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Clear  作者: 友紀
本編
3/11

03.一進一退

 なにを言われてもいい。

 今の状況を打開して、前に進むためならば。




 冷ややかにあたしを見下ろす目が怖くて、谷口先生に会うのは気が進まない。

 ただ、ソロだけはきちんと演奏できるようになりたい。一度引き受けて断れなかった責任があるから。

「ぐっちー先輩」

 学校に着くと、あたしは一番にぐっちーのところへ向かった。

 既に学校に着いて、音楽室でトロンボーンを吹き鳴らす先輩を見つけた。

 OB合奏では指揮者であるぐっちー先輩が本来はトロンボーン吹きだということは、現役を含め誰でも知っている。けれど、いつも練習の時に、合奏で使うわけでもないのに毎回楽器を持ってきている先輩が不思議だったけれど、まさか練習開始前に吹いていたとは。

「お、どうした? 今日は早いんだな」

「欲しいものがあって」

「うん? 何?」

 あたしは欲しいものを言うと、ぐっちー先輩は快諾してくれた。

 受け取る時に、ぐっちーがニヤーと意味ありげな笑みを浮かべていたのが気になるけれど。

 いそいそと楽器を出して、さっきもらったばかりの物と一緒に練習室に入った。


 ぐっちーに頼んでもらってきたのは、もう一組のソロ譜だ。

 互いの動きやタイミングをわかっていたほうが、演奏しやすく息も合いやすいと思ったから。

 どんなに冷たい態度を取られても、あたしは谷口先生に負ける気がなかった。

 あたしのことを好きになって欲しいとは、もう、思わないけれど、それならせめてあたしの気持ちの入り込む隙間が欲しかった。

 いつの間に来たのか、ガラリと戸の音がする方を振り返ると、練習室の入り口に谷口先生が立っていた。

「…早いな」

「ちょっとやりたいことがあったので」

 机の上に広げた譜面を指差した。

 わかってきたことだけど、谷口先生は、単なる先輩と後輩、ソロのペアとしてならばきちんと相手をしてくれる。

 必要なことはとことん話し合うし、この入りはこの音のタイミングで、というようなアドバイスもしてくれる。

 ただ、表情は硬いままだけれど。

「楽譜…ソロ譜か?」

「はい。お互いに、相手の分も持っていたほうが、タイミングとかわかりやすいと思って」

 楽器を持ったまま近寄ってきた先生に、ホルンのソロ譜を一式手渡した。

「確かに、そうかもな」

 軽く片手を上げた先生は、あたしの隣の机についた。

 そのまま先生が音だしを始めたので、あたしもそれに倣って練習を始めた。


 持ち込んだポータブルレコーダーの音を聴きながら、二人で、二つの譜面を見比べる。

 それまで、お互いの音を耳で聞くことしかなかったあたしたちは、意外とたくさんの音を聴きこぼしていたことに気づいた。

「…ここで交差してたんだ…」

 譜面を睨みながら音を聴いて、わかったことは逐一メモをとってゆく。

「そうだな」

 小さな独り言にまで律儀に相槌を打ってくる谷口先生は、昔からちっとも変わらない。

 受験勉強中、傍で見ていてくれるときもそうだったな、と少しでも思い出してしまうと、デモテープを聴いていることを一瞬忘れた。

 この曲の中で、男と女は出会い、愛し合い、別れに苦しみ、再会する。

 どこか、あたしたちに似ているような気がした。

 曲の中の男女は再会して幸せに結ばれるけれど、あたしたちには再会した嬉しさも、喜びも何もなかった。

 そこが決定的な違いだ。

 ただただ相手の動向や台詞に戸惑い、あと数歩の所で躊躇し足を止めてしまう。

 一歩前進し、歩み寄ると相手は逃げてゆくし、相手が歩み寄ろうとすれば、怯えて一歩後に退く。

