第9降下猟兵師団
第9降下猟兵師団
9.Fallschirm Jaeger Division
第9降下猟兵師団《9.Fallschirm Jaeger Division》の編成は44年9月24日に発令されたが、この編成命令は10月25日に一旦撤回された。このため、師団編成の命令により編成されていた第9降下通信大隊は45年1月2日、陸軍第85歩兵師団に編入された。
45年1月に改めて編成命令が出され、45年2月にシュテッティン南部地区で師団は編成された。
第9降下猟兵師団であるが、未編成ないしは編成地の周囲に存在していた降下猟兵部隊を陸軍・武装親衛隊等所属を問わず片端からかき集めて編成されており、寄せ集め部隊という印象が強い。
しかし、第25降下猟兵連隊には陸軍降下猟兵大隊[ブランデンブルグ]《Fallschirm Jaeger Bataillon [Brandenbrug]》、SS猟兵部隊[ミッテ]《SS-Jagdverband Mitte)という精鋭が編入されており、一概に「寄せ集め=弱体」とは言い切れない。
編成
・師団長 ブルーノ・ブラウアー大将(4月18日まで)
ハリー・ヘルマン大佐(4月19日から5月2日まで)
・師団本部/第9降下猟兵師団
第25降下猟兵連隊
第Ⅰ大隊(旧第Ⅲ大隊/特別編成降下猟兵連隊・旧SS猟兵部隊[ミッテ]―4個降下猟兵中隊)
第Ⅱ大隊(旧降下猟兵大隊[ブランデンブルグ](陸軍)―4個降下猟兵中隊)
第Ⅲ大隊(旧降下猟兵大隊[ヘルマン]―4個降下猟兵中隊)
第13/14/15中隊(装甲猟兵・工兵・迫撃砲などの支援中隊群?)
第26降下猟兵連隊
第Ⅰ大隊(旧第Ⅰ大隊/特別編成降下猟兵連隊―4個降下猟兵中隊)
第Ⅱ大隊(旧第Ⅱ大隊/特別編成降下猟兵連隊―4個降下猟兵中隊)
第Ⅲ大隊(旧第52降下戦車駆逐大隊―4個降下猟兵中隊)
第13/14/15中隊(装甲猟兵・工兵・迫撃砲などの支援中隊群?)
第27降下猟兵連隊
第Ⅰ大隊(旧第51降下戦車駆逐大隊―4個降下猟兵中隊)
第Ⅱ大隊(旧第53降下戦車駆逐大隊―4個降下猟兵中隊)
第Ⅲ大隊(旧第54降下戦車駆逐大隊―4個降下猟兵中隊)
第13/14/15中隊(装甲猟兵・工兵・迫撃砲などの支援中隊群?)
第9降下砲兵連隊(45年3月17日編成)
第Ⅰ大隊(旧第Ⅲ大隊/第11降下砲兵連隊―3個降下砲兵中隊)
第Ⅱ大隊(旧第Ⅱ大隊/第11降下砲兵連隊―3個降下砲兵中隊)
第Ⅲ大隊(旧第Ⅲ大隊/第12降下砲兵連隊―3個降下砲兵中隊)
第9降下装甲猟兵(戦車駆逐)大隊(3個中隊(注1))
第9降下高射砲大隊(旧第Ⅲ大隊/第12降下高射砲連隊―5個降下高射砲中隊)
第9降下工兵大隊
第9降下通信大隊(45年1月2日、第85歩兵師団に編入、2月19日再編成―2個降下通信中隊)
第9降下野戦補充大隊(45年3月17日編成、旧第56降下戦車駆逐大隊―4個降下猟兵中隊)
第9降下師団補給部隊(45年2月編成)
45年4月8日現在の師団兵力 11600名
編成後、師団は東部戦線に投入されシュタールガルド~ドラムブルグ地区で戦闘を行い、3月に師団はプレンツラウ地区に移動し損害補充を行った。
3月22日、キュストリン市街地への回廊がソヴィエト軍の攻撃により遮断され、キュストリンは包囲下へ陥った。師団は同日夜半、SS第502重戦車大隊《Schwere SS Panzer Abteilung 502》と共にキュストリンとの連絡を回復するべくザクセンドルフから出撃した。しかし、ケーニヒスティーガ―装備の重戦車大隊を伴っているとはいえ所詮は軽装備の歩兵部隊でしかない師団の攻撃は撃退され、この日の反撃は失敗に終わった。
45年1月12日に開始されたソヴィエト軍冬季攻勢は怒涛の勢いで進み、2月14日にはブレスラウを包囲下に陥れた。国防軍総司令部は包囲されたブレスラウにソヴィエト軍を拘束するために防衛隊の戦力強化を望んだが、ブレスラウは包囲下にあるために陸路の利用は不可能である。そのため第Ⅱ大隊/第25降下猟兵連隊に対して空路によりブレスラウへ進出するよう命令を下した。2月28日、第Ⅱ大隊/第25降下猟兵連隊はブレスラウへ空輸され防衛隊に組み込まれた。
