第56装甲軍団
第56装甲軍団
LⅥ.Panzerkorps
第56装甲軍団は1941年6月22日に発動された対ソヴィエト侵攻作戦”バルバロッサ”、その北部戦線において勇名を馳せた部隊である。名将、エーリヒ・フォン・マンシュタイン(注1)に率いられた第56装甲軍団(注2)は類稀な戦功を挙げた。オストプロイセンを発進した軍団はデュナブルグに向かい、渡河点を確保する任務を与えられていた。この任務達成のために隣接軍団との協調を無視、単独でデュナブルグまでの突破を図った。結果、4日で300Kmもの距離を走破、デュナブルグ大鉄橋を確保し北の都、レニングラードへの閂を開いた。
その4年後、軍団はベルリンへの最後の地形的要害となるゼーロウ高地に防衛線を展開し、ベルリンへの門の閂の任に就いていた。都市への門の閂を開いた同軍団が閂の任務を与えられたことは皮肉と言えるだろう。
*編成
・軍団長 ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将
・参謀長 テオドール・フォン・ドフヴィング大佐
・軍団司令部/第56装甲軍団
地図小隊(自動車化)/憲兵小隊(自動車化)/野戦郵便局(自動車化)
第125軍団砲兵司令部(注3)
第456軍団通信大隊
第456軍団機関銃大隊
第456軍団補給隊
・軍団配属師団
第9降下猟兵師団
第20装甲擲弾兵師団
装甲師団[ミュンへベルグ]
第18装甲擲弾兵師団(注4)
第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント](注5)
4月16日午前3時、オーデル河畔の橋頭堡に展開したソヴィエト軍砲兵の各種火砲。約4万門による砲撃が開始された。30分の砲撃の後、橋頭堡よりの前進を開始したソヴィエト軍、ジュ―コフ元帥指揮下の第1白ロシア方面軍―第3打撃軍・第5打撃軍・第8親衛軍―はベルリン前面最後の地形障害、ゼーロウ高地の突破を図った。
ぜーロウ高地に布陣する第56装甲軍団は、防御線に第9降下猟兵師団、第20装甲擲弾兵師団、装甲師団[ミュンへベルグ]を展開した。また高度が低い橋頭堡側からの観測を受けない高地上には第9軍直轄砲兵である第404、第406、第408国民砲兵軍団(注6)の16個砲兵大隊が配置されていた。前者は展開した防御線において激しく抵抗し、後者は高地上から猛烈な阻止砲撃を浴びせた。特に変形反対斜面砲撃となった国民砲兵軍団の阻止砲撃は効果的であり、砲兵の位置をつかめないソヴィエト軍は苦戦を強いられた。
この苦戦の原因はドイツ軍砲兵に対する過小評価にあった、とジュ―コフとチュイコフの両名は弁明している。だが第1白ロシア方面軍揮下の部隊指揮官には、砲兵制圧の機会はあったはずだと指摘している者もいる。第1親衛戦車軍隷下の第11戦車軍団長、バドシャニヤン大佐は以下のように問題点を指摘している。
「・・・4月5日に開かれた会議で、何人もの将軍がゼーロウ高地上に構築された敵の砲兵陣地について取り上げ、攻勢開始に先立つ空爆や砲撃はこの陣地線に集中すべきだとの意見が提出された。だが、残念ながら、これらの意見が顧みられることはなかったのである。」
陣地に布陣した各師団の奮戦と、高地上の各国民砲兵軍団からの猛砲撃の結果、この日の第1白ロシア方面軍の攻撃は大損害を出し、高地の麓で完全に阻止された。
予想外の激しい抵抗に焦ったジュ―コフは急遽、方面軍予備の第1および第2親衛戦車軍を投入した。しかし、行軍計画なしで場当たり的に大量の戦車を投入したため、両戦車軍の戦車部隊は前方に展開していた第8親衛軍の後方部隊の車両群と交錯、前線後方で大混乱を引き起こす醜態を演じている。この醜態も手伝い、圧倒的な兵力差のなか軍団はこの日、ゼーロウ防衛線の突破を許さなかった。
激戦が続く翌17日には、軍団揮下にSS第11装甲擲弾兵師団[ノルトラント]がヴァイクセル軍集団予備から配属され、阻止戦力の強化が図られている。防御線の大部分は依然として維持されていたが、この日、第9降下猟兵師団は防御線の確保に失敗し8kmの突破を許している。
