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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛狂います。

作者: 桐崎ワレル

 本当はあっちが下でこっちが上なんじゃないかと思った。

 それがあまりにも抵抗無く空に飛んでいたから、まるで不思議の国に迷い込んだ少女のように。穴の下を落ちて落ちて、落ちていったら人は逆立ちしているのだろうか。

 くるくると頭が回る。

 パニックだ。

 自分の頭は今、混乱している。

 だっ 本当はあっちが下でこっちが上なんじゃないかと思った。

 それがあまりにも抵抗無く空に飛んでいたから、まるで不思議の国に迷い込んだ少女のように。穴の下を落ちて落ちて、落ちていったら人は逆立ちしているのだろうか。

 くるくると頭が回る。

 パニックだ。

 自分の頭は今、混乱している。

 だってもし、こちらが上であっちが下なら――――。

 拍手、拍手、拍手。

 拍手喝采。




 「ちーひーろー!千浩!」

 肩を強く揺すられて千浩は目を覚す。急に起こされたせいか、それとも何か悪い夢でも見たのか心臓が痛いぐらい早く動いていた。

 何か夢を見ていた気がするが思い出せない。ただ拍手の音だけがまだ聞こえていると気が付いた。

 辺りを見渡せば十二畳程の空間に所狭しとパソコンが並んでいる。

 (ここ――職場だ)

 そしてようやく自分が今居る場所が職場で夢の中で聞こえていた音は無数のタイピング音だった妙に納得したのだった。

 「なぁ、さすがに二十四時間勤務は限界なんじゃない?」

 そう言ったのは、さっき千浩を起こした同僚の鈴木だ。

 無精ひげに眼鏡、頭には朝からそのままの寝癖がついていて、だらしなさが目に見えて分かる男が、仕事に限って言えば、できる男だ。

 『この仕事に限ってだが。

 「ほら、居眠りしてるから『チヒロちゃん』が約束取り付けちゃってる」

 鈴木が指さした先、パソコン画面の中では甘い恋人同士のようなメールのやりとり。そのやりとりは今日の十八時にN公園で待ってますと言う返事で終わっていた。

 受信時間は一時間前。悔しくも約束の時間まで後三十分。

 (これは社員に怒られるの覚悟で、ドタキャンするしかないなぁ)

 千浩は溜息を吐きながらキーボードをタイピングすると相手にメールの返信をした。『今、準備してます。すごくドキドキしながらお洋服選んでました。この服で行きますね』と打ってからネットの画像検索で適当に探したピンク色のワンピースを画像添付して送信ボタンを押した。

 とりあえず公園に向かってるフリだけはして後は引き継ぎをし今日はもう上がってしまおう。

 時計を見れば、丁度勤務時間が終わりを迎えている。

 (やっぱり二十四時間勤務なんてするもんじゃない)

 ドタキャンの理由はどうすべきか、もう腹痛とかでいいんじゃないだろうか。覚醒しきらない頭での文字の打ち込み作業はどこか投げやりで最後に『他に良い理由があったら差し替えお願いします』引き継ぎ用のノートに書き込み千浩は席を立った。帰ると決めたらもう一秒だって席に座っていたくない。

 「お疲れ様でしたー」

 タイムカードを押すと、その一言を投げて千浩はその部屋を後にした。

 送り出したのは無数のタイピング音だけである。

 都内某所。そんなブラックな会社があるなんて絶対に誰も思わないだろう2階建てのアパートの階段を降りる。

 --カンカンカンカン。

 靴底が階段を叩く音は今も耳に貼り付いたように響くタイピング音と重なる。

 藤崎千浩。二十一歳。フリーター。アルバイト。アルバイト内容は有料出会い系サイトのメールオペレーター。用は『サクラ』である。

 架空の男性、女性になりサイトの会員とメールのやりとりをする。思わせぶりな態度をとって、一ポイント二百円のポイントを相手から削っていくのが千浩の仕事である。

 罪悪感がないわけではないが、それも薄れて来てしまう。『ノルマなし自給千円~の簡単なお仕事』は、今ではゲーム感覚で千浩の生活に沁み込みつつあった。

 そもそも、恋愛だとか友情だとかそういうものは千浩にとって昔からゲームみたいなものだったし、金が入るかそうじゃないかと違いしか変わっていない。

 (落とした後も餌をやるだけで今はマシなんじゃないの)

 茜色に染まる住宅街をぼんやり歩きながら思う。

 自分が学生の時はもっと酷かった。

 ゲーム感覚で恋愛を仕掛け、仲間とそれで賭けをしていた。ターゲットを決めて、告白し落せたら勝、落ちなかったら負け。

 我ながら中々のクソガキだったと思う。あの時、千浩は調子に乗っていたのだ。

 千浩の父親は大手企業の社長で、正直千浩は金に困ったことが無い。それで頭でも悪かったら金持ちの馬鹿坊ちゃんで済んだのに幸か不幸か千浩はそこそこ勉強もでき、多分顔も悪くないと思う。

 (男前ってわけでもねぇけど)

 信号待ち。自分の姿の映るカーブミラー。一重の吊り上った目。薄い唇。鼻筋は通っていると思う。首が少し長いのがコンプレックスだが、モデルのようだと女性には受けがいい。身長は一七七センチ。六五キロ。太っては居ない。赤い短髪と両耳に鈴なりのように合計二十個も付けたピアスは目立つらしい。

 欲しいものはないし、金がない訳ではないからだいたい欲しかったら手に入る事ができる。特に我慢した事はない。

 『若い頃の苦労は買ってでもしろ』なんて言われるけど、千浩は典型的に楽な方へ楽な方へ逃げて現在に至る。多分自分のようなものが日本の未来を駄目にするのだろうと思いはするが改善する気は全くない。

 夢があるわけでも、守るものがあるわけでもない。彼女は欲しいが、どちらかと言えば性欲処理的な意味で欲しいのであって恋愛は面倒だと思ってしまう。

 そうなるとセフレで十分だし、セフレならクラブに行って一晩限りの相手を使えたらいい。同じ相手と何度もセックスをしてると相手が勘違いする事があるから、あまり決まった相手とセックスしたりしたくないのだ。

 (改めて考えると俺ってサイテー?)

 でも今の若者でそんな生き方をしてるのは千浩だけではないのではないかと千浩は思っていた。

 だから危機感も覚えたりしない。こんなもんだろと思っている。今が良ければいい。これがいいのか、幸せかと聞かれたたら疑問を持つが、不幸は感じていない。だったらそれでいいと思うのだ。

 ただ学生の頃よりは多少不便さを感じてはいる。自分で働き、生きていかなければいけないのは家族と暮らし扶養で養ってもらうことよりは大変だ。

何となく家を出て、連絡を絶ちこうして生きてようやく分かる。生きるのには金が必要で、千浩のように苦労なく生きてきたものに対して世間は厳しい。

 コンビニの店員、土建業、カラオケボックス、パチンコ屋の接客、ガソリンスタンド、携帯の販売員、どれも自分には向いてないような気がして『簡単に高収入』のキャッチフレーズに魅かれて面接にきてみればそれはメールオペレーターと言う名の出会い系サイトのサクラだったと言うわけだ。

 そんな生活をして三年になるサクラ業にも慣れ、初めは多少痛んでいた良心もすっかりすり減ってこの有様である。

 ブラックな仕事なので労働基準なんてものはなく、希望すればするだけ働いて稼ぐことができた。

 だから今日のように二十四時間、ぶっ通しで働く事もできるし、自給千円で今日だけで二万四千円は稼いだ事になる。そういう働き方ができるからアルバイトでも金には困らず生活している。

 けれど漠然と、何かが削がれてる感覚だけはあった。

 大事な何かを忘れている。

 得に今日の『チヒロ』の相手とのやりとりなんかを思い出すとそれが浮き彫りになる気がした。

 『チヒロ』はあの同僚鈴木がふざけて作ったキャラだった。

 千浩とは正反対と言っていい、純粋で小さくフワフワとした物腰の女の子――と言う設定である。その常連客と言えるユーザーは数人いるが今日会う約束をした阿久津は本当にただ純粋に『チヒロ』のことを愛していた。

 温厚で暖かい性格、仕事は確か営業だと言っていた。

 他のユーザーのようにポイントがないから性急に会おうともしないから、 高額なポイントを購入しても差し支えないぐらいの稼ぎがあるのだろう。 だったら女なんてある程度近寄ってきそうなものなのに、彼は何故かこんな出会い系サイトを使用しているのは少し不思議だった。

 日常の会話、相談、千浩はたまに仕事であることを忘れて彼とメールのやりとりをした。

 『チヒロ』の話を親身になって聞いてくれる彼は『チヒロ』を通し千浩の内面を見透かしているようで――…。

 (どんな奴なんだろう)

 そう言えば彼の顔を見たことがない。阿久津はどんなに強請っても写真を送ってはくれなかった。

 人に見せられないほど不細工なのかと最初は思ったが、打ち込まれている言葉の綺麗さにどうしてもそんな気がしなかった。

 あんなサイトを利用しているぐらいなのだから、容姿に期待はできないと分かっているのにどうしてもしっくりこない。

 (顔見てみたいな)

 なんとなく湧き上がった興味。

 (――確か約束のN公園はこの近くだったよな?)

