02.初めまして
生まれ変わっても、必ず同じ人と恋に落ち、愛するよ。
よく、そんな台詞を映画なんかで見るけれど。
あたしはそれを信じない。
谷口先生は、あたしにとってかけがえのない人物だ。
それは、今後何があっても変わらない。
彼がいなければ、あたしはこの青華高校に入学することができなかったから。心から楽しい、幸せと思える高校生活を送れなかったから。
三年前、あたしは大好きだった谷口先生に、自分から別れを告げた。
まったく後悔していないといえば嘘になるけれど、あたしという束縛から離れた谷口先生のためだと思えば、そうするしかなかった。
もう二度と会わないと思っていたのに、再び、目の前に現れるなんて思っていなかったから。
先週、先生の顔を久しぶりに見て、あたしは思った。
最後に会ってからちょうど三年。先生は覚えているよりも少し痩せたようだった。目つきは鋭さを増して、口元はきゅっと結ばれていて、まるで別人になったようだった。
けれど、声は変わらない。低くてよく響く、あたしが覚えているままの大好きな声だった。
三年ぶりに顔を見て、声を聞いた時、あたしは泣きそうになった。
胸の辺りがざわざわして、ずっと押し込めていたものがどっと溢れかえってきた。
単に懐かしかったからではない。まだ、あたしは先生のことが好きで好きで、忘れてなどいなかったのだと、思い知らされた。
とっくに失くしてしまったと思っていた感情。
けれど、今度こそ忘れてしまわなければいけない。
先生にとってのあたしは、もはや何の関係もない、赤の他人だから。
日曜日がめぐってきた。
OBには、大学生も社会人もいて、多忙なメンバーも多い。
まとまった練習時間を取れるのは、週に一回。毎週日曜日と決まっていた。
今日、目が覚めると居てもたってもいられなくて、まだ早い時間なのに、高校へ出かけた。
気分転換に現役の演奏を聴こうと思っていた。
学校に着くと、後輩たちが練習している音色が校舎のソロまで漏れ聞こえてくる。高校生らしい元気な音色だと微笑み、しかし自分もついこの間まで高校生だったことを思い出して苦笑する。
人気のない校舎の中を歩き、合奏室の隣にある準備室へそっと潜り込む。
ここは顧問の部屋も兼ねているのだが、今は誰も居なかった。顧問たちもこの曲の演奏に参加しているのだろう。
あたしは室内にある古いソファを陣取って、ドアの向こうから聞こえてくる音色に耳を傾けることにした。有名テーマパークに関連した曲らしく、明るいメロディが続く。ときどき演奏が停止しては、何度もおなじ部分を反復したり、指揮者からの指示が飛んだりする。
いつもと同じ合奏の様子だった。
後輩たちの音を少し聴いたところで、自分の楽譜の譜読みを始めた。
楽譜を読み始めると、周りの音は入ってこなくなる。聞こえるのは、頭の中で鳴り響いている楽譜の中の音楽だけになる。
一度全体を流して曲のイメージを思い出し、それからソロの部分を重点的に何度も読む。
ソロは楽譜の中で五十小節にもおよぶ。ホルン一人だけではなく、トランペットとの掛け合いの部分も多いので、休符も多いけれど、ゆったりしたテンポのメロディなのでその分長く感じる。
曲に与えられたストーリィから情景までを思い浮かべ、この曲の歌い方を考える。
盛り上げ方、音色の出し方一つで、イメージががらりと変わってしまう。
先週に一度だけ聞いたデモテープの中の音色を思い出して、一音一音を頭に描く。
単なるイメージトレーニングだけど、これが意外と大事になってくる。どの場面でどのような感情を込めて、音として表現するのか、ここで決まるも同然だ。
かちゃ、と音が聞こえて、驚いて顔を上げると、後輩一人が立っていた。
「松永くん…」
飛び上がりそうになった心臓をなだめながら、まず口に出たのは彼の名前だった。
気づくと、合奏室からは楽器の音がほとんど聞こえない。その代わり、わいわいと話し声がもれ聞こえてきている。