4月18日、3日を費やし第1白ロシア方面軍は防御線を突破、ゼーロウ高地上に進出した。軍団はゼーロウ防衛線から撤退した後、ミュンへベルグ前面に新たな防衛線を展開、市街戦を繰り広げた。同日、軍団戦区に第18装甲擲弾兵師団がヴァイクセル軍集団予備から配属され、更なる戦力強化が図られている。
19日夜半にミュンへベルグが陥落した後はさらにベルリン方面、西方への後退をすすめた。
ベルリン~ミュンへベルグ間のアウトバーンには第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団が展開していた。ヒトラー・ユーゲント指導者、アルトゥ―ル・アクスマンはミュンへベルグ北西のヴァルトジーフェルスドルフの軍団司令部でヴァイトリング大将に会見し、この事実を報告している。ヴァイトリング大将は子供を犠牲にしようとしていると激怒し、部隊に後方への撤退を命令した。しかし、旅団の一部には命令伝達が間に合わず、アウトバーン上で戦車部隊と交戦している。
また、アクスマンと時を同じくして外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップが軍団司令部を訪問、ヴァイトリング大将と会見し軍団の状況についての説明を受けている。
ベルリンまでの後退の間、軍団は非常に苦しい状況に置かれた。カツコフ大将指揮下の第1親衛戦車軍からの攻撃を受け、度々包囲の危機に晒された。このときの状況をドフヴィング大佐は以下のように証言している。
「馬蹄型の作戦で物すごい圧力をかけ、わが軍に撤退を余儀なくさせた。つまり両側からわが軍を攻め、たびたびわが軍を包囲しようとした。」
度重なる空襲―ドフヴィング大佐は4時間で30回も物陰に隠れやり過ごさなければならなかったーにより司令部を半日で2回も転換させられたため、他の部隊との連絡は困難を極めた。結局、第9軍司令部との連絡は失われ、ベルリンとの連絡も20日午後8時以降、一時不能となっている。他の部隊との連絡を失った結果、軍団の位置は見失われた。そのため軍団は故意に戦闘を放棄しベルリンの西、デーベリッツのオリンピック村まで撤退したとの噂が広まっていった。この噂について、ヴァイクセル軍集団司令官ハインリキ上級大将は次のような通信記録を日記に残している。
「4月21日、午前0時30分、ブッセからハインリキあて。第56装甲軍団が昨夜、特別な命令なしに、ホッペガルテンからオリンピック村に入ったという情報あり、逮捕を要請する・・・。」
もちろんこの時、軍団はベルリンの東で戦闘を続けていたが、この噂を耳にしたヒトラーはヴァイトリング大将の即時逮捕・処刑を命令した。
この4月20日の状況をヴァイトリング大将は次のように回顧している。
「・・・4月20日は私の軍団、いやたぶんすべてのドイツ軍部隊にとって、最も苦しい日だった。われわれはそれ以前の戦闘で、莫大な損害を被っており、疲れきっていた。もはや優勢なロシア軍の巨大な攻撃を支えきれなかった。」
4月21日、軍団司令部は第309[ベルリン]歩兵師団の前師団長フォークトベルガ―中将を、第9軍との連絡のため派遣した。23日に軍団へ戻ったフォークトベルガ―中将は、ヴァイトリング大将に逮捕・処刑の命令が出されていることを報告している。この報告により、ヴァイトリング大将は自身に逮捕・処刑の命令が出されていることを知った。
4月22日、ヴァイトリング大将はビースドルフの養老院に設置した軍団司令部でベルリン南方を通過し第9軍に合流する旨を各指揮官に伝達した。この日、軍団主力はベルリンの南東・オーベルシェーネヴァイデでシュプレー河の西岸へ渡り (注7)ベルリンの南方に展開、 軍団司令部は市街地外殻の南、ルドウに移動した。
23日には公衆電話により総統地下壕との連絡回復に成功、地下壕から無線を転送する事で第9軍司令部との連絡も回復された。第9軍司令部から、軍団は市の南方24Kmのケーニヒスヴュステルハウゼン~クライン・キーニッツ地区に展開している第9軍主力との接触を回復するため、南方へ向けての攻撃を命じられた。南方の第9軍主力へ向けての攻撃を実施している間、ヴァイトリング大将は総統地下壕に出頭し軍団に関する噂の収拾に奔走、参謀総長代行クレーブス大将と面談し逮捕・処刑の撤回を手にする。面談の後、ヴァイトリング大将はベルリン東方へ軍団は投入されるだろうとの見込みを軍団司令部に伝えるため、付き添いのクナッペ少佐に電話で連絡を取らせた。この電話で軍団司令官を解任され(注8)予備役に編入されるという彼宛ての陸軍人事局からの電報が届いていることを伝えられた。彼はあまりの仕打ちだと激怒している。怒る彼をクレープス大将はなんとか宥め、ヒトラーも電報の内容を取り消すことを明言した。