 少し覗いてみようか――そう思ったのは単なる好奇心だった。




 N公園午後十八時。

 十月の後半、日はそう長くなく十八時ともなれば辺りは大分暗くなっていた。

 昼間は子供で賑やかだっただろうその公園も今は薄青い暗闇に包まれて人気がない。首の長い白い電燈だけがその公園を照らしている。薄暗い公園は 千浩の他には誰もいなかった。

 誰か千浩の次に阿久津の相手をした奴がドタキャンを回避したのかもしれない。吐き出した溜息は落胆なのか安堵なのか自分にも分からなかった。

 (帰ろう)

 そう思い踵を返した時だった。

 「ちーちゃん?」

 不意に呼ばれて思わず反射で振り向いてしまう。

 「やっぱり!ちーちゃんだ!」

 千浩の視線の先にはにこにこと嬉しそうに笑う男が一人。男にしては少し長めの黒髪、切れ長の瞳に鼻筋の通った丹精な顔立ちで手足は長く、千浩よりも少し高い身長はきっと百八十センチはあるだろう。グレーのダブルのスーツはしっかりとプレスされていて物が良さそうで――…。

 「こんばんは、分かるかな?阿久津冬弥です」

 とても出会い系なんかやるようには見えなかった。

 「――って、え?」

 何故、もしかしてバレたのだろう。自分がサクラでずっと性別を偽ってメールをしていたことを『チヒロ』なんて女はいないと言うことを全て彼は承知していたのだろうか。

 血の気が一気に下がっていった。緊張で指先が冷たくなる。一体なんて言えばいいのだろう。

 仕事中はいくらでも浮かぶ言い訳がこんな時に限って浮かばなかった。

 頭が真っ白で思考が空回りしている。言葉一つ発せないままただ立ち尽くすしかない千浩に冬弥は柔らかい笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。

 「やっぱり忘れちゃったかな?」

 一体どんな報復をするつもりなのか、どんな仕返しをするつもりなのか、 こいつは詐欺師だと警察に突き出されるのだろうか。

 「高校の時同じクラスだった阿久津冬弥だよ。藤崎千浩くん」

 冬弥の言葉に千浩はハッと我に返った。

 (なんだ、同級生か)

 そう言えばそんな奴がクラスに居たような気がする。

 今の今まで忘れていたけれど。

 忘れてしまうぐらいそのクラスメイトは影が薄く、思い出した今でも学生の頃の顔が思い出せない。

 「お前、変わった?」

 変化を指摘できるほど親しかったわけではないけれど、それでもそう言わずにはいられない程目の前の彼とクラスメイトの阿久津冬弥のイメージはかけ離れていた。

 「あっ!やっと誰だかわかった?嬉しいなぁ」

 冬弥はニコニコと笑う。

 とりあえずは良かったと千浩は安堵しながら、その笑顔に全く見覚えがなくて千浩は喉元に何か詰まっているような不快感を感じていた。

 「ねぇ、よかったらこれから飲みにでもいかない?」

 まるで、本当に久しぶりにあった友人のように冬弥はそう千浩を誘った。

 「えっ?でも」

 正直そこまで親しくなかった。

 クラスメイトだと分かった今でも、当時の姿が思い出せないぐらいなのだ。共通の思い出もないし、正直何を話したらいいのかよく分からない。

 「本当はさ、これから女の子と会う予定だったんだけどなんかすっぽかされちゃったみたい」

 頭を掻きながら恥ずかしそうに言う冬弥の姿につきり、と胸が痛くなる。約束を取り付けたのは自分だ。

 今迄画面の文字でしか見ていなかったものがいざ実態を伴い目の前に現れると途端にリアリティーが増したように感じる。ゲーム感覚だったやりとりも、画面の向こう側には人がいたのだと自覚する。

 「いいよ。この近くに良い店知ってるからそこいこうぜ」

 良い店と言うか、よくあるチェーン店の居酒屋だった。赤い看板に白文字の比較的料金が安い店だ。まだ開店したばかりなのか客はまばらで、時折遠くの席から笑い声が聞こえる程度の込み具合だった。

 いっそもっと雑音で溢れていたなら、相手の言葉に適当に相槌を打ってればいいだけなのだが。

 (一体何話せばいいんだよ)

 思い出すこともできない元クラスメイトと自分は一体何を話せばいいのだろうか。

 千浩と冬弥は四人掛けの半個室の席に通される。

 「さぁ何飲む?今日は俺が奢ってやるよ」

 とにかく酒に酔わせて会話をうやむやにしてしまおうと千浩は思った。

 幸い今は給料日後で懐もある程度暖かい。少し奢ってやるぐらいなら千浩の生活に対したダメージもないだろう。

 「わぁ!本当?うれしいなぁ」

 千浩の言葉に冬弥は子供のようにはしゃいで喜んだ。

 (やっぱり思い出せない)

 確かに阿久津というクラスメイトはいた。

 しかしこんな子犬のような奴が自分のクラスに居ただろうか?顔だって別に悪くない。だったら自分の記憶に残っていそうな筈なのに何度頭の中の記憶を掻きまわしてもそれらしい人物が見当たらない。

 記憶力は割といい方だと自分では思っていたが、そうでもなかったのだろうか。

 学生時代の小さな出来事は覚えているのに。それこそ、空の色や空気の匂、校舎の窓から差し込む夕焼けの色――…。

 (あれ?)

 何かが欠けているようなそんな違和感を感じた。

 自分は何かを忘れている。それが阿久津のことなのか、そとも別のことなのかはよく分からないけれど。

 何か、

 「ちーちゃん!」

 そう呼ばれてハッとする。

 「あっ、わりぃぼーっとしてた」

 誤魔化して笑う。

 今はそんなことより今後の話題の方が大事だ。

 一体この男と自分は何を話せばいいのだろうか千浩は再び思考を巡らせる。

 「仕事のし過ぎじゃない?疲れてるのかも」

 冬弥は心配そうに眉を寄せると千浩の顔を覗き込んでくる。

 「ほら、クマがある!綺麗な顔なのに台無しだ」

 それから千浩の頬に触れて親指で目の下をなぞった。

 冬弥の手はひやりと冷たい。

 「無理したら駄目だからね」

 まるで子供に言い聞かすようにそう言う冬弥の黒い瞳の中に自分の姿を見つける。その瞳には飽きれる程に千浩しか映っていないのだ。

 漆黒のその瞳にそんなに真っ直ぐ見つめられるとなんだか照れくさい気分になる。同時に、何もかも見通されてるような焦りと、でも矛盾するように安堵感も覚えた。

 今日会ったばかりの、記憶にないクラスメイト阿久津冬弥。

 千浩の勤めるサイトのユーザー

 ――不思議な男だ。


 あの日から、千浩と冬弥の友人関係は続いている。居酒屋についてから会話に詰まったらどうしようかと思っていたのだが千浩と冬弥の趣味は驚くほど同じだった。

 好きな映画、食べ物、ゲーム、テレビにお笑い、服のブランドも何から何まで話が合う。

 そいえば結局彼はサイトを退会。『チヒロ』の元にもう二度と阿久津からのメールが来ることはなかった。

 「お疲れ様でしたー」

 いつものようにタイムカードを押す。今日はこの後に冬弥と会う予定だった。

 趣味が合うのもそうだが、何故か千浩は冬弥と一緒にいると酷く落ち着く。本当の千浩を彼が分かってくれて居るような、よく説明できないがそんな感じがするのだ。

 必死で隠したり取り繕ったりしないで済む。自然体でいられる気がした。

 「ちーひろ!なんか最近機嫌いいけどどうした?彼女でもできたか?」

 千浩が職場を出ようとした時、背後から鈴木がそう声をかけてきた。にやにやと人の悪い笑みを浮かべて。

 「別に、最近古い友人と偶然会って、なんか気が合うんですよね。好きなものとか趣味も似ていて」

 友人と言うほど昔は親しくなかったのだが、たかだか職場が同じだけのこの男に全てを言う必要はないだろう。

 「へぇー…なんか、この前そんなストカーの話しテレビでやってたぞー偶然装って出会って、趣味調べて相手に合わせて」

 鈴木はきっと相手が女だとでも思っているのだろう。

 千浩は、それはないと首を振った。

 「まさか、相手は男ですよ」

 笑い飛ばして職場を出る。あの阿久津が犬のように無邪気なあの男がそんな用意周到なこと出来る筈もない。『チヒロ』の存在を疑うことなく信じた。

 あれは純粋な男なのだから――。




 「ちーちゃん!」

 待ち合わせ場所のカフェ。窓際の角の席に座っていた冬弥は千浩の姿を見つけると男は嬉しそうに手を振った。

 その幼い口調と、子供のような仕草が無ければ絶対にいい大人の男にしか見えないのに。自分が私服で彼がスーツと言うこともあるだろうが、きっと自分達は同年代には見られないだろう。

