SS第503重戦車大隊
SS第503重戦車大隊
Schwere SS Panzer Abteilung 503
SS第503重戦車大隊は43年7月1日に編成された第Ⅱ大隊/SS第11装甲連隊を改編し、第3SS装甲軍団([ゲルマン])の直属重戦車大隊として編成された部隊である。
第Ⅱ大隊/SS第11装甲連隊は編成の後、第3SS装甲軍団([ゲルマン])に装甲部隊編成(本部)要員として従属した。その後、大隊は43年11月11日にSS第103重戦車大隊《Schwere SS Panzer Abteilung 103》への再編成の命令を受けた。
重戦車大隊として再編成されたものの、大隊が受領した戦車は訓練用の旧式車両が中心で肝腎の重戦車、『ティーガー』の配備は遅々として進まなかった。また、受領した『ティーガー』も第3SS装甲師団[トーテンコープフ]《3.SS Panzer Division [Totenkopf]》及び第301重戦車大隊(無線操縦)へ引き渡されたため、大隊は『ティーガー』で完全編成されることはなかった。
『ティーガー』の数が揃わないため、大隊は事実上訓練部隊でしかなかった。そのためSS第103重戦車大隊時代の大隊は実戦経験を殆ど持たず、第1中隊が『ティーガー』10両を装備し44年8月15日よりSS装甲旅団[グロス]《SS Panzer Brigade [Gross]》の指揮下に編入され、東部戦線北部の戦闘に投入された事が唯一のものである。
44年8月22日に大隊にあった『ティーガー』10両は全て第301重戦車大隊(無線操縦)引き渡された。この日以降、装備車両は『ケーニヒス・ティーガー』へ変更され10月19日には大隊へ最初の『ケーニヒス・ティーガー』が送られてきた。 『ケーニヒス・ティーガー』の装備が進む11月14日、大隊はSS第503重戦車大隊《Schwere SS Panzer Abteilung 503》と改称された。この改称は軍団直属重戦車大隊から軍直属重戦車大隊へ部隊の性格が変えられた事を意味している。
大隊の編成は進められ10月19日以降、12月27日・6両(注1)、45年1月11日・6両、1月12日・3両、1月16日・3両、1月18日・4両、1月25日・13両と『ケーニヒス・ティーガー』を受領、装備数は39両となり大隊の編成はほぼ完了した。同日かあるいは1月27日に大隊は貨車積載され東部戦線へと送られた。
東部戦線へと送られた大隊は2群に分割された。大隊長直卒の第1群はポンメルンのアルンスヴァルデに向かい、”ゾンネンヴェンデ”作戦に参加した後、ダンツィヒ地区で戦い3月26日までに全車両を喪失した。後に残余の将兵は海路でポンメルンを脱出、本国へ帰還した。
もう一方の残存車両から成る第2群はランズベルグ~キュストリン地区へ送られ、同地での戦闘に加わっている。彼らはこの後、配属された第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]の指揮の下、ベルリンを巡る戦いに加わることとなる。
編成―1月25日現在
・大隊長 フリッツ・ヘルツィヒSS少佐
大隊本部/SS第503重戦車大隊―本部中隊(偵察小隊/対空小隊を含む)
第1中隊(中隊本部/3個小隊)
第2中隊(中隊本部/3個小隊)
第3中隊(中隊本部/3個小隊)
整備中隊(回収小隊含む)
ソヴィエト軍の攻勢が開始された4月16日、大隊第2群の12両の『ケーニヒス・ティーガー』は第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]と共に戦線後方にあった。同日、大隊にシュトラスベルグの北側への移動命令が出され、大隊はアンゲルミュンデ~エーベルスヴァルデを経由しシュトラスベルグへ向かっている。
18日、この日はグルノウから突破した戦車部隊を撃退、64両の戦車を破壊した。一方、大隊は『ケーニヒス・ティーガー』を1両の喪失した。