 いつも自分に自信がなくて、不安で、あと一歩、踏み出すための勇気がない。

 だから、どこにでもある物語なのに、今のあたしにはそれを踏襲したこの曲を聴くことすら辛く感じる。切ないメロディを耳にするたび、胸が痛む。

 三年ぶりに先生と再会した日、初めてこの曲を聴いて、目を背けたくなった。

 けれど背いてはいけない。逃げてはいけない。

 今逃げたら絶対に自分が後悔するのは、火を見るよりも明らかだ。

 三年前と同じ過ちを犯すのは、何があっても嫌だった。

 きっとこれは最後のチャンスだ。

 今しかない。

 自分の気持ちを先生に伝えることができるのは、今こうして一緒に練習していられる期間だけだ。

 どんなに傷ついても構わない。どんな結果になってもいい。何もせず、後悔に苦しむよりはずっといい。

 そんなこと、わかっている。

 なのに足踏みしてしまうあたしは、臆病者だ。


「これで少しはタイミングも合うようになるといいんだけどな」

 二人で合わせようと言って、互いに楽器を構えると、先生は言った。

 譜面に視線を下ろして笑った口元は、記憶のままだ。

 時折こうやって、先生はあたしの覚えている表情を気まぐれに見せる。

 今の先生は、あたしの先生ではないのに。つい昔の彼を重ねてしまって、一瞬でもドキリと高鳴る心臓を必死に静める。

 この人は、三年前にあたしが好きだった先生とは違うのに。


 少し遅いテンポで、ソロ部分を合わせてみると、先週に比べて格段によくなっていた。

 互いの音のタイミングをしっかりと把握するだけで、こんなに効果があるものなのかと少し驚いた。

 まだまだタイミングが合わなかったり、相手の音に釣られてしまう部分があったりもするし、感情を込めて「うたう」こともできていないから、完璧とは言いがたいけれど。

 まずまずの進歩。一歩前進だ。



 時計を見て、合奏の始まる時間が近づいていたから音楽室に戻ると、室内はいつも以上にガヤガヤ賑わっていた。

「あ、来た来た」

 まだ合奏開始と言われた時間には少し早いはずなのに、室内にはほとんど全員のメンバーが揃っていた。

「冴の席はこっちね」

「谷口はここ」

「え、なに麻実…」

「いいからいいから!」

 わけのわからないまま、二人して引っ張っていかれた場所は、指揮台の真横だった。

「ちょ、何ですかこれ!? なんでここに」

「ソリストだからな」

 指揮台で、引っ張られるあたしたちの様子を楽しそうに見ていたぐっちーは、しれっとしていた。

「今日は試験的に、二人に前に出て演奏してみてもらおうかと思って」

 無意識に見つめたぐっちーは、満面の笑みを返してくる。

「えーと…」

「……」

 何も言わないけれど、谷口先生もあたしの横で少し、頬を引きつらせていた。

 そんなに広くない音楽室の中で一杯に広がって、演奏するための陣形を組んでいるため、指揮台の横のスペースは決して広くはない。

 しかも、指揮台のすぐ後ろは壁になっているので、今日は練習とはいえ、客席を想定した壁に向かって音を出すことになる。

 なんともムードのない話だけれど、この部屋の面積を考えれば仕方ないといえなくはない。

「これはもう決定事項! とりあえず今日はここで演奏してもらうから」

 そろーっとメンバーのいるほうを見ると、何故だか皆満足そうな顔をしてこちらを見ていた。一仕事終えた後のような爽やかな空気。

 ソリストがこんなに特別扱いされる吹奏楽曲も珍しい。

 ソロの部分が設けてある曲自体はたくさんあるけれど、それは数小節のソロのためにそのときだけ座席を立ったり、舞台手前に設置してあるマイクの前まで出てきて演奏するだけだ。

