大切な約束とオレ 後編
「当時、エリナは商館の帳簿管理の仕事をしていましたが、僕が薬草の知識に精通していることを知ると仕事を辞め、薬作りに手を出しましタ。仕事に出ている間、目を離すと僕が何かしでかすのではないかと心配だったのもあるみたいデス」
トルペンは当時を思い出したかのように仮面から見えている目を細めた。
「元々頭が良くて才能もあったのでしょウ。彼女の調合した薬は結構、評判が良かったんですヨ。それからだんだん、彼女は変っていっタ。明るくなったというか逞しくなったというカ……」
彼女の心境の変化がどのようなものだったかは知らない。
けど、トルペンとの暮らしは彼女を大人として大きく成長させたんだと思う。
まあ、大きな子どもができたようなものだし、母親になると概して女性は強くなるものだ。
それが良かったのか悪かったのか、オレにはわからない。
ただ、ユクを見ればその成長は決して彼女にとって無駄ではなかったと思える。
オレはトルペンからユクに視線を転じると優しく声をかけた。
「ユク、ずっと言いたかったことが言えて、すっきりしただろう。トルペンの気持ちもわかったし、お互いの気持ちが落ち着くまで、少し時間を置いた方がいいと思う……」
「……」
返事はないけど、かすかにユクは頷く。
「ここまで来るのに無理したし、少し休んだ方がいいよ。ごめん、ヒュー。ユクを頼めるかな」
「もちろん、構いませんよ」
ユクはヒューに付き添われて、皇女の間から退出した。
部屋から出るまでユクは一切、トルペンを見ようとしなかった。
まぁ、すぐに歩み寄ることは無理だろう。
オレは一方の当事者であるトルペンに向き直った。
「悪く思わないでやって欲しい。今まで辛い目にばかり遭ってきたんで、素直になれないだけなんだ。決して悪い子じゃないし、本心であんたのこと憎んでいるわけじゃない」
恨みつらみを言うだけのために、ユクがここまで苦労してきたとは思えない。
心のどこかで父親を慕う気持ちがあったのだと、オレは信じたかった。
「わかっていマス。悪いのは僕……我輩の方ですから、ユクは悪くありまセン」
トルペンは神妙そうに言ったが、オレはちょっと引っかかった。
「あのさ……何でわざわざ『我輩』って言い直すんだ?」
「知らないのですか、エライ人は自分のことをそう呼ぶのデス」
自信満々に言うトルペンに少し呆れた。
たぶん、それ間違ってると思うよ。
「別れる時、エリナがそう教えてくれましタ。帝都で他の人に舐められないように使えっテ……」
「その時のエリナさんの表情は?」
「……? すごい笑顔でしたガ……」
ユクのお母さんは茶目っ気もあったみたいだ。
恐らく別れの悲しみと置いていかれる恨みをほんの少しの悪戯で紛らわせたのかもしれない。
「それより、ユクのこと、これからどうするつもりなんだ?」
「ユクが赦してくれるなら、引き取りたいと思いマス」
お、それでも人間の親みたいなことを考えはするんだ。
「もうすぐ宰相補の任も解かれる筈ですから、大丈夫でしょウ。ただ、弟子もできましたし、貴女に仕えなくてはならないので、当分帝都から離れることはできませんガ」
「じゃ、しばらくは一緒に……ん、任が解かれる?」
「はいデス」
「宰相補の職って、皇帝がいないと解かれないんじゃなかったっけ?」
ああそれなら、とトルペンはケルヴィンに視線を向ける。
「それについては、私が説明しよう」
ようやく話せるのが嬉しいのか、ケルヴィンは意気込んで話し始める。
「貴女には今後の予定もあるので、それらについて、ぜひ聞いていただく必要があるのだ」
なんか嫌な予感。
「そもそも帝国混迷の原因となっているのは、デュラント三世の帝位継承にまつわる神託文にあると言って良い。そのために現在の帝国は皇帝不在という事態に陥っている」
デュラント三世っていうのは、アリシア皇女のお祖父ちゃんで神帝を称したはた迷惑な皇帝だったよな。
「しかし、周知の通り帝位継承を含め、帝室のことは『帝室典範』という法により規定されている。神託文は便宜上、典範より上位と解されているが、あくまで時限的な法であり、『帝室典範』自体が失効しているわけではないことに注目して欲しい」
ぜ、全然、周知してないんですけど。
っていうか、いきなり難しい話になったぞ。
オレの目が虚ろになったのを見て、ケルヴィンが訝しげな顔になる。
「皇女育成講習のカリキュラムで習ったと思うが……」
ごめん、爆睡してた。頭に入ってません。
ケルヴィンは気を取り直して話を進める。
「世間では、神託文の内容について『アリシア姫に選ばれて結婚した公子が次の皇帝になる』と思っている者が多いが、実際は少し違う」
