05.鬼ごっこ
お願いだから、もう二度とあたしの前から居なくならないで。
電車に揺られて片道一時間半のところに、大学がある。
青華高校の姉妹校である青華大学は、高校とは離れた場所にある。一時間半なら十分に通学圏内だと思っていたけれど、実際に通い始めるとその認識が甘かったことに気づかされた。だからと言って一人暮らしをするのは、きっと両親が承知しないだろう。
新しく友達もできて、時間割を一緒に作った。 本格的な講義が始まるのは来週からだ。
大学というのは先輩達に聞いていたとおり高校とは全然違う空間で、入学してからずっと初めてのことばかりだ。講義によってクラスメイトが違うのは知っていたけれど、いざその中に自分も入るとなると違和感が拭えない。
友達もできたし、心配していたよりも女子の人数も多かったし、きっと楽しくやっていけるだろう。
入学式を終えてから初めての日曜日。
今日は高校での練習日。
そして、三年間あやふやだった谷口先生との関係に、決着をつける日だ。
昨夜からなかなか寝付けずに、今朝早くに目覚めて午前中に用事を片付けている間にもずっと落ち着かない。高校に向かうために車のハンドルを握っていても、緊張して体が固くなる。
きっと、今日言わなければ、谷口先生との間の関係は何も変わらない。
そのまま、なんとなく定演の本番を迎えて、またなんとなく別れて、今度は本当にそれっきりになってしまう。
それだけは嫌だ。
「あいつもこの三年、後悔して苦しんでたんだよ」
遊先生に言われた言葉を反芻する。
それが本当だとしたらなおさら、行動に移さなければいけない。
学校に到着して、音楽室に向かうと最初に声を掛けてきたのはぐっちーだった。
「ちょっと、いいか」
真剣に思いつめたようなぐっちーの雰囲気ただならぬものを感じて、あたしはただ頷いた。
歩き始める彼についてゆき、通されたのは、いつも谷口先生との練習で使っている練習室だった。
練習開始前のこの時間、現役の生徒達もOBもまばらだ。わざわざこんなに離れた場所に異動する必要もないはずなのに、あえて二人きりになるということは、他人に聞かれてはまずい話なのだ。
「どうかしたんですか? こんなところまで来て」
つい身構えたあたしに、いつものぐっちーなら笑ってごまかしてくれるはずなのに今日は違う。最初に声を掛けられた時からずっと、ぐっちーは固い表情を崩さない。
並べられた机の一つに浅く腰掛けると、ぐっちーは軽く身を乗り出した。
「村上は、今回の演奏会を成功させたいよな?」
「? ええ、もちろん。そのためにソロも頑張ってるんだし」
奇妙な問いかけだった。演奏する一員としては、本番を成功させたいと思うのは自然で、当然のことだから。あたしももちろん、そのための努力を惜しんだ覚えはない。ソロのパートナーが誰であろうと。
睨んでいるのかと思えるほど真剣にあたしを見て、目を逸らさない。
ここまでされるほどの何かをしでかしてしまっただろうかと、痛くもない腹を思わず探ってしまう。
「だよなぁ…」
二、三秒にらみ合った後、ぐっちーは心底参ったと言うように頭を抱え込んでしまった。
がっくりと肩を落として俯いたその姿は、やはりただならない。
「……どうか、したんですか?」
嫌な予感が頭をよぎった。
のろのろと頭をあげたぐっちーが、苦笑した。
「この間、二人には散々偉そうなこと言って困らせちゃったけどさ」
言い置いて、ぐっちーは簡単に現在の状態を話し始めた。
話を聞いているうちに居ても立ってもいられなくなって、話が終わると同時にあたしは練習室を飛び出した。
一度音楽室に戻り、置いてきた鞄をひったくるように取ると、そのままの勢いであたしは学校を後にした。
なんで、なんで。
その言葉だけが、頭の中で繰り返される。
車に乗り込み、運転席のシートベルトをかけたところで、あたしは行き先がどこなのかわからないことに気づいた。助手席に放り投げた鞄の中から無意識に携帯電話を取り出すと、あてもなくメモリを呼び出した。
「どうしよう、誰に連絡すれば…」
一つ一つ順番に登録された名前を追ってゆくと、一つの名前を見つけた。
この人ならばきっと教えてくれる!