 老けているというわけではなく、冬弥は見た目だけは落ち着いて見えるからだ。

 (まぁ、俺が年齢の割りに落ち着いていないつーのもあるけど)

 カフェの窓ガラスに写る自分達はとても不釣り合いで、とても違和感があった。

 きっと他人から見たらきっとこのツーショットは不思議な組み合わせだろう。でもそんなこと構いはしない――と、千浩は思った。

 だって冬弥とは本当に話も合う。この前も今度公開の映画が見たいと何気なく言ったら、自分も気になっていると冬弥が言った。その監督の作品が好きだからと。千浩も、冬弥の意見に大きくうなずいた。

 学生の頃からその監督の創る少し皮肉でけれど笑いのあるストーリーが好きだっからだ。

 同士を見つけたようで嬉しくて、では今度一緒に件の映画を見に行こうと言うことになってそれが今日の約束だった。

 映画館近くのカフェ、公開時間まで後三十分はあるから暖かいものでも飲んでから向かおうと言うことになった。

 千浩はロイヤルミルクティー、冬弥はコヒーのブラック。

 「そう言えばさ、お前ってなんの仕事してんの?」

 営業と言うのはメールとのやりとりで知っていた。けれど、どんな会社なのか、思えば聞いたことがない。

 「ああ、営業で――商品って言えばいいのかな?そういうのを売ってるんだよ」

 歯切れの悪い言葉に千浩は少し疑問を感じる。

 「え?物じゃねぇの?」

 ざらりとしたものが腹の底に漂う。

 「あっ!ほら!もうそろそろ出ないと、映画始まっちゃうよ」

 冬弥は腕時計をちらりと見てからそう席を立って千浩を急かした。

 『へぇー…なんか、この前そんなストカーの話しテレビでやってたぞー趣味調べて相手に合わせて』冬弥の言葉に頷き千浩も立ち上がりながら先ほど鈴木に言われた言葉が不意に頭の中に蘇る。

 (まさか、そんな筈ない)

 冬弥に限って、そんなことのできる人間でない。

 「ちーちゃん行こう!予想よりゆっくりしちゃたっみたい。少し走らないと映画始まっちゃう」

 満面の笑みを浮かべながら、そう言って千浩の腕を引くこの男。

 (上辺しか俺は知らないじゃないか)

 そんな筈ないと言い切れるほど自分は彼を知らないのだと千浩はこの時初めて気がついたのだ。



 映画の内容なんてほとんど頭に入ってこなかった。

 ストーリーは分かったが心にくるものがない。それが単純に自分的にはこの映画がつまらなかったからなのか、映画を観る前に考えたことが原因なのかはよく分からなかった。

 「面白かったね」

 にこにこと笑いながら冬弥が言う。

 「特にさ、あの魔女。なんか共感しちゃったな」

 そう言えば映画は魔女とヴァンパイアの話だった。魔女が男に恋をし、振り向かない男にヴァンパイアになる呪いをかけてしまうと言う内容だった。

 「共感すんの?」

 千浩から言わせたらそんなの自分勝手な感情の押し付けでしかなかったし、実際魔女は映画の中で悪役だった。

 魔女がどんなに思おうと結局主人公のヴァンパイアは愛する人と結ばれる。それは映画監督的にも彼女の考えが間違っているということなんだと思う。

 でも、冬弥は言う。

 「愛しくて、愛しくて、相手の全てが欲しいと思う。相手に全てをあげたいと思う。それは自然なことだと僕は思うよ」

 そう語る彼の顔は千浩の知らない男の顔をしていた。




 職場でデスクに置いておいた携帯がメールを受信した。

 『今日、遊べない?』

 ――と言うメッセージ。相手は冬弥だった。

 実はあの映画の日以来、千浩は彼と会っていない。なんだか気まずくて『仕事が忙しい』と言っては向こうからの誘いを断っていた。

 実際は、仕事はむしろ忙しくない。SNSサイトのメジャー化により出会いの為に出会い系サイトを利用する者自体が減っているからだ。

三年前の入りたての時に比べても明らかにユーザーは減っている。それはそうだろう。有料で金を出して出会うより無料のSNSを使用した方が安全で手軽に出会う事ができる。出会い系サイト=サクラと言う考えも広まってるせいか警戒心が強くなり、最近サイトの新規ユーザーがあまり増えていない。

 そうなるとアルバイトのシフトカットが始まる。人件費削減のためだ。千浩も週五出ていたシフトを一日削られて週四にされた。

それでもまぁ、休みが増えたと思うぐらいで対して危機感はなかったのだが――。

 「売上不振ということで、今月いっぱいで解雇と言うことになります」

 突然社員に呼び出され何かと思ったらそう告げられた。

 (今月いっぱいって――今日、三十一日なんだけど)

 メールの返信をしながら千浩は思った。

 相変わらずフロアにはタイプ音が絶え間なく響いている。

 実質、今日でクビと言うことだ。本来なら、解雇宣告は一か月前に言わなければいけないのだが、流石、ブラックな仕事だ。解雇の仕方もブラックだった。

 アルバイトは千浩も含め半分ぐらい一気に辞めさせられるようでその中にはあの鈴木も含まれていた。

 「まぁ、こういう業界にはよくあることよねー」

 と彼は呑気に笑っていた。

 明日からどうすればいいのか、同じ職種ならきっとまた新宿や渋谷辺りで見つかるだろうが、また同じように解雇されたらと思うともうやりたくないと言う気持ちが湧き上がってくる。多分、このサイトが――と言うよりは出会い系のサイト自体どこも同じようなものだろう。早いか遅いかの違いで、きっと千浩が新しく他の仕事を見つけない限りは結末は全て同じ終わり方になりそうな気がした。

 普通に働いてもいいが、果たして自分に勤まるのだろうか。今迄、逃げて、逃げて此処に居るのに。

それでも金がなければ生きていけないし、今更実家に帰るのも嫌だった。勝手に出ってどの面下げて帰ればいいのか分からない。

 こうなって初めて、自分は本当に頼れる人間が回りに一人もいないのだと思い知らされる。誰でも良いから相談したいと思うのに、そんな真面目な話ができるような友人はいない。

 会って、酒を飲んで馬鹿騒ぎして――そういう友達なら沢山いるけれど。

その時、また千浩の携帯がメールを受信する『残念だけど、仕事なら仕方ないね。あまり無理しないで頑張ってね』冬弥からの返信。


 『仕事、大丈夫になった。暇だしまだ予定平気?』


 思わずそう返してしまったのは寂しさからだと思う。今の千浩にとって相手なんて誰でも良かったのかもしれない。

 返事は直ぐ帰って来て、千浩は今夜、冬弥と会う事になった。



 「どうしたの?元気ないね」

 チェーン店の居酒屋、酒に浮かれ楽しげな黄色い声が聞こえる中、四人掛けのボックス席で二人は向かい合うように座っていた。

 「いや、別に……」

 一瞬、言ってしまおうかと思った言葉を千浩は飲み込む。本当は誰でも言いから言ってしまいたかった。週に六日、酷い時は七日、最低十二時間働かせたブラックな会社を今日、クビにされなのだ――と。

 でも、言えなかった。

 それは、目の前の彼がその会社の利用者であり、その会社自体は言うならば詐欺行為をしていて、自分も其処に努めていた。むしろ進んで騙していたのだと、言える筈もなかった。

