及せず、楽譜に向き直ると練習を再開した。
今は世間話をする時間ではなく、合奏に向けて練習をする時間だ。
あたしも先生の隣に腰掛け、楽譜を広げた。
先週休んでしまったブランクを取り戻すのは大変な作業だ。
マウスピースで唇を慣らし、楽器を取り付けて音を出した瞬間、予想はしていたけれど少しショックを受けた。
毎日練習をしなければ、唇も音の感覚も鈍ってしまう。週に一度の練習ならばなおさらだ。練習日のたびに、一週間のブランクを取り戻すだけで精一杯だったのに、今回のように二週間も空いてしまうと、きつい。
基礎練習をするために発した第一音は、予想していた以上に酷い音だった。
松永くんと話していて、ただでさえ時間がないのだ。しかも、練習は今日が最終日。次に楽器を持つときは本番だ。
早く、前回と同じ音を出せるようにならなければいけない。
練習に集中しなければと焦れば焦るほど、思っているような音は出ない。頭の中にはさっきまで話していた松永くんの言葉と、先週、先生と交わした会話がぐるぐると回っている。
自分では駄目なのかとあたしに迫ってきた松永くんは悲しい目をしていた。傷ついたあたしを、自分のことのように心配している目だった。一瞬、泣きそうに歪んだ顔を忘れることができない。
そして、先生。隣に座る彼は何事もなかったように振舞っているが、先週、あたしは先生に告白した。それに対する返事を期待しているわけではないけれど、本人を前にするとやはり落ち着かない。
それに、今日の先生の態度は今までとは違った。まともに挨拶などしたことがなかったし、練習中に雑談もしたことがなかった。必要最低限、曲や演奏に関すること以外の会話はしたことがなかった。なのに今日は話しかけてきたのだ。
嫌でも期待してしまう。
先生があたしをどう思っているのか、どのように見ているのか、気になってしまう。
遊先生に電話で言われたことも、頭の中で反芻している。
何日か前、遊先生に電話をした。
谷口先生を説得するために泣き付いて以来、何も報告をしていなかったから、一言お礼を言いたかった。
「ありがとうございました。要先生のこと、説得できました」
『いや、俺はただあいつの住所を教えただけだよ。あの頑固者を説得して、もう一度舞台に上がる気持ちにさせたのは、冴ちゃんの力だよ』
「でも、それも先生が教えてくれなかったら何もできなかったから」
電話の向こうで、遊先生が笑う気配がした。
『俺の言葉には耳を貸そうともしなかったからね。同じことを言って聞かせるのでも、冴ちゃんが相手だと要も違うよ』
「そんな……」
『ねえ、冴ちゃん。俺、前に言ったよね。要は、三年前に冴ちゃんに言った一言をすごく後悔して苦しんでたって』
「……」
『その意味がわかるかい? どうでもいい子が相手なら、あいつもこんなに後悔しないよ。苦しんだりもしない。あいつは、冴ちゃんのことが今でも大事なんだ』
遊先生の声はいつ聞いても優しく穏やかで、胸に沁みた。
「そうだといいんですけど」
『心配しなくても、大丈夫だよ。ずっと見てた俺が言うんだ、間違いない』
あまりにも強く言うものだから、思わず笑ってしまった。
『そうそう、冴ちゃんは笑ってたほうがいいよ。演奏会当日、俺も見に行くから。二人が並んで出てくるの、楽しみにしてるよ』
「はい、頑張りますね」
遊先生は、要先生はあたしを大事に思っていると言った。
それがあたしを安心させるための嘘だとしても、少し嬉しかった。
たとえ何を言われてもあたしが要先生のことを好きだという気持ちには変わりない。今はそれだけでいいと思えた。
けれど今、頭の中では遊先生に言われた言葉が何度も浮かんでは消える。
何も言わずに一緒に練習しているけれど、先生はあたしのことを本当はどう思っているのだろう。遊先生の言うとおり、あたしを少しは大事に思ってくれているのだろうか。それとも、単なる手のかかる元教え子であり後輩でしかないのだろうか。
一度考え始めると止まらない。切ない先生の音色が室内に響くたびに、あたしを想っているのかと錯覚してしまう。これは曲中の物語なのに。