そう信じて、通話ボタンを押した。
「お願い、出て!」
コール音が無機質に響く。ほんの数コールなのに、まるで永遠のように長く感じられた。
だから「もしもし、冴ちゃん?」と聞こえてきた遊先生の声が、天の助けのようだった。
「遊先生! 谷口…要先生が」
やさしく沁みる先生の声を聞くだけで安心して涙が出そうになる。
『俺も谷口だけど、なんて言ってる場合じゃなさそうだね。そんなに切羽詰って。要がどうかしたの? 何かあった?』
落ち着いた声からは、錯乱したあたしを心配する気持ちが感じられた。
「要先生、いきなり定演に出ないって、どうしよう先生…」
さっきぐっちーから聞いた遊先生にするうちに、涙が出てきた。
『そんな話、山口からも何聞いてないぞ。どうしたのいきなり』
「あたしもついさっき聞いたばっかりで、今日まだ要先生、来てなくて」
声が震えた。これだけのことで不安がって泣くほど弱い自分じゃないはずなのに。
『もう練習始まる時間だよな。何してんのあいつ…。わかった。俺のほうから連絡とってみるから、冴ちゃんしばらくそこで待ってられる?』
深いため息のあと、遊先生は静かにそう言って電話を切った。
落ち着いている遊先生の声に、一人で取り乱している自分が恥ずかしくなった。
流れ落ちた涙を拭いて、もう少し冷静になろうと自分に言い聞かせた。
遊先生から電話があったのは、それから五分ほど後のことだった。
「…要先生は…」
『うん、見つかった。家にいたよ。定演に出ないのかって話も少ししたんだけど…これは冴ちゃんが直接話を聞いたほうが納得するかもしれない。俺じゃどうにもならないよ』
少し呆れたような遊先生の言葉の意味が、よくわからなかった。
「直接。どうやって聞くんですか」
あたしは、要先生の連絡先を知らない。どこに住んでいるのかも知らない。このままでは直接話を聞くことなどできないのだ。
『今からあいつの連絡先教えるから。メモ用意して』
言われるままにメモになる紙と書くものを用意して、住所と電話番号を控えた。住所は、ここから車で十分行ける場所だった。
『もしこの後時間があるなら、直接家に行ってごらん。きっと冴ちゃんの話ならあいつは聞くし、冴ちゃんが要と一緒に舞台に上がりたいなら説得もできると思う』
「そうします。ありがとう、先生」
『俺もう冴ちゃんの先生じゃないよ。でもまあ、とにかく頑張って!』
笑って激励してくれる遊先生にお礼を言って通話終了ボタンを押した。
遊先生の前では、あたしはいつも泣いてばかりだ。すべて要先生がらみのことで。
毎回泣いてしまうあたしを、先生はいつも優しい言葉で慰め、励ましてくれる。
冴ちゃんを見ていると放っておけないんだよ、と笑ってくれる。
好きになるなら、たとえ望みがなくても遊先生のほうがきっと楽で幸せだったに違いない。けれど、あたしが好きなのは、紛れもなく要先生だ。どんなに悩んだり泣いたりしても、それは変わらない。
見た目どおり頑固なことは知っている。
一度決めたことをそう簡単に曲げることのない先生をあたしが説得できるのだろうか。
けれど行くしかない。迷っている時間も勿体ない。
先生と一緒に定演の舞台に上がるために。そして、あたし自身の気持ちをぶつけるために。
「……先生の馬鹿」
つぶやくと、また涙が浮かんでくる。
それを乱暴に手で拭いながらエンジンを入れて走り始めた。一路、東京方面へ。
***
どうして今になってから逃げるの?
