第20装甲擲弾兵師団
第20装甲擲弾兵師団
20.Panzergrenadier Division
第20装甲擲弾兵師団は1943年5月20日に第20自動車化歩兵師団《20.Infanterie Division(mot)》を改称し編成された師団である。
編成面では1個装甲大隊―第8装甲大隊、2個装甲擲弾兵師団―第76および90装甲擲弾兵連隊を中心とする平均的な編成の装甲擲弾兵師団であり、特に目立つ特徴を持つものではない。
編成
・師団長 ゲオルグ・ショルツ少将
・師団本部/第20装甲擲弾兵師団
第8装甲大隊(3個装甲中隊)
第76装甲擲弾兵連隊(3個装甲擲弾兵大隊/装甲猟兵中隊/工兵中隊/歩兵砲中隊)
第90装甲擲弾兵連隊(3個装甲擲弾兵大隊/装甲猟兵中隊/工兵中隊/歩兵砲中隊)
第20砲兵連隊(自動車化)
第Ⅰ~第Ⅲ砲兵大隊
第Ⅳ高射砲大隊
第20装甲猟兵大隊(3個装甲猟兵中隊/1個高射砲中隊)
第120装甲捜索大隊(1個軽装甲車中隊/3個オートバイ中隊/1個重装備中隊)
第20工兵大隊(自動車化)(1個装甲工兵中隊(半装軌装甲工兵車両装備)/2個工兵中隊/架橋段列)
第20通信大隊(自動車化)(3個通信中隊)
その他「第20」を冠する各種支援部隊
45年3月15日の時点における装備車両
Ⅳ号戦車 19両(稼動―0両)
Ⅳ号戦車(L70) 21両(稼動―21両)
対空戦車 3両(稼動―3両)
45年3月当時、オーデル戦線においてドイツ軍はオーデル河東岸の都市、フランクフルト・アン・デァ・オーデル及びキュストリンの2箇所に防衛兵力として都市名を冠した要塞師団を配置し、市街地周辺を橋頭堡として確保していた。ソヴィエト軍からすれば、これらの橋頭堡はベルリンへの進撃を進める際に大きな障害となるものであり、除去すべく多大な努力を払っている。数回にわたりオーデル河西岸への渡河を試み、キュストリンの南北において相当規模の大きさの橋頭堡を確保、キュストリンへの圧力を強めていった。ライネフェルトSS兼警察中将が師団長を務めるキュストリン要塞師団と第9軍との間には狭い回廊があるだけであり、南北からの圧力により一度この回廊が切断されればベルリン前面に大規模兵力が収容可能な橋頭堡が現出することになるため、ドイツ軍にとりキュストリン南北の橋頭堡の排除は最優先課題であった。
ヒトラーはこの危機的状況の解決策として、5個装甲擲弾兵師団によるキュストリン南橋頭堡への限定攻勢を3月24日に実施するよう命令を下した。攻勢の発起点はフランクフルト・アン・デァ・オーデル橋頭堡、ここでオーデル河を渡河、その後に東岸に沿って北上しキュストリン南橋頭堡の後背を突く、という攻勢計画である。一見理に適った計画であるが、この計画は参謀総長グデーリアン上級大将、ヴァイクセル軍集団司令官ハインリキ大将から欠陥を指摘されている。理由として第一に東岸は山が多い地形でありソヴィエト軍は山上からの砲兵観測が容易で激しい阻止砲撃を受けるおそれがあること、第二にフランクフルト・アン・デァ・オーデル橋頭堡は5個師団の兵力を収容するには狭すぎることを挙げている。計画に関してヒトラーとグデーリアンとの間で議論が交わされたが、3月22日に発生した事件により状況は急変し、計画は中止された。キュストリンが包囲されたのである。
キュストリンへの回廊は第9軍揮下装甲兵力のうち、最有力部隊である第25装甲擲弾兵師団(注1)が確保の任に当たっていたが、攻勢に投入される事となったため3月22日朝、師団は回廊から撤退し第20装甲擲弾兵師団が交代で回廊確保に投入された。この部隊後退を探知したソヴィエト軍は南北から第8親衛軍・第5突撃軍が回廊を挟撃、この攻撃を支えきれずに師団は回廊より撃退されキュストリン要塞師団との連絡は切断されてしまった。
この危機に対してドイツ軍は同日夜半、第9降下猟兵師団とSS第502重戦車大隊がザクセンドルフを起点として、また24日までに2個師団が反撃を行ったがいずれも撃退された。ヒトラーは再度の攻撃を厳命し、27日早朝に攻撃が開始された。解囲の任についた軍団長デッカ-大将指揮下の第39装甲軍団、第20装甲擲弾兵師団、第25装甲擲弾兵師団、総統警護師団、装甲師団[ミュンへベルグ]の4個師団及びSS第502重戦車大隊が、ゴルガストを起点にキュストリンへの突破を図った。地雷とパックフロントに行く手を阻まれ前進は難航したが、それでも一部の部隊は包囲を突破し市街地までの進出に成功している。だが後続部隊の進出は阻止され包囲を免れるために撤退せざるを得なくなり、8千人もの損害を出しながら解囲は失敗した。