メロディに感情を込めるのは大事な作業だ。気持ちを入れて吹くだけで、音色の厚みがぐっと増す。
けれど、演奏者はそれ以上になってはいけないのだ。感情のままに揺れ動く不安定な音色は、大人数で奏でる音楽にはあってはならない。
「おい、村上」
ソロの中心部分から続けて練習をしていると、先生の声に遮られた。
楽器から唇を離すと、厳しい顔をした先生があたしを見ていた。
「何を考えてる。全然曲に身が入ってないぞ。集中しろ」
「……ごめんなさい」
「酷い音だった。お前が今何を心配してるのかは知らないけど、今は余計なことを考えるな。曲のことだけに集中しろ。ただでさえ二週間ぶりなんだ。勘を取り戻すだけで精一杯のはずだぞ」
「はい」
黙って頷くしかなかった。
酷い音だと言われてショックじゃなかったわけではない。けれど自覚はあった。あたしが出していた音は、曲には似つかわしくない、不安定で重苦しい音だった。
「もう音出しはいいだろう。合わせるぞ」
あたしを見て何を思ったのか、先生はただ肩をすくめてメトロノームに手を伸ばした。
いつもどおりかそれ以上の密度を持った練習だった。
先生は何事もなかったような態度で、てきぱきと指示を出した。
二人で合わせるタイミングの取り方、息継ぎの位置の最終確認、盛り上げる場所や音色のチェックと、それだけで時間が足りないと思うほどだった。
先週、一度も楽器に触っていない影響は思っていた以上に大きかった。一日練習を休んだら、翌日には二日分の練習をしなければ取り戻せないとはよく言ったものだ。二週間ぶりに触る楽器は、なかなか思うような音色を発してくれない。なのに基礎練に費やす時間はほとんどないのだ。
「焦るなよ。今はまだ本番じゃない。出したい音色をイメージするだけでもいい」
「そうですね。でもやっぱりこんな音じゃ納得できなくて」
「今そんなに吹き込むと合奏の時には疲れて使い物にならなくなるぞ。今日は山口先輩も、先週いなかった分、俺達に集中攻撃してくるからな」
「確かに、そうかも」
言われてみて頷けた。
先週、ソリスト不在の状態でどのような練習が行われたのかはわからない。
けれど、今日の標的はきっと確実にあたしたちソリストだ。前回までの練習では完璧とはいえないできばえだったのだから。
「できることはやった。だから、あとはもう好きに吹けばいいだろ。ソロなんだから」
目頭をぎゅっと指で押さえ、首をパキパキと回しながら先生は息をついた。
「先生、聞きたいことがあるんです」
つかの間の休憩時間。どうしても今のうちに確認したいことがあった。
「俺はもう先生じゃない」
「あたしにとっては先生だから、いいんです。今はそうじゃなくて」
そういえば、遊先生もあたしが「先生」と呼ぶのを嫌がっていた。同じように「俺はもう冴ちゃんのせんせいじゃないよ」と言っていた。
やっぱり兄弟だ。考え方の根本は同じなのだろうか。
「お前、餌をもらう前の犬みたいな顔してるぞ」
しばらくあたしの顔をじっと覗き込んだ後、先生はそう言って噴き出した。
「な、ひど……」
「お前が何を聞きたいのかは、知ってる」
全力で抗議しようとしたけれど、先生はそれを遮った。机に腰掛けて向き直った先生は、真顔だった。
「でも、まだ言ってやらない」
「それもひどいです」
組んだ膝の上に頬杖をついた先生は、そっぽを向いた。
「今はまだその時期じゃない」
***
もし、貴方が振り向いてくれるなら。
最初に一度曲を通し終わると、ぐっちーは開口一番こう言った。
「お前ら、よくこの数時間で二週間分を取り戻したな!」
先週不在だった分、指揮者であるぐっちーはソリストのあたし達をかなり心配していたらしい。
ブランクがあるというのはそういうことだ。練習しない時間が長ければ長いほど、以前の調子を取り戻すのは難しくなる。
なのに思っていた以上にすんなりと曲に入り込んできたあたし達二人に、彼をはじめ他のOBたちも驚いているようだった。
もちろんさっきまでの時間、あたしも先生も基礎練習にはいつも以上の力を入れて取り組んだし、一つ一つの音を慎重に、丁寧に拾いなおした。あたしを取り巻く府の感情をできるだけ忘れて、その代わり、この曲に感情移入して演奏した。
