五十鈴
呼び鈴を鳴らす前にドアに手をかけてみると、
鍵はかかってなかった。
女の子ひとりだってのに不用心な……。
「ただいま――」
我が家の玄関を開ける。
「五十鈴、いるか?」
呼んでも誰も出てこない。
留守なのかと思ったが……
リビングに入ると妹が座っていた。
「おかえり、お兄ちゃん」
妹はクッキーを貪りながら呑気にテレビを見ていた。
「いるんなら出て来いよ。鍵もかけないで……」
「喧嘩には自信あるから」
「ナイフとか持ってたらどうするんだ」
「あたし剣道部だから」
「まあいいや……元気そうで安心した」
俺も座って、ごませんべいをを口に入れる。
「お兄ちゃん、本当に悪の組織に入ったんだね」
「ん? ああ……」
「通帳にクズラーって記入されてた」
「マジか……秘密組織なのにまんまかよ」
てっきり偽名で振り込まれてるものかと思っていた。通報もされずに普通に処理されているのだろうか。
そういえば、クズラーの戦闘員募集のチラシも普通に郵便受けに入っていた。新聞広告の折り込みでも見たことがある。どうにもクズラーの存在は、悪の組織と喧伝されながらも、どこか社会に容認されているような節がある。ある週刊誌では、一部の政治家とクズラーは癒着しているとも報道されていた。
まあそんな胡散臭い世の中の仕組みはどうでもいい。
目的さえ果たせれば――。
「やっぱり我が家は落ち着くな」
「言いたい事はそれだけなの?」
俺が視線を向けると、妹はそっぽを向いた。
「ん、いや……」
「急に出て行っちゃって、ろくな説明もしないで……」
「ご、ごめん。怒ってるか?」
「べつに怒ってない」
どう見ても怒ってるだろ……。
「どう説明したらいいか、わかんなくてさ」
「由良姉ちゃんのこと?」
「ああ……」
「仇なんか討っても、由良姉ちゃんは帰ってこないよ」
「許せないんだ。あいつだけは……」
「だからって悪の組織に入らなくても」
「何が善で、何が悪なんて知った事じゃない」
「…………」
「むしろ俺にとって世の中のあらゆることが悪だ。由良は優しくてお人好しで、人を疑う事をしなかった。だからいつも傷付いてとても苦しんでいた」
「うん、お姉ちゃんは本当に優しかった。虫も殺せないような性格だったよね」
「由良をさんざんひどい目にあわせた社会が憎い。由良と俺の関係を認めなかった世の中が憎い。由良を殺したヒーローが憎い。何もかもが、俺の憎悪の対象だ――」
「お兄ちゃん……」
「こんな世界、壊れてしまえばいいんだ――」
それだけ言って、俺は押し黙った。
ひさしぶりに妹に会って、由良のことを聞かれて、奥に秘めていた感情がむき出しになってしまった。
五十鈴も視線を反らして黙り込んだ。
きっと今の俺は、とても怖い顔をしているだろう。
「…………」
「お姉ちゃんは、そんなこと望んでるのかな」
五十鈴はゆっくりと立ち上がって言った。
「壊して、何にもなくなって……それで何か救われるのかな」
ツインテールの髪をいじりながらリビングを出ていく。
「夕食の準備するね――」
――――
妹と一緒に食卓を囲む。ひさしぶりの、我が家での食事。
「相変わらず、五十鈴は料理が雑だな……味付けも濃い」
「うっさいな」
「から揚げにレモンはかけるなって……」
「お兄ちゃん、クズラーにはいつ戻るの?」
「シャワーを浴びたらすぐいくよ。明日は作戦会議だ」
「次に帰ってくるのはいつ?」
「もう帰らない……ひとりでも大丈夫だよな?」
箸を持つ妹の手が、一瞬止まった。
「……うん……」
「俺はもう、悪の組織の一員だ。家には帰らない方がいい」
「……かもね……」
それから食事が終わるまで、五十鈴は言葉を発しなかった。
――――
手早くシャワーを浴びて、クズラーに戻る準備を済ませる。
妹に最後の挨拶をして、玄関を出ようとする。
「さようなら、い……」
「やだよ――」
小柄な少女の肉体が、抱きついてきた。
ふわりと柔肌を密着させて、背中に手を回してくる。
震える指先を喰い込ませて、頭をすり寄せて。
別れを惜しむ恋人のような仕草。
「やだ――絶対にやだ――」
「五十鈴……」
「お兄ちゃん……そこまでして、仇を討ちたいの?」
「ああ……三年前のあの日、俺は誓ったんだ。それだけのために、今まで生きてきたんだ」
「帰ってこれないなら、一緒にいきたい」
「無理だろ……」
「離れたくないの……お兄ちゃん、好き……」
好き――その言葉は、
かつて由良が俺に向けたものと同じ意味だろう。
わかっている、五十鈴が持っている感情は由良と同じだ。
いったい何が、そうさせるのか。
だから、もう会っちゃいけないんだ。
「私じゃ、由良姉ちゃんの代わりにはなれないの?」
「…………」
「わかった、私もクズラーに応募する」
「えっ?」
「もう決めたから。明日から学校いかない」
「ま、待て、ダメだ、それは」
「腕っ節は自信あるし、剣道得意だし、戦闘員になったらお兄ちゃんに負けないかもよ?」
「ダメだって、それだけは」
「だって、お兄ちゃんに会えないなんて……やだもん」
「わかった、わかった」
「わかった? なに?」
「月に一度は帰る。それでいいな?」
「ほんと?」
ああ、なにを言ってるんだ俺は……。
もう帰らないって決めたのに。
でも五十鈴がクズラーに入るなんて事態は避けたい。
「ああ、本当だ」
「信用できない――」
「ほら、これが俺の秘密アドレスだ。S級戦闘員になったから秘匿回線が使える。何かあったらいつでも連絡しろ。お兄ちゃん飛んでくるからな。絶対にバラすなよ!」
「うん、わかった、信じる」
ゆっくりと五十鈴の手が離れる。
見上げる妹の顔は微笑んでいたが、
目には水滴が溜まっている。
「じゃあな……ちゃんと鍵は締めろよ」
五十鈴がこくりと頷いたのを確認すると、俺は家を出る。
埠頭の待ち合わせ場所へと急いだ。
やれやれ……しょうがないよな。
なんにしても、いったん家に帰って良かった。
あのまま放っておいたら、
五十鈴がクズラーに入ってしまったかもしれない。
「…………」
それにしても、五十鈴はいつから俺のことを好きだったんだろう。昔はそんなそぶりは一切なかった。由良が死んでからほどなくして、五十鈴の態度が変わり始めた気がする。もともと俺が好きで、由良がいなくなったから意識するようになったのだろうか。
『私じゃ、由良姉ちゃんの代わりにはなれないの?』
埠頭への道中、妹の言葉が幾度も頭をよぎった。
『お兄ちゃん……好き……』