01.再会
あなたと、ここで再び出会うことができた偶然に。
あたしは、感謝できるようになるのだろうか。
「あーもう、遅刻だぁ」
あたし、村上冴は運転していた車から飛び降りると、小走りに建物へと向かっていった。
「あんなに道路が混んでると思わなかったんだもんなぁ」
守衛さんに挨拶をして、靴を履き替える。三階まで一気に階段を駆け上ると、長い廊下をひたすら走る。目指すは一番奥の音楽室だ。
階段を一段昇るたびに、廊下を一歩一歩駆けるたびに、建物の外までランダムに漏れ聞こえていたさまざまな楽器の音色がいっそう強くなる。
廊下を走るスリッパのパタパタいう音がなんだかくすぐったい。
ついこの間卒業したばかりの母校は何も変わっていない。
変わったのは、あたし。
もうここの学生じゃなくて、卒業生になったのだ。
一ヶ月ほど前まではこの場所を歩き回るときは制服だったのに、今度は私服で訪れる。この違和感が何よりもたまらない。
「久しぶり!」
「遅いよ、冴。何やってたの!?」
「もう始まっちゃうよー」
まだ春先なのに、廊下を走っているうちに汗だくになってしまった。
色んな方向から親しげに掛けられる声は、たくさんの先輩達と、同期たちからのもの。
本当は一人一人に挨拶をしたい。話したいこと、聞きたいことが山のようにあるのだ。
けれど今は時間がない。もう合奏が始まってしまう。
「すぐ準備していきます!」
と言って、まずは鞄を置きに音楽室の中へ。
「……」
勢いよく戸を開けて、飛び込んでいったあたしの目に入ったのは、忘れもしないあの姿だった。
どうして今更、彼は、ここにいるのだろう。
私立青華高校。
創立二十三年の比較的若い学校だが、夏に行われる吹奏楽の大会では何度か全国大会にも出場するほどの強豪だ。
また、毎年春に行われるイベント・定期演奏会でも、高校生とは思えない気迫の演奏をすることで、地元では少し有名でもある。
メインはやはり現役部員達の演奏だが、最近の観客達、特に教師陣や卒業生らの間で話題に昇るのはOBについてだ。
演奏会の中で、ほんの一曲だけ、あたしたちOBは、現役の演奏会に出演させてもらっている。
もちろん、この間卒業したばかりのあたしたち二十期生も、OBの一員だ。だから、今年からはこちらの演奏に加わることになる。
とはいっても、参加するか否かは個人の自由だ。個人個人の都合で、その年の演奏会に出るか出ないか、好きに選択できる。
だいたい、卒業したてのOB一年生たちはそのままの流れで出演することが多いのだけれど。
現役時代、自分の練習ももちろん頑張っていたけれど、春の定演でOBが演奏する曲を聴くのが毎年の楽しみになっていた。
自分達が決して下手だと思ったことはない。それなりに吹けると思っているし、それなりにいい音を出せていたと思う。
けれど、このOBたちの演奏には、現役高校生とはやはり一味違うものがあるのだ。
それはテクニックだったり、現役時代よりも磨かれた音色だったり、年を重ねるにつれて経験したあれこれだったりするのだろう。とにかく、高校生だったあたし達にはぜったいにまねできない、そんな音楽を彼らは作ってしまう。
いい音楽を聴くのも経験の一つだけれど、それだけでは言い切れない何かが、このたった一曲のOB演奏にはぎっしりと詰め込まれている。
そんなスゴイOBたちに混ざって、というより、自分自身もOBとして演奏に加われるなんて、これ以上に喜ばしいことがあるだろうか。
そういえば、今年は何の曲を演奏するのだろうか。
毎年、難しい曲ばかり選曲して……難しくない、高校生や中学生でもコンクールで演奏するような定番の曲でも、どうやってこの短期間に、と思う完成度の高さで、先輩達は現役部員を圧倒するのだ。