この日の午後、ヒトラーは軍団に対してベルリン東・南東地区の防衛を命令する。この命令により軍団は南方への攻撃を停止し市街地へ撤収した。このため第9軍の北翼を支える兵力は失われ、第9軍が包囲に陥るのは確定的となった。
夜にはベルリン市街地へ撤退したものの、これまでの戦闘で軍団は多くの兵力と装備を失っていた(注9)。また市内にはまともな防御施設はなく、展開しているベルリン防衛隊の装備も貧弱で士気も低調を極めた。このような状況下、23日夜半から24日にかけて軍団は再編成に着手した。24日0時頃、ヴァイトリング大将はベルリン要塞司令官に任命された。この3月間で5人目、または2日間で3人目の司令官任命である。この任命を受けた彼は「銃殺された方がまだましだ!」と吐き捨てたという。
25日、ベルリンの西でソヴィエト軍は手を結び、市街地は包囲下に陥った。軍団は司令部をホーエンツォレルンダムに置き、市街地の北方に第9降下猟兵師団、東方に装甲師団[ミュンへベルグ]、南東にSS第11装甲擲弾兵師団[ノルトラント]、西方に第20装甲擲弾兵師団をそれぞれ配置、第18装甲擲弾兵師団は中央に予備として置かれた。これらの部隊はベルリン防衛隊の国民突撃隊、ヒトラー・ユーゲント、帝国労働奉仕団《RAD》、ナチス党員部隊、消防隊、警察部隊といった雑多な部隊と協同し市街のブロック毎、建物毎に頑強に抵抗した。ソヴィエト軍は7個軍、45万もの兵力を市街戦に投入し数的に圧倒的に優勢であるが、かえって身動きが取れなくなり大きな犠牲を出してしまった。それでも圧倒的な兵力と火力の差を生かした平押しゴリ押し、しらみつぶしの掃討戦をすすめ、徐々に防衛隊は圧倒され市街中心部へ戦線は縮小されていく。この日の夜、総統地下壕での会議においてヴァイトリング大将は「ベルリン防衛は不可能事」と不満をぶちまけている。
4月26日午前2時30分にカイテル元帥は総統地下壕よりデー二ッツ海軍大将へ兵力のベルリンへの派遣を命令、午前3時に中央軍集団司令官シェルナー元帥に北方への攻撃を命令している。この一連の命令はベルリンの開放は近いとの噂を呼び、ヴァイトリング大将も日記に「希望の夜明け」と書き込んでいる。しかし、その希望はすぐに萎む程度のものであったが・・・。
4月27日、軍団司令部は砲撃を受けたため、ベンドラーブロックへ移動した。この日、ガトウとテンペルホーフの両空港が陥落、空輸可能な飛行場はティーアガルテンの予備飛行場のみとなった。
夜半の総統地下壕における会議で、ヴァイトリング大将はヒトラーに絶望的状況を認識させようと躍起になっていた。会議の合間、ヴァイトリング大将は参謀総長代行クレーブス中将と会談している。そこで48時間以内の脱出とその際の外部との連携を主張した。クレーブス中将はこの主張に同意し、翌晩の会議において脱出計画の詳細説明をする事を約束した。
この日、東進中の第12軍よりヴァイトリング大将宛てに電文が発信されている。
「第12軍の反攻はポツダムの南で停滞せり。目下激しく防戦中。脱出計画につき連絡を請う。ヴェンク」
この電文への応答が発信される事はなかった。
26日から27日にかけての戦いで食糧倉庫を奪われ、軍需物資の不足が決定的となった。
4月28日、シャルロッテンブルグ、ミッテ、フリードリヒスハインの各区で戦闘が続いていた。包囲は狭められていたが、シュパンダウへの細い道が脱出路としてヒトラー・ユーゲント部隊が確保していた。シュパンダウのハーフェル湖に架けられた橋は、西方への脱出路としてドイツ側に有る最後の橋であった。補給は絶望的であったが、この日はティーアガルテンの予備飛行場(注10)に6トンの物資と16発のロケット弾が空輸されている(注11)
この日の午前中、ヴァイトリング大将は防衛隊を3つに分割し、残存の約40両の戦車・突撃砲の支援を受け2方向よりシュパンダウの南、ハーフェル湖に架かる橋より脱出する計画を練っていた。彼は夜の会議において脱出計画の承認が得られるという見通しの下、夜半に総統地下壕に集合するよう、指揮下の全部隊指揮官に命じている。
