04.ともだち
努力は必ず報われるものだと信じてた。
他でもない、あなたが教えてくれたことだったから。
先週の奇妙ともとれるやり取りはどこへやら。
練習に来てみると、ぐっちーも谷口先生も涼しい顔をしていた。
あんなにムキになって、感情的な台詞を吐いてしまったのが今更恥ずかしい。
「……今更先生のことなんて、絶対に好きになりませんから」
「俺だって、お前みたいな発育不良のガキは願い下げだ」
そんなやり取りは最初からなかったかのように先生は振舞う。
徹底した無表情に、冷たいと感じてしまうほどの冷静な言動。必要以外のことは口にしない。そこに感じられるのは、二人で演奏するソロをよりよくしようという熱意だけだ。
それを見て、ますますあたしは先週の取り乱した自分の発言を後悔した。
二人きりの空間は息苦しい。曲以外に関して何を話しかけてもきっと返事がないだろうから、ただそこに黙って座っているしかない。
もっと仲良くなれ。二人がいかに信頼しあって息を合わせられるか、歌い合えるか。そこにかかってるんだ。
そう言ったときのぐっちーの真剣な眼差し、口調が脳裏によみがえってきた。言いたいことはわかる。アンサンブルとはそういうものだ。だけど、一体この相手とどうやって信頼し合えというのか。
三年前までの自分たちなら、きっとうまくいった。先生の真意はわからなかったけれど、それでもあたしたちは仲が良くて、気も合っていたと思う。曲の中のあれこれを相談するのも、二人で一緒に音を合わせるのも、何もかも楽しく出来たと思う。
その関係が崩れてしまった今、あたしにはこれ以上何もすることができない。
あんなに幸せだった時間はもう戻ってこない。
「何を考えてるんだ」
静かに問いかけられるその声を聞くことさえ、今のあたしには辛い。
昔と同じ顔、同じ声。同じように歩み寄ってきて、俯いた顔を覗き込む仕草。
「っ」
この間、あんな夢を見てしまったから。
毎日が幸せにあふれていた時間を目の当たりにしてしまったから。
そして、それを壊したのは他ならぬ自分自身だから。
「村上」
息が詰まる。
あたしを見ないで。
これ以上、昔を思い出させないで。
もう駄目。耐えられない。
そう思った瞬間、あたしは何もかもを投げ出して練習室を飛び出していた。
感情のままの勢いで廊下に出て、何人かの人とすれ違った。
どうしたの? と声を掛けられた気もしたけれど、今のあたしには何も見えていなかった。ただ闇雲に廊下を駆け抜けた。
少しでも声を出せば、一緒に涙も出てきそうだったから。
追いかけてくる気配はない。
けれど、全力で走って走って、階段を駆け上る。
屋上に繋がる扉があるのに危険だからという理由で常に強固に施錠されている、階段の突き当たり。踊り場と同じぐらいのスペースには所狭しと備品や棚が置かれている。ほとんど人の訪れないこの場所は、あたしの隠れ家だった。
置いてあるものは何一つ変わっていない。狭いけれど圧迫感がないのはきっと、天井が高いからだろう。棚と壁の間にわずかなスペースに体を潜り込ませると、懐かしい安心感があった。
人が来ないことを確認すると、思う存分泣いた。何食わぬ顔でそこにいる先生と一緒にいるのがあまりにも辛かった。顔や声はもちろん、仕草も癖も、何一つ変わっていない覚えているままの先生と対峙していると、いつまでも自分が未熟な子供のように思えて悔しかった。幸せだった頃の記憶にすがりつく自分を見透かされているようで恥ずかしかった。
三年経って、あの頃の先生に少しは追いついたかと思っていたけれど、実際には全然そんなことはなくて、むしろもっと遠くまで突き放されたようだった。遠すぎて、高すぎて、どんなに必死に手を伸ばしても掠めることすらできない。