そうやって努力した結果が報われるのは素直に嬉しい。
「けどな、谷口、村上」
ぐっちーの笑顔の温度が少し下がった。
笑っているのに怖い。
「頼むから他の団員達を置いていかないでくれよ」
「……はい?」
何を言っているのか、言いたいことがよくわからない。
あたしも先生も、他の人たちを置き去りにしていったつもりはなかった。実際、周りも皆、しっかり曲についてきていたし、あたしも先生もきちんと指揮を見ていた。盛り上げるところは盛り上げて、指揮者の指示通りに波を作った。周囲を置いて行くどころか、今までの中で一番綺麗にまとまった演奏ができたと思っていた。
首を傾げてぐっちーを見上げると、はあ、とこれ見よがしにため息をつかれた。
「お前達は、自分たちの世界に入り込みすぎなの。俺が指揮者なんだからもっとよく見て。それから何より、後ろで演奏してるメンバーのことをもっと考えろ」
「もちろん……」
考えていましたよ、と言おうとしたけれど遮られた。さらにぐっちーは続ける。
「でもまあ、前よりもずっと色のついた音色になってたし、俺個人としては好きだよ。今みたいなの」
そう言って、柔らかく笑ってくれた。
あまり褒められることに慣れていないから、背中の辺りがむず痒くなって谷口先生を見上げた。先生は少し照れくさそうに顔をしかめていた。
「春が来たんだなぁ」
とぐっちーがつぶやくように言った。
「今日で練習は最後だ。今度の土曜日には本番の舞台だからな。みんな体調管理しっかりしとけよ。あと、先週言ったことも忘れないように」
最後にぐっちーがそう締めくくって、合奏が終わった。
解散し、廊下に出てわいわいと片づけを始める中、あたしは隣にいる麻実をつついた。
「ぐっちーが先週言ったことって何?」
先週、あたしは練習を放り投げて先生のところへ行ってしまったので、連絡事項を聞いていなかった。
楽器を磨く手を止めて、麻実が教えてくれた。
「当日は皆、白いシャツに黒のパンツかスカートで服装をそろえるって」
「なるほど。了解」
黒ならパンツスーツがある。ついこの間、大学の入学式で使ったばかりで、たしかまだクリーニングには出していなかった。それを使うことにしよう。
「そうそう、冴。谷口先輩とはうまくいったの?」
あたしも楽器をしまおうとしてケースを開けたら、今度は麻実から訊ねられた。そんなに目をキラキラさせても、話せることはほとんどないのだけど。
「先週、練習を休んでまで先輩のところに会いに行ってきたんでしょ?」
「え、なんでそんなことまで知って……!?」
顔を寄せて、こっそりと囁かれたのは、あたしとぐっちー以外には知らないことのはずなのに。
ぎょっとした拍子に、楽器ケースの前にしゃがんでいた格好から尻餅をついてしまった。
「冴がいないの珍しいなと思って、ぐっちーに聞いたら教えてくれたよ」
「そ、そう」
今あたしたちが話している場所は、音楽室前の廊下だ。そこにそれぞれの楽器ケースが並べておいてあるから、自分のケースの前にしゃがみこんでいる。不思議なもので、誰が決めたわけでもないのになんとなくパートごとに固まっている。使い終わった楽器を拭いたり小物をしまったりしているけれど、当然、廊下だから人の通りもある。
すぐ近くをメンバーが行き来し、誰に聞かれるかわからない場所で先生の話をしたくなかった。万が一、先生本人に聞かれて「口の軽い奴だ」と思われるのも嫌だ。
とっさに周囲を見まわしてしまったけれど、廊下の隅にしゃがみこんで話をするあたしたちを気にするような人はいなかった。
「さっきの演奏、すごかったね。先週休んでたのに全然ブランク感じさせなかったし、雰囲気も出てたし、なんていうか本当に色がついてるみたいな音だった」
麻実は周りのことなどまったく気にせず話を続ける。
「二人からオーラが出てたよ。それで、あぁ、うまくいったんだな、良かったなって思ったの」
磨いた楽器をケースにしまうと、にっこり微笑んだ。ほっと安心したような、痛みをこらえているような、複雑な笑顔だった。