時間的に、合奏の合間の休憩時間だろう。
「……」
久しぶりに顔を合わせた、一つ下の後輩は、一瞬驚いた顔を見せたものの、あたしを睨むようにじっと見ると、ペコリと頭を下げて準備室を出て行った。
ぞくりとしたものが、体を駆け抜けた。さんさんと陽のあたるこの場所が、決して寒いわけではないのに。
まだ、彼はあたしを許してくれていない。
あたしが、傷つけたのだ。
しばらく時間が過ぎて、現役たちの練習時間が終了した。
楽器や器具の片付けなどで、現役たちが忙しく動き回る音が、壁越しに聞こえてくる。
もうそんな時間だなんて。全然気づかないうちに、時間が経ってしまっていた。
「…お、なんだ冴じゃないか」
再び、音楽準備室の戸が開かれると、顧問の教師が入ってきた。
ちょうどあたし達の父親世代に思える、丸い顔に眼鏡が愛嬌のあるおじさんだ。
「三浦先生。お邪魔してます」
この音楽準備室は、音楽教師や吹奏楽部の顧問の居室のようなものだから。あたしはソファから立ち上がった。
その拍子に、ひざの上に置きっぱなしになっていた楽譜がバサバサと落ちた。
「あ…」
「相変わらずだなぁ冴。そそっかしいのもほどほどにしとけよ。今年は大役こなすんだろ」
足元に散らばった楽譜の束を集めるあたしに、三浦先生は笑って言った。
何かやらかすたびにおびえて縮こまってしまうあたしに、いつも穏やかに諭すように話すこの先生に、三年間どれだけ救われてきたことか。
相変わらず、声を聞くとホッとする。
「あはは、そうですね。気をつけなきゃ」
あたしも笑って顔を上げるけど、頭の中には全然違うものが渦巻いていた。
さっきまで読んでいた楽譜の内容など、とっくに消え去っている。
それよりも、一瞬だけ見た松永くんの傷ついたような、あたしを憎むように睨み付けてくる表情がはっきり、しっかり、刻み付けられていた。
「そろそろここにいると邪魔になっちゃいますよね。じゃ、失礼しますね」
慌てて荷物をまとめると、ぺこりと一礼してあたしは準備室を出た。
これ以上あの場所にいると、三浦先生に何もかも見透かされてしまいそうで、怖かった。
まだOBたちが来る前に、あたしは一人、楽器を出して「練習室」と呼ばれる小さな部屋へ移動した。
練習室は、普通の教室の半分ぐらいの広さで、机と椅子がいくつかと小さな黒板があるだけの部屋だ。音楽室の近くにいくつかあって、吹奏楽部はもちろん、音楽の時間にもときどき使われている。
部屋の隅に、壁にもたれるようにしてずるずると座り込んだ。
松永くんとは、二年生のころに半年ぐらい付き合っていた。
トロンボーンを吹いている彼とは、入部してきた頃からなんとなく気が合って、よく二人で一緒にいるようになっていた。
生真面目で優しくて、一つ年下なのにしっかりしていて、何に対しても全力で立ち向かう子だった。
秋ごろ、付き合ってくださいと告白されてから、あたしたちは彼氏と彼女になった。
二人で歩いていて、手を繋ぐことにさえ躊躇う子だった。緊張しているのか、二人でいると会話らしい会話がほとんどなくなった。
……付き合い始める前は、会話に尽きることがないほどだったのに。
だんだん、あたしたちの間にはぎこちない空気が流れるようになってきた。
もうすぐ定期演奏会、という、三月。
今からちょうど一年ほど前に、あたしたちは別れた。
話し合いらしい話し合いもなく、一方的に別れを告げられた。
「村上先輩は、俺じゃなくて他の誰かを見ているみたいだ」と言われた。
ショックだった。一年近くずっと一緒に居たのに。松永くんのことを好きだと思っていたのに。
今思えば、ずっと一緒に居たからこそ、彼にはあたしの内面まで見えてしまったのだろう。
あたしの中に、ずっと忘れられない人の存在が色濃く、鮮やかに残っているのが。
結局、彼のことをきちんと見ていなかったのは、あたしのほうだったのだ。