19日、整備中隊は戦線を突破したソヴィエト軍と交戦、壊滅した。大隊の『ケーニヒス・ティーガー』は単独、或いは数両に分かれて防御戦を戦った。戦闘は激しかったが戦果もまた大きく、ケールナーSS上級曹長はこの日、39両―通算76両―を撃破している。大隊は『ケーニヒス・ティーガー』1両を再び失い、日没後にシュトラスベルグへ後退した。
20日、この日はシュトラウスベルグ付近で数両の戦車を撃破した。大隊は遅滞防御を行いつつ後退、アルトランズベルグへ向かっている。
21日、大隊はビースドルフを経由するベルリンへの後退路を進む。
22日、ケーペンニッケからオーベルシェーネヴァイデへ進む。オーベルシェーネヴァイデでシュプレー河の橋を渡った後、ゾンネンアレーで橋の守備に就く第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]の支援にあたる。その後、大隊はベルリン市街地のノイケルンへ入った。
23日、『ケーニヒス・ティーガー』1両を喪失、大隊の残存は9両。
24日、大隊は残存する『ケーニヒス・ティーガー』を市街各地へ分散配置した。
25日、大隊の『ケーニヒス・ティーガー』1両が突撃大隊[シャルルマーニュ]のハーセンハイデからの反撃を支援している。この日、『ケーニヒス・ティーガー』1両がノイケルン郵便局付近で失われ、残存数は8両となった。
26日、大隊の『ケーニヒス・ティーガー』2両が第Ⅰ大隊/第11SS装甲連隊及び突撃大隊[シャルルマーニュ]の2個中隊のノイケルン区役所からの逆襲を支援、ベルリナーシュトラッセを南へ向かった。2両は弾薬を撃ち尽くした後、ヘルマンプラッツへ後退した。
27日、『ケーニヒス・ティーガー』1両をコマンダンテューアシュトラッセに配置、ベレアリアンプラッツへ向けて援護の体勢をとる。また、『ケーニヒス・ティーガー』2両がクルフュルステンシュトラッセ~ハーレンゼー駅周辺に展開、この2両はここで戦車2両を撃破した。
28日、大隊の『ケーニヒス・ティーガー』はルイセンシュタット教会でなされた火炎放射器を伴う攻撃を撃退した。また、『ケーニヒス・ティーガー』1両が突撃大隊[シャルルマーニュ]による逆襲の支援にあたった。
29日、この日、大隊のシェ―ファーSS少尉、ブロマンSS少尉、ケールナーSS上級曹長がモンケSS少将より騎士十字章を授与されている。
『ケーニヒス・ティーガー』2両がアーヴス~クルフュルステンダムの通りを封鎖。他の車両はティーアガルテンに一旦集結、ここから2両がハーレンゼー駅に向かい、他の2両がポツダマープラッツに展開、ここでJSU-122を1両、T-34数両を撃破した。
30日、ハーレンゼー駅に展開していた『ケーニヒス・ティーガー』が戦車1両を撃破。この日、ポツダマープラッツにあった『ケーニヒス・ティーガー』2両のうち、1両が帝国議事堂へ向かった。議事堂への火力支援にあたっていた戦車部隊を同車は攻撃、約30両のT-34を撃破した。ポツダマープラッツに残った『ケーニヒス・ティーガー』1両は分離後に攻撃を受けていた。撃退したものの履帯を損傷、行動不能となった。その後、装甲回収小隊に残されていた最後のベルゲパンターに牽引されポツダマープラッツの地下鉄駅入り口へ移動、ここで放棄された。大隊の残存車両、7両。
5月1日、ハーレンゼー駅で戦車5両を撃破。また、『ケーニヒス・ティーガー』1両がコロル・オペラ劇場への反撃に加わっている。この日、ゲッベルスよりの命令が大隊へと出された。
「フリードリヒ駅に集結、ヴァイデンダンマー橋を通りオラニエンブルグ方面へ突破せよ。シュタイナー作戦集団と連携し、爾後、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインへ進撃。カナダ軍と連携し、東方への攻撃に出るべし!」
大隊は2100時、ヴァイデンダンマー橋前面のフリードリヒシュトラッセで戦車4両を撃破。ここで大隊は放棄されていたパンターを回収している。
注1 元々はSS第502重戦車大隊用の車両である