27日の解囲の失敗により外部からのキュストリン救出は不可能となった。最終的にキュストリン要塞師団の残余1600名は29日に市街地を放棄し独力での脱出を敢行、包囲線を突破し翌30日に友軍に収容された。(注3)キュストリンが放棄されたことでソヴィエト軍はベルリン前面において絶好の足場を手にすることが出来た。
キュストリン戦における第20装甲擲弾兵師団はキュストリン包囲のきっかけを作ってしまい、また解囲作戦にも失敗し無様な役に終始したと言えるだろう。
キュストリン戦の後、師団は第56装甲軍団に配属された。4月16日の攻勢開始の時点ではゼーロウ防衛線上に展開しソヴィエト軍の攻勢に抵抗、撃退に成功している。
4月17日早朝、攻勢は再開された。ゼーロウ市街地では[フォン・ヴァルテンブルグ]戦闘団が防衛拠点を築き防衛戦に当たっていたが、第4親衛狙撃兵軍団の猛攻に耐えられず市街地を放棄、残存部隊は防衛線に収容された。
ゼーロウ防衛線における戦いを第90装甲擲弾兵連隊に所属していたアフェルディーク軍曹はこう回想している。
「…4月17日の午前4時頃、我々の戦闘指揮所はグーゾフ鉄道駅戦区の中心部に近い場所に移動した。しばらくすると、ソ連軍の爆撃機が現れて、我々の後方に爆弾を投下し始めた。午前9時頃に再び現れた敵爆撃機が、今度は前線部隊の頭上へと爆撃を開始した。これによって第1大隊の無線指揮車は破壊され、第3大隊の無線指揮車の乗員も飛散した樹木の破片で重傷を負った。戦区の指揮官は、自身もまた負傷していたが、自ら指揮車を操縦して補給縦列のいる戦線後方へと避難した。
いまや連隊は完全な混乱状態に陥り、部隊間の連絡も取れないまま、我々は自走砲の援護射撃の下で三々五々と【シュタイン】線(注4)まで退却した。とはいえ、我々が到着して陣営を整えている間にも、ソ連軍の榴弾があらゆる方角から次々と飛来しており、歩兵と戦車がここに来襲するのも時間の問題と思われた。」
この日記が書かれた翌日の4月18日、ドイツ軍はゼーロウ高地帯より撤退、防衛線をミュンへベルグ前面へと移行した。
19日のミュンへベルグ陥落後、師団は西進を続け22日には他の部隊と共にオーベルシェーネヴァイデでシュプレー河の橋を渡りベルリン南方へ出た。
第18装甲擲弾兵師団の南を西へ進んだ師団は、23日に軍団に下された第9軍との連絡回復の命令を受けベルリン南西のダーレムで方向転換し、南西へ向け進んだ。南西へ進んだ師団はドライリンデンでテルトウ運河を渡り、南岸に橋頭堡を2箇所築いている。その後、軍団より市街地への撤収命令が出され、師団は橋頭堡を放棄し南東へ後退、ベルリン市街地へ入った。
23日夜半から24日にかけての再編成で、師団は市街地西方のE地区に配置され、この地区とテルトウ運河の橋(注5)の守備にあたった。27日には第18装甲擲弾兵師団と共に市街地西部の守備にあたり、徐々に押されながらも激しい防衛戦を繰り広げている。
5月2日のベルリン陥落にあたって師団はソヴィエト軍に降伏・武装解除された。しかし、降伏を拒んだ師団の一部は戦闘を継続し夜半の脱出に参加、第12軍と合流した後、エルベ河を渡りタンガ―ミュンデにおいてアメリカ軍に投降している。
第20装甲擲弾兵師団はキュストリンをめぐる戦いで醜態を演じたが、ベルリン攻防戦におけるゼーロウ高地の戦いではソヴィエト軍の攻撃に対し激しく抵抗し、圧倒的大軍を3日間にわたり拘束してキュストリンの恥を雪ぎ、装甲擲弾兵の意地を見せた。
注1 同師団所属の第5装甲大隊(旧第2107装甲大隊)は、装甲擲弾兵師団所属の大隊としては数少ないパンター装備大隊である―3月15日の時点における保有数32両(30両が可動)
注2 『ケーニヒス・ティーガー』を31両装備
注3 ライネフェルトSS兼警察中将は友軍に収容されて後、死守命令放棄の罪によりヒトラーの命で逮捕されている
注4 ゼーロウ高地帯における防衛線のひとつ
注5 この橋は第12軍方面への脱出路とされていた