第18装甲擲弾兵師団
第18装甲擲弾兵師団
18.Panzergrenadier Division
第18装甲擲弾兵師団は1943年6月23日に第18自動車化歩兵師団《18.Infanterie Division(mot)》を改称し編成された師団である。
元来、同師団は一個装甲大隊―第118装甲大隊、二個装甲擲弾兵連隊―第30および51装甲擲弾兵連隊を基幹とする平均的な編成の部隊であった。
師団は44年6月から45年3月の短い期間に2回、大損害を受けている。
ソヴィエト軍夏季攻勢、”バグラチオン”作戦が44年6月22日に開始された時点で、師団は第4軍の第ⅩⅡ軍団に配属されていた。師団は怒涛のようなソヴィエト軍の攻勢に巻き込まれ、大損害を受けた。
再編成の後、45年初頭のオストプロイセン戦に投入された師団は、ハイリゲンバイル~ローゼンベルグで包囲され、再び大損害を受けた。
包囲を切り抜け、僅かに師団に残された400から500名の将兵が3月18日にピラウからシュヴィーネミュンデへ輸送された。師団はシュヴィーネミュンデへの移動後、さらにエーベルスヴァルデへ移動しここで3月20日より損害補充・再編成に入っている。
編成―オストプロイセン時(注1)
・師団長 Dr.ハンス・ベーゼン少将(45年1月1日まで)
ヨーゼフ・ラウヒ少将(45年1月1日から)
・師団本部/第18装甲擲弾兵師団
第118装甲大隊(3個中隊―突撃砲装備)
第30装甲擲弾兵連隊(3個装甲擲弾兵大隊)
第51装甲擲弾兵連隊(3個装甲擲弾兵大隊)
第18装甲砲兵連隊(3個砲兵大隊(自動車化)/1個観測中隊(自動車化))
第18装甲猟兵大隊(4個装甲猟兵中隊―1個中隊のみ自走砲装備)
第118装甲捜索大隊(1個軽装甲車中隊/3個オートバイ中隊/1個重装備中隊)
第18装甲工兵大隊(3個工兵中隊(自動車化)/架橋段列)
第18装甲通信大隊(3個通信中隊)
軍直轄第284高射砲兵大隊(自動車化)(3個重高射砲中隊/1個軽高射砲中隊)
その他「第18」を冠する各種支援部隊
損害補充・再編成の際、45年3月21日に戦線後方に置かれていた装甲師団[ホルシュタイン]および装甲師団[シュレジェン]の一部を吸収している。これにより第118装甲大隊は装甲大隊[シュレジェン]他の兵力を吸収し、装甲連隊(第118装甲連隊)に拡大された。また、第18装甲猟兵大隊は装甲猟兵大隊[シュレジェン]を編入した。更に第30および51装甲擲弾兵連隊では大隊数が3個から2個に減少したが、一方で中隊数は増大されており、45年型編成装甲師団における装甲擲弾兵連隊に近い内容に改編されている。
このため第18装甲擲弾兵師団は、45年型編成装甲師団の主要な要件を満たす実質的な装甲師団として再編されたと言えるだろう。また、通常の番号付き装甲擲弾兵師団では唯一の編成内に装甲連隊を持つ師団であり、非常に特徴的な編成の師団である。
・編成―45年3月21日以降/再編成後
・師団長 ヨーゼフ・ラウヒ少将
・師団本部/第18装甲擲弾兵師団
第118装甲連隊(45年3月30日編成)
第Ⅰ大隊(旧装甲大隊[シュレジェン]―3個装甲中隊/1個駆逐戦車中隊)
第Ⅱ大隊(装甲擲弾兵大隊/装甲兵員輸送車装備)
第30装甲擲弾兵連隊(2個装甲擲弾兵大隊―各5個中隊および1個工兵中隊で編成?)
第51装甲擲弾兵連隊(2個装甲擲弾兵大隊―各5個中隊および1個工兵中隊で編成?)