 「別にって感じじゃないよ?何かあったなら、言って欲しいな――必ず僕が解決してあげる」

 にっこりと笑いながら、冬弥は言った。

 「お前なぁ、そんなに簡単に安請け合いするなよ――…じゃあ、もし俺が一生、食うのに困らないぐらいの大金が欲しいんだけど……とか言ったらどーすんの?」

 そんな意地の悪い事を言ってしまったのは少し苛立っていたのかもしれない。冬弥に当たっても仕方がないのに。

 「お金が欲しいの?」

 すると冬弥はきょとんとした顔をして、それからそっと千浩の右手をとった。

 「いいよ、あげる。ちーちゃんが欲しいだけ好きな金額を書けばいい」

 そして渡されたのは金額の入っていない小切手だった。

 「ばっ!馬鹿かお前!冗談だよ!」

 咄嗟に千浩は渡された小切手を手放――。「駄目だよ。もうこれは一個目の願い事」

 手放せなかったのだ。

 千浩の手は千浩の意思とは無関係に手の平の小切手をぎゅと掴んで離さない。

 「な、なんで?」

 己の言う事を聞かない右手を千浩は茫然と見下ろした。

 「これがね――僕のお仕事。ほら、ランプの魔人とか、メフィストフェレスとかそういうのと同じだよ。ちーちゃんの三つの願い事を聞いてあげる」

 冬弥が何を言ってるのか千浩にはよく分からなかった。正直、馬鹿馬鹿しいと思った。

 「混乱してるんだね。うん、いいよ暫くゆっくり考えてね。願い事はあと二つだから」

 そう言うと冬弥は伝票を持って立ち上がった。

 「ゆっくり、考えて?」

 目を細め口角を上げて冬弥が笑みを作る。本当に綺麗に笑うから千浩は思わず見惚れてしまった。

 それから、優しい低音が頭の中でクルクルと回る。すると視界も回り強い酒でも飲んだかのように身体がフワフワとしていた。

 ぐるぐる回る。

 本当はあっちが下でこっちが上なんじゃないかと思った。

 それがあまりにも抵抗無く空に飛んでいたから、まるで不思議の国に迷い込んだ少女のように。穴の下を落ちて落ちて、落ちていったら人は逆立ちしているのだろうか。

 くるくると頭が回る。

 パニックだ。

 自分の頭は今、混乱している。

 だってもし、こちらが上であっちが下なら――――。

 拍手、拍手、拍手。

 拍手喝采。




 目が覚めると自分の部屋に居た。

 一瞬全て夢か何かかと思ったが千浩の右手には金額の書かれていない小切手が握られていた。

 兎に角、あの男がランプの魔人や悪魔だなんて事は信じられる筈もない。

それほど酒を飲んだ覚えも無いが、もしかしたら酔って何かしらの身体の不具合が起きたのかもしれない。

 「でも、そうか願い事か――」

 この小切手を使うか使わないかは別として、金が手に入ったなら後はもう願う事などある気がしない。

 「ああ、そうだ」

 あの自分をクビにした会社が潰れたらいいのに――。

 と、思った瞬間に携帯が鳴った。

 着信相手は昨日まで一緒の職場で働いていた鈴木だ。

 「もしもし?」

 一体何の用だ、そう思いながら無視するのも悪い気がして千浩は通話ボタンを押す。

 「おっ、千浩ニュース見た?」

 鈴木は少し焦ったように言葉を吐き出す。

 「は?今起きたとこだから見てないですけど」

 一体何なのだと、千浩は顔を顰めながらテレビを電源ボタンを押した。

 「あの会社、ガサ入れ入ったらしいぞ!お前が帰った直ぐあと!」

 モニターの中には見慣れたビルから次々とダンボールを運び出す刑事の姿が映し出されている。

 「俺達バイトだし現場に居たとしても調書とられるぐらいだけどさーよかったなぁー!あれ結構面倒だし」

 鈴木はどこか愉快そうにそう言うと「ざまぁーみろだよな」と言って電話を切った。

 「まさか……な」

 きっと駄々の偶然だ。

 馬鹿みたいに同じ映像を繰り替え明日ニュースを見ながら千浩は少し背筋が寒くなるような気がした。

 「あと一つだね」

 と、不意の背後からそう声を掛けられた。

 恐る恐る振り返ればそこには冬弥の姿があった。

 「お前、どこから!」

 そうか、鍵をかけなかったから――いや樽俎も自分は何時この部屋に帰って来たのか、それにさっきまで誰の気配も無かった。

 九畳のワンルームのこの部屋には千浩しかいなかった筈だ。

 玄関の扉は防犯の為か重い鉄製のものだし開けば音で気が付く筈なのに。

 「ちーちゃんあと一個だよ」

 冬弥は千浩の問いには答えず思いつめたようにそれだけを言う。

 「あと一個でちーちゃんは僕のもの……そう約束したもんね?」

 「やく、そく?」

 そんなもの、




 夕暮れの教室だった。

 室内には自分とあと一人しか居なくて、千浩は正直うんざりしていた。

 「だからしつこいつーの!そもそもお前男だろ?」

 「でも、僕は君が好きなんだ!」

 阿久津冬弥は千浩のクラスで虐められていた。

 太った容姿に脂ぎった髪の毛、分厚い便底みたいな眼鏡で、その容姿だけで子供にとって虐めの理由に十分だったのだ。

 虐めが陰湿なものから肉体的なものまで様々で、でもある日それでも毎日登校してくる阿久津に子供達は飽きを感じ始めた。

 そして、千浩は提案した。

 男の阿久津を自分は落とす事が出来るだろうか――と。それは今思えば虐めよりも更に達の悪い遊びで、仲間たちと口裏を合わせ千浩は苛められる阿久津を庇ったり優しく接してやったりした。

 そのかいあって、阿久津はまんまと男の千浩に惚れ、今日、告白までしてきたのだ。

 自分が好きだと、

 「何度も言ってるけど、俺はお前の事なんて本当は嫌いなの!気がある素振り見せたのは全部遊びで」

 「何をすればいい?君の為なら僕はなんでもするから、ちーちゃんの為なら、それで僕のものになってくれるなら僕はなんだってするよ?」

 阿久津は千浩の言葉なんて聞こうとしない。

 うざったくてイライラとした。

 ちょっと優しくしたぐらいで図に乗って、こっちの迷惑を考えもせず好きだなんだと、

 「じゃあ、死んで?」

 ちょっと傷つけるだけのつもりだった。

 「お前のその汚い面見ると吐き気がするんだよ。死んでそこそこ見れる人間に生まれ変わってから俺んとこに告白って来いよ」

 傷ついて、自分の事を恨んでもいいから諦めてくれるなら、それでいいかとワザと酷い言葉ばかり選んで投げつけた。

 最低だと泣くかと思ったのに、

 怒るかと思ったのに、

 罵るかと思ったのに、


 「分かったよ」


 彼は泣かなかった。

 怒らなかった。

 罵らなかった。

 ただ静かに、そう言って教室を出ていった。

 きっとそれは諦めの言葉なのだろうと、どこかスッキリしなかったが諦め たならそれでいいと千浩も教室を出ようとした時、



 ドンッ――――――。


 鈍い音、地響きのような。

 それから聞こえたのは悲鳴。

 騒めき、千浩は慌てて教室の窓を開け下を覗き込んだ。

 彼が、



 落ちていた。




 割れた頭、脳が飛び散って、首が変な方向に曲がって、無理やり逆関節に曲げられた人形みたいな阿久津冬弥のそれは死体。








 「思い出してくれて嬉しいよ」

 冬弥が笑う。

 「ふ、復讐に来たのかよ!」

 千浩が叫ぶ。

 恐怖で身体がカタカタと震えた。

 「復讐なんて!違うよ……ちゃんと、僕は君の言う通りにして帰ってきた。だから君にも約束を果たして欲しいだけだよ。君の願いを何でも叶えられるように、人じゃないものになって僕は帰ってきたんだよ」

 そっと身体を抱きしめられる。

 「さぁ、最後の願いを」

 それから耳元でそう囁かれた。

 一体何が起こってるのか、思考がハングアッしてついかない。

 なんでこんな事になってしまったんだろう?

 願いを言ったら自分は一体どうなってしまうんだろう。

 あるのは恐怖。

 ただひたすらの恐怖。

 「お前に――お前に会う前に戻りたい」

 だからそれが最後の願いだった。

 出会わなければ、こんな事には成らなかった。

 出会わなければ、

 出会わなければ、

 出会っていなければ、

 「それが、君の望みなら」

 彼は泣きそうな顔をしてそれから、それでも笑顔を作った。

 それから、数回手を叩く。

 拍手を送るように、それがだんだんと大きく多いものになる。

 まるで喝采。

 それから意識はぷつりと落ちて――。




 「ちーひーろー!千浩!」

 肩を強く揺すられて千浩は目を覚す。急に起こされたせいか、それとも何か悪い夢でも見たのか心臓が痛いぐらい早く動いていた。

 何か夢を見ていた気がするが思い出せない。ただ拍手の音だけがまだ聞こえていると気が付いた。

 辺りを見渡せば十二畳程の空間に所狭しとパソコンが並んでいる。

 (ここ――職場だ)

 この仕事に限ってだが。

 「ほら、居眠りしてるから『チヒロちゃん』が約束取り付けちゃってる」

 鈴木が指さした先、パソコン画面の中では甘い恋人同士のようなメールのやりとり。そのやりとりは今日の十八時にN公園で待ってますと言う返事で終わっていた。

 (あれ?どこかで?)