 曲の最初から最後まで「指揮台の横」がソリストの定位置だなんて、そんなものは見たことも聞いたこともない。

 これではクラシックの協奏曲と同じ扱いだ。

 恥ずかしくて涙が出そうだ。

 元々あたしは人前に出るのは苦手なのに。


 そのまま調子よく、チューニングと基礎合奏が始まってしまった。

 基礎合奏の時ぐらいは普通に座席に座らせてよ、と思ったけれど、今更訴えたところで却下されるだけだろう。そういう部分のぐっちーの強引さは、あたしも知っていた。

 隣に立っている谷口先生をこっそり見上げると、先生も苦々しい顔をしていた。




***




 気持ちを乗せて奏でる音は、一体どこに行くのだろう。




 慎重に指揮棒を上げたぐっちーの合図で、合奏が始まった。

 華やかに始まるファンファーレ、男と女の出会いを描いた華やかな旋律。

 曲の前半はスムーズに音が流れてゆく。緩急もつくようになってきた。単なる強弱だけではなく、情感のこもった層の厚い音。

 この曲は、ソロ以外でも合わせるのが難しい寄木細工の様な曲だ。

 全員の息が合っているときは良いが、一人、また一人とタイミングがずれ始めると、それだけで一気に曲が曲ではなくなってしまう。

 全員、ぐっちーの指揮よりも楽譜に釘付けだった。ほんの一拍でも遅れれば命取りだ。

 それはあたしや谷口先生もそうだったけれど、すぐ横にいて指揮をする彼の手の動きは視界の端に感じられる。自分の追いかけている楽譜の位置と指揮があっていることを確認しては安心する。そのうえで感情を込め緩急をつけるのだ。一瞬でも気を抜くことは出来ない。

 もうすぐソロに差し掛かると言うとき、顔を上げると目が合ったぐっちーは、うっすらと笑った。

 意味ありげな笑みに、視線だけで問いかけたけれど、ぐっちーはフイと目を逸らしたっきり、こちらを見ることはなかった。

 谷口先生が、トランペットでソロの一音目を発した途端、ぐっちーの手がピタリと止まった。

 指揮をすることをやめたぐっちーに文句を言おうと、楽器から口を離そうとすると、「続けて」と口の動きだけで指示された。


 指揮者が曲の途中で指揮の手を止める理由は何通りかある。

 主な理由は、調子を崩した曲を途中で止めるときと、もう一つは演奏者に「うたって」欲しいときだ。指揮者のペースではなく、演奏者の好きなように自由に演奏させる目的で、手を止めるのだ。  ぐっちーは本来、突然こういうことをするタイプの指揮者ではない。手を止めるときは、演奏の音を止めるのと同義だ。なのに今回は「続けて」と指示された。

 驚いたけれど、思っていたよりもすんなりと音が出てきた。

 楽譜を追いかけて絡み合うのは、柔らかなホルンと張りのあるトランペット。

 あたしは知らないうちに谷口先生のペースにすっかり巻き込まれていた。うたっているのに癖のない音色には、重みさえ感じるほどの質感がこめられている。音を聴いているだけで泣き出しそうになってしまうような、切ないメロディ。

 ちらりと隣を伺うと、切なそうに目を細めて楽譜を追う先生の横顔が見えた。

 きゅっと胸が締め付けられたようになり、全身が一気に熱を持ったように熱くなった。こんなに苦しそうな顔をする先生は、知らない。初めて見る、大人の男の顔だった。

 何を思って、今、先生はこんな表情をしているのだろうか。

 演奏しながら、感情のままに揺れそうになる音色を必死に押さえ込んだ。

 谷口先生は、ときどきあたしが隣にいることを忘れているのではないかと思うほどに圧倒的な音色で全員を引き込む。

 さきほどまで二人で練習をしている時は、音に強弱こそあったものの全く感情のこもっていないソロだった。悲しくて切ないメロディに乗っていたのは、硬く尖ったような冷たいトランペットの音色だった。

 なのに今、別れた二人が喜びの再会をする場面での先生の音色は、信じられないほど音が輝いている。きらきらと暖かな光を放っていると錯覚させられるこの音色を出しているのは、さっきまで冷淡な音色を出していたのと同じ人物だとは思えない。