初めましてと挨拶された瞬間、彼の中では何もかも終わったのだとわかった。過去に醜くしがみついているのはあたしだけで、先生はとっくに忘れて前を向いて歩いているのだと。あたしのことは、何もかもなかったことにするつもりなのだと。
早く忘れてしまいたい。
ねえ先生、あたし頑張ったよ。あなたのことを必死に忘れようとしたよ。そのために他の人と付き合ったりもしたよ。でも無理だった。どうしても忘れられなかった。忘れようとすればするほど、先生のことを好きになっていくの。
もう二度と会えないと思っていたあなたに会えて、驚いたけれど本当に嬉しかった。また昔みたいに笑い合えると思ってた。
あたしはこんなにもあなたのことを想って苦しんでいるのに、先生は違うんだと思い知らされて悔しかった。
もうどうすればいいのかわからない。何をしても、何を考えても苦しくて苦しくて、どうすればここから抜け出せるのかわからない。何が正解で、何が間違いなのかもわからない。
ずっとあたしなりに頑張ったつもりだったけれど、それももう限界だった。何もかもわかったつもりになって、納得したつもりでいたけれど、間違っていた。
何も気にするそぶりのない先生を見ているだけでも辛い。彼と一緒に演奏して、間近で彼の音を聴くのも辛い。滑らかで切なさを含む響きは、胸の深いところを容赦なく刺し、一番深いところをえぐられたようだった。
もう、嫌だ。
先生とソロをすることも、そのために二人で練習室にこもって練習することも。先生の顔を見るのも、ぐっちーにもっともらしく諭されるのも。この学校に来て、OBの先輩達にソリストとして期待の目で見られるのも。
何もかも嫌だ。
思う存分泣いて、涙が止まったころにはかなり時間が経過してしまっていた。
あと十分ほどで合奏が始まってしまう。
トイレに行って、自分の顔を鏡で見てみると、散々泣いたために目の周りが熱くなって充血し、ひどく腫れていた。このままでは合奏どころか人前に出られない。
水道でタオルを濡らすと、それを目元に押し当てた。春先とはいえまだ寒いこの季節、ひんやりとしたものが熱を持った部分に染み渡って気持ちが良い。
それでも目元の腫れと充血はなかなか引かなくて、仕方ないからそのまま合奏に出ることにした。
練習室に置いてきたままだった楽器を持って、音楽室に入ると、皆驚いてあたしを見ていた。案の定、谷口先生はあたしとちらりとも視線を合わせようとしない。
ぐちゃぐちゃな感情のまま無理やりに参加した合奏は、決して出来が良いとはいえないものになった。
ただひたすらに、楽譜に記されている音を追いかけるだけで精一杯だった。いつもならば音を聴けば自然と思い描かれる情景や、感情は何もなかった。何も考えず、楽譜にできる限り忠実に。
そうでないと、また今にも泣き出してしまいそうだったから。
ボロボロの状態のあたしに、皆何も言わず、何も聞かないでくれた。
無言の優しさが身に沁みた。
楽器というのは、演奏者の感情に一番敏感なモノだと思う。
どんなに楽しく賑やかな情景を演奏していても、演奏者の気持ちが沈んでいれば、メロディは打って変わって悲しく聞こえるものだ。
だから、楽譜に向かう時には自分個人の感情はできるだけ持ち込まないようにしている。目を閉じて、曲から連想される風景を瞼の裏に思い描く。
いつもならできるはずのことが、今日はどうしてもできなかった。
もう、まともな音が出せないのではないかと怖くなったけれど、また泣きそうになりながら見上げたぐっちーはただ黙って微笑んでくれた。
最後にけれど、それを見ていたぐっちーだけは「あんまり思いつめて頑張りすぎるなよ」と言ってくれた。
肩に置かれた手が暖かくて、また少し涙が出た。
***
あなたと親友で本当によかった。
「冴、ちょっとこっちに来て」
「え?」