 デジャブするような感覚を覚えるが目の前の取り付けてしまった約束に千浩は直ぐにどうでもよくなる。

 (まいったなぁ……でも一体コイツどんな奴だろう?)

 少し見に行ってみようかなんて思ってる千浩の頭の片隅で、未だ喝采する拍手の音が響いていた。

もし、こちらが上であっちが下なら――――。

 拍手、拍手、拍手。

 拍手喝采。




 「ちーひーろー!千浩!」

 肩を強く揺すられて千浩は目を覚す。急に起こされたせいか、それとも何か悪い夢でも見たのか心臓が痛いぐらい早く動いていた。

 何か夢を見ていた気がするが思い出せない。ただ拍手の音だけがまだ聞こえていると気が付いた。

 辺りを見渡せば十二畳程の空間に所狭しとパソコンが並んでいる。

 (ここ――職場だ)

 そしてようやく自分が今居る場所が職場で夢の中で聞こえていた音は無数のタイピング音だった妙に納得したのだった。

 「なぁ、さすがに二十四時間勤務は限界なんじゃない?」

 そう言ったのは、さっき千浩を起こした同僚の鈴木だ。

 無精ひげに眼鏡、頭には朝からそのままの寝癖がついていて、だらしなさが目に見えて分かる男が、仕事に限って言えば、できる男だ。

 『この仕事に限ってだが。

 「ほら、居眠りしてるから『チヒロちゃん』が約束取り付けちゃってる」

 鈴木が指さした先、パソコン画面の中では甘い恋人同士のようなメールのやりとり。そのやりとりは今日の十八時にN公園で待ってますと言う返事で終わっていた。

 受信時間は一時間前。悔しくも約束の時間まで後三十分。

 (これは社員に怒られるの覚悟で、ドタキャンするしかないなぁ)

 千浩は溜息を吐きながらキーボードをタイピングすると相手にメールの返信をした。『今、準備してます。すごくドキドキしながらお洋服選んでました。この服で行きますね』と打ってからネットの画像検索で適当に探したピンク色のワンピースを画像添付して送信ボタンを押した。

 とりあえず公園に向かってるフリだけはして後は引き継ぎをし今日はもう上がってしまおう。

 時計を見れば、丁度勤務時間が終わりを迎えている。

 (やっぱり二十四時間勤務なんてするもんじゃない)

 ドタキャンの理由はどうすべきか、もう腹痛とかでいいんじゃないだろうか。覚醒しきらない頭での文字の打ち込み作業はどこか投げやりで最後に『他に良い理由があったら差し替えお願いします』引き継ぎ用のノートに書き込み千浩は席を立った。帰ると決めたらもう一秒だって席に座っていたくない。

 「お疲れ様でしたー」

 タイムカードを押すと、その一言を投げて千浩はその部屋を後にした。

 送り出したのは無数のタイピング音だけである。

 都内某所。そんなブラックな会社があるなんて絶対に誰も思わないだろう2階建てのアパートの階段を降りる。

 --カンカンカンカン。

 靴底が階段を叩く音は今も耳に貼り付いたように響くタイピング音と重なる。

 藤崎千浩。二十一歳。フリーター。アルバイト。アルバイト内容は有料出会い系サイトのメールオペレーター。用は『サクラ』である。

 架空の男性、女性になりサイトの会員とメールのやりとりをする。思わせぶりな態度をとって、一ポイント二百円のポイントを相手から削っていくのが千浩の仕事である。

 罪悪感がないわけではないが、それも薄れて来てしまう。『ノルマなし自給千円~の簡単なお仕事』は、今ではゲーム感覚で千浩の生活に沁み込みつつあった。

 そもそも、恋愛だとか友情だとかそういうものは千浩にとって昔からゲームみたいなものだったし、金が入るかそうじゃないかと違いしか変わっていない。

 (落とした後も餌をやるだけで今はマシなんじゃないの)

 茜色に染まる住宅街をぼんやり歩きながら思う。

 自分が学生の時はもっと酷かった。

 ゲーム感覚で恋愛を仕掛け、仲間とそれで賭けをしていた。ターゲットを決めて、告白し落せたら勝、落ちなかったら負け。

 我ながら中々のクソガキだったと思う。あの時、千浩は調子に乗っていたのだ。

 千浩の父親は大手企業の社長で、正直千浩は金に困ったことが無い。それで頭でも悪かったら金持ちの馬鹿坊ちゃんで済んだのに幸か不幸か千浩はそこそこ勉強もでき、多分顔も悪くないと思う。

 (男前ってわけでもねぇけど)

 信号待ち。自分の姿の映るカーブミラー。一重の吊り上った目。薄い唇。鼻筋は通っていると思う。首が少し長いのがコンプレックスだが、モデルのようだと女性には受けがいい。身長は一七七センチ。六五キロ。太っては居ない。赤い短髪と両耳に鈴なりのように合計二十個も付けたピアスは目立つらしい。

 欲しいものはないし、金がない訳ではないからだいたい欲しかったら手に入る事ができる。特に我慢した事はない。

 『若い頃の苦労は買ってでもしろ』なんて言われるけど、千浩は典型的に楽な方へ楽な方へ逃げて現在に至る。多分自分のようなものが日本の未来を駄目にするのだろうと思いはするが改善する気は全くない。

 夢があるわけでも、守るものがあるわけでもない。彼女は欲しいが、どちらかと言えば性欲処理的な意味で欲しいのであって恋愛は面倒だと思ってしまう。

 そうなるとセフレで十分だし、セフレならクラブに行って一晩限りの相手を使えたらいい。同じ相手と何度もセックスをしてると相手が勘違いする事があるから、あまり決まった相手とセックスしたりしたくないのだ。

 (改めて考えると俺ってサイテー?)

 でも今の若者でそんな生き方をしてるのは千浩だけではないのではないかと千浩は思っていた。

 だから危機感も覚えたりしない。こんなもんだろと思っている。今が良ければいい。これがいいのか、幸せかと聞かれたたら疑問を持つが、不幸は感じていない。だったらそれでいいと思うのだ。

 ただ学生の頃よりは多少不便さを感じてはいる。自分で働き、生きていかなければいけないのは家族と暮らし扶養で養ってもらうことよりは大変だ。

何となく家を出て、連絡を絶ちこうして生きてようやく分かる。生きるのには金が必要で、千浩のように苦労なく生きてきたものに対して世間は厳しい。

 コンビニの店員、土建業、カラオケボックス、パチンコ屋の接客、ガソリンスタンド、携帯の販売員、どれも自分には向いてないような気がして『簡単に高収入』のキャッチフレーズに魅かれて面接にきてみればそれはメールオペレーターと言う名の出会い系サイトのサクラだったと言うわけだ。

 そんな生活をして三年になるサクラ業にも慣れ、初めは多少痛んでいた良心もすっかりすり減ってこの有様である。

 ブラックな仕事なので労働基準なんてものはなく、希望すればするだけ働いて稼ぐことができた。

 だから今日のように二十四時間、ぶっ通しで働く事もできるし、自給千円で今日だけで二万四千円は稼いだ事になる。そういう働き方ができるからアルバイトでも金には困らず生活している。

 けれど漠然と、何かが削がれてる感覚だけはあった。

 大事な何かを忘れている。

 得に今日の『チヒロ』の相手とのやりとりなんかを思い出すとそれが浮き彫りになる気がした。

 『チヒロ』はあの同僚鈴木がふざけて作ったキャラだった。

 千浩とは正反対と言っていい、純粋で小さくフワフワとした物腰の女の子――と言う設定である。その常連客と言えるユーザーは数人いるが今日会う約束をした阿久津は本当にただ純粋に『チヒロ』のことを愛していた。

 温厚で暖かい性格、仕事は確か営業だと言っていた。

 他のユーザーのようにポイントがないから性急に会おうともしないから、 高額なポイントを購入しても差し支えないぐらいの稼ぎがあるのだろう。 だったら女なんてある程度近寄ってきそうなものなのに、彼は何故かこんな出会い系サイトを使用しているのは少し不思議だった。

 日常の会話、相談、千浩はたまに仕事であることを忘れて彼とメールのやりとりをした。

 『チヒロ』の話を親身になって聞いてくれる彼は『チヒロ』を通し千浩の内面を見透かしているようで――…。

 (どんな奴なんだろう)

 そう言えば彼の顔を見たことがない。阿久津はどんなに強請っても写真を送ってはくれなかった。

 人に見せられないほど不細工なのかと最初は思ったが、打ち込まれている言葉の綺麗さにどうしてもそんな気がしなかった。

 あんなサイトを利用しているぐらいなのだから、容姿に期待はできないと分かっているのにどうしてもしっくりこない。

 (顔見てみたいな)

 なんとなく湧き上がった興味。

 (――確か約束のN公園はこの近くだったよな?)