最初からあんまり難しい曲なのも嫌だなぁ。どうか、どうか、あたしの演奏するホルンパートにとっては「そこそこ」レベルの曲でありますように。
そういえば、同期で一緒にホルンを吹いていた野田麻実は元気だろうか。
親友だったけれど三年間クラスは違ったし、あたしは理系、麻実は文系の大学を志望して受験勉強に専念していたし、去年、部活を引退してからなんとなく疎遠になっていたのだ。
志望校、ちゃんと合格したのかな? きっと何も言わなくても今日の練習には来るだろうから。そのときに、会える。
再会の喜びを、分かち合える。
そう思って、あたしは母校までの道のりを、取ったばかりの免許で運転してきたのだ。
なのに、今、こんな場所であの人と再会してしまうなんて。
こんなのあたしの予定には入っていない。
悲鳴をあげそうな心臓をどうにか落ち着かせて、楽器を扱うのに必要なものだけを鞄から出して、あたしはすぐに音楽室を出た。
楽器置き場になっている音楽準備室に入ると、周囲を見回して誰もいないことを確認して、あたしは深い、深いため息をついた。
ばっちり、目が合ってしまった。
なんで、どうして。
どんなに深く呼吸を繰り返しても、心臓はいまだ早鐘を打っている。手が震える。涙も、出てきそうだ。
「……先生…」
扉に寄りかかって立っている力も入らなくなって、あたしはその場にずるずると座り込んでしまった。
忘れていたわけではない。
むしろ、逆だ。この三年間、ひとときも忘れたことなどなかった。
大好きで大好きで、でも大好きだからこそ、お別れをした。
谷口要。
あたしより八つ年上の、十二期生でもある彼は。
大好きで、大好きで、何よりも大切だった人だった。
***
神様がいるとしたら。
今のあたしは、どれだけ文句を言っても言い足りない。
いつまでも一人で蹲っていても仕方ないし、何も始まらない。
あたしが今日、ここに来た目的は、別のところにあるのだから。
正直なところこのまま黙って帰ってしまいたいけれど、それはあまりにももったいない。こうして卒業生が集まるのは年に一度、この時期だけなのだから。
とはいうものの、自分がどうやって合奏の支度をして着席したのか覚えていない。
気が付いたら隣の席には親友の野田麻実が座っていて、「久しぶり」とか、軽い挨拶を交わしていた。大丈夫かな、あたし、変な顔をしていないだろうか。
「今年はこの曲をやるから」
あたしよりも十歳上、十期生で、この卒業生バンドの指揮者を務める山口将平がおもむろに楽譜を配りだした。
ざっと目を通してみたけれど、曲名も聞いたことがないものだし、ホルンの楽譜にしてはリズムが細かいし、旋律も、知っているものとは結びつかない。まったく触れたことのない新しい曲なのだと一目で知れた。
ただ、ホルンは曲の中の第一主題を受け持つこともあるから、これもその類なのだろうと思った。
「たぶん、みんな知らない曲だと思うけど、定演まで時間がないからな。聴いたらパート分けして、すぐ練習に入るぞ」
山口先輩、通称ぐっちーは、用意していた音源を再生させた。
金管楽器の華やかなファンファーレに始まり、軽快なリズムからしっとりと落ち着いた旋律に繋がる。最後は荘厳に締めくくられている。
曲を聴きながら楽譜を目で追ってゆくうちに、あたしはさっきまでの驚きとモヤモヤした気持ちを少しだけ忘れることができた。
けれど、今度は曲に関して、どうしても腑に落ちない違和感のようなものが生まれてきた。
あたしが今目で追っている楽譜はホルンの二番だ。
この楽譜には記されていないけれど、あたしだって中学生の時から今まで丸六年、吹奏楽に関わってきた。もっと小さい頃からピアノも習っていたし、これでも耳には自信がある。
今、耳に聞こえてきているのは、紛れもなくホルンの旋律だった。
しかも、ソロ……に、聴こえる。
