その日まで
1945年春、圧倒的な軍事力で欧州を席巻したドイツ第3帝国の黄昏の時。春、本来ならば芽吹きの喜びを祝福する季節、だがこの年のドイツに訪れた春は死と破壊と絶望に満ちていた。
西部戦線では3月7日にライン河に架かる最後の橋梁であるルーデンドルフ鉄橋が奪取され、20日にはライン河渡河作戦が実施されている。最後の天然の障害を突破した西側連合軍はドイツ領内を怒涛の勢いで進撃した。まともな装備も無く、あっても燃料不足により身動きが取れないドイツ軍にこの勢いを止める術は無かった。4月1日にはB軍集団、約32万の兵力が包囲された。同軍集団は再三の要請にも関わらず撤退は認められず、結局18日に力尽き降伏することになる。前線後方で大量降伏劇が繰り広げられる中で前進は継続され、12日にはアメリカ第19軍団第2機甲師団がシェーネベックで、同軍団第83歩兵師団がバルビーでそれぞれエルベ河を渡り橋頭堡を展開し、後者は14日、ベルリン西方77Kmのツェルブストまで進出する。しかし西側連合軍はヤルタ会談における”エクリプス”作戦―ドイツ分割占領の密約―に従いエルベ河西岸までの進出で攻勢を停止、以後の戦いは西岸の掃討戦で終始した。
ベルリン戦でソヴィエト軍が被った損害、およそ30万という数字を考えるとー事前に密約が在ったにせよーベルリン攻略を諦めたのは、その時点では賢明と言えるものであったろう。だが、結果として西側諸国は1990年10月まで続くより面倒な仕事を抱え込む羽目になる。
もう一方の戦場である東の地、東部戦線の状況はさらに深刻なものであった。1月12日の夜明け前、ヴィスラ河畔から発起したソヴィエト軍、約220万による大攻勢は怒涛の勢いで戦線を侵食しドイツA軍集団、約40万を粉砕した。
ソヴィエト軍はポーランドの地を1日あたり約40Kmという高速で駆け抜け、1月31日にはベルリンへの最終関門、オーデル河畔まで進出した。急速な進出と雪解けの泥濘による補給状況の悪化、ベルリン攻略に必要とされる兵力の補充・再編を図るためソヴィエト軍は西方への進撃を一時停止した。
西方への進撃を停止している間、ソヴィエト軍は側面であるオストプロイセン戦区の攻略戦を進行させていた。同戦区は戦前より要塞化が進められていた地域であったが、砲兵戦力で勝り、制空権を掌握するソヴィエト軍は圧倒的な火力で抵抗を粉砕し進撃を続けた。1月27日夕刻に開始された、ハイルスベルグから西方のエルビングへの連絡路確保を目的としたドイツ第4軍の反撃も、30日には完全に阻止され失敗に終わった。この日以降、オストプロイセンはドイツ本土から分断され連絡を遮断される。同戦区で孤立したドイツ軍はケーニヒスベルグを中心に展開し、戦闘を同市が陥落する4月26日まで継続した。この北への方向転換とそれに伴うオストプロイセンにおける戦い、同地のドイツ軍の奮戦により、ベルリンはおよそ2ヶ月の猶予を得た。
急速に戦線が崩壊し本国へ敵が迫るなか、ドイツ軍はポンメルンでヴァイクセル軍集団を新たに編成、非常に風変わりな人物が1月28日に司令官として就任した。親衛隊帝国指導者ハインリヒ・ヒムラ―その人である。ヒムラーは西方へ進撃するソヴィエト軍の側面を襲撃、分断するべく反攻作戦を立案する。SS第11義勇装甲擲弾兵師団[ノルトラント]を主力とした反攻作戦、その作戦名は”ゾンネンヴェンデ”とされた。2月15日、アルンスヴェルデを解囲したが強力な反撃により行き詰まり僅か3日で作戦は終了した。ソヴィエト軍の視点を北方へ吊り上げた点では一通りの成果を挙げたといえる。そのためポンメルンは掃討戦の舞台となり、地獄の炎に包まれたが・・・。
3月6日、ドイツ軍最後の攻勢”春の目覚め”作戦が開始された。目的はハンガリー油田の奪還、そしてソヴィエト軍の注意を南方に引くことでベルリンへの圧力を弱めること。SS第6装甲軍を中心に攻勢は進められたが、泥濘に足を取られ15日、攻勢開始線から僅か20Kmのシモントルニャで停止した。16日、ソヴィエト軍は”ウィーン”作戦を発動、ドイツ軍の背後を目指し殺到した。ヒトラーはもはや御馴染のものと化した死守命令を発したものの現地軍はこれを無視し後退、戦場は本土内部へ移り4月13日、ウィーンは陥落した。
ベルリン前面では3月下旬、これまでの落ち着いた状況が激変し激しい戦いが繰り広げられた。
3月22日、ベルリン前面の都市にして防衛上の拠点、キュストリン橋頭堡がソヴィエト軍に包囲されたのである。同日夜半になされた最初の反撃は撃退され、続く24日の反撃も撃退された。激怒したヒトラーは再攻を厳命し、27日早朝、4個師団による反撃が開始された。一部の部隊が包囲を突破し市街地に到達したが後続がなく、最終的には撃退された。損害は甚大で4個師団から8千もの死傷者を出し、この反撃は防衛戦のための貴重な燃料・弾薬の浪費に終わる。この解囲戦の失敗はヒトラーの激怒を買い、解囲に失敗したためヒトラーからの弾劾を受ける第9軍司令官ブッセを擁護した参謀総長グデ―リアンが解任されるという大きな余波を与えている。
この時期、スターリンは戦後におけるイニシアティブについての思いを廻らせていた。戦後の世界でソヴィエトの、そして自らの権威と影響力を絶大なものにするためにはなんとしてもベルリン、ナチズムの都をソヴィエト単独の力で陥とさなければならない。3月末の時点でベルリン攻勢作戦のための側面確保は完了、補給・編成も完全なものとなった。あとは4月中にベルリンを陥とし、エルベ河の最大進出線へ進む決断あるのみ。
3月31日、スターリンはベルリン攻撃作戦案を承認。
4月1日、西側連合国宛てに5月における攻勢及びベルリン攻略の電報を発信。
同日、ベルリン攻略を正式に発令。作戦開始日時、4月16日月曜日・・・
運命の決断は下された。