記憶の中の人を追い求めるあまり、現実を見つめられなかった。好きだと言ってくれる彼に逃げようとしていた。
好きになった人が自分の傍にいるのに、自分を見てくれないことほど辛いものはないだろう。
だから、彼は、自分から、あたしを振ったのだ。
これ以上彼自身が傷つかないために。
深い、深い、ため息がもれた。
見上げた白い天井には、いくつかの蛍光灯。
その光のなかに、あたしをじっと睨むように見つめてきた松永くんの顔が浮かんだ。
あたしが、彼を傷つけた。
「……」
ごめんなさい。
今更、どんなに謝っても遅いかもしれないけれど。
明るくて優しかった彼に、あんな顔をさせているのは、間違いなくあたしだ。
膝を抱えて、その上に顔をつけて蹲って。
光の中に浮かぶ松永くんも、何も見たくない。
そう、ぎゅっと目をつぶった瞬間。
「あ、いた!」
勢いよく音を立てて、練習室の戸を開けたのは、麻実だった。
「…っ!」
驚いて顔を上げると、麻実は途端に心配そうな顔で近づいてきた。
「どうしたの、そんな場所に座り込んで?」
「あの…」
「なんで泣いてるの?」
***
再会がこんなに苦しいのなら、いっそのこと最初から出会わないほうがよかった。
お願いだから、そんな顔で初めましてなんて言わないで。
「泣いてる…?」
あたしのすぐ傍にしゃがみこんだ麻実は、うんと頷いた。
頬に触れてみると確かに冷たく濡れていて。
「何かあったの? 誰かに嫌なこと言われた?」
言い募る麻実に、黙って首を振る。
「誰にも、何も言われてないよ。ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
松永くんに会って、自己嫌悪になってた。そう言おうとして、口をつぐんだ。
「ちょっと…昔のこと思い出してた」
軽く言って、よっと立ち上がった。ついでに頬を伝っていた涙も拭う。
きっと麻実は、時間が迫っていると教えに来てくれたのだろう。
「もう合奏の時間?」
無理やりに笑顔を作ると、麻実も安心したように笑いかけてくれた。
優しい麻実に心配を掛けてはいけない。
「ううん。谷口先輩が冴のこと探してたから」
「……そっか」
谷口先輩が。
言われた瞬間、一気に現実に引き戻されたような感じがした。
あたし、昔を思い出して泣いてる場合じゃないって!!
「一緒に練習したいって言ってたから、呼んで来るね!」
「え…あ、ちょ…」
待って、まだ心の準備が。と言おうとする前に、麻実は笑顔で練習室を飛び出していった。
「…結局ほとんど譜読みしてないじゃん」
そんな大事なことにようやく気づいて、あたしは慌てて机の上の楽譜にかじりついた。
扉を軽くノックする音が聞こえたのは、それから間もなくのことだった。
「はい」
立ち上がって、引き戸を開けると、そこにいるのは当たり前だけど谷口先生で。
「……」
とっさに顔を見れなくて、どんな顔をすればいいのかわからなくなって、あたしは俯いたまま「どうぞ」と言って先生を部屋に通した。
何も自分の部屋に来たわけじゃないから、こんなに緊張しなくてもいいはずなのに。
谷口先生は、あたしから少し離れた席についた。
何を言えばいいのかわからない。
お久しぶりですとか、こんにちはとか、何か挨拶から始めるべきだろうけど、何の言葉も浮かんでこない。
「どうも、初めまして」
ふいに、低い声が、空気を震わせる。
弾かれたように、声の主を振り向くと、先生は、見たこともない顔をしてあたしを真っ直ぐ見ていた。
怒ってもいない、笑ってもいない、ただただ無表情で。
ひゅっと息を飲んだようなあたしの声は、きっと防音壁に吸収されて届いていないだろう。
「十二期生の、谷口です」
傍目に見れば何気い挨拶だった。
初対面の人物に、初めましてというのは、ごく当たり前で、自然なことだ。
では、初対面ではない場合は?