 少し覗いてみようか――そう思ったのは単なる好奇心だった。




 N公園午後十八時。

 十月の後半、日はそう長くなく十八時ともなれば辺りは大分暗くなっていた。

 昼間は子供で賑やかだっただろうその公園も今は薄青い暗闇に包まれて人気がない。首の長い白い電燈だけがその公園を照らしている。薄暗い公園は 千浩の他には誰もいなかった。

 誰か千浩の次に阿久津の相手をした奴がドタキャンを回避したのかもしれない。吐き出した溜息は落胆なのか安堵なのか自分にも分からなかった。

 (帰ろう)

 そう思い踵を返した時だった。

 「ちーちゃん?」

 不意に呼ばれて思わず反射で振り向いてしまう。

 「やっぱり!ちーちゃんだ!」

 千浩の視線の先にはにこにこと嬉しそうに笑う男が一人。男にしては少し長めの黒髪、切れ長の瞳に鼻筋の通った丹精な顔立ちで手足は長く、千浩よりも少し高い身長はきっと百八十センチはあるだろう。グレーのダブルのスーツはしっかりとプレスされていて物が良さそうで――…。

 「こんばんは、分かるかな?阿久津冬弥です」

 とても出会い系なんかやるようには見えなかった。

 「――って、え?」

 何故、もしかしてバレたのだろう。自分がサクラでずっと性別を偽ってメールをしていたことを『チヒロ』なんて女はいないと言うことを全て彼は承知していたのだろうか。

 血の気が一気に下がっていった。緊張で指先が冷たくなる。一体なんて言えばいいのだろう。

 仕事中はいくらでも浮かぶ言い訳がこんな時に限って浮かばなかった。

 頭が真っ白で思考が空回りしている。言葉一つ発せないままただ立ち尽くすしかない千浩に冬弥は柔らかい笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。

 「やっぱり忘れちゃったかな?」

 一体どんな報復をするつもりなのか、どんな仕返しをするつもりなのか、 こいつは詐欺師だと警察に突き出されるのだろうか。

 「高校の時同じクラスだった阿久津冬弥だよ。藤崎千浩くん」

 冬弥の言葉に千浩はハッと我に返った。

 (なんだ、同級生か)

 そう言えばそんな奴がクラスに居たような気がする。

 今の今まで忘れていたけれど。

 忘れてしまうぐらいそのクラスメイトは影が薄く、思い出した今でも学生の頃の顔が思い出せない。

 「お前、変わった?」

 変化を指摘できるほど親しかったわけではないけれど、それでもそう言わずにはいられない程目の前の彼とクラスメイトの阿久津冬弥のイメージはかけ離れていた。

 「あっ!やっと誰だかわかった?嬉しいなぁ」

 冬弥はニコニコと笑う。

 とりあえずは良かったと千浩は安堵しながら、その笑顔に全く見覚えがなくて千浩は喉元に何か詰まっているような不快感を感じていた。

 「ねぇ、よかったらこれから飲みにでもいかない?」

 まるで、本当に久しぶりにあった友人のように冬弥はそう千浩を誘った。

 「えっ?でも」

 正直そこまで親しくなかった。

 クラスメイトだと分かった今でも、当時の姿が思い出せないぐらいなのだ。共通の思い出もないし、正直何を話したらいいのかよく分からない。

 「本当はさ、これから女の子と会う予定だったんだけどなんかすっぽかされちゃったみたい」

 頭を掻きながら恥ずかしそうに言う冬弥の姿につきり、と胸が痛くなる。約束を取り付けたのは自分だ。

 今迄画面の文字でしか見ていなかったものがいざ実態を伴い目の前に現れると途端にリアリティーが増したように感じる。ゲーム感覚だったやりとりも、画面の向こう側には人がいたのだと自覚する。

 「いいよ。この近くに良い店知ってるからそこいこうぜ」

 良い店と言うか、よくあるチェーン店の居酒屋だった。赤い看板に白文字の比較的料金が安い店だ。まだ開店したばかりなのか客はまばらで、時折遠くの席から笑い声が聞こえる程度の込み具合だった。

 いっそもっと雑音で溢れていたなら、相手の言葉に適当に相槌を打ってればいいだけなのだが。

 (一体何話せばいいんだよ)

 思い出すこともできない元クラスメイトと自分は一体何を話せばいいのだろうか。

 千浩と冬弥は四人掛けの半個室の席に通される。

 「さぁ何飲む?今日は俺が奢ってやるよ」

 とにかく酒に酔わせて会話をうやむやにしてしまおうと千浩は思った。

 幸い今は給料日後で懐もある程度暖かい。少し奢ってやるぐらいなら千浩の生活に対したダメージもないだろう。

 「わぁ!本当?うれしいなぁ」

 千浩の言葉に冬弥は子供のようにはしゃいで喜んだ。

 (やっぱり思い出せない)

 確かに阿久津というクラスメイトはいた。

 しかしこんな子犬のような奴が自分のクラスに居ただろうか?顔だって別に悪くない。だったら自分の記憶に残っていそうな筈なのに何度頭の中の記憶を掻きまわしてもそれらしい人物が見当たらない。

 記憶力は割といい方だと自分では思っていたが、そうでもなかったのだろうか。

 学生時代の小さな出来事は覚えているのに。それこそ、空の色や空気の匂、校舎の窓から差し込む夕焼けの色――…。

 (あれ?)

 何かが欠けているようなそんな違和感を感じた。

 自分は何かを忘れている。それが阿久津のことなのか、そとも別のことなのかはよく分からないけれど。

 何か、

 「ちーちゃん!」

 そう呼ばれてハッとする。

 「あっ、わりぃぼーっとしてた」

 誤魔化して笑う。

 今はそんなことより今後の話題の方が大事だ。

 一体この男と自分は何を話せばいいのだろうか千浩は再び思考を巡らせる。

 「仕事のし過ぎじゃない?疲れてるのかも」

 冬弥は心配そうに眉を寄せると千浩の顔を覗き込んでくる。

 「ほら、クマがある!綺麗な顔なのに台無しだ」

 それから千浩の頬に触れて親指で目の下をなぞった。

 冬弥の手はひやりと冷たい。

 「無理したら駄目だからね」

 まるで子供に言い聞かすようにそう言う冬弥の黒い瞳の中に自分の姿を見つける。その瞳には飽きれる程に千浩しか映っていないのだ。

 漆黒のその瞳にそんなに真っ直ぐ見つめられるとなんだか照れくさい気分になる。同時に、何もかも見通されてるような焦りと、でも矛盾するように安堵感も覚えた。

 今日会ったばかりの、記憶にないクラスメイト阿久津冬弥。

 千浩の勤めるサイトのユーザー

 ――不思議な男だ。


 あの日から、千浩と冬弥の友人関係は続いている。居酒屋についてから会話に詰まったらどうしようかと思っていたのだが千浩と冬弥の趣味は驚くほど同じだった。

 好きな映画、食べ物、ゲーム、テレビにお笑い、服のブランドも何から何まで話が合う。

 そいえば結局彼はサイトを退会。『チヒロ』の元にもう二度と阿久津からのメールが来ることはなかった。

 「お疲れ様でしたー」

 いつものようにタイムカードを押す。今日はこの後に冬弥と会う予定だった。

 趣味が合うのもそうだが、何故か千浩は冬弥と一緒にいると酷く落ち着く。本当の千浩を彼が分かってくれて居るような、よく説明できないがそんな感じがするのだ。

 必死で隠したり取り繕ったりしないで済む。自然体でいられる気がした。

 「ちーひろ!なんか最近機嫌いいけどどうした?彼女でもできたか?」

 千浩が職場を出ようとした時、背後から鈴木がそう声をかけてきた。にやにやと人の悪い笑みを浮かべて。

 「別に、最近古い友人と偶然会って、なんか気が合うんですよね。好きなものとか趣味も似ていて」

 友人と言うほど昔は親しくなかったのだが、たかだか職場が同じだけのこの男に全てを言う必要はないだろう。

 「へぇー…なんか、この前そんなストカーの話しテレビでやってたぞー偶然装って出会って、趣味調べて相手に合わせて」

 鈴木はきっと相手が女だとでも思っているのだろう。

 千浩は、それはないと首を振った。

 「まさか、相手は男ですよ」

 笑い飛ばして職場を出る。あの阿久津が犬のように無邪気なあの男がそんな用意周到なこと出来る筈もない。『チヒロ』の存在を疑うことなく信じた。

 あれは純粋な男なのだから――。




 「ちーちゃん!」

 待ち合わせ場所のカフェ。窓際の角の席に座っていた冬弥は千浩の姿を見つけると男は嬉しそうに手を振った。

 その幼い口調と、子供のような仕草が無ければ絶対にいい大人の男にしか見えないのに。自分が私服で彼がスーツと言うこともあるだろうが、きっと自分達は同年代には見られないだろう。