最後でも、一度でいいから顔を見せて。
一人呼び出されてぐっちーに聞かされた話は、あたしに少なからず衝撃を与えた。
「昨日、谷口から俺のところに連絡があったんだ。やっぱり定演には出られなくなったからソロを降りる、別の人を探してくれって」
「え…でも本番まであと二週間しかないんですよ!?」
今日のあたしがどれだけの決意と覚悟を決めて学校に来たのか。
何もかも打ち砕かれたような気がした。
「俺も同じ事を言ったし、理由も聞いてみた。もしかしたら本当に抜けられない仕事が急に入ったとか、止むを得ない事情かもしれなかったから。はぐらかされたけど、精神的に辛くなってきたようなことを言ってた。自分には重荷だって」
「……」
重荷とは何なのだろう。
あたしと一緒にソロで舞台に上がるのがそれほど苦痛だったのだろうか。
そんなに、今のあたしの顔を見ているのが嫌なのだろうか。あたしは、先生に決定的に嫌われてしまっているのだろうか。
顔を上げると、ぐっちーの悲痛な顔が見えた。
「村上、あいつから何か聞いてない? 心当たり、ない?」
いつもなら冗談めかした態度で口元が微笑んでいるのに、今、その唇は固く結ばれていた。
「何も。今、初めてそんな話を聞いて…」
心当たりなどあるに決まっている。きっとあたしのせいだ。
特に何かをしたわけではないけれど、先生にとってはあたしの存在そのものが苦痛で、きっと、あたしの横にいることに耐えられなくなったのだ。
頭がぐるぐると回る。視界が渦を巻くように歪む。
まだ時間があるから、ゆっくりと三年間の空白を埋めたいと思っていた。少しでも、昔のような関係に近づければと思った。そう思えるようになった途端、先生はあたしの前から姿を消したのだ。
あたしのせいで。
「どうにか説得しようとしたんだよ。ここ何週間か、お前達のソロ結構いい仕上がりになってたし、期待してたから。なのにあいつ、もう無理だ、出られないの一点張りで全然俺の話なんて聞きやしない」
悔しさとやるせなさが混ざったような声だった。
あたしも悔しい。こんなことで、せっかく手にしたチャンスをなかったことにしたくない。
先日の先生とのやりとりを思い出した。
お互いに「お前なんか願い下げだ」と言い合って別れたのは先々週だ。
先週会った時には、何も気にするそぶりなど見られなかったから、単なる冗談、または本当にその気がなくて気にしていないのだと思っていた。
けれど、もしもそれがあたしの手前「気にしていない振り」をしていただけだったら。
先生はそういう人だ。気にするなと言葉を掛ける代わりに、黙って態度で示す人だ。
あたしのことなど見ていないようで、本当はすごくよく見てくれていて、あたしが気を遣わなくてもいいように先回りしてしまう人なのだ。
それが原因で、あたしが先生を苦しめてしまっているのだとしたら、そんなにひどいことはない。
「…そんな話をするほど、あたし、仲良くありませんでしたから」
落ち着いて声に乗せたはずの台詞は、思った以上に動揺した音になった。
「何、本当に付き合ってたんじゃないわけ? お前ら」
「だから前からそう言ってるじゃないですか!」
驚いたようにぐっちーは肩をすくめた。
ぽかんと目と口を開いた彼に、ついムキになって言い返した。いい加減同じネタでいじるのはやめて欲しいと思う。彼の何気ない一言が今は、痛い。
「…悪かった。じゃあ、もし本当に谷口が戻ってこない場合、ソロは川原に頼もうと思ってるんだけど、村上はそれでいいか?」
「川原先輩…」
あたしよりも五歳上の先輩だ。温厚な性格を表すような、温かく包み込んでくれるような音色が印象的だった。
「あいつなら、今から二週間でなんとかやってくれると思う。村上にも合わせてリードできるはずだ」
それでも苦々しげに、ぐっちーは俯いた。
口元に当てた手の隙間から漏れるため息が重たい。
「本当はこのまま最後まで谷口にやって欲しかったけどなぁ…」
川原先輩と谷口先生、二人の顔が交互に頭に浮かんだ。
確かに川原先輩ならば、時間がないなりにきちんとソロを演じきってくれる。彼とならばきっと上手くやれる。けれど、本当に自分はそれでいいのだろうか。先生のいない舞台で、あたしは満足できるだろうか。後悔は、しない?