 あたしは、紅潮した頬や高鳴る心臓、楽器を吹いているだけではない息苦しさをごまかすように、彼についていった。

 ソリストが他の演奏者に背中を向けていてよかった。

 切なくゆがめられた先生の顔や、それを盗み見て紅潮し、うろたえるあたしの顔を見られずにすんだから。


 最後の一音まで搾り出した時にようやく我に返った。

 ソロが終わるといつの間にかぐっちーは指揮を再開していて、終わりの合図に挙げていた両手を握り締めていた。

 何が起こったのかとっさに把握できずにいると、ぐっちーはあたしと谷口先生を恨みがましく睨みつけた後、前を向いた。

「前回までのおさらいで軽く流そうかって言っただろう? 何、そんなに力入れてんの」

 苦笑してわざとらしくため息をつくと、メンバーが何かを訴えるような目つきであたし達のほうに視線を移してきた。ぐっちーも呆れたようにあたしを見ていた。

 わけがわからない。そんなに一斉に睨まれるほどのことをしてはいないはずなのに。

「確実に、そこで目ぇ丸くしてる二人のせいだけどな」

「え…?」

「お前、呆然としてる場合じゃないって。ちょっと試すつもりで手を止めたら谷口の暴走に村上まで乗っかりやがって」

「……」

 暴走と言われればそうかもしれない。ただ必死に、置いていかれないように食らいつくので精一杯だったけれど。

 言われてみれば、単なる練習にこんなに力を注ぐ必要はなかった。その証拠に、たった一度通しただけで体はぐったりと疲れている。

「ソロ部分が終わってからお前らに釣られないように振るの大変だったんだぞ」

 わかってるのか? と腰に手を当てるぐっちーの目は、言葉とは裏腹に笑っていたから、見た目ほど怒ってはいないようだ。

 それから何度かつまずいた部分を反復したり、感情を込める山を全員で気持ちを合わせたりと、合奏には通し練習以外でもたくさんやるべきことがあって、時間はあっという間に過ぎていった。

「ソロ二人は楽器を片付けたらちょっと残ってて」

 合奏が終わり、楽器をしまいに行こうとすると、ぐっちーはあたしと谷口先生をビシッと指差して言い残していった。


 ざわざわと先輩や友達が帰ってゆく声を壁の向こうに聞きながら、あたしと谷口先生とぐっちーは、三人で練習室の一つに入った。

「いくらなんでもやりすぎ。先週みたいに二人して全然かみ合わないのも困るけどな」

 引き戸を閉めると、ぐっちーは戸のそばの壁に腕を組んで寄りかかった。

 さっきとは違う、深いため息が漏れる。

「スミマセン」

 最初に走り出したのはきっと谷口先生で、あたしはついそれに釣られてしまっただけだったけれど、それでも、メンバー全員を巻き込んでしまったことに罪悪感は少しだけある。

「わかってるならいいよ。村上も釣られちゃっただけだしな。…谷口」

「…」

 あたしの隣に立っていた先生は、ただ黙ってぐっちーを見返した。

「お前が元凶なんだぞ。指揮の手を止めた途端に暴走しやがって」

「わかってますよ、反省もしてます」

 投げやりな言い方に驚いて、隣の先生を見上げると、彼はばつが悪そうにそっぽを向いていた。悪戯をして怒られた少年そのものの顔は、男らしい顔立ちの先生には似合わず、でもそのミスマッチさが可愛らしかった。

 ぼんやりと彼を見上げているあたしは、ぐっちーがそんなあたしを見てうっそりと微笑んだことに気づかなかった。

「でも、ま、流石だよな。さっき俺、ちょっと感動しちゃったよ。これだけ息が合うのはやっぱり昔からの知り合いだからか、谷口?」

「は?」

 ぐっちーは、わけがわからないという顔をしている谷口先生に、心から楽しそうに語りかけた。

「昔二人が付き合ってたなんて、知らなかったよ」

 視線を感じたので見上げると、先生は「お前が言ったのか」と呆れたような目で問いかけてくる。「まさか!」と小さく首を横に振ったことで返事にした。

 なんで、あたしがぐっちーにこんなことをペラペラ喋れるだろうか。当の谷口先生ならばまだしも、あたしは、この部活のメンバーに谷口先生と知り合いだったことを一言も言ったことがない。