 老けているというわけではなく、冬弥は見た目だけは落ち着いて見えるからだ。

 (まぁ、俺が年齢の割りに落ち着いていないつーのもあるけど)

 カフェの窓ガラスに写る自分達はとても不釣り合いで、とても違和感があった。

 きっと他人から見たらきっとこのツーショットは不思議な組み合わせだろう。でもそんなこと構いはしない――と、千浩は思った。

 だって冬弥とは本当に話も合う。この前も今度公開の映画が見たいと何気なく言ったら、自分も気になっていると冬弥が言った。その監督の作品が好きだからと。千浩も、冬弥の意見に大きくうなずいた。

 学生の頃からその監督の創る少し皮肉でけれど笑いのあるストーリーが好きだっからだ。

 同士を見つけたようで嬉しくて、では今度一緒に件の映画を見に行こうと言うことになってそれが今日の約束だった。

 映画館近くのカフェ、公開時間まで後三十分はあるから暖かいものでも飲んでから向かおうと言うことになった。

 千浩はロイヤルミルクティー、冬弥はコヒーのブラック。

 「そう言えばさ、お前ってなんの仕事してんの?」

 営業と言うのはメールとのやりとりで知っていた。けれど、どんな会社なのか、思えば聞いたことがない。

 「ああ、営業で――商品って言えばいいのかな?そういうのを売ってるんだよ」

 歯切れの悪い言葉に千浩は少し疑問を感じる。

 「え?物じゃねぇの?」

 ざらりとしたものが腹の底に漂う。

 「あっ!ほら!もうそろそろ出ないと、映画始まっちゃうよ」

 冬弥は腕時計をちらりと見てからそう席を立って千浩を急かした。

 『へぇー…なんか、この前そんなストカーの話しテレビでやってたぞー趣味調べて相手に合わせて』冬弥の言葉に頷き千浩も立ち上がりながら先ほど鈴木に言われた言葉が不意に頭の中に蘇る。

 (まさか、そんな筈ない)

 冬弥に限って、そんなことのできる人間でない。

 「ちーちゃん行こう!予想よりゆっくりしちゃたっみたい。少し走らないと映画始まっちゃう」

 満面の笑みを浮かべながら、そう言って千浩の腕を引くこの男。

 (上辺しか俺は知らないじゃないか)

 そんな筈ないと言い切れるほど自分は彼を知らないのだと千浩はこの時初めて気がついたのだ。



 映画の内容なんてほとんど頭に入ってこなかった。

 ストーリーは分かったが心にくるものがない。それが単純に自分的にはこの映画がつまらなかったからなのか、映画を観る前に考えたことが原因なのかはよく分からなかった。

 「面白かったね」

 にこにこと笑いながら冬弥が言う。

 「特にさ、あの魔女。なんか共感しちゃったな」

 そう言えば映画は魔女とヴァンパイアの話だった。魔女が男に恋をし、振り向かない男にヴァンパイアになる呪いをかけてしまうと言う内容だった。

 「共感すんの?」

 千浩から言わせたらそんなの自分勝手な感情の押し付けでしかなかったし、実際魔女は映画の中で悪役だった。

 魔女がどんなに思おうと結局主人公のヴァンパイアは愛する人と結ばれる。それは映画監督的にも彼女の考えが間違っているということなんだと思う。

 でも、冬弥は言う。

 「愛しくて、愛しくて、相手の全てが欲しいと思う。相手に全てをあげたいと思う。それは自然なことだと僕は思うよ」

 そう語る彼の顔は千浩の知らない男の顔をしていた。




 職場でデスクに置いておいた携帯がメールを受信した。

 『今日、遊べない?』

 ――と言うメッセージ。相手は冬弥だった。

 実はあの映画の日以来、千浩は彼と会っていない。なんだか気まずくて『仕事が忙しい』と言っては向こうからの誘いを断っていた。

 実際は、仕事はむしろ忙しくない。SNSサイトのメジャー化により出会いの為に出会い系サイトを利用する者自体が減っているからだ。

三年前の入りたての時に比べても明らかにユーザーは減っている。それはそうだろう。有料で金を出して出会うより無料のSNSを使用した方が安全で手軽に出会う事ができる。出会い系サイト=サクラと言う考えも広まってるせいか警戒心が強くなり、最近サイトの新規ユーザーがあまり増えていない。

 そうなるとアルバイトのシフトカットが始まる。人件費削減のためだ。千浩も週五出ていたシフトを一日削られて週四にされた。

それでもまぁ、休みが増えたと思うぐらいで対して危機感はなかったのだが――。

 「売上不振ということで、今月いっぱいで解雇と言うことになります」

 突然社員に呼び出され何かと思ったらそう告げられた。

 (今月いっぱいって――今日、三十一日なんだけど)

 メールの返信をしながら千浩は思った。

 相変わらずフロアにはタイプ音が絶え間なく響いている。

 実質、今日でクビと言うことだ。本来なら、解雇宣告は一か月前に言わなければいけないのだが、流石、ブラックな仕事だ。解雇の仕方もブラックだった。

 アルバイトは千浩も含め半分ぐらい一気に辞めさせられるようでその中にはあの鈴木も含まれていた。

 「まぁ、こういう業界にはよくあることよねー」

 と彼は呑気に笑っていた。

 明日からどうすればいいのか、同じ職種ならきっとまた新宿や渋谷辺りで見つかるだろうが、また同じように解雇されたらと思うともうやりたくないと言う気持ちが湧き上がってくる。多分、このサイトが――と言うよりは出会い系のサイト自体どこも同じようなものだろう。早いか遅いかの違いで、きっと千浩が新しく他の仕事を見つけない限りは結末は全て同じ終わり方になりそうな気がした。

 普通に働いてもいいが、果たして自分に勤まるのだろうか。今迄、逃げて、逃げて此処に居るのに。

それでも金がなければ生きていけないし、今更実家に帰るのも嫌だった。勝手に出ってどの面下げて帰ればいいのか分からない。

 こうなって初めて、自分は本当に頼れる人間が回りに一人もいないのだと思い知らされる。誰でも良いから相談したいと思うのに、そんな真面目な話ができるような友人はいない。

 会って、酒を飲んで馬鹿騒ぎして――そういう友達なら沢山いるけれど。

その時、また千浩の携帯がメールを受信する『残念だけど、仕事なら仕方ないね。あまり無理しないで頑張ってね』冬弥からの返信。


 『仕事、大丈夫になった。暇だしまだ予定平気?』


 思わずそう返してしまったのは寂しさからだと思う。今の千浩にとって相手なんて誰でも良かったのかもしれない。

 返事は直ぐ帰って来て、千浩は今夜、冬弥と会う事になった。



 「どうしたの?元気ないね」

 チェーン店の居酒屋、酒に浮かれ楽しげな黄色い声が聞こえる中、四人掛けのボックス席で二人は向かい合うように座っていた。

 「いや、別に……」

 一瞬、言ってしまおうかと思った言葉を千浩は飲み込む。本当は誰でも言いから言ってしまいたかった。週に六日、酷い時は七日、最低十二時間働かせたブラックな会社を今日、クビにされなのだ――と。

 でも、言えなかった。

 それは、目の前の彼がその会社の利用者であり、その会社自体は言うならば詐欺行為をしていて、自分も其処に努めていた。むしろ進んで騙していたのだと、言える筈もなかった。