しかもトランペットと掛け合っているような、気が、する。同時に二人が別々の楽器でソロをしている様は、まるで恋人同士のようだと思った。
あたしが担当しているホルンというパートは、トランペットやフルートのような華やかさもない、かといってチューバなどのような重さもない、どっちつかずなパートである。場合に応じてリズムを刻むこともあれば、メロディーを奏でることもある。高音楽器と低音楽器の緩衝材のような役割を果たしているのだ。
だから、ソロなど滅多にない。なのに、あるのだ。この曲には。
(誰がやるのよソロなんて…)
あたしは絶対に御免だ。
目立つのは元来嫌いだし苦手だし、本番にはめっぽう弱いタイプなのだ。
曲は、約二分間に及ぶソロのあと、最初の主題に戻り、終了した。
停止ボタンを押す音で我に返った。
「ちょっと活躍するパートに偏りがあるけど、いい曲だろ」
ぐっちーが満足そうな顔で言う。確かに彼がもってくる曲にははずれがない。いつもメンバーが気持ちよく演奏でき、気持ちよく聴くことのできる曲を、どこからか選曲して持ってくるのだ。
「山口。これのどこが『ちょっと』の偏りなわけ」
トランペットのパートリーダーが頬を引きつらせた。
「えらい賭けにでたものだなぁ」
ホルンのパートリーダーである大場先輩も、苦笑している。
「そう、賭けだよ。けど今年のホルンとトランペットの顔ぶれだったらできると思うんだけど、どうだ?」
OBは、特に社会人になった者たちは仕事などの都合で演奏会に出られないことも多々ある。毎年新たにOBとなる者たちもいる。だから毎年バンドとしてのバランスは変化する。見渡してみれば今年は金管楽器の層がいつもよりも厚いようだ。が。
「どうもこうも」
「ねえ?」
メンバーたちは顔を見合わせる。迷っているような口調ではあるが、彼らの目が一様に輝いているのをぐっちーが見逃すはずがない。
「この曲じゃあ嫌だって人、いる?」
もちろん、意義を申し立てる人間はいなかった。
「さて、早速パート分けなんだけど」
ホルンパートの中では最年長。十期生の大場先輩がパート譜をどさりと机の上に置いた。
各パートごとに、個人練習やパート練習のためにあてがわれた部屋がある。といっても、普段は教室として使用している部屋だが。
六人のメンバーが各々適当な場所に着席するのを確認して、大場先輩はパート譜の山を一枚ずつ見始めた。
「さっき原曲を聴いてわかったと思うけど、この曲の中盤にラッパとホルンのソロがあるだろ」
楽譜は、ソロ専用譜と、その他にホルン一番、二番、三番、四番がある。
「今回、ホルンは六人でやっていくから、編成はソロ一人、一番に二人、二、三、四番に一人ずつで考えてる。その辺は異議ないよな?」
先輩はこういうときにさくさく話を進めてくれるから、あたしを含めてホルンパートのメンバーは彼をかなり頼りにしているところがある。
もともとホルンを吹く人間には癒し系のおっとりした気質の人が集まりがちだけれど、その性格は優柔不断と紙一重だ。
まぁ、それだけ、皆大場先輩を頼りにしていることでもあるし、比較的穏やかに話し合いがまとまりやすいからいいのだけれど。
「さっき、将平からもう一枚プリントをもらってきたんだけど」
と言いながら、楽譜とは違う、一枚の紙をみんなに見せる。
この曲はヨーロッパの作家が書いた物語を基にして作曲されたのだそうだ。もしかしたら、遠い国で本当にそんな話があったのかもしれないと思うほど、リアルに感じられる内容が詳細に書かれていた。
「これ、大場先輩。かなり幸せなラブストーリーですよね」
まじまじと読んでしまった先輩の一人が、顔を上げた。
「そうなんだよ。特にソロの部分なんて物語の中で一番大事な部分だよ」
あたしが思うに、それが二分半にも及ぶ、トランペットとホルンが掛け合い名がらソロを演じるシーンで。
