ヒトラー・ユーゲント・第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団
ヒトラー・ユーゲント
Hitlerjugent
第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団
1. Hitlerjugent Panzer-Vernichtungs-Brigade
戦争末期、ヒトラー・ユーゲントも絶望的な戦力不足の穴を埋めるため戦場に駆り出されている。彼らは国民突撃隊の第3次召集の対象として国民突撃大隊に編入され、あるいはヒトラー・ユーゲント独自の部隊を編成し戦場へ赴いた。
彼らは伝令・運搬等の後方での支援任務だけでなく、前線での戦闘にも投入された。彼らの多くは敏捷さを買われて対戦車班に編入され、パンツァーシュレック・パンツァーファウスト・吸着地雷などを用いての戦車狩りにあたっている。
ベルリン戦の渦中に置かれたヒトラー・ユーゲント部隊で最も大規模であったのは、第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団《1. Hitlerjugent Panzer-Vernichtungs-Brigade》であろう。
4月19日夜半、ミュンへベルグが陥落したことで同地の防衛線は放棄された。第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団はミュンへベルグを経由してベルリンへの突破を図るであろうソヴィエト軍、第1白ロシア方面軍の先鋒を阻止するため、ベルリン~ミュンへベルグ間のアウトバーンの両脇に陣取った。第1ヒトラー・ユーゲント戦車撃滅旅団が展開したことを知った第56装甲軍団長のヴァイトリング大将は、年端も行かない少年達を戦闘に巻き込むことを嫌い彼らに対して撤退を命令した。彼らの大部分は陣地から撤退したものの一部は命令伝達が間に合わず、アウトバーンを進んできたソヴィエト軍戦車部隊と交戦、多くの死傷者を出している。
ヴィリー・フェルトハイムは所属していた中隊に撤退命令が届かなかったため、ソヴィエト軍と戦った。彼と中隊の130名の少年達は激しい攻撃に追い散らされ潰走した。混乱した状況のなか、彼は仲間と共になんとか敵軍の突破を阻止しようとしたが、恐怖と疲労のあまり戦闘の合間に眠り込んでしまった。
目覚めた時、彼は仲間の多くが戦死したことを知った。
「ライフル銃と対戦車砲が側に散らばって、一枚の薄気味悪い絵のようだった。それは狂気じみていた。そして、われわれは自分たちがひとりぼっちなのに気付いた。」
少年達の殆どがその陣地内で戦死していた。
市街戦の末期、市街地から西方への脱出口となるシュパンダウを確保すべく、同地の防衛隊は力を尽くした。その中には複数のヒトラー・ユーゲント部隊もあったとされる。