「……初めまして。二十期生の村上、です」
もう泣いてしまいたい。
実際に、さっきまで泣いていたし、もう涙腺も緩み始めている。
でも、ここで泣いてしまったら、きっと負ける。もうソロどころではなくなるし、彼に二度と会えなくなってしまう気がした。
だから、精一杯、笑顔を見せた。
三年間ずっと、会いたくてたまらない顔が、そこにあった。
意志の強そうな目に、すっと通った鼻筋に、今は一文字に引き締められた薄い唇。
少し陽に焼けた肌、すらりと高い身長に、長い手足。
頬から顎のラインはシャープになっていて、少し痩せたような気がする。
けれど、紛れもなく、谷口先生だった。
すぐ傍にいて、声を聞くことができる。
それが嬉しくて仕方ないのに、同じぐらい怖い。
同じ空間に居る、というだけで、心臓は痛いぐらいに拍動しているし、手のひらには汗がじっとりついている。喉はカラカラで、頭は真っ白で、何を喋ればいいのかさっぱりわからない。
震える手を、悟られないように押さえつけるだけで精一杯だった。
「ソロ」
「はい!?」
いきなり呼びかけられると、驚いてしまって駄目だ。
返事の声は無残にも裏返ってしまって。
「ソロ、やるんだよな」
変わらず無表情で、楽譜のページを淡々とめくる姿は、見ているうちに怖くなってきた。
「…ええ」
「譜読みした?」
「ひととおり、しました」
何一つ難しいことなど聞かれていないのに、返事をする語尾がどうしようもなく震えてしまう。
情けないなぁ、と思う。
谷口先生のことを、三年間ずっと忘れたくても忘れられなかった。
一人のひとを傷つけてまで、谷口先生を想っていた。
あと一目だけでも会いたいと望んでいた。
なのに、いざ本人を目の前にすると、こんなに喋れなくなるものだなんて。
久しぶりの一言もなく、動揺した様子もなく、まともにあたしを見ようとしてくれない。
この部屋に入ってきた時からずっと無表情で、無感動で、交わす言葉も最低限だ。
やっと発してくれたのは「初めまして」の一言。
あたしは、三年間こんなに会いたかったのに。忘れたことなど、なかったのに。
先生は、あたしにもう会いたくなかった?
会いたいと思っていたのは、あたしだけだったのだろうか。
それならば、いっそ、再会などしなければよかったのに。
やがて聞こえてきたトランペットの音に、体が縛られた。
なんて、柔らかな張りのある、艶やかな音を出すのだろう。
谷口先生がトランペットを吹くことは、中学生の時から知っていた。
けれど、いつも時間や場所の都合もあったし、彼自身が嫌がってもいたので、あたしは先生の音を耳にしたことがなかった。
やっとこの音を聴くことができた。
そう思うと、胸の辺りがぎゅっと締め付けられるように、痛んだ。
滑らかに音階を刻む指。その長い指があたしに触れてくることはほとんどなかったけれど、綺麗な指が動くのを見ているだけで満足だった。
マウスピースに当てられた、きゅっと締まった薄い唇。そこから発せられる低い声を聴いているのも、大好きだった。
きっと、先生はあたしのことなどなんとも思っていないのだ。
あたしが傍にいても気にせず、涼しい顔で自分の練習に没頭して。
あたしが、ここでこんなに切ないような、悔しいような、複雑な気持ちでいるのに。昔のことをこんなに気にしているのは自分だけだと思うと、こんなにやるせないのに。
そう思うと、本当に昔のことも一緒に思出されて、また涙がこぼれそうになった。あたしは慌てて先生から顔を背けた。
今は、自分の練習だけで手一杯なのだ。他のことに気を取られている場合ではない。
「あわせてみようか」
先生の提案があって、あたしたちは一度、互いのソロを合わせてみることにした。
メトロノームを曲本来のテンポよりも遅めにセットして、彼の合図で奏ではじめる長いソロはトランペットの呼びかけから始まる。
数泊遅れてホルンが、トランペットの旋律をしたからゆったりと支える。
硬く、張りのあるトランペットと。
やわらかくしっとりと包み込むようなホルンと。
本当ならば一つになって聴こえるはずのふたつの音色は、全然交じり合わない。
最初の数小節でその雰囲気を感じたが、一方の先生は涼しい顔で次へ続けようとしている。
心地の悪さを隠しながら先生の紡ぐ旋律についていこうと努力した。
うまくかみ合うはずの部分はてんで別々の方向へ行ってしまう。
自分の吹きはじめで、本当に吹きはじめていいのか躊躇しているうちにどんどんずれこむ。
ずれているのはわかっているはずなのに、先生は途中で止める気など一向にないようだった。