あたしもちらりと物語のあらすじを読んだけれど、ホルンは女性のイメージで書かれているらしい。対してトランペットは相手の男性だ。
まるっきり、物語の主人公を二人のソリストは演奏することになる。
それだけに責任重大な役だ。
「問題は、この中の誰をソロにするかですよね」
先輩の一人が呟いた。真剣な面持ちで腕を組んでいる先輩は、男性だ。
「物語の内容から考えても、今回のソロは女の子にやって欲しいんだけど」
にっこりと微笑むパートリーダーの大場先輩も、男性。
ちなみに、今回のホルンパートのメンバーは六人中女性が三人、男性も三人だ。
「まぁ、そうなんでしょうね。きっとペットソロは男の人がやるだろうし」
青田先輩が肩にかかる茶色い髪の毛先を弄りながら頷いた。けれど、あまりやりたくなさそうな顔をしている。
各パートによって、なんとなく同じようなタイプの人間が集まりやすいというけれど、確かに間違ってはいない。
トランペットやフルートやサックス、クラリネットのような、いわゆる「花形」の楽器を演奏する人たちは、乗りのよい目立ちたがり屋の人が多い。人前に出ても注目されても、楽しんで自分の演奏ができるタイプだ。
それに対してあたしたちホルンやチューバ、ユーフォニウムパートはというと、普段、縁の下の力持ちのような役割を受け持つことが多い。ひたすらリズムを刻んだり伴奏したり、曲に色をつけるためのちょっとした装飾を施したり。
なので、一人で人前に出て注目を浴びることなど考えたこともない。
もちろんあたしも例に漏れず。
「うん。じゃあ、村上やってみる?」
青田先輩も、麻実も、あたしも、同じように「やりたくない」オーラを出して俯き黙っていると、何を考えたのか、大場先輩はソリストにあたしを指名した。
「えぇ!?」
それは、いくらなんでも。
顔を上げると、にこにこ微笑んでいる大場先輩と目が合う。
「あれ、やりたくない?」
いかにも意外だというように先輩は目を丸めるけれども、当たり前だ。
「やりたくないです。というより、なんであたしなんですか」
本当に嫌なものは嫌なのだから、この際相手が先輩だということに構っていられない。
あたしは人前に出るのが苦手だ。ソロをやるということは、最低でも自分の席の場所で立って、下手をするとステージの前に出て演奏しなければならない。
苦手な人にとって、それがどれだけ苦痛なことか。
それに、あまり人と自分を比較するのは好きではないけれど、あたしよりも青田先輩や麻実のほうが高音まで綺麗に伸びるし、技術的にも上手い。
自分よりもずっと優れている人がいるのに、ソロなんて満足に演じきれる自信などない。
だから、何も、あえてあたしをソリストに選ぶ意味がわからない。
「村上なら大丈夫だと思うけど」
俺の独断と偏見だけどね。と付け加えて、大場先輩は、あたしの抗議など全然聞こうともしてくれずに、あたしに一冊の楽譜を手渡した。
表紙には曲名と、ホルンのソロ譜だということがはっきりと書いてある。
「冴ちゃん、やりなよ。ホルンでソロなんて滅多にないからおいしい役だよー」
「そうだね。冴なら大丈夫。せっかくだし、やりなよ」
いつまでたっても楽譜を受け取ろうとしないあたしに、青田先輩も麻実までもが追い討ちを掛ける。
自分がソリストにならなくてよいと知った途端、これだ。虫がよすぎる。
「……わかりました。自信ないですけど」
小さくため息をついて、差し出されたソロ譜を受け取った。
「よしよし。俺は村上の音、好きだぞー」
といって、大場先輩は満足そうにあたしの頭をぐりぐりとなでてくる。
ソロ決定ーと誰かが言って、他のメンバーが盛大に拍手をした。冴ちゃん頑張れ! というのが聞こえた。
