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死之都 ―Necropolis― Berlin 1945  作者: [蒼色伽藍]
武装親衛隊 Waffen-SS
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13/19

第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]

第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント] 

11.SS Freiwilligen Panzergrenadier Division [Nordland]


 第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]《11.SS Freiwilligen Panzergrenadier Division [Nordland]》は、編成母体である第5SS装甲師団[ヴィーキング]《5.SS Panzer Division [Wiking])と並ぶ外国人SS師団の双璧である。

 第5SS装甲師団[ヴィーキング] (注1)に所属のフィンランド人義勇兵を中心に編成されたSS装甲擲弾兵連隊[ノルトラント]《SS Panzergrenadier Regiment [Nordland]》、および隷下の2個独立義勇軍団、ノルウェー人義勇兵による義勇兵団[ノルヴェーゲン]《Freiwilligen Legion “Norwegen》、デンマーク人義勇兵からなる義勇軍団[ダンマルク”]《Freikorps “Danmark》を中心に師団は編成された。43年10月22日に「第11」の番号が付与され、第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]と正式に命名された。

 編成後は第3SS装甲軍団([ゲルマン]) (Ⅲ.SSPanzer Korps(Germanisches))に配属され、東部戦線の北部、レニングラード西方へ投入された。

 

 師団編成の際、オランダ人義勇兵で編成されたSS義勇兵団[ネーデルラント]《Freiwilligen Legion [Niederlande]》も編成内に組み込まれる予定であったが、オランダ人義勇兵は師団名と師団エンブレムの北欧色を嫌い、オランダ人独自の部隊の編成を求めた。この求めは受け入れられ、オランダ人義勇兵は第4SS義勇装甲擲弾兵旅団[ネーデルラント]《4.SS Freiwilligen Panzergrenadier Brigade [Nederland]》(注2)を別に編成することとなった。


 第Ⅰ大隊/第23SS義勇装甲擲弾兵連隊[ノルゲ]及び第Ⅰ大隊/第24SS義勇装甲擲弾兵連隊[ダンマルク]は、44年1月のナルヴァ戦線におけるオラニエンバウム包囲戦で大損害を被った。両大隊共に残存兵力を第Ⅱおよび第Ⅲ大隊へ移し、3月に両大隊の基幹要員は本国へ後送された。

 44年6月30日現在の兵力は、第Ⅰ大隊/第23SS義勇装甲擲弾兵連隊[ノルゲ]は369名、第Ⅰ大隊/第24SS義勇装甲擲弾兵連隊[ダンマルク]は380名と考えられる。

 両大隊は9月、ハンマーシュタインにおいてグラーツ・ヴェッツェルスドルフから同地へ移動してきた第11SS義勇装甲擲弾兵補充・教育大隊からの補充を受け再編成された。この再編成の際、第Ⅰ大隊/第23SS義勇装甲擲弾兵連隊[ノルゲ]には半装軌装甲兵員輸送車が配属されている。再編成後は両大隊共、44年11月26日に第5SS装甲師団[ヴィーキング]に配属され、終戦まで同師団の下で戦うこととなった。


 ポンメルン戦のさなかの45年2月、第11SS装甲連隊[ノルトラント]が編成され、第11SS装甲大隊[ヘルマン・フォン・ザルツァ]は同連隊の第Ⅰ大隊となった。しかし、第Ⅱ大隊は編成されず、師団の装甲兵力は以前1個大隊のままであった。


編成―ベルリン戦時(注3)


・師団長 ヨアヒム・ツィーグラーSS少将(4月25日まで)

     Dr.グスタフ・クルケンベルグSS少将(4月25日から)


師団本部/第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]

 第11SS装甲連隊[ノルトラント]

  第Ⅰ大隊(4個装甲中隊)

 第23SS義勇装甲擲弾兵連隊[ノルゲ]

