ジーリンの影 修正版
第2話 破戒
ハオの足元に血だまりが広がっていた。
高利貸しは盛大に血を吹いて倒れ、水溜りの中でうずくまった。
路地裏の隅では、瀕死のグェンが怯えている。その目はハオに向けられていた。
刻々とハオの心臓が高鳴った。冷静になり、全身が冷え上がる。友を助ける為とはいえ、自分は、一番やってはならないことを犯したのだと、血の気の引いた頭で悟る。
「な……ぜ……」
高利貸しは、顎髭を吐血に染めて呻いた。
(嘘だ……)
ハオは、頭の中で繰り返し念じた。
(嘘だ……僕が、僕がそんな……)
「小僧……貴様ァ……!」
高利貸しは、充血した目を憎々しげにハオに向けた。その目はただならぬ殺気をたぎらせていたが、瞳の光は風前の灯火だった。
「見ていろ……!今に友人たちが貴様を捕らえにくる!この罪は、必ず清算する時がくる!」
高利貸しは大広間の方を見た。そこには絞首台と、吊るされた死刑囚のシルエットが見えた。
ハオは息を飲んだ。
「誰かッ!!こいつらをッ……」
高利貸しは余力を振り絞り、助けを呼んだ。
しかしその叫びは、グェンによって阻まれてしまった。
グェンは高利貸しの横っ面を蹴った。高利貸しが言葉を途切れさせてからも、何度も執拗に蹴り続けた。グェンの顔は苦渋で歪んでいた。
「ハオ!……ヤバいぞこいつ……!」
グェンは蹴りながら言った。
ハオは頭がクラクラした。今、目の前で起きていることが現実なのかどうか、考えたくもなかった。
しばらくすると、高利貸しは抵抗すらしなくなった。二人に蹴られ続け、その顔は元が誰なのかわからないほど腫れあがっていた。唇をピクピクと震わせ、虚ろな目をしている。
「ジュウ…………リン……」
高利貸しは消え入るような声で呟いた。そして、それを最期にピクリとも動かなくなった。
ハオとグェンは、足元に広がる血の海を見てよくやく我に返った。そして、目を見合わせた。
「グェン……」
「……あぁ……」
その時、どこかから聞こえるブーツの足音が夜の静寂を破った。
広場に誰かいる。それも数人。
ハオは息を切らして広場を覗いた。
絞首台の近くに人が集まっている。憲兵が数人と、背の低い男が一人見えた。彼らの会話を、ハオは息を殺して聴いた。
「この辺りで間違いないのだな?」
憲兵が男に訊いた。
男はゴマをすりながらニタニタと笑った。
「へ……ヘェ、そうでさァ。誰かがこの辺りで揉めてるのを、確かに見たんでさァ」
「ふむ。血痕に……金の入った袋。荒事があったのは確かなようだな。協力に感謝する」
憲兵は足元の小袋を拾いながら、ぺこぺことへり下る男に、小銭を手渡した。
霧の向こうで、ハオはそれを見ていた。ハオの手は、これまでにないほど震えていた。今見つかったら一巻の終わりだ。
「……ハオ……に、逃げようぜ……」
背後からグェンが死にそうな声で囁いた。その唇はすっかり青白くなっている。切られた指からの出血も酷い。
ハオはグェンを連れ立ち、霧の中を小さくなって進んでいった。
その二人を、離れた建物の上から見る人影があった。人影はレインコートを纏い、顔をガスマスクで覆っている。そして二人の姿が見えなくなると、夜霧に溶け込むようにどこへともなく消えていった。
翌朝。
孤児院の外では、軍の偵察バイクがけたたましく行き交っていた。
高利貸しの殺害事件は、一夜にして暗黒街の住人たちの知るところとなっていた。軍と親密な関係を持つ要人の死。この一件はすぐさまジーリン区の各メディアで取り上げられた。
ハオとグェンは、孤児院の片隅で震えていた。
目の前を他の子どもたちが通りかかったり、保母に話しかけられたりするだけでも心臓が張り裂ける思いだった。
あの時、人に見られはしなかっただろうか。
もしかしたら、すでに軍は犯人を特定しているのではないのだろうか。
自分たちが知らないだけで、実はこの街のいたるところには監視カメラがあり、あの路地裏も例外ではないのではないのだろうか。
そんなありもしない妄想が二人を苛んだ。
「あ……あああぁあぁぁぁ〜〜……!」