正直、髪の毛がぼさぼさになるし、大場先輩の手の力が強くて痛いし、変に期待を寄せられるのも嫌だった。でも、それよりも今自分の手の中にある楽譜のほうが気になってしょうがなかった。
どんな内容なのか知るのが怖くて、表紙を捲るのも躊躇われる。でも、目を通して、練習もしなければ、前に進まない。
なんであたしなのだろうか。
今日は、遅刻もするし、やりたくもない長いソロを任されてしまうし、どれだけの厄日なのだろうか。
まだまだ良くないことが起こりそうな予感がして、ため息をつかずにはいられない。
***
偶然というものを、今日ほど恨んだ日はない。
「さて合奏するかー」
ぐっちーが指揮台に立つと、それだけで場の雰囲気が変わる。気持ちがぐっと引き締まる。
けれど今は、それよりも、これから何が始まるのかという期待が胸の大部分を占めている。
あたしと一緒にソロを吹くのは誰なのか、さっき聴いた曲が、自分達の手でどのように仕上がるのか。自分達らしい表現をどのようにしてゆこうか。
「と、その前に。ラッパとホルン。ソロは誰になったか教えて」
指揮棒を持ち上げようとしたところで、ぐっちーはすっかり忘れていたような口調で話を切り出した。
「ホルンは村上でーす」
大場先輩がパートを代表して、あたしの名前を挙げる。
と、当たり前だけど、合奏室中の視線があたしを向いた。こういう注目は、あんまり嬉しくない。
「了解、っと。ラッパは?」
「俺です」
ほぼ真後ろから聞こえてくるその声を聴いた途端。
自分の体が震えたのを、あたしは感じた。
スコアになにやら書き付けている(たぶんソリストの名前を記録してるのだろうけど)ぐっちーには、あまり聞きなれない声だったのだろう。
俺、と言った声に反応して不思議そうに顔を上げた。
あたしにとっては、丸二年間ずっと聴いていて、忘れようもない声だけれど。
「え、俺って……」
ぐっちーがきょとんとした顔で、後ろの座席を見遣る。
それは、驚くよね。あたしだって驚いている。
まさか、そうなるとは、全然考えてもいなかった。
「谷口?」
「はい」
「久々に出てきていきなりソロって、お前大丈夫かぁ? ま、いいや。頑張れよ」
きっと今頃、あたし以外の全員の視線が谷口先生に向けられているのだろう。
けれど、あたしは、どうしても後ろを振り向くことが出来なかった。
先生の顔を見るのが、目が合うのが怖かった。
どんな顔をして先生の顔を見ればいいのか、わからなかった。
合奏は、最初だからということで今日はソロ抜きで行うことになった。
「よく見るとソロの二人、並ぶと美男美女でお似合いだなぁ。本番のビジュアルが楽しみだ」
指揮棒を取ろうとしたぐっちーは、ふと手を止めるとそんなことを笑顔で口にした。
笑っているぐっちーに罪はないけれど、ちょっと恨めしい。気も、重い。
今さら、あの人と何かを創ろうとしても、うまくいくはずがないのに。
―――谷口先生。
その日の合奏は、あたしには散々なものだった。
さっきの個人練習の時間中、あたしはソロの部分に気を取られて、それ以外の部分の楽譜にはほとんど目を通していなかったから。
「確かにこの曲は難しいけどな。それでも、一日目だっていうの差し引いても、酷いぞ」
合奏の終わりにぐっちーが言うまでもなく、それはきっとメンバー全員が感じていたと思う。
「でもまあ、今日は曲の流れを掴んでもらえればそれでいいから」
そう締めくくったけれど、ぐっちーの肩は心持ち落ち込んでいた。
そりゃあ、落ち込むはずだ。毎年、OBで演奏する曲を選んでくるのはぐっちーで、今年の大まかなメンバー構成を考えた上で、今年なら出来ると思ってこの難曲を選んだのだろう。
なのにこれだけボロボロの演奏をされちゃったら、それはショックなはずだ。
そんなぐっちーのためにも、自分のためにも、来週から猛練習しなければ、と、あたしは心に誓った。