同日22時の会議において、ヴァイトリング大将は脱出を主張、クレーブス大将も同意している。この主張に対しゲッベルスは冷笑し、ヒトラーは拒否した。かくして、防衛戦の続行が決定された。
ヴァイトリング大将は24時に会議室を退出し、集めていた指揮官達に交渉失敗を告げ、再度の説得を約束している。
4月29日、市街戦は最終段階へと入った。官庁街では第266歩兵師団隷下の第1008及び第1010歩兵連隊が市庁舎を攻撃、外壁を爆破して内部へ侵入し市庁舎を占拠した。夜半22時に始まった会議では、徹底抗戦を叫ぶゲッベルスと脱出を主張するヴァイトリング大将との間で、激しい口論がなされている。この会議中、ヴァイトリング大将はもはや24時間しか守りきれないと述べ、脱出の許可を再度求めた。この主張に対してヒトラーは少人数に分かれて、という条件付で脱出に同意した。ヴァイトリング大将はベルリンよりの脱出を命令すべく、指揮下の全指揮官に30日の朝に軍団司令部に集合するよう命令した。
4月30日、ヒトラーは地下壕内で拳銃自殺を遂げた。 午後、ヴァイトリング大将はクレーブス大将より、総統地下壕への出頭命令を受け取った。この命令は同時にベルリンよりの脱出を禁止しており、これに彼はひどく腹を立てながらも出頭した。総統地下壕でヒトラーの死を知らされたヴァイトリング大将は無条件降伏を主張、停戦交渉を求めるゲッベルスと対立している。
同日夜半、ゲッベルスは停戦交渉の提案と特使派遣をソヴィエト軍宛てに発信した。ソヴィエト側はこれに同意し、特使受け入れを回答した。軍団参謀長ドフヴィング大佐は特使として派遣されるクレーブス大将に同行、5月1日未明の第8親衛軍司令官チュイコフ大将との停戦交渉に臨んだ。ここでソヴィエト側は無条件降伏を要求したため、会談の内容に疑いを持ったゲッベルスは疑心暗鬼に陥り、交渉の破棄をしたためた手紙を軍使に託した。
「クレーブスの取り決めた協定は一切無効であり、ドイツは最後の一兵まで戦い抜く。」
午後6時半には第1白ロシア方面軍の全戦線で砲撃が開始され、再び市街戦が戦われた。
同夜9時半頃、ゲッベルスは自殺した。彼の死により最高責任者となったヴァイトリング大将の取り得る選択肢は降伏の他にはなかった。
5月2日1時頃、ソヴィエト軍宛てに12時50分に軍使をポツダム橋へ派遣する旨の電文を発信、回答を得た。5月2日12時50分、ドフヴィング大佐はポツダム橋へ到着、チュイコフ大将の司令部へ案内されそこで降伏を申し出た。続いて司令部へ案内されたヴァイトリング大将はそこで指揮下全部隊への降伏命令書を起草、同内容を録音し市街地へ放送した。
「1945年4月30日、総統は自殺を遂げ、彼に忠誠を誓った全ての者は、今やその誓いから開放された。
ドイツ将兵諸君は、総統の命令を忠実に守り、弾薬尽き果てて、これ以上の抵抗は無意味とすら思える状況の中で、なおも勇敢な戦いを続けてきた。
私はここに、全ての抵抗を即時放棄することを命令する。」
この日の15時までに防衛隊の生き残り7万人が武器を置き、軍門に下るのを潔しとしない者は同日夜半の市街からの脱出戦に参加、多くは倒れ捕らえられたものの一部は包囲を突破し第12軍との合流に成功、エルベ河を渡りアメリカ軍に投降した。
注1 この当時の階級は中将
注2 この当時における軍団の名称は第56軍団(自動車化)《LⅥ.Armeekorps(mot)》。装甲軍団の名称は42年3月から
注3 ゼーロウ戦区の第9軍直轄砲兵を統括指揮したものと思われる
注4 4月18日、ヴァイクセル軍集団予備より配属
注5 4月17日、ヴァイクセル軍集団予備より配属
注6 第408国民砲兵軍団には第Ⅱ大隊/空軍第36高射砲連隊を編入されている
注7 第9降下猟兵師団のみシュプレー河を渡らず東岸から市街地北方へ出ている
注8 後任司令官は第25装甲擲弾兵師団長ブルマイスター中将
注9 ベルリン市街地へ撤収した軍団の残存兵力・約15000名
注10 ソヴィエト砲兵の射程内にあり、砲撃を受けていた
注11 この空輸はヴァイトリング大将の証言では29日とされている