「付き合ってませんよ」

「嘘はつかなくてもいいぞ、谷口。俺はお前の兄貴から聞いてきたんだからな」

「……何を、どうやって兄貴に聞けるというんです」

 確かに、谷口先生にはお兄さんがいる。

 同じ塾の講師をしていたお兄さん…遊先生には、あたしも教わったことがある。それどころか塾内でいち早くあたしの気持ちに気づいて、後押ししてくれた恩人でもあった。

「俺、谷口の兄貴と同じ会社なんだよ。同じ部署の直属の先輩」

 ニカッと、白い前歯を覗かせて、谷口先生に詰め寄られたぐっちーは余裕の笑みだ。

 それにしても、偶然ってすごい。遊先生が塾の講師をやめて転職したことは知っていたけれど、まさか同じ会社にぐっちーもいるなんて思わなかった。

 けれど、よりによって、あたしと谷口先生の昔の関係を最初に知ってしまったのがぐっちーだったとは。あまりよい予感はしない。

「……」

「…お前ら、本当に好きあってたんだよな?」

 気まずい顔をして視線を逸らしあうあたしたちに、ぐっちーは不思議そうに尋ねてきた。

 単なる元恋人同士ではなく見えたのだろう。それはそうだ。あたしと谷口先生は、恋人ではなかったのだから。

 気持ちすら、伝える前に別れてしまったのだから。

「いいえ」

「え? でも…」

「俺とこいつとは今は無関係です。付き合ってもいませんでした」

 険しい顔で、先生はぐっちーに食って掛かっていた。

「そう? いいけどさ、とりあえず感情的になり過ぎないように頑張りな」

 何度か軽く谷口先生の肩を叩くと、力の抜けたように微笑んでぐっちーは練習室を出て行った。

 電気もつけずにいた練習室は、外の夕闇で刻々と暗くなってゆく。立ち尽くす谷口先生の顔は、窓の外からかすかに差し込む外灯の逆光でよく見えなかった。




***




 足掻いても、焦っても、何一つ良いことがないのはわかっているけれど。




 二人、取り残された練習室で、どれほどの間見つめ合っていただろうか。

「……あの馬鹿兄貴っ!」

 沈黙に耐え切れなくなったころ、苛つきを押さえられなくなった先生は思いっきり頭をかきむしった。何度か頭を振ると、突然真顔になってこちらを見た。

「! なっ…」

 いままでずっと先生を見ていたのが、確実にばれた。間抜けな顔でぼんやりしていた顔を見られた恥ずかしさと、先生に感づかれてしまった恥ずかしさとで、何かを言葉にしようとしても上手くいかない。

 熱くなる頬を感じながら、この部屋が暗かったことに感謝した。

「村上」

「はい?」

「あの胸糞悪い野郎の鼻をあかすぞ」

 ぐっちーに好き勝手言われて言い返せなかったのが悔しいのだろう。

 キッと鋭くあたしを真っ直ぐに見る目は、昔から知っている通りの要先生だった。鋭い眼光に浮かんでいるのは、たぶん打倒山口将平、だろうけど。

 懐かしくて涙が出そうになる。先生はいつも教室の教壇から、この目であたしたち生徒一人一人を見ていた。

「どうして、遊先生から話を聞いて、あたし達が付き合ってたと思ったんでしょうね」

 当の本人は出て行ってしまったけれど、それはかねてからの疑問だった。

 お兄さんの遊先生は、甘く整った顔に穏やかな笑みを浮かべていて、誰にでも優しく接する人だった。それに対して目の前にいる要先生はいつでも眼光鋭く厳しい態度を取る人だった。

 この一見兄弟には見えない兄弟を、あたしたちは「兄は天使、弟は悪魔の谷口兄弟」と影で噂をしたものだった。

 そんな中、あたしと要先生を一番近くで見ていた遊先生から話を聞いたぐっちーは、あたしたちを「元恋人」と言ったのか。遊先生ならば絶対にそう思わないし、言わないはずなのに。

「知るか。兄貴もあれでいい加減だからな」

 はん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。外から漏れ入る外灯の光を受けた谷口先生の顔は苦々しげに歪んでいた。

 数歩歩いて手を伸ばせば届いてしまう距離なのに、何倍も遠くに感じる。見えない壁があって、あたしがこれ以上近づくのを阻んでいるようだった。

 これ以上近づくなと境界線を引かれたような、届きそうなのに届かない、歯がゆい距離。

 合奏の時に見せた、切なくて苦しそうな顔が頭に浮かんだ。

 あれは、誰のことを考えていたときの顔だったのだろう。

 きっと先生は、あたしのことなどとっくに忘れて新しい恋をしているのだろう。きっと今、切ない恋をしているのだろう。そうでなければ、あんなに強情な先生があんな顔をするはずがないのだ。