「さーえ」
後ろからドンと飛びついてきたのは、野田麻実だ。
あたしよりも身長が高いのに、いつもものすごい勢いで飛びついてくるから、足がよろけて倒れないようにするので必死だ。
「うあっ」
「何変な声出してるの? ねえ、それよりも、すっごいねえ!!」
やたら興奮して、目をきらきらさせて、麻実はもう一度抱きついてきた。
「…なにが?」
「なに、じゃないでしょー」
ぷうっと膨れて、両頬をつままれる。痛い。
「いひゃいよ、あひゃい」
「何言ってるのかわかんなーい。それよりも、ソロ! あんな格好いい人と、恋人役想定でなんて!! いいなぁ」
はぁ、と甘いため息をついて両手を組む麻実は、フワフワした髪型にあいまって可愛い。
けどあたしにはそんなに喜ぶことが出来なかった。
正直、曲が難しくて、できるかどうか自信がないし。それよりも、ソロの相手があの人なのが一番不安だ。
「ああ、うん。そうだね」
「あれ? あんまりやる気ない感じ?」
少し背を屈めて、顔を覗き込まれる。あぁ、いいなぁ、背の高い子って。
いや違うか。あたしの背が小さいんだ。どうでもいいけれど。
「うん。実はあんまり」
「えー、何で!?」
「…それは。だって、難しいからできる自信ないし」
これも事実だけど、まだ本当の理由は言えない。
「うん。難しいよねあの曲! ソロじゃないパート譜も、もうわけわかんなかったもん」
「麻実さぁ」
「ん?」
このまま、谷口先生と一緒になんて、ソロをやっていける自信なんてない。
何よりも先生と一緒にいるどころか顔を見るのも怖い。三年前のことを思い出してしまって、辛い。
なら、いっそ。
「ソロ、代わってくれない?」
「はあ?」
「だから、ソロ…」
「ちゃんと聞こえてる! それよりも、冴。こんなチャンス捨てちゃっていいの?」
俯くあたしの両肩をがっしり掴んで、早口でまくしたてる。
「難しいから不安って、それだけで諦めちゃう冴じゃなかったはずだよ。 さっきあたしが、谷口先輩格好いいって言ったから譲ろうとか思ってる? あんなの軽い気持ちで言っただけなのに。 それよりも、ソリストとして舞台に立てるチャンスなのに勿体ないよ。 何があったのか知らないけど、あたしは、今回のソロは冴がやるべきだと思う」
真剣に、まっすぐ目を見て。
三年も一緒にいたのに、麻実がこんな顔をするなんて知らなかった、と思えるような、怖いぐらいに真っ直ぐな目だった。
「……」
「ほんとに、何があったのか知らないけどさ。冴なら絶対できるよ! 心配ないって!」
それでも俯いているあたしに、麻実は実に明るく言ってのけた。
最後にバシッと叩かれた肩がヒリヒリ痛い。
「うん。がんばろ」
純粋に演奏に対しての熱意を語る麻実には申し訳ないような複雑な気持ちだけど、なんとか顔を上げて笑って見せた。
ソロ。
言葉の通り単純に、ただ一人で演奏するだけなら、まだ良かったのかもしれない。
同時に掛け合いながらソロをするということは、何よりも大事なのは二人の息を合わせることだ。音程や、細かなタイミングまで、ぴったりと合わせられるようにならなければ、今回のソロは成功しないだろう。
伴奏は最低限。ほとんど二人の独壇場になる。
そのうえで二人の音を掛け合い、和音を作らなければならない。
「音楽」を、二人の手で作らなければならない。
ということは、否が応でも、誰よりもその相手とコンタクトを取らざるをえない。
それが、怖い。
今のあたしが、どう思われているのか。何を言われるのか。
考えるだけで怖くて、不安で、居ても立ってもいられない。
谷口要。
三年間、声も聞かず、顔を見ることもなく。
それ以前に最悪の別れ方をしてしまった相手だ。
付き合っていたわけではない。けれどあのときのあたしは、何よりも彼のことを大事に思っていた。