「さて、帰りますか」
「うん、帰ろう」
あたしも楽器をケースにしまい、楽譜を収めているファイルも鞄の中に入れた。
「冴、今日も車で来てるんでしょ? 方向も同じだし、送ってよ」
「えー。麻実の家に寄ってると、すごい回り道だよ」
「いいじゃん、たまにはさ。先週も先々週も、あたしがどれだけ心配したと思ってるの」
そんな言い合いをしながら廊下を歩き始めると、後ろから呼び止められた。
「あ、ちょっと待て。野田と村上」
何か問題でもあったのだろうか、急いだ様子でぐっちーが追いかけてくる。
あたしたちはその場に立ち止まって彼が来るのを待った。
「どうしたんですか?」
すかさず麻実が訊ねる。彼女にも心当たりがないようだ。もちろん、あたしにもないけど。
「当日のの集合時間言うの忘れてた」
「……先輩」
「しっかりしてくださいよー。って、気づかなかったあたしたちも問題ですけど」
笑って突っ込みを入れる麻実の横で、あたしは肩を落とした。いや、笑いごとじゃないって。時間がわからなかったら、ただでさえ集合の悪いOBがもっと集合しなくなっちゃうから。
「当日、現役は朝の八時から準備を始める。OBの集合時間は午後一時。念のため言っておくけど、ホールの会場は四時、開園は四時半な」
「了解です」
「遅刻するなよ」
「するわけないじゃないですか! もう!」
明らかに麻実を見て言われた言葉に、彼女は顔を真っ赤にして猛反発した。麻実はそんなに遅刻魔じゃないはずだけど。
「はいはい。んじゃ、二人とも来週はよろしくな」
頬を膨らませている麻実の頭を軽く二、三回叩くと、ぐっちーは音楽室へ戻っていった。
「そんなに子ども扱いしなくてもいいじゃんね……」
薄暗い廊下を歩いてゆく後姿を見送りながら、麻実は小さくつぶやいた。
隣に立っているあたしだから聞こえたその台詞が気になったけれど、話しかけられる雰囲気ではなかったので黙っていた。
車の中ではお互いに入学した大学の話をした。
あたしは理系で麻実は文系だったから、志望大学も学科も全然違っていて、結果として学校は別々になってしまった。
青華高校は理工系学部のある青華大学の姉妹校だ。その関係で、青華大学には内部受験に合格さえすれば比較的簡単に入学できる。あたしも例に漏れず内部受験組で、年末には進学先が決定していた。
それに対して文系の麻実は必然的に外部の大学を受験しなければいけなくて、二月の半ばまで頑張っていた。そして、第一志望だった文系主体の大学に合格した。
大学や学部が違えば、そこに生まれる雰囲気も全然っているようで、麻実の話を聞いて驚いた。
青華大学は理工系の学部しかない単科大学だから、学生も男子が圧倒的に多い。それに対して麻実の大学は文系学部が主体だから、女子学生も多くて華やかなのだそうだ。まだ入学して間もないのに、もう女の子同士のグループで派閥ができかけているという。申し訳ないけど、そんな場所はあたしには無理だ。自分が理系でよかったと思った。
「派閥って言っても、仲のいい友達が一人でもできればそれで十分だけどね」
「そういうもの?」
「そんなもんだよ。女子が多いって言っても、男子だってそれなりにいるし」
進む道が分かれてしまうのはわかっていた。麻実に限らず、高校で仲の良かった友達はみんな、文系理系問わず別々の大学になってしまった。
それでも、麻実とはずっと友達でいるのだろう。部活も同じだし、高校生になってから仲良くなった友達の中でも彼女は格別だった。
ずっと部活で顔を合わせていたから、まだ高校時代の延長のような気になっていたけれど、来週末の本番が終われば、あたしたちは離れ離れになってしまう。
麻実を家の前で下ろして、一人になると、少し胸が締め付けられた。
ずっと前からわかっていたことなのに、いざそのときになってみるとやっぱり寂しい。
それでも友達でいることには変わりない。忙しくなってもたくさん会って、積もる話をしたいだけすればいい。
泣いても笑っても本番はすぐそこだ。
今持っている力と気持ちを出し切って、すべての決着をつけるのだ。