帰り支度を整えてあとはもう帰るだけ、という状態になったあたしを、突然来た麻実はぐいぐいと引っ張ってゆく。
そのまま昇降口まで来て履物を履き替え、どこに行くのかと思えばあたしの車の前。
「ご飯、食べに行きたいの。一緒に食べよ? 連れて行って」
にっこりと首を傾げて微笑む麻実からは、逆らったらどうなるかわかってるわよねという無言のオーラが出ているようで、あたしは黙って彼女に従った。
ふんわりした天使のような癒し系の外見なのに、麻実はこういうときには誰よりも強気だ。付き合いの長さの分、このギャップにももう慣れた。日常茶飯事だ。
レストランに入ると麻実はさっさと二人分の食事の注文を済ませ、水の入ったグラスを片手にあたしに向き直った。
こういうときの手際は本当にテキパキとしていて、本当にその元気がどこから来るのかいつも不思議だ。
「この間は話したくないみたいだったから聞かなかったけど、今日は容赦しないよ。洗いざらい全部話してもらうから」
怒っているように睨んでくる麻実の迫力はすさまじかった。
二週間前にも心配をかけてこうして無理やり連れ出されたが、そのときにはあたしも何も話さなかった。そうこうしていると今度はあたしが泣き腫らした顔で合奏に現れたのだ。それは心配もするだろう。
「何があったの? どうしてそんなに酷い顔してるの? …あたしにはどうしても言えない?」
「…麻実」
今にも泣きそうになっている麻実の顔を見ていると、もう潮時のようだった。
覚悟を決めた。
「うん、話すよ。今までにあったこと全部」
温かい料理を口にしながら、あたしは中学生の時の話をした。
中学生の時に谷口先生に出会ってから、どのように先生を好きになっていったか。どんなできごとがあって、どのような別れ方をしたのか。
高校生になってからどれほど必死になって先生を忘れようとしたのか。
三年ぶりにOB会の場所で先生に再会して、驚いたけれど嬉しくもあったこと。けれどそのあと、初めましてと挨拶されたこと。
先週、ぐっちーからあたしと先生の過去を知っていると言われたことや、その後の二人の交わした会話の内容。今日、二人でいる空間に息が詰まって練習室を飛び出して行って一人で泣いたこと。
谷口先生とあたしにまつわることを全部、全部話した。
かなり長くなったその話を、麻実はずっと黙って聞いてくれた。
「……そんな感じ」
話し終えて麻実を見ると、フォークを持ったままじっとあたしを見ていた。
次第に綺麗な眉根が歪み、震える声で言った。
「冴、辛かったねぇ…」
ぼたぼたとテーブルに落ちる涙。
それが、麻実の気持ちのすべてを語っているように見えた。
「そんな、麻実が泣かなくてもいいのに」
「だって冴がぁ…」
ついもらい涙をしそうになったけれど、ハタとあたしは気づいてしまった。
ここは普通のレストランで、夕食時である今、周りのテーブルにはたくさんのお客さんが座っている。その彼らが、泣き出してしまった麻実を一様に見ている。
これじゃまるで、ずっとなにやら語っていたあたしが麻実を泣かしているみたいだ。
「あ、麻実。落ち着いて! 大丈夫だから! ていうよりここレストランだからそんなに泣かれると…」
しばらく泣いて落ち着いた麻実は、まだ腫れて少し赤い目であたしを見た。そして静かな声でこう言った。
「大恋愛だね」
「…幼い感情だけどね」
背中がむず痒い。
そんなに言われるほど立派なものではない。ただ、ずっと忘れられない気持ちをあたしが引きずり続けているだけのことだ。
「冴はさ、まだ谷口先輩のこと好きなんだよね?」
「うん。でも駄目だね。いい加減諦めなきゃ」
「諦めちゃだめ!」
今のままではどうしても無理だ。だって先生はもう、あたしに対して何の感情も持っていないのが見てわかるから。
そう思って言ったら、麻実は必死になってそれを否定した。