グェンが片手で頭を掻き毟った。
グェンは失った指のことを誰にも話していなかった。治療もろくにせず、右手に包帯を巻くだけの軽い処置で済ませていた。
みるみる衰弱していくグェンを横にして、ハオは歯痒い思いだった。やはり二度同じ相手を狙うことなどやめておけばよかったのだ。このままだとグェンの腕は出血多量で腐ってしまう。仮に助かったとしても、自分たちはもう表の世界では生きていけない。グェンの出世という夢が断たれたことは確かだった。
「何の計画性もない殺人を犯して……足がつかないはずはない」
ハオは震える唇で囁いた。
「やってしまった以上もうどうしようもない。もし警察に見つかったら、その時は僕が……」
グェンはジュクジュクと痛む指を庇うばかりで、ハオの言葉が耳に届いたかどうか定かではなかった。
そんな二人に追い打ちをかけるように、孤児院の廊下を保母が駆けてきた。保母は蒼白な顔で、玄関を指しながら言う。
「あなたたち……今、軍の人が……」
玄関で二人を待っていたのは、小綺麗なコートを着た、瘦せ型の男性だった。長い髪をうしろで束ね、糸のような細い目をしている。
「この方が、あなたたちに聴きたいことがあるって……」
保母はあわあわと言った。
男性の驚くほどの長身に、ハオはたじろいだ。
グェンもまた萎縮している。
二人に影を落としたその男は、枯れた声で言った。
「しばらく、二人を借りてもよろしいか?」
ハオとグェンは霧の中に連れ出され、ただ黙って男に追従した。
逃げようとしても無駄なことは、ハオにはなんとなくわかっていた。敵わない相手とそうでないものを見分ける術は、ハオが盗みを繰り返す中で得たものの一つだった。逃げられないとしたら自分たちはどこに連れて行かれるのか。刑務所、あるいはすぐに絞首台に送られるのか。
街行く人々はいつものように、退屈な朝を迎えている。この色彩のない街ももう見納めなのかと、ハオは思った。
そして、ふいに義母のことを思い出した。
「あの……」
聞こえなかったのか、男は振り向かなかった。
「あの、すいません、最後にせめて……」
「昨晩、すぐそこの路地裏で、金貸しの遺体が見つかった」
男はハオを無視し、唐突に語った。
ハオの頭は真っ白になった。顔には出さないよう努めたが、グェンが「ゥあ"ッ」と変な声で動揺したので無駄だった。
三人は、ひと気のない袋小路にいた。広場のすぐ側で、絞首台が霧の中で揺れている。
「現場から血のついた足跡を追うと、二人分の靴が見つかった。子どものものだ」
男は淡々と語った。
万事休す。そんな言葉がハオの頭に浮かんだ。背後ではグェンが目を見開き、歯をガチガチ鳴らしている。
「身に覚えがあるだろう……?」
男はより重みのある声で訊いた。
この国の司法は、犯罪を犯したのが子どもであっても減刑などしない。目には目を、歯には歯を。人殺しには死罪を。ハオはそのことをよく知っていた。だが、早めに罪を認めれば多少なりとも減刑される。それもまた事実だった。
グェンが苦しそうに呻いている。
ハオの意思は、すでに固まっていた。
「……僕が……」
「俺だ!!」
グェンが食い気味に叫んだ。
グェンは驚いているハオの横に並び、どうにでもなれという風に畳み掛けるように言った。
「あの高利貸しを狙うように計画したのも、頭を砕いたのも俺だ!こいつは関係ねぇんだ!」
グェンは男に右手の傷を見せつけた。
ハオは、生まれてからこれほど眼を見開いたことはないというほど大きな目で、グェンを凝視していた。自分がグェンのどこが好きなのか、今になって再確認し、すぐにでもこの親友を賞賛してやりたかった。お前は臆病者じゃないと言ってやりたかった。
「そうか」
男は静かに呟いた。そして突然しゃがみ込み、いきり立っているグェンの肩をそっと叩く。やがて、男は信じられない言葉を放った。
「よくやってくれた」
二人はしばらく呆然としていた。
男は二度と言わなかったが、聞き間違いでなければ、確かにグェンを褒めたのだ。
ハオはいてもたってもいられず、男に訊く。