谷口先生に再会して、一緒にソロに取り組んできて、短い間に嫌な思いをたくさんした。苦しかった。まだ自分は、先生のことを忘れることができていないのだと実感した。
でも、嬉しかった。
再会した当初はよそよそしかった態度が、最近になってやっと少し距離が縮まったような気がしていた。昔のような関係に戻れるかも、とどこかで期待していた。なのに、このまま終わりにしても良いのだろうか。
どんな結果になってもいい、自分の気持ちを今度こそ正直に伝えてみようと、やっとそう思えるようになったのに。
「山口先輩、あたし、やっぱり谷口先生がいいです」
どれぐらい沈黙していたのか、あたしが考える間、ぐっちーはずっと黙って答えを待っていてくれた。
「川原先輩が嫌なんじゃないんです。でも、あたしにとってのソロの相手は、もう、谷口先生以外にありえない」
「うん、知ってる。村上ならそう言うと思ったよ」
あたしの出した結論に、ぐっちーは満足そうに笑った。
「でも村上、あいつを説得できるのか? 絶対にここに連れ戻せるか?」
「はい」
迷いはなかった。
絶対に、あたしの手で先生をこの場所に再び連れてくる。
「でも、あいつ意外と頑固者だぞ」
「知ってます。二年間ずっと見てましたから」
覚悟はできているのか、と言外に問いかけるぐっちーに、あたしは笑顔で応えた。
これ以上、また再会できる偶然を待てるほど、あたしは強くない。それなら今を繋ぎとめるしかないのだ。
「だから、追いかけて、説得してきてみせます」
「行って来い。待ってるから」
そう約束して、あたしは学校を飛び出してきた。
三年間も心の奥底にしまい込んで、隠して、ずっと自分を騙してきた。
このまま騙しとおせたほうが、もしかしたら幸せだったかもしれない。
けれど、すでに手遅れだ。先生に再会した瞬間から、あたしは苦しみながらも、もう自分に嘘をつくのはやめようと思った。
苦しい、辛い、叶うことがないかもしれない恋。
これを終わらせるためには、あたしが素直になるしかないのだ。
ずっと昔から知っていた。あの時、素直になれなかった自分を後悔した。
それを断ち切るためにも、あたしは先生にもう一度会わなければならない。
なんで好きになってしまったのだろう。
先生は、先生なのに。最初から全然対等な立場ではなかったのに。
あたしが好きになっていい相手ではなかったのに。
苦しい思いをして、たくさん傷ついた。報われるかどうかもわからないのに、どうして好きでい続けることができるのだろう。
この気持ちは、この先どこへ行くのだろう。
車を運転しながら、ダビングした曲のデモを聴く。
カーステレオから流れてくるメロディは、この数週間ですっかり耳に馴染んでしまった。
この曲の元になった物語がある。ぐっちーから手渡された紙に書いてあったあらすじを、あたしは何度も読んだ。
山間の小さな村。ある一組の男女の出会いから、運命的な恋に落ちる瞬間。
旅をしていた男は、あるとき「必ず迎えに来る」と言って女のもとを去ってしまう。引き裂かれた二人は悲しみに打ちひしがれる。
男の言葉を信じて、女は待ち続ける。一ヶ月、三ヶ月、一年。二年たっても彼は戻ってこなかった。周囲からは彼を諦めるよう何度も言われたが、女は一途に待ち続けた。
そうして、丸三年がたったある日、男が彼女を迎えに来た。再会の喜びに、二人は固く抱き合い、もう永遠に離さないと誓う。
どこかあたしと先生と重なっている部分があるように見えて、最初に読んだ時は少し居心地が悪かった。その主人公になぞらえた二人のソリストに、あたしと谷口先生が選ばれてしまったことも、偶然ではないような気がした。
過ちを犯してしまった三年前、自分の気持ちに素直になれていたら、もっと違う今が合っただろうか。三年間離れていても、わだかまりなく再開を喜んでいたのだろうか。
考えても答えの出ないことだ。
臆病になっていた。結果が怖くて気持ちを伝えることができなかった。
村の少女と旅の男を演じて、同じ気持ちを反芻すれば、何かが変わる、なしてしまったものを掴めると思っていた。それが思い違いだとしても。