なんでそんなに熱くなれるんだろう。先生のことは、ずっと見ていたあたしが一番知っている。どんな場面でどんな顔をするのか、どんな癖や仕草があるのか、ずっと見てきたのだ。
「どうして諦めるの? …谷口先輩は、冴のことちゃんと好きだよ」
その眼差しがあまりにも真剣だったから、あたしは気圧されてしまった。
「それは、ないよ。だって八歳も歳の差があるんだよ。先生にとってはあたしなんてまだ子供。中学生の頃だって、先生があんなに優しくしてくれたのはきっと恋愛感情じゃない。ただ年の離れた妹みたいに可愛がってくれてただけなんだ」
「それこそないよ。冴、谷口先輩が合奏の時にどんな顔で冴のこと見てるか知ってる? 二人がソロの時、息を合わせるために冴のことちらちら見ながら、ときどきすごく切なくて苦しそうな顔をしてるんだよ」
嘘だ。
いや、もし本当だとしてもそれは曲になぞらえた物語に感情移入しているだけだ。
あれから三年も経っているのに、今更あたしのことを見て切なく思うことなどない。あの凍てつくような冷たい態度を見ていれば、何も聞かなくてもわかる。
だから、あたしも諦めようと思った。この想いをここで断ち切らなければと思ったのに。
「なんでそんなこと言うの?」
今更。本当に今更だ。
「冴こそ、なんで? 八歳違うから何なの? 好きになっちゃえば年なんて関係ないってこと、谷口先輩のことを好きな冴が一番よく知ってるじゃない」
「はっきり言われたの。先週」
「そんなの、冴の売り言葉に買い言葉で返しただけじゃん。それだけで、冴は諦めようとするの? なんでそんなに意地を張ろうとするの?」
「……」
「谷口先輩の『願い下げ』発言は、そう言わないと先輩的に引っ込みがつかなかったからじゃないかな。意地っ張りで負けず嫌いっぽいもん。だから、冴に先に『好きにならない』なんて言われたからカッとしちゃったんじゃないの? 自分だけが冴のこと好きでいたみたいで恥ずかしかったんだよ、きっと」
どうしたらそんな仮説が立てられるのか、麻実の頭の中を覗いてみてみたかった。
今までだって、もしも谷口先生があたしのことを好きでいてくれたら、と思わなかったわけではない。中学生の頃は特に、少なからず期待もしていた。
けれどそんな甘い期待が許されるのは中学生の時までだった。卒業した途端、断ち切るように言われた別れの言葉は、あたしの中にいまだに大きな傷として残っている。
この青華高校のOB会で再会してからの谷口先生のあたしに対する態度は、中学生の時とはまったく違っていて、温かみのかけらも感じられなくなっていた。それどころか彼の中には最初からあたしなど居なかったかのような振る舞いの数々。
そこまでされれば、いくらあたしにだってわかる。
先生は、もう自分には近づくなと言いたいのだ。
「今更先生に好きになってもらえる理由がないよ」
本当に。あたしは何をしていたんだろう。
「いつも不思議なんだけど、冴ってどうしてそんなに自信がないの? 今のあたしが嘘を言ってるように見える? けっこう客観的な意見だったと思うけど。それともあたしの言うことなんて信じられない?」
カタン、とデザートを食べていたフォークを麻実が置いた。
「あたしのこと、もっと信頼してよ。もう三年も親友してるじゃない…」
悲しそうな眼差しに、反射的に目を逸らしてしまいそうになる。
心配性な麻実はいつも傍であたしを見守ってくれていた。優しい彼女がここまで辛そうな顔をするのは初めてだったから、余計に響いた。
「冴の気持ちはちゃんと報われるよ。あの曲と同じように。あたしと違って」
小さく言われた台詞が気になったけれど、麻実は頑として教えてくれなかった。
他人のことよりも、まずは自分のことをきちんと片付けなさいと背中を叩かれた。