 「別にって感じじゃないよ?何かあったなら、言って欲しいな――必ず僕が解決してあげる」

 にっこりと笑いながら、冬弥は言った。

 「お前なぁ、そんなに簡単に安請け合いするなよ――…じゃあ、もし俺が一生、食うのに困らないぐらいの大金が欲しいんだけど……とか言ったらどーすんの?」

 そんな意地の悪い事を言ってしまったのは少し苛立っていたのかもしれない。冬弥に当たっても仕方がないのに。

 「お金が欲しいの?」

 すると冬弥はきょとんとした顔をして、それからそっと千浩の右手をとった。

 「いいよ、あげる。ちーちゃんが欲しいだけ好きな金額を書けばいい」

 そして渡されたのは金額の入っていない小切手だった。

 「ばっ!馬鹿かお前!冗談だよ!」

 咄嗟に千浩は渡された小切手を手放――。「駄目だよ。もうこれは一個目の願い事」

 手放せなかったのだ。

 千浩の手は千浩の意思とは無関係に手の平の小切手をぎゅと掴んで離さない。

 「な、なんで?」

 己の言う事を聞かない右手を千浩は茫然と見下ろした。

 「これがね――僕のお仕事。ほら、ランプの魔人とか、メフィストフェレスとかそういうのと同じだよ。ちーちゃんの三つの願い事を聞いてあげる」

 冬弥が何を言ってるのか千浩にはよく分からなかった。正直、馬鹿馬鹿しいと思った。

 「混乱してるんだね。うん、いいよ暫くゆっくり考えてね。願い事はあと二つだから」

 そう言うと冬弥は伝票を持って立ち上がった。

 「ゆっくり、考えて?」

 目を細め口角を上げて冬弥が笑みを作る。本当に綺麗に笑うから千浩は思わず見惚れてしまった。

 それから、優しい低音が頭の中でクルクルと回る。すると視界も回り強い酒でも飲んだかのように身体がフワフワとしていた。

 ぐるぐる回る。

 本当はあっちが下でこっちが上なんじゃないかと思った。

 それがあまりにも抵抗無く空に飛んでいたから、まるで不思議の国に迷い込んだ少女のように。穴の下を落ちて落ちて、落ちていったら人は逆立ちしているのだろうか。

 くるくると頭が回る。

 パニックだ。

 自分の頭は今、混乱している。

 だってもし、こちらが上であっちが下なら――――。

 拍手、拍手、拍手。

 拍手喝采。




 目が覚めると自分の部屋に居た。

 一瞬全て夢か何かかと思ったが千浩の右手には金額の書かれていない小切手が握られていた。

 兎に角、あの男がランプの魔人や悪魔だなんて事は信じられる筈もない。

それほど酒を飲んだ覚えも無いが、もしかしたら酔って何かしらの身体の不具合が起きたのかもしれない。

 「でも、そうか願い事か――」

 この小切手を使うか使わないかは別として、金が手に入ったなら後はもう願う事などある気がしない。

 「ああ、そうだ」

 あの自分をクビにした会社が潰れたらいいのに――。

 と、思った瞬間に携帯が鳴った。

 着信相手は昨日まで一緒の職場で働いていた鈴木だ。

 「もしもし?」

 一体何の用だ、そう思いながら無視するのも悪い気がして千浩は通話ボタンを押す。

 「おっ、千浩ニュース見た?」

 鈴木は少し焦ったように言葉を吐き出す。

 「は?今起きたとこだから見てないですけど」

 一体何なのだと、千浩は顔を顰めながらテレビを電源ボタンを押した。

 「あの会社、ガサ入れ入ったらしいぞ!お前が帰った直ぐあと!」

 モニターの中には見慣れたビルから次々とダンボールを運び出す刑事の姿が映し出されている。

 「俺達バイトだし現場に居たとしても調書とられるぐらいだけどさーよかったなぁー!あれ結構面倒だし」

 鈴木はどこか愉快そうにそう言うと「ざまぁーみろだよな」と言って電話を切った。

 「まさか……な」

 きっと駄々の偶然だ。

 馬鹿みたいに同じ映像を繰り替え明日ニュースを見ながら千浩は少し背筋が寒くなるような気がした。

 「あと一つだね」

 と、不意の背後からそう声を掛けられた。

 恐る恐る振り返ればそこには冬弥の姿があった。

 「お前、どこから!」

 そうか、鍵をかけなかったから――いや樽俎も自分は何時この部屋に帰って来たのか、それにさっきまで誰の気配も無かった。

 九畳のワンルームのこの部屋には千浩しかいなかった筈だ。

 玄関の扉は防犯の為か重い鉄製のものだし開けば音で気が付く筈なのに。

 「ちーちゃんあと一個だよ」

 冬弥は千浩の問いには答えず思いつめたようにそれだけを言う。

 「あと一個でちーちゃんは僕のもの……そう約束したもんね?」

 「やく、そく?」

 そんなもの、




 夕暮れの教室だった。

 室内には自分とあと一人しか居なくて、千浩は正直うんざりしていた。

 「だからしつこいつーの!そもそもお前男だろ?」

 「でも、僕は君が好きなんだ!」

 阿久津冬弥は千浩のクラスで虐められていた。

 太った容姿に脂ぎった髪の毛、分厚い便底みたいな眼鏡で、その容姿だけで子供にとって虐めの理由に十分だったのだ。

 虐めが陰湿なものから肉体的なものまで様々で、でもある日それでも毎日登校してくる阿久津に子供達は飽きを感じ始めた。

 そして、千浩は提案した。

 男の阿久津を自分は落とす事が出来るだろうか――と。それは今思えば虐めよりも更に達の悪い遊びで、仲間たちと口裏を合わせ千浩は苛められる阿久津を庇ったり優しく接してやったりした。

 そのかいあって、阿久津はまんまと男の千浩に惚れ、今日、告白までしてきたのだ。

 自分が好きだと、

 「何度も言ってるけど、俺はお前の事なんて本当は嫌いなの!気がある素振り見せたのは全部遊びで」

 「何をすればいい?君の為なら僕はなんでもするから、ちーちゃんの為なら、それで僕のものになってくれるなら僕はなんだってするよ?」

 阿久津は千浩の言葉なんて聞こうとしない。

 うざったくてイライラとした。

 ちょっと優しくしたぐらいで図に乗って、こっちの迷惑を考えもせず好きだなんだと、

 「じゃあ、死んで?」

 ちょっと傷つけるだけのつもりだった。

 「お前のその汚い面見ると吐き気がするんだよ。死んでそこそこ見れる人間に生まれ変わってから俺んとこに告白って来いよ」

 傷ついて、自分の事を恨んでもいいから諦めてくれるなら、それでいいかとワザと酷い言葉ばかり選んで投げつけた。

 最低だと泣くかと思ったのに、

 怒るかと思ったのに、

 罵るかと思ったのに、


 「分かったよ」


 彼は泣かなかった。

 怒らなかった。

 罵らなかった。

 ただ静かに、そう言って教室を出ていった。

 きっとそれは諦めの言葉なのだろうと、どこかスッキリしなかったが諦め たならそれでいいと千浩も教室を出ようとした時、



 ドンッ――――――。


 鈍い音、地響きのような。

 それから聞こえたのは悲鳴。

 騒めき、千浩は慌てて教室の窓を開け下を覗き込んだ。

 彼が、



 落ちていた。




 割れた頭、脳が飛び散って、首が変な方向に曲がって、無理やり逆関節に曲げられた人形みたいな阿久津冬弥のそれは死体。








 「思い出してくれて嬉しいよ」

 冬弥が笑う。

 「ふ、復讐に来たのかよ!」

 千浩が叫ぶ。

 恐怖で身体がカタカタと震えた。

 「復讐なんて!違うよ……ちゃんと、僕は君の言う通りにして帰ってきた。だから君にも約束を果たして欲しいだけだよ。君の願いを何でも叶えられるように、人じゃないものになって僕は帰ってきたんだよ」

 そっと身体を抱きしめられる。

 「さぁ、最後の願いを」

 それから耳元でそう囁かれた。

 一体何が起こってるのか、思考がハングアッしてついかない。

 なんでこんな事になってしまったんだろう?

 願いを言ったら自分は一体どうなってしまうんだろう。

 あるのは恐怖。

 ただひたすらの恐怖。

 「お前に――お前に会う前に戻りたい」

 だからそれが最後の願いだった。

 出会わなければ、こんな事には成らなかった。

 出会わなければ、

 出会わなければ、

 出会っていなければ、

 「それが、君の望みなら」

 彼は泣きそうな顔をしてそれから、それでも笑顔を作った。

 それから、数回手を叩く。

 拍手を送るように、それがだんだんと大きく多いものになる。

 まるで喝采。

 それから意識はぷつりと落ちて――。




 「ちーひーろー!千浩!」

 肩を強く揺すられて千浩は目を覚す。急に起こされたせいか、それとも何か悪い夢でも見たのか心臓が痛いぐらい早く動いていた。

 何か夢を見ていた気がするが思い出せない。ただ拍手の音だけがまだ聞こえていると気が付いた。

 辺りを見渡せば十二畳程の空間に所狭しとパソコンが並んでいる。

 (ここ――職場だ)

 この仕事に限ってだが。

 「ほら、居眠りしてるから『チヒロちゃん』が約束取り付けちゃってる」

 鈴木が指さした先、パソコン画面の中では甘い恋人同士のようなメールのやりとり。そのやりとりは今日の十八時にN公園で待ってますと言う返事で終わっていた。

 (あれ?どこかで?)

 デジャブするような感覚を覚えるが目の前の取り付けてしまった約束に千浩は直ぐにどうでもよくなる。

 (まいったなぁ……でも一体コイツどんな奴だろう?)

 少し見に行ってみようかなんて思ってる千浩の頭の片隅で、未だ喝采する拍手の音が響いていた。


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