「全然合わないじゃないか」
「……」
一通り終わってみて彼がもらした感想はどこか不機嫌だけど諭すような響きがあって。久しぶりに聞いた、聞きなれた抑揚に、涙が出そうになった。
あぁこの人はやっぱり「先生」なのだと思わずにはいられなかった。
胸のどこかが鈍く痛いような気がした。
***
これを機にもう諦めろ、という最終通告なのでしょうか。
神様。
合奏は滞りなく終了した。
先週、曲の原型をほとんどとどめていなかったときに比べれば、かなり曲らしくなってきたようだ。
旋律と伴奏の区別が明らかになり、大まかな緩急、強弱も付いてきた。
一点を除いては。
「ソロだな、問題は」
練習終了後、困ったような呆れたようなため息とともに、ぐっちーが近づいてきた。ここまでこれが形にならないとは思っていなかったと、ため息をついた。
「……そうですね」
「そうですねってお前、他人事みたいに」
「はあ」
正直なところ、練習二回目にしてもう挫折しそうだ。
ソロのパート譜は一見、入り組んでいるように見えて、でも、曲となったものを聴いてみるとそれがあるべき姿にしっくり収まっている。
あまりにも複雑で、洗練されきったリズムと音形をあたしには音楽として表現できる気がしない。
違う。
これは建前で。本当は。
谷口先生と二人きりになるのが、もう嫌だった。
まだ心の整理なんてついていない。
先週、突然に思いも寄らない形で再会を果たしたものの、まるで赤の他人のように振舞う先生。
初めまして、と言われた瞬間、悲しいのか悔しいのか、または憎しみなのか、よくわからない感情に支配された。
「とりあえず、俺に言えるのは。村上」
もう、やりたくないです。
言おうとしたけれど、あまりにも真剣なぐっちーの様子に言い出すことが出来なかった。
「この機会に谷口と仲良くなっとけ。今回のソロは、ソロとは名ばかりのアンサンブルだ。一人じゃ、どれだけ頑張っても出来るようにはならない。二人がいかに信頼しあってぴったり息を合わせられるか、歌い合えるか。そこにかかってるんだ」
「……」
「まあなぁ。谷口も久々の参加だから、村上も会ったことなくて馴染みもないだろうし。年もそれなりに離れてるからな。いきなりじゃ難しいかもしれないけど」
「………」
会ったこと、あります。
馴染みも、きっとありました。
年が離れていても関係ないほど、きっと、仲良かったです。
…三年前までは。
「ま、そんなに背負い込むなよ。何かあればいつでも相談に乗るし、な?」
ずっと黙っていたあたしがどのように見えたのか、ぐっちーはあたしの頭を二、三回軽く撫でると「俺も帰り支度しなきゃ」と向こうへ行ってしまった。
他の人となら、いくらでも仲良くできるし、頑張れる気がする。
けれど、相手が谷口先生となると……。
アンサンブルというのは、二人の気持ちが同じ方向を向いて一つになってこそ成功するものだ。一方だけでどんなに心を開こうとしても、相手も同じようにしてくれなければ、二人の距離はこれ以上縮まらない。
先生はあたしに対して、あくまで他人を貫き通すつもりでいるように見える。
今回初めて会った者同士という態度を保とうとしている。
そんな無言の圧力を、二人でいるときにひしひしと感じた。
「さーえ」
ぐっちーが去った後もそのまま廊下に立ち尽くしていると、後ろからぎゅっと抱きつかれる感触。
「え、何?」
「何じゃないよ。どうしたの、帰らないの?」
抱きついたまま麻実はにこ、と笑った。
オレンジジュースを一口飲むと、麻実はようやく口を開いた。
「なんかさ、ちょっと心配だったから」
あの後、われに返って真っ直ぐ家路につこうとしたあたしを、麻実はなかば無理やり近くのファストフード店に押し込んだ。
練習が終わるのは六時で、夕食時と言えなくはないけれど、あまり食欲がなかったあたしを尻目に、麻実は二人分のセットメニューをさっさと注文して空席についた。
「心配?」
「うん。さっき一人で泣いてたし、合奏中もなんか様子おかしかったし」
「…」
「何かあったのかなぁと思って」
冷めないうちに、とポテトを口に放り込みながら、麻実はあたしの言葉を待っているようだった。
「何か、というか…」
「曲が難しい? でも、冴はそういう困難なら自分の力で乗り越えようとするでしょう?」
「うん」
「だから、これはあたしの推測なんだけど」
麻実はハンバーガーの包みを開けると一口、大きくほおばった。
あぁ、こんなフワフワした女の子らしい女の子がこんな大口でハンバーガーにかぶりついているところなんて…彼女を好きな何人もの男性諸君には見せられない。