***
時間が経てば変わってしまう関係もあるけれど、ずっと変わらぬ仲でいられる人もいる。
懐かしい空気はそのままに、これからも。
もし何かあったら、いつでも相談に乗るから。
最後の授業の日、そう言って渡してくれた小さなメモには、十一桁の数字。
あたしも同じように、当時買ったばかりだった携帯の番号を知らせてはいたけれど、一度も電話が掛かってきたことはない。あたしも、掛けたことはない。
紙の上で綺麗に並んでいた数字は、お守り代わりにと携帯に登録してあった。その番号を呼び出して、発信ボタンを押そうとしては、やっぱり止める。
かれこれ十五分もそうしていると、手の中の小さな塊は突然ブルブルと震えて着信を知らせた。
「もしもしっ」
あまりにも突然だったので、といっても電話が鳴るのはいつも突然だけれど、発信者をディスプレイで確認するのを忘れた。
知らない人かもしれないけれど、もう出てしまったのだから関係ない。
『冴ちゃん、元気にしてる?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、耳に慣れた懐かしい声。
もともとフランクなこの人は、授業以外であたしを呼ぶときは「村上」ではなく「冴ちゃん」と呼んでいた。
「遊先生!?」
『うん。久しぶり』
「お久しぶりです! びっくりした、ちょうど先生に電話しようとしてたところだったんです」
偶然は重なるものだ。
ときどき、携帯でメールを打っているとその相手から突然電話が掛かってくることがあるけれど、そのときと同じような感動を覚えた。
『え、俺に? 要じゃなくて?』
電話口の向こうでは少し驚いて、すぐ後に笑った声。
遊先生だけは、昔のあたしと要先生の関係を見て知っているから。どれだけあたしが要先生になついていたか、知っているから。
要先生の名前が出て、やっぱり気持ちが揺れた。
「遊先生で合ってますよ。でも本当に久しぶりですね。もう、あたしが卒業してから三年も経っちゃったんですね…」
『時間が経つのは早いよね。俺なんて転職した後結婚までして、今奥さんの腹には赤ん坊がいるよ』
「えぇっ!? いつの間に! そういうのはもっと早く連絡くださいよ!」
遊先生にずっと長く付き合っている恋人がいたのは知っているけれど、結婚したなんて聞いていない。しかも、もうすぐ赤ちゃんが生まれるなんて寝耳に水だ。
なんでどうしてと子供のように文句を垂れ流していたら、先生はククッと笑った。
『ごめんごめん』
「とにかく、おめでとうございます。…でも遊先生、わざわざ電話をくれたっていうことは、用事はそれだけじゃないんでしょう?」
結婚してもうすぐ赤ちゃんが生まれるというのは、知らせようと思えばもっと早くに知らせてくれるはずだ。それが今になって連絡があったということは、もっと違う用件の電話のはずだから。
うん、と小さく言った先生はゆっくりと切り出した。
『人づてに、冴ちゃんと要が高校の部活のOB会で会ったって聞いて。どうしてるかと思ってさ』
「あたしも、その用件で電話しようと思ってたんですよ」
突然低くなったあたしの声に、先生は怪訝そうな声を出す。きっと電話の向こうでは首を傾げているだろう。
『そうなの?』
「そうですよ! 先生、人づてにって、それ、ぐっ…じゃない、山口先輩でしょう? ひどいですよ。この間さんざんからかわれたんですから。…あたし、要先生とは付き合ってなかったのに付き合ってたことにされちゃってるし…」
『あー何? あいつそんなこと言ってたの? しょうがないな』
誰にも知られたくなかったというわけではないけれど、それでも、こんな形で自分の明かしにくい過去が人に知られるのは少し嫌だった。だから盛大に文句をぶつけたのに、あまりにも悪びれずあっさりと事実を肯定した遊先生に、あたしはそれ以上文句をいう気をそがれた。