  第Ⅱ/第Ⅲ装甲擲弾兵大隊

  第13歩兵砲中隊/第14高射砲中隊/第16工兵中隊

 第24SS義勇装甲擲弾兵連隊[ダンマルク]

  第Ⅱ/第Ⅲ装甲擲弾兵大隊

  第13歩兵砲中隊/第14高射砲中隊/第15中隊?/第16工兵中隊

 第11SS砲兵連隊(自動車化)

  第Ⅰ/第Ⅱ砲兵大隊(自動車化)(3個砲兵中隊―105mm軽榴弾砲装備)

  第Ⅲ砲兵大隊(自動車化)(3個砲兵中隊―150mm重榴弾砲装備)

 第11SS装甲猟兵(突撃砲)大隊(3個突撃砲中隊/1個装甲猟兵中隊(自動車化))

 第11SS装甲捜索大隊

  第1捜索中隊(装輪装甲偵察車装備)

  第2捜索中隊(半装軌装甲偵察車装備)

  第3/第4捜索中隊(半装軌装甲兵員輸送車装備)

  第5重装備中隊(装甲猟兵小隊/歩兵砲小隊/装甲工兵小隊/『シュトゥンメル』小隊)

 第11SS高射砲大隊(自動車化)(3個重高射砲中隊/1個高射砲中隊)

 第11SS工兵大隊(自動車化)( 3個工兵中隊(自動車化)/1個装甲兵員輸送車装備小隊)

 第11SS通信大隊(自動車化)

 その他「第11」を冠するSS所属各種支援部隊


・師団付属部隊(ベルリン戦時)

SS第503重戦車大隊(『ケーニヒス・ティーガー』装備)

突撃大隊[シャルルマーニュ](4月25日より)

[エスケッラ]大隊

海軍歩兵部隊(名称不詳)(4月26日より)


45年4月7日の時点における第11SS装甲連隊の装備車両

 Ⅲ号突撃砲 26両                    

 Ⅳ号戦車(L70)  10両


 第11SS義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]は4月16日当時、ヴァイクセル軍集団予備として第3装甲軍の戦線後方、オーデル河西岸のシュベト戦区にあった。師団は17日、第56装甲軍団に配属されゼーロウ高地防衛線の突破を図る第1白ロシア方面軍との交戦に入った。

 18日にゼーロウ高地防衛線は放棄され、ミュンへベルグ前面に防衛線は再構築された。師団は第56装甲軍団の他の師団と共にミュンへベルグで市街戦を戦い、19日夜半に市街地が陥落した後は軍団の殿に立ち南西への後退を進めた。

 軍団最後尾についた師団は両翼から包囲される度に突破し、20日・シュトラスベルグ、21日・アルトランズベルグ、22日・カールスホルストと防衛線を張りつつ後退を進めた。同日、師団はオーベルシェーネヴァイデに架かるシュプレー河の橋の守備につき軍団の渡河を支援、自らも橋を渡りベルリン南方へ出た。シュプレー河を渡った後、師団は軍団の最東翼を北西に進みノイケルンを経由し23日夜、ベルリン市街地へ入った。

 24日までの再編成で師団は市街地の南東のノイケルン、C地区に配置された。

翌25日、師団は西隣のD地区、テンペルホーフ~ステグリッツに展開する装甲師団[ミュンへベルグ]とともにノイケルン~テンペルホーフ空港を攻撃中のソヴィエト軍に対する反撃の命令を受けたとされている。

 またこの日にはヨアヒム・ツィーグラーSS少将に代わって、Drグスタフ・クルケンベルグSS少将(注4)が就任した。師団長であったツィーグラーSS少将は交代後、第3SS装甲軍団([ゲルマン])軍団長となったとされるが、べルリンは既に包囲下にあり軍団と合流すことは無かったであろう。彼はその後、4月28日に柏葉騎士十字章を授与された。