「あなたは……僕らを捕まえにきたんじゃないのでは?」
男はフンと鼻を鳴らした。
「そんなこと一言でも言ったか?」
「軍の関係者だと……」
「あぁ、確かそんなことを騙ったかな……僕は、お前たちを勧誘にきただけだ」
「勧誘……?」
ハオは首を傾げた。
男は立ち上がり、二人に背を向けた。そして、何やら難しい話をはじめた。
「『泥棒の王』の死後、軍の統治によってジーリン区の犯罪率は激減し、暗黒街には秩序がもたらされようとしている。それは、この国全体にも言えることだ。荒れ果てた時代が終わり、旧世紀のような統治体制がつくられようとしている。力の名のもと、急速にな」
男は続けた。
「……武力統治は最も原始的な、今という時代に即した統治方法だが、支配する者とされる者、その溝を深める。国として長続きしないというのが僕の考えだ。だから僕は、〝来るべき時〟のために、泥棒の王の一団に代わる、ある組織を作っている」
聞き手が9歳児だということをまったく考慮しない説明に、グェンは大口を開けている。
ハオは目を尖らせた。
「ある組織……?」
すると、男は纏っていたコートを脱ぎ、中に着た華服を露わにした。むき出しの上腕二頭筋には、緑色の星の刺青が彫り込んであった。
「具体的な活動内容はまだ話せない。だがお前たちが望むのなら、今夜の0時、東地区の雑貨店『ファンラーグ』に来い。秘密結社〝緑の星〟のメンバーとして迎えよう」
霧が濃くなった。
ハオはグェンに目配せしたが、グェンもこちらをチラと見ていた。そして気づいた時には、袋小路から男の姿は消えていた。
まるで白昼夢でも見ているかのようだった。二人は孤児院に帰るまでの間、一言も言葉を交わさなかった。
孤児院に着いた時、グェンが突然クスクスと笑い出した。ハオもつられ、笑いがこみ上げてきた。声をあげて笑う二人を周りの子どもたちは奇異の目で見たが、そんなことハオは気にならなかった。
その晩、ハオはグェンと共に孤児院の屋上で貧相な食事をしていた。
「バカだよな」
グェンが唐突に言った。
「秘密結社?詳細は話せない?ヘッ!俺、あいつの顔しっかりと覚えたぜ。俺らが警察にやつの人相を喋った時のこと考えなかったのかよ」
ハオは何も言わなかったが、しっかりと気づいていた。あの男の首筋に細い線があったこと。あの顔が、精巧な覆面であること。
「これは……脅しなんだと思うよ」
ハオは静かに言った。
「僕たちはもう表の世界では生きていけない。だとすれば裏稼業に染まるしかない……そういうこと全部知った上で僕たちに近づいてきたんだと思う。僕たちが断れば、あの男は警察に殺人のことを密告するかもしれないしね……」
ハオは立ち上がり、夜霧に冷たく包まれた。
「グェンはどうする?あの男の誘いに乗るか、あるいは……」
「絞首台に送られるか……」
グェンはぶるりと震えた。
屋内のラジオからは、高利貸し殺人事件の犯人が子どもであると判明したことが報じられていた。もはや悩んでいる暇などなかった。
「捕まらずに済むんなら、それに越したことはないぜ。俺は行くよ。あの男に何をやらされるのか知らないが、もう腹くくるしかない。裏だろうと何だろうと、そこで1番になってやる」
「……うん」とハオはうなずいた。
〝今夜の0時、東地区の雑貨店「ファンラーグ」に来い〟
約束の時間まで、2時間を切っている。それまでにハオは会っておきたい人がいた。
西地区の闇市を通り、北地区の遊郭街を駆け抜け、その先には東地区がある。地区の端のレンガ造りの建物は、夜霧の中で悠然と浮かび上がっていた。その建物で、義母は息を切らしてハオとグェンの帰りを待っていた。
ハオたちが義母の住む二階の部屋に入るなり、義母はグェンに駆け寄り、肩を揺すった。
「い、今までどこにいたの!?」
義母はグェンの目を凝視した。
グェンは泣き出しそうだったが、なんとか堪えていた。
「あんさんたちが前に襲った高利貸しが殺されたって……それも子ども二人に……!」
義母は痛切な目でハオとグェンを交互に見た。