 あの先生をこんなに苦しめて、熱く欲情をはらんだ目をさせられるその女性が羨ましくて、すこし憎かった。目に見えない女性に、嫉妬した。

「……今更先生のことなんて、絶対に好きになりませんから」

「俺だって、お前みたいな発育不良のガキは願い下げだ」


 つい口から出てしまった言葉を後悔するのは何度目だろう。

 帰りの車の中で、あたしは猛烈に自己嫌悪した。

 先生に見え隠れする女性の影に嫉妬して、イラついた感情をそのまま先生にぶつけてしまった。

「なんて子供なんだろう、あたし…」

 先生のことを絶対に好きにならないなんて、嘘だ。

 今だって、いつでも先生のことを考えてしまうほど好きなのに。同じ空間にいれば、常に先生の姿を探してしまうほど、好きなのに。

 後悔しても遅いけれど。

 必死で決意して少し前進できたと思った矢先、そのための努力も勇気も決意も、すべてぐっちーに乗せられて水泡に帰してしまった。

「また振り出しに戻る、か…」

 このときのあたしは、再会してから初めて、谷口先生を「先輩」ではなく「先生」と呼んだ。同じように、谷口先生から「知り合ったばかりの他人」ではなくきちんと「知り合い」として話をされたのも初めてだった。

 けれど、あまりにも違うことを意識し頭に血が上っていたので、あたしはそれに全然気づいていなかった。

 ここで進んだ一歩に気づくのは、もう少し先の話になりそうだ。



 その夜、久しぶりに夢を見た。

 夢の中のあたしは中学生で、谷口先生と何かを話して笑っていた。

 塾に通っている同級生たちの中で、先生がこんなに優しく笑って話してくれるのはあたしだけだった。

 怖いと評判の先生とこんなに仲良くしている、あたしにはこんなに構ってもらえることが嬉しくて、誇らしかった。

 ただ一緒に居るだけで幸せで、胸がドキドキした。苦しいことは全然なくて、体の中心から何か温かいものに包まれるような感覚だった。

 先生がいてくれるから、受験勉強は全然くではなかった。先生がいてくれるから、塾に行くのが楽しみになった。先生がいてくれるから、毎日が楽しくて仕方なかった。

 密かに、自分が先生と違って子供であることを気にしてはいたし、それが原因で自信を持てなかった。自分はこんなに先生を好きだけど、先生は大人だから、自分のような中学生の子供を同じように好きになってくれるはずがないとどこかでわかって諦めてもいた。

 それでも、今この瞬間に、先生と一緒にいられれば良かったのだ。

 先生がそばにいれば、それだけで良かった。あたしと一緒にいるときにあたしだけを見ていてくれれば、他には何もいらなかった。

 夢の中であたしは、本当に幸せそうな顔をして微笑んでいた。

 この間、久々に出して眺めたあの写真達のように。


 けれど次の瞬間、キラキラ輝いていた幸せな夢は、一瞬にして悪夢に変わった。


 突然場面が切り替わると、あたしは車の助手席に座っていた。

 右隣には谷口先生。

 彼が運転する車内は、会話もなく静かだった。

 いつもなら心地よく感じるはずの沈黙した車内は、どことなく緊張で空気がピリピリしていた。

 まだ冬の寒さを残しながら、あちこちに春の息吹を感じる季節。

 すぐに「あの」ときを夢に見ているのだとわかった。

 先生と同じように車に乗っているはずなのに、あたしの感情はどこか深い場所に沈んでしまったようにおぼろげで、頼りなかった。

 すると、座っていたあたしはおもむろに口を開いた。

「こうして会えるのは、もう最後なんですね」と言った。

 やっぱり、あの日の夢だ。あの日、あの時と同じように震えた唇が、言葉を紡いだ。

 夢を見ながらも、あたしは自分が夢の中にいることをきちんとわかっていた。過去と同じやりとりを繰り返すだけの夢を、何度も見たことがあったから。

 言ってはいけなかった言葉は、あたしがどれだけ「言うな!」と念じても、かならず唇から漏れて音になる。

 夢の中なのに、もう見ていられなかった。

 次に先生が何を言うのかわかりきっているから。その言葉を、聞きたくないから。

「―――そうだな。最後だ」

 少しの間の沈黙があり、少し冷たく聞こえる声が響いた。

 俯いているあたしからは、どうしても谷口先生の顔は見えない。

 きっと無表情で、事務的な顔をしているだろう。

 いくら可愛がってくれたとはいえ、あたしは先生にとって単なる一生徒でしかなかったのだから。

 違うの、先生。あたしはあの時にこんなことを言いたかったんじゃないの!

 夢を見ているあたしがどんなに訴えても、それが先生に届くことはない。


 苦しくて歯がゆくて悲しくて、あたしはいつも泣きながら目を覚ます。

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