 クルケンベルグSS少将は赴任の際、突撃大隊[シャルルマーニュ]を随行して来ており、この大隊は師団戦力―残余1500名―に組み込まれた。翌26日まで、師団はノイケルン~ゲルリッツ駅間に展開した。

 26日、この日、師団本部はウンター・デン・リンデンのオペラ・ハウスに置かれた。

 朝、装甲師団[ミュンへベルグ]の一部は残された10両の戦車と共にテンペルホーフ空港へ北西から進入、南方への攻撃をかけた。師団もおそらくSS第503重戦車大隊と共に、同時に攻撃を仕掛けている。しかし、強力な防御砲火により空港の半ばで攻撃は阻止された。空港は最終的に翌27日に失われた。

 夕刻、ガトウ空港に小規模な海軍地上部隊が飛来し、師団の指揮下に編入された。ドイツ軍がガトウ空港を利用したのはこれが最後であった。翌27日、ガトウ空港はテンペルホーフ空港と同様に失われた。

 27日には戦線は市街中心部へ移り、師団所属の2個装甲擲弾兵連隊の残余はヒトラー・ユーゲントや国民突撃隊などと共にアンハルター駅~コトブスプラッツ~ゲンダーメンマーケットの防衛線に展開した。連日の戦闘で消耗し、ヒトラー・ユーゲントや国民突撃隊を合わせても兵力は600名程度までに減少していたが、なおも絶望的な防衛線を継続した。

 4月28日にはソヴィエト軍は帝国議事堂へと到達し、この日の朝、第150狙撃師団が議事堂内へ突入した。この攻撃に対し、師団の外国人義勇兵を中心として編成された守備隊は部屋ごとに陣取り激しい抵抗をみせた。そのため、ソヴィエト軍はケーニヒスプラッツよりの野砲の直接照準射撃を行い、突入部隊を援護しなければならなかった。

 5月1日、破壊され血で汚れた議事堂の周囲は地獄の様相を呈していた。この日の早朝、第150狙撃師団の第1大隊/第380狙撃連隊の指揮官であるネストローイェフ大尉は守備隊の防衛戦を突破、屋上に赤旗を掲げることに成功した。この日のうちに議事堂の地上階はほぼ制圧されたが、生き残った守備隊は部屋割りが複雑な地下に潜り、抵抗を続けた。

 ハーレンゼー駅付近の防衛線に展開した兵力はもはや一握りのものとなっていた。依然として可動状態にあったSS第503重戦車大隊の『ケーニヒス・ティーガー』5両、第1大隊/第11SS装甲連隊の4号戦車(注5)及び突撃砲6両の支援を受け、5月1日も戦闘を続けていた。

 5月2日、ベルリン要塞司令官ヴァイトリング大将が防衛隊にソヴィエト軍への降伏を命令した。

 午後1時30分、議事堂地下に立て篭もっていた守備隊の残存兵力約1500名は鉾を収め、地上のソヴィエト軍に投降した。

 師団の一部はこの日の深夜、装甲師団[ミュンへベルグ]の残余等と共に、ベルリンからの脱出を試みた。深夜、SS第503重戦車大隊に残されていた『ケーニヒス・ティーガー』に支援され、脱出が試みられた。この脱出行では多くの生き残りが倒れ、捕らえられたが、それでも少数の義勇兵が突破に成功しエルベ河に辿り着くことができた。


注1 当時はSS師団(自動車化) [ヴィーキング]《SS Division(Mot) [Wiking]》

注2 後の第23SS義勇装甲擲弾兵師団[ネーデルラント]《23.SS Freiwilligen Panzergrenadier Division [Nederland]》

注3 推測を含む

注4 第33SS所属武装擲弾兵師団[シャルルマーニュ](フランス第1) (33. Waffen Grenadier Division der SS [Charlemagne](Franzoesische Nr.1))の師団長よる転属

注5 市内の修理工廠から入手したものかどうか不明


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