「谷口先輩と、何かあった?」
「え?」
どうにも食べる気がしなくて、手元のポテトを弄んでいたあたしは、麻実の言葉に体が固くなるのを感じた。
「だって、どう考えてもおかしいもん。確かに最初から、ソロやりたくないって言ってたけど。目立つの嫌いだからって。そこを無理やり冴に押し付けたのはあたし達だけどさ」
つるっとジュースを一口飲むと、麻実は続けた。
「冴は、一度引き受けたら、嫌でも何でもきちんと向き合ってやっていく子だもん。今みたいに、こんなに辛そうな暗い顔、してないはずだもん。だから、他に何か原因があったんじゃないかと思ったの」
たとえば、一緒にソロをする谷口先輩とか。
麻実の言外の台詞が、あたしには聞こえた。
「……」
「冴がさ、そうやって一人で悩んで落ち込んでるの、見てられないんだよ。いつもいつも一人で抱え込んで辛そうにしてて」
「うん…。ごめん、麻実。確かに悩んでることはあるけど、まだ言えない」
「そっか。やっぱり谷口先輩のこと?」
黙ってあたしが頷くと、麻実は意外そうな顔をして続けた。
「うそー。谷口先輩のどこに不満があるの? あんなに格好良くて背も高くてスタイルよくてさ、おまけに上手じゃん。コルネットじゃなくトランペットであんなに綺麗な高音を出す人、あたし初めて見たよ。性格もクールそうな感じで…」
「うん。知ってるよ」
「じゃあ何? 実はあれでものすごく意地悪な嫌な人だったとか?」
こんなことを離している間にも、麻実は食べ物をパクパクと口に放り込んでゆく。
一方であたしの前には、手付かずのまま冷めてゆくメニューがある。お腹が減っていないはずはないのに、どうしても食欲が出ないのだ。
「まさか。すごく…いい人だよ。色々教えてくれるし…」
「ならいいじゃない。これをチャンスにもっとお近づきになっちゃえば?」
あはは、と声を上げて笑う麻実と一緒には笑えなかった。
「今日はあたしの奢りで。ここまで送ってもらっちゃったし」
麻実の家の前まで乗せてゆくと、気持ちのいい笑顔で手を振って建物の中へ入っていった。
あたしは一戸建ての家に住んでいるから、ビルを髣髴とさせるマンションを自分の家だと言って入ってゆく麻実の姿が奇妙に映った。
家に帰ってお風呂に入ってしまうと、もう寝ると言って早々に自分の部屋に切り上げてきた。
ふと思って、本棚の一番奥に仕舞ってある数冊のアルバムを出した。
これを見るのは丸三年ぶりだ。
すっかり埃をかぶって汚れてしまっている表紙を手で払って、ゆっくりと開くと、そこには幼い顔をした自分が満面の笑みで映っていた。
あたしが一人で映っているのがほとんどで、ページをめくってゆくと時折、今よりも少し若い顔をした谷口先生と二人で映っているものもある。
写真の中のあたしはどれを見ても幸せそうに、嬉しそうに笑っている。
それは、きっとカメラを構えた谷口先生を見ているから。
中学生のあたしの字で丁寧にナンバリングされたアルバムの表紙、写真の一枚一枚にきっちりと書かれている日付。
この中には、あたしが先生と過ごした二年間がぎっしりと、あふれるほどに詰まっている。
見ているだけで、一緒に行った場所や先生の言葉、笑顔を思い出す。
幸せで甘い、今となっては苦くて切ない記憶だ。
思い出すのが辛くて、三年前、先生に別れを告げた日に、すべてのアルバムを本棚の一番奥に仕舞いこんだ。そこに写真があるだけでも辛かったけれど、どうしても処分することが出来なかった。
先生の顔や声を思い出すだけでも辛いのに。苦しいのに。
今の先生は、あたしに対してあくまで他人という関係を貫き通すつもりなのだろう。
昔の知り合いだったことを何一つ言わず、ただ黙ってあたしと一緒に練習をしている。赤の他人、という態度を頑として崩さない。
あのときのことを一言でも口に出したらきっとこの先、一切口をきいてくれなくなるような気がして、あたしも黙って先生に従っていた。
本当ならば、久しぶりに再会できたことを互いに喜んで、和やかに練習をできればそれに越したことがない。けれど今、谷口先生を相手にそれが出来ないのは、三年前に自分が蒔いた種のせい。
昔の思い出に触れるのが、結局は怖いのだ。
きらきら光るような、眩しくて幸せで、けれど儚く崩れ去ってしまった思い出。
でも、このままでは前に進めない。臆病な自分から卒業して、行動を起こさなければ、変わるものも変わらない。変えることもできない。
つっと涙が頬を伝う感触があった。
写真の中の谷口先生はどれもあたしの横で微笑んでいて、それだけで胸がつぶれてしまうほど苦しくなった。