第Ⅱ大隊/第25降下猟兵連隊の編入より防衛隊の戦力は強化されたもののソヴィエト軍との戦力差は大きく、また相次ぐ戦闘により防衛隊の戦力も減少し始めていた。そのため新たな戦力の投入が必要となり、第Ⅲ大隊/第26降下猟兵連隊を空輸することとなった。3月5日に行われた第Ⅲ大隊/第26降下猟兵連隊の空輸は、敵砲兵の射程内であるため危険であるとしてブレスラウ・ガンダウ飛行場は使用せず、市街地のカイザーシュトラッセを滑走路として輸送機を着陸されるというアクロバティックな手段を取っている。
ブレスラウへ空輸された第Ⅱ大隊/第25降下猟兵連隊と第Ⅲ大隊/第26降下猟兵連隊は3月15日、同地でそれぞれ第67降下猟兵大隊《67.Fallschirm Jaeger Bataillon》と第68降下猟兵大隊《68.Fallschirm Jaeger Bataillon》と改称された。両大隊は「オーデル河のモンテ・カッシノ」と呼ばれる過酷なブレスラウ包囲戦を戦い抜き、それぞれの生き残り67名と68名の降下猟兵が5月6日、防衛隊と共にソヴィエト軍に降伏した。
4月16日、第56装甲軍団戦区の最北翼に配置された師団に対し、第1白ロシア軍および第5打撃軍が攻撃を仕掛けた。師団はこの日一日、圧倒的な戦力差で攻め込むソヴィエト軍の攻撃に耐え抜き、多大な出血と引き換えに防衛線の維持に成功した。
4月17日、早朝より師団は再び第5打撃軍からの攻撃の矢面に立った。前日の戦闘で大きく戦力を削られていた師団はノイトレビン~グーゾフ間の運河の確保に失敗、ゼーロウ高地の防衛線をも失い、第5打撃軍は師団戦区で約8Kmの突破を果たした。師団の将兵が恐慌状態に陥って逃走していく様を、第125軍団砲兵司令部/砲兵司令官であるヴェーレルマン大佐は「狂人のように走り去った」と述べている。
4月18日、師団は軍団の他の師団と共にゼーロウ高地防衛線を放棄、ミュンへベルグ前面に防衛線を移した。この日まで戦われたゼーロウ高地の戦いで第Ⅲ大隊/第26降下猟兵連隊と第Ⅱ大隊/第27降下猟兵連隊は防衛線の陣地で壊滅した。またこの日、前日の防衛線失陥の責任と高齢を理由にブロイアー大将は師団長を解任されている。
4月19日、前日解任されたブロイアー大将の後を受け、ヘルマン大佐が師団長に就任した。この日以降、師団は西方へ後退を続けた。連続する戦闘で隷下の部隊は分散してしまい、師団の北翼にあった第26降下猟兵連隊(第Ⅰ大隊残余)は師団から切り離されそのまま北方へ離脱した。師団本隊と分かれた第26降下猟兵連隊は以後、ベルリンをめぐる戦いから切り離された。連隊は西部戦線へ移され、ウィストックからシュレスヴィッヒ・ホルシュタインに至る撤退戦を戦い、そのまま敗戦の日を迎えた。
第25降下猟兵連隊(第Ⅰおよび第Ⅲ大隊残余)も同様に師団本隊と分かれてベルリン北方へ後退、第25降下猟兵連隊の残存兵力は第61装甲軍団《LXⅠPanzerkorps》の指揮下に編入され、やはりベルリンをめぐる戦いから切り離された。
4月22日、第56装甲軍団主力はオーベルシェーネヴァイデでシュプレー河の橋を渡りベルリン南方に出たが、師団はシュプレー河を渡らずそのまま東岸を進み、フリードリヒスハインからベルリン市街地へ入った。市街地への撤退に成功した時点で師団に残されていたのは、第27降下猟兵連隊の第Ⅰと第Ⅲ大隊の残余だけであった。
市街地へ撤収後、25日朝までなされた軍団隷下部隊の再編成と防衛線への配置に伴い師団は市街地北部、G及びH地区に置かれ警護連隊[レーンドルフ]等の雑多な小部隊と共に防衛線を築いた。
砲兵・戦車の支援など本より期待できない過酷な市街戦の中、近接戦闘で戦車群に戦いを挑み”緑の悪魔”の異名に違わぬ戦い振りを見せた。しかし、武運拙く5月2日に他のベルリン防衛隊と共に降伏、師団はその短い戦歴を終えた。
注1 うち1個中隊が『ヘッツァー』又は突撃砲を10両装備したものと思われる