三年前に素直になれなかった分、今度は自分の気持ちに忠実でいたかった。体当たりで、この恋に挑もうと決めた。
だから、今のあたしに必要なのは、素直さとほんの少しの勇気。
覚悟は決まっている。
あと少しで、谷口先生の暮らすマンションに到着する。
鬼ごっこは、もうすぐ終わる。
***
やっと捕まえた。
鬼ごっこはもう終わり。
都内でも下町に近い雰囲気の場所だった。
一軒のマンションの前に、車を停めた。ここに谷口先生がいる。
三階の部屋に住んでいるようだった。エレベータがないので階段を一歩一歩、慎重に上がってゆく。
もし門前払いをされたらと思うと怖かった。さっきから心臓がうるさいぐらいに存在を主張している。手も足も、体中が細かく震えている。
ドアの横にある表札に「谷口」と書いてある。ここだ。
たどり着いてしまった。本当はここですぐにでも引き返したかった。
インターホンに手を伸ばしても、押すことができない。あと数センチ、緊張した指が言うことを聞いてくれない。
「……」
手をあげ、インターホンまで伸ばし、やっぱりそれを引っ込める。
何度も何度も繰り替えしているうちに、何分も経っている。もう、やるべきことは一つなのに、今になって意思が揺れている。
本当にここまで来てしまってよかったのだろうか。何度も何度も自分に投げかける問いかけに、答えはない。
答えを知るために、今、自分はここにいるのだから。
「迷ってても仕方ないよね」
あえて小さく口に出して自分に言い聞かせると、えいっとボタンを押した。
しばらくして、少しの足音とともにドアの隙間から顔を覗かせた先生は、あたしを見て一瞬で怯えたように凍りついた。
「こんにちは」
きっとあたしも同じ顔をしているけれど、ここで怖気づいたら負けだ。できるだけ平静に、いつもどおりの挨拶をした。はっきりと先生を見て、何を言われても帰る意思はないことを示す。
あたしがここに何をしに来たのかわかったのだろう。先生は諦めたように息を吐くと「入れ」と言って部屋の中を指差した。
小さくお邪魔します、と告げて中に入ってみると、1LDKの部屋だった。
ダイニングキッチンを通って案内されたリビングには、簡素なソファとテーブル、それからテレビとパソコンと本棚。男の人の部屋にはいるのは考えてみたら初めてで、余計な物が一切なく直線的にまとめられた先生の部屋が新鮮に感じられた。
言われるがままソファに腰を下ろすと、隣のダイニングキッチンから先生の声が聞こえた。
「何か用なのか?」
薬缶に水を溜め、火に掛けながら、先生はあたしを振り返ろうとしない。さっきからできる限りあたしのことを見ないように、ずっと目を逸らしている。
わかってはいたけれど、やっぱり拒絶されている。勇気を出してここまで来たあたしの苦労も気持ちも、何もかも無駄になってしまうのだと思うとやりきれない。けれど、こうして部屋の中に招き入れてくれただけでもよしとしよう。
だから、あえてあたしは単刀直入に切り出すことにした。
答えがあってもなくても、それは構わない。
「…なんで」
コーヒーを淹れた先生がリビングに来るのを待って、あたしは顔を上げた。
「なんで、いきなりソロを降りるんですか?」
膝の上に置いた手は、意識していなければ震えだしそうだった。
それでも、先生を見た。こちらを向いてくれない先生の顔には何の感情も浮かんでいなくて、ここからは何も読み取れない。
ただ静かにローテーブルの上に湯気の立つマグカップを置いた。香ばしい香りがあたりに広がった。
「…砂糖とミルクは入れるか」
「いりません。じゃなくて、そうやってはぐらかさないで答えて下さい。先生」
こう見えて甘いものが好きな先生は、コーヒーにはいつも砂糖二杯とミルクもたっぷり入れるんだよな…と、つい昔を思い出して気持ちを別の方向に持っていかれた。けれどそれも一瞬。あたしがここに来たのは、二人して和やかにコーヒーを飲むためじゃない。
「俺はもうお前の先生ではない」
隣に腰掛けた先生はいらついたように吐き捨てた。正面を見てコーヒーに口をつける先生は、やっぱりあたしを見ない。