第18装甲砲兵連隊
第Ⅰ/第Ⅱ砲兵大隊(自動車化)
第Ⅲ高射砲兵大隊(自動車化)
第18装甲猟兵大隊(3個装甲猟兵中隊(自走/自動車化)/1個高射砲中隊)
第118装甲捜索大隊(4個装甲捜索中隊―装輪/半装軌装甲偵察車装備)
第18装甲工兵大隊(2個工兵中隊(自動車化)/架橋段列)
第18装甲通信大隊(3個通信中隊)
その他「第18」を冠する各種支援部隊
再編成後における装備車両(推測を含む)
・第118装甲連隊/第Ⅰ大隊
Ⅳ号戦車 35両(注2)
Ⅳ号戦車(L70/V) 18両(注3)
・第18装甲猟兵大隊 駆逐戦車38(t)『ヘッツァー』 19両(注4)
戦線後方にてオストプロイセン戦での傷を癒し、再編成なった第18装甲擲団兵師団は4月14日、ヴァイクセル軍集団予備となり戦線後方に留め置かれた。4月16日、ソヴィエト軍のベルリンへの攻勢が開始された時点では待機状態にあったが、18日にゼーロウ高地の防衛線より後退し、ミュンへベルグ前面に防衛線を移行していた第56装甲軍団の指揮下に編入された。師団は第56装甲軍団の指揮の下、翌日まで繰り広げられたミュンへベルグ攻防戦を戦っている。ここでもドイツ軍は激しい抵抗を見せたが、結局19日夜半にミュンへベルグは陥落した。
師団は西方へ後退し22日にはオーベルシェーネヴァイデのシュプレー河の橋を渡りベルリン南方まで後退した。第20装甲擲弾兵師団の北翼を西へ進んだ師団はハーフェル湖の手前で北東へ転進、23日には南西方向よりベルリン市街地へ脱出する事に成功し、戦場を市街地へと移した。
師団はベルリン市街に入るまで激しい戦い振りを見せ、第118装甲連隊と第18装甲砲兵連隊は郊外で100両の戦車を1日で撃破している。
23日夜半から24日にかけての軍団の再編成で師団は予備兵力とされ、市街中央部に一旦置かれていたが、戦線の縮小と防衛戦力の消耗により逐次戦闘に投入されていった。
戦闘に投入された師団は25日から26日にかけてはシュマーゲンドルフ~シェーネベルグに展開、27日には第20装甲擲弾兵師団と共に市街西部の守備にあたり、29日にはSS第503重戦車大隊の支援を受け装甲師団[ミュンへベルグ]と共にヴェストクルイツからクルフュルステンダムのハーレンゼー駅の間に布陣した。この日、クルフュルステンダムにおいて師団はソヴィエト軍に対し反撃を行ったが、これは撃退されている。包囲下の他部隊同様、激戦を繰り広げソヴィエト軍に多大な損害を与えたものの多勢に無勢、戦線は押されもとより回復不能の損害は非常に大きなものとなったが、師団は戦闘を継続し5月2日を迎えた。
ベルリン市内で降伏する者もあったが、一部は降伏を拒否し戦闘を継続、同日夜半のベルリン脱出に参加した。軍人・民間人ともに多大な犠牲を出す脱出行であったが、参加した師団員の一部は包囲を突破し第12軍との合流に成功、エルベ河を渡りタンガ―ミュンデにおいてアメリカ軍に降伏している。
45年型編成装甲師団として編成、あるいは再編成された師団は数少なく、他では装甲師団[フェルトヘルンハレ第1]および[フェルトヘルンハレ第2]の例があるのみである。ベルリンにおける戦いのみでなく、その戦歴の最末期における特徴ある編成面においても記録に残る師団であろう。
注1 推測を含む
注2 9両は装甲大隊[ホルシュタイン]から、6両は装甲大隊[シュレジェン]から編入されたものである
注3 10両は装甲大隊[ホルシュタイン]から、8両は装甲大隊[シュレジェン]から編入されたものである。
注4 装甲猟兵大隊[シュレジェン]から編入されたものである