遊先生は何も悪くない。悪いのだとしたら、過去を明かしたくない疚しいものだと思ってしまうあたし自信だ。
「……」
『ねえ冴ちゃん、ちょっと昔の話をしようか』
あたしの沈黙をどう取ったのか、遊先生は静かに切り出した。
『あいつ、家に居るときは冴ちゃんの話ばっかりしてたよ。それこそ聞き飽きるぐらい』
「そんなに、あたしの話してたんですか?」
『それはもう! 今日は村上がああ言った、こんなことをしてた。休みの日に出かけたら、こんな場所に連れて行ったら喜んでた。この食べ物が好きみたいだって、きりがなかったよ。ずっと楽しそうに、冴ちゃんのことを思い出して喋ってた』
当時を思い出したのか、くつくつと笑う声が聞こえる。
そんなに先生は遊先生に色々話していたのだと、あたしはここで始めて知った。あたしと会っていないときに思い出してくれて、楽しそうに話してくれるほどに好意を持ってくれていた嬉しさと、くすぐったさがあった。
今はもう、そんなこともないみたいだけれど。
今の、谷口先生があたしを見るときの冷たい視線を思い出して、ツキンと胸が痛んだ。
『なのに、あるときいきなり暗い顔して帰ってきた。顔色も悪かったから何かあったのかって聞いたけど、答えてくれなかった。その後から突然、ぱったりと冴ちゃんの話をしなくなった。あんなにうるさいぐらいだったのにね。
ちょうど、冴ちゃんが中学校を卒業した頃だよ。…これは、冴ちゃんとの間に何かあったんだなと思ったよ。詳しい話はあえて聞かなかったけど。
その一年後にあいつは大学院を出て就職して…それからは一心不乱にずっと仕事ばっかりしてた。確か、一回ぐらい過労で体も壊したんじゃなかったかな。久々に会ったらずいぶん痩せてて、痛々しかった』
「……」
確かに、昔よりも痩せたなと思った。もともと全然太っていない人だったから、げっそりした姿に驚いた。
けれど今はそれよりも、突然こんな話を始めた遊先生の真意がわからなかった。
あれからもう三年経っている。今更そんな話をして何になるものか。
『今でもときどき、要と二人で飲むことがあるんだけどね。酔っ払うとあいつ、必ず言うんだ。なんであんなに突き放すような言い方しかできなかったんだろう、って。あの時に違う言葉を掛けていればこんなことにならなかったかもしれないのにって、すごく悔しそうに言うんだ』
「そんなの嘘!」
見えるわけがないのに、思わず首を横に振っていた。
あの先生が、そんなに気弱なことを言うわけがない。今更、あたしを振り返って見てくれるはずがない。
昔から、追いかけていたのはあたしのほうだったのだから、最後に突き放されて当然だったのだ。
なのに、なんで今更。
今更そんなことを言われても、どうすればいいというのだ。
『嘘じゃないよ』
遊先生の声は、あくまで静かで穏やかだった。
『冴ちゃんとの間に何があって、要とどんなやり取りをしたのか、それを冴ちゃんがどう思ってるのかわからないけどね。これだけは確かだよ。
あいつもこの三年、後悔して苦しんでたんだよ』
「…本当?」
『もちろん。俺が何年あいつの兄貴やってると思ってるのんだ?
俺、冴ちゃんに昔言ったことがあるよね。教師と生徒で、年が離れてるからって気にしなくていい、って。覚えてる?
要もずっと同じように悩んでるよ。あのときも、今も。ずっと冴ちゃんのことを考えてる』
涙が出てきた。
今でも想ってるのはあたしだけだと思っていた。
ずっとずっと、最後の別れ際に言ってしまったことを後悔していた。
けれど、もし先生も同じ気持ちだったのなら。
あたし達は、これから何か変わることができるのだろうか。
昔、要先生への気持ちを初めて打ち明けた時と同じように、遊先生は電話を握り締めて泣くあたしを、繰り返し優しく励ましてくれた。