「あたしにとっては、先生はずっと先生だから」
態度を変える様子のない先生を見て、胸が詰まった。
悲しいとか悔しいとか、そんな言葉を考えたのは誰だったのだろう。
果たして今、あたしは悲しいのだろうか、悔しいのだろうか。それとも先生が憎いのか、わからない。あるのはただ胸を締め付けられるような痛みだけだ。
あたしが今日どれだけの決心をしてきたのか、突然ソロを降りるといわれてどれほど驚きショックだったか何も知らないという顔をして、空っぽになった瞳で宙を見つめているだけの先生を見て、彼の中ではあたしなど物の数に入らないほど小さな存在なのだと思い知らされた。
やっぱりここに来たのは間違いだったのかもしれない。
「先生は、あたしと再会してどう思いましたか? 二人でソリストに選ばれて、一緒に練習しているとき、何を考えていましたか?」
相変わらず黙ったままの先生に構わず、問いかけを重ねた。
もう、いい。何も聞かなくてもわかる。先生は最初からあたしの話など聞く気もないし、玄関先で喚かれるのが困るから一時的に部屋に入れてくれただけなのだ。用事が済んだらすぐにでも帰って欲しいと思っているに違いない。
そうしてもう二度と会えなくなるのなら、あたしは言いたいことを全部ここで言ってしまおうと思った。
どんな結果になっても良い。
言ってしまったほうが、言わなかったよりも後悔しなくてすむから。
「あたしは、先生にもう一度会えて嬉しかった。ずっとずっと、三年前のことが気になってたし、苦しくてもどうしても先生のことを忘れられなかった。
…初めましてって言われた時、あぁ、もう先生にとってあたしはもう他人なんだって思ったら悲しくて、嫌われちゃったかなとか、拒絶されちゃうのかなとか思うと怖かった。それでも頑張れたのは、一緒にソロをやるのが先生だからです。
先生の目には、今のあたしはどう映っていますか? 青華吹奏楽部の後輩でしかないんですか? もう、三年前までみたいに話をすることもできないの?」
そこまで一気に言った。
先生は黙ったまま、遠くを見るように正面を向いている。あたしの声など、聞こえているかどうかもわからない。
それがまた「早く帰れ」と言われているようで、反射的に目を逸らしたくなった。なのにそれができないのは、どこかでまだ期待しているからだ。
きっと先生はあたしを見てくれる。何を言っても受け止めてくれると。
「……どうして、あたしを見てくれないんです」
「お前の顔はもう見たくないんだ」
一瞬揺らいだ後、瞬きをして伏せられた目は、今、何を見ているのだろう。
眉間に皺を寄せて、顎の下で両手を組み合わせている先生は今、どんな気持ちでいるのだろう。あたしも拒まれるのがわかっていたはずなのに、いざ言われてみると、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。
…どうして、そんなに苦しそうな横顔を見せるのだろう。
「……わかりました。無理言ってお邪魔しちゃってごめんなさい。もう帰ります」
淹れてもらったコーヒーにはほとんど手をつけていない。
けれど、先生にあたしと正面から対話してくれる意思がない以上、いつまでここにいても無駄だ。余計に頑なになってしまうだろう。
それぐらい、あたしにだってわかる。伊達に二年間も傍にいたわけじゃないのだ。
本当にもうこれっきりなのだ。
今度こそ、先生と二度と会えることはないだろう。
来年も、再来年も、彼はきっと青華高校に現れない。もしかしたらこの後すぐに引越しをして、電話番号も何もかも変わってしまうかもしれない。
もう会えなくなる。
それならば。
「お会いするのも最後だと思うので、これだけ言わせてください」
ソファから立ち上がり、あたしは言った。
どんな結果になっても涙は見せないと決めていた。
「演奏会が成功したら言おうと思っていました。ずっと…先生のこと、好きでした」
震える唇と震える声を抑えて、感情すらも殺して、それだけを音にするのが精一杯だった。
「…帰ります」