「まさか、あんさんたちが……」
「仕方なかったんだ」
グェンが呻いた。
「俺がヘマして……でもハオはそれを助けようとしたんだ!それにあんなやつ……死んだって構わない人間だろう!?」
グェンは耐えきれなくなって叫んだ。
周りの包帯に包まれた女たちが、驚いてベッドから起き上がる。
グェンの切断された指の包帯からは血が滴っていた。
「で、でも収穫もあったんだ。俺、ある人に誘われたんだ。裏の世界に来ないかって。きっと稼げる!そうすりゃ母上の病気もきっと……」
「あぁ……なんてこと」
義母は真っ青になり、ふらふらとへたり込んだ。「あれほど殺しはダメだと……」そう呟き、一縷の望みをかけ、血眼になってハオの肩を揺さぶった。
「本当なの……?ハオ」
ハオは胃がキリキリした。こんなはずではなかった。ただ事の顛末を伝えに来ただけなのだ。
ハオは義母の手首を掴んだ。
「……本当です。今日、勧誘されたんです。僕もグェンも行くつもりです」
それ以外に道はありませんから。そう言いかけて口をつぐんだ。
義母はワナワナと震え、力なく手を解いた。
窓から風が吹き込み、部屋の熱気を冷ました。誰も何も言わなかった。まるで時間が止まっているかのようだった。その静けさを、義母の平手打ちが切り裂いた。
ハオは唖然とし、赤くなった頬に触れた。
義母は鬼のような形相でハオを睨んでいる。
「人殺し……!」
義母は顔の包帯に涙を滲ませた。そしてグェンに目をやり、再び息子の肩を揺さぶった。
義母はグェンをどうにか説得しているようだったが、ハオの耳には届かなかった。ハオはよろよろと後ずさり、部屋の扉にもたれかかった。目の前の光景が暗転し、渦を巻き、すべてが暗い水の底に沈んでいくようだった。
時刻が0時に迫った頃、東地区の「ファンラーグ」の扉を叩く音がした。
突然降り出した雨のなか帰るのを渋る客たちを追い出した後で、店内には食いかけの料理や酒の瓶がぐちゃぐちゃと残されていた。
店長はカウンターで皿を洗いながら、一人端の席に座る男に問いかけた。
「来ましたよ、棟梁」
男は何も言わず、読んでいた『地上伝説(ペーパーバック版)』を閉じた。
店の扉が開き、全身を濡らしたハオがうつむき加減に入ってきた。すっかり生気をなくしている。男を見ても何も言わなかった。
男はハオに歩み寄った。
「勧誘に乗った、ということでいいか?」
ハオは小さくうなずいた。
「もう一人はどうした?」
「……多分、そのうちくると思います」
男は「そうか」と呟き、そっとハオに手を差し伸べた。
「〝緑の星〟棟梁、リュウ・ロンだ」
男が差し伸べた手に、ハオはゆっくりと応じ、自身も「ハオです」と名乗った。
「姓はないのか?」
男にそう訊かれ、ハオは歯痒い思いで答えた。
「ありません。孤児ですから」
ハオが手を強く握るのを見て、リュウ・ロンはカウンターの店主に目配せした。
「もう一人の新参が来たら、その時は頼む」
リュウ・ロンはそう言うなり、ハオを店の奥に連れて行った。「従業員以外立入禁止」の扉をくぐり、廊下を渡り、その先の物置部屋にあるストーブをどかした。
ストーブの下には、着脱式の床があった。床板を外すとマンホールの様な穴があり、錆びたハシゴが見えないほど奥深くまで続いている。かすかに水音が聞こえた。
「この穴は何か?」と訊きたげなハオに、リュウ・ロンは静かに答えた。
「この穴は地下水道へと続いている。我々のアジトもそこにある」
旧都の地下深くには巨大な水路があり、それが迷路のように入り組んでいるという話はハオも聞いたことがあった。だが、ハオにはこの穴が、奈落の底への入り口に思えて仕方なかった。ここから先は後戻りはできないことは、リュウ・ロンに言われるまでもなく理解できた。
ハオは、リュウ・ロンに続いてその穴を降りていった。途中、0時の鐘が聞こえたが、次第に大きくなる汚水の流音にかき消された。やがて足元すら見えなくなり、ハオは完全な暗闇の中に姿を消した。
そして4年後、2192年……
~To be continued~