視界が曇って歪む。これ以上先生を見ていると、先生の傍にいると、涙が落ちそうだった。深々と頭を下げると、あたしは一目散へ玄関に向かった。
長い長い初恋は、二度目の終わりを迎えた。
***
追いかけているのは常にあたしだけだと思っていた。
靴を履こうとして屈んだところで、後ろから腕を掴まれた。
バランスを崩して膝をついた一瞬後には、そのまま背後から抱きしめられていて、
「馬鹿か、お前は」
と、押し殺したような声で言われた。
耳元から吹き込まれるのは、じんわりと苦く滲むような声と、暖かな吐息。
背中に自分のものではない体温を感じ、体に回される腕を見て、やっと自分が谷口先生に抱きしめられていることを知った。なぜ? どうしてそんなことが起こっているのか、わからない。
「ば、馬鹿なのはどっちだと思ってるんですか! 質問してもすぐ答えなかったのは先生だし、いきなりソロ降りるとか、言って理由も聞かせてくれないでどれだけの人に迷惑、とか、心配かけたと、思って…」
すっかり動転していたし、すぐ近くから聞こえる声と空気の振動に体がびくついた。どうにかこの拘束から逃れようとして手足を振り回すけれど、あたしよりもずっと大きな先生の体はびくともしなかった。
堪えていた涙が一気に頬を伝って落ちて、必死に言葉を紡ぎだそうとしたけれど、しゃくりあげるような呼吸のせいで文節がめちゃめちゃだ。
「なんでですか…?」
涙まじりで問いかけた。けれど抱きしめる腕の力が強くて、どんな顔をされているのか知るのが怖くて、後ろを振り返ることができなかった。
わらかない。あたしの顔などもう見たくないと言った先生がなぜ今、そのあたしを抱きしめているのか。なんで帰る間際の今になって、こんなに穏やかな声で話をしようとするのか。
問いかけてからしばらく返事はなく、お互いの息と心臓の音だけが辺りを支配した。
そうして、しばらく先生はあたしを抱きしめたまま動かなかった。
その時間が長かったのか短かったのか、それはわからない。
やがて先生の腕があたしから離れると、グイっと肩を掴まれ体ごと横を向かされた。正面には先生が膝をついて、あたしを真っ直ぐに見ていた。刺さる、と思うほどに真剣な眼差しだった。
力の入らないまま床の上にぺたりと座り込むと、射抜くようだった先生の目がふっと細くなった。あぁ、こんな笑顔でさえ何年ぶりに見るのだろう。もともと流れていた涙は、さらに熱く頬を濡らした。
「これぐらいでそんなに泣く奴がいるかよ」
言葉は乱暴なのに、口調はどこまでも優しくて、あたしを真っ直ぐに映す瞳には暖かな光があった。先生の手がスイ、と頬に伸びてきて、繊細な動きで流れる涙を拭った。
そこで気づいてしまったのだ。あたしは堪えきれなくなって笑った。
「……ふっ」
「笑うな」
「普通、泣くなって言うんじゃないですか?」
「いいんだよ、とにかく今笑うな」
だって、先生。先生の手がひんやり冷たくて、触れた頬から細かく震えていたのが伝わってきたから。緊張していたのはあたしだけじゃなかったと思うと、少し可笑しかった。
眉間に皺を寄せてそっぽを向いてしまったその耳が赤いのも。
ため息をついた先生は片手で髪を掻き揚げた。
「悪かった」
さっきまでの冷たい空気はもうどこにもなかった。
黙って先生の声に耳を傾けることにした。相変わらず向こうを向いたままだけど。
「大人気ない態度だった。昨夜、山口先輩に電話したときも、本当は最後まで迷ってたんだ。やめるべきか、続けるべきか」
静かに先生は話し続けた。
床に座り込んだまま、手を伸ばせばすぐに届く距離。胡坐をかいた先生は両手で頭を抱えていた。
「でも、あれ以上お前のことを見ているのが辛かった。一緒にいても辛そうな顔ばかりだし。お前は俺のことを憎んでるんだろうと思ってた」
「だからって、いきなりソロ降ります? 酷いですよ。ぐっちーから聞いてどれだけびっくりしたと思ってるんですか。……心臓、止まるかと思った」
「そうだな。悪かった」
ゆるゆると顔を上げてハハと笑った先生は、力の抜けた顔をしていた。
また、駄目だ。そんな顔を見せられたら、あたしは何も言えなくなる。
「『今更先生のことなんて絶対に好きになりません』か。あれは効いたな」
「……」
「つい売り言葉に買い言葉で俺も酷いこと言ったけど。でも、もう俺はお前の前に出るべきじゃないと思ったんだ。村上」
「あたしも、あの時はぐっちーに色々言われてカッとなってて…」
「知ってる。お前はいつもそうだ。だけど、あの時は俺にも余裕がなかったし、久々だったから、見抜けなかった」
わしわしっと頭を撫でる手が優しかった。
このままずっと撫でていて欲しい。離れたくないと思った。
「先生…」
そんなに優しいことを言わないで。
慈しむような目で、あたしを見ないで。
先生の気持ちがわからないまま、期待ばかりしてしまいそうだから。
淡く期待して、先生のことをもっと好きになってしまう。そうしたら、あたしはもう今度こそ先生から離れられなくなる。
それからずいぶん長い時間を、玄関先で過ごした。
四月になったとはいえ、陽の沈んだこの時間帯は少し冷えたけれど、そんなことは関係なかった。ただ先生と話しているだけで楽しくて時間を忘れた。
先生の仕事や、あたしの入学した大学の話をしているうちに、時間が経つのなんてあっという間だった。
久しぶりに先生の笑顔を見られただけで、満足だ。
「来週はちゃんと練習にも行くから。今日の分も取り戻して、本番は成功させような」
もう帰るというときに、先生は言った。
あたしは黙って先生を見ることしかできなかった。目の前にあるのは、さっきまでの優しい笑みではない。不敵そうに笑う先生の顔は自信に満ちていた。
「はい!」
良かった。今日、あたしはここに来て良かったのだ。
先生がもう一度演奏会に出る気になってくれた。
玄関を開けとうとしたら「そうそう」と思い出したように付け加えられたのは、この一言だった。
「もう一つのお前の訴えは、本番まで保留な」
「え?」
首を傾げて問い返そうとしたけれど、先生はあたしを追い立てるように玄関の外へ追い立てた。
「ほらもう帰れ。子供はもう寝る時間だろ」
「ひどい先生! あたし、もう中学生じゃないのに」
「俺はもう先生じゃない。それにお前は俺から見たらまだまだガキだ」
軽口を叩きながら、この台詞が三年前までは繰り返し言われてきたことだったことを思い出した。
塾の授業が終わるのは夜の九時半だった。でも塾にいて先生やクラスメイトと話しているのが楽しくて、特に用事がないのに遅くまで残っていた。勉強したり、講師たちに質問したり、世間話をしたり。
そうしているうちに時計の針が十一時を刺すと彼は必ずこう言った。「もう遅い。子供はとっくに寝る時間だから早く帰れ」と。
今、腕時計を見ると、もうすぐ十一時になるところだった。
先生が昔のことを覚えていたのかは、わからないけれど。いつもと同じ時間に同じ言葉を掛けてくれたのがたまらなく嬉しかった。
「昔と変わらないですね、先生」
車に戻ってエンジンを掛けた。
明日は一限から講義があるのを思い出してヒヤリとしたが、後の祭り。急いで帰って寝ることにしようと心に決めた。
遅い時間だからきっと家族も心配しているはずだから、まずは家に電話を一本入れてのんびり運転することにした。
聞きなれたBGMを口ずさみながら、来た時と同じ道を引き返した。来る時には、何を言われるかわからなくて不安だったけれど、同じ道を帰る今は晴れ晴れとして、心が軽くなった。
「でも、あれ…?」
あと数キロ走れば帰宅、というところまできて、あたしは何か忘れ物をしたような違和感を覚えた。
おかしい。鞄もその他の荷物もきちんと持って帰ってきている。携帯も、さっき親に電話したままの状態で助手席に転がっている。
しばらく考えて、思い出した。
『もう一つのお前の訴えは、本番まで保留な』
「ああっ!!」
さきほどまでの先生との会話を逐一思い出して、思わず叫んだ。
恥ずかしさに目の前が真っ赤になる。どうしよう。
「来週どんな顔して先生に会えばいいの…」
今日、先生の家に行ってよかったことがたくさんあるけれど、こればかりはまた少し後悔した。