「正確には『アリシア皇女は、自らと婚姻した公子に帝位継承権第一位を与える。ただし、皇女が二十歳となる日までにその権利を行使しなかった場合、皇女はその権利を失うと共に自らの帝位継承権も失う』でしたネ」
「さすがは宰相補殿、ご見識の通りです」
「……?」
えっ、違いがわからないけど。
オレがきょとんとした顔をしていると、ケルヴィンが嘆息する。
トルペンはにこにこしながら、丁寧に解説を始めた。
「良いですカ? 先ほど、ケルヴィン局長が話された通り、神託文は上位法ですが、前提として帝位については『帝室典範』によって定められていマス。その第一条に『帝位は皇帝の血統に属する長子が、これを継承する』とありマス。また、女帝『エルラディア一世』が即位した折には附則として『帝位継承に性別の差異を認めず』が追記されているんデス」
頭に難しい単語が飛び交い、知恵熱が出そう。
「すなわち、現時点ではアリシア皇女が帝位継承権第一位にあるという事実だ。三世の残した神託文は、あくまで皇帝が生きていることを前提として作られている。デュラント四世が在位なら、アリシア皇女の継承権第一位は何の問題もない。神託文の通り、公子のどちらかを選び継承権第一位がその者に移行するだけだ」
ケルヴィンがトルペンの言葉を引き継ぐ。
え……それじゃ。
「皇帝不在の現在、神託文により継承権を失う二十歳までの間、帝位継承権第一位のアリシア皇女は新皇帝として即位することが法律上、可能なのだ。いや、即位してもらう」
ケルヴィンはオレを見つめながら断言した。
即位? 今、即位って言わなかった?
「あの……もしかしてオレを皇女どころか皇帝にしようっての?」
「何だ、ちゃんと理解できてるではないですか。もちろん、そのつもりです。そしてそのためには、まずその言葉遣いを直していただく必要がありますね」
「ちょ……待ってくれ。オレは皇女になるなんて、まだ一言も言ってないぞ」
「今さら何を言っているのです。皇女候補になった時から、選ばれれば皇女になることはわかりきっていた筈ではありませんか」
「そ、それはそうだけど……」
オレは元男だから、万が一にも選ばれることはないって、高をくくっていたのも事実だ。
「この件については宰相補殿にも、ぜひご協力をお願いしたいものですな」
「皇女であることに関しては、もちろん異論はありませんが、皇帝即位となると我輩としては何トモ……」
そりゃ、皇女と決定したのはあんたみたいなもんだから異論はないだろうよ。
「貴方の正体が何者かは知りませんが、先ほどシリアトールには今回の試練に竜が登場したのはあらかじめ予定されていたもので、宰相補の魔法によって見せられた幻影であると説明させてあります。私に協力するぐらいの借りはできたのではありませんか?」
「ご自分の企みが上手く進まないと見るや、竜の口封じをして無理矢理、皇女を決定しようとしたことに目を瞑ることで相殺されると思いますガ……」
トルペンも柔らかに反論する。
「しかし、皇帝を選定するというのは宰相の最も重要な責務とされています。宰相がいない現在、その責は宰相補が負うのは当然ではありませんか? それに、皇帝が決まらなければ貴方が嫌がっている宰相補を辞することもできませんよ」
「我輩は別に嫌がってなどおりませんヨ。研究も自由にできるし、アリシア皇女に仕えるのにも便利ですカラ」
「私やシリアトールが、どれだけ貴方の面倒がる仕事を代行していると思っているんですか?ご承知だと思っていましたが……」
にこやかにお互いを牽制し合う二人にオレは正直、ドン引きした。
こういう世界に、とても入っていけそうな気がしない。
オレって、すぐ顔に出るし、感情の起伏も激しいからなぁ。
絶対、政治家には向いていない。
とにかく、何としてでも、この企みは壊さなきゃと心に決める。
この際、背に腹は変えられない。
もう、オレの秘密を暴露するしかなかった。
「ケルヴィン、悪いけどその申し出は受けられない」
「まだ、そんなことを言っているのですか!」
ケルヴィンが苛立ったようにオレに詰め寄る。
「仕方がないんだ。オレがアリシア皇女じゃないことは間違いないことなんだから。だってオレは元々、おと……」
「リデル!」
突然、クレイがオレの言葉を遮った。
「クレイ?」
クレイの表情は固かった。
いつもの斜に構えたような不敵な態度も鳴りを潜めていた。
「ケルヴィン行政局長、トルペン宰相補、ここは俺に任せてもらえませんか?」
「君は確か……?」
「クレイと申します。ずっと彼女の相棒をしてきました。申し訳ないのですが、リデルと二人きりで話させてもらえませんか。悪いようにはしません」
クレイの奴。
勝手に何を言いやがる。
オレが文句を言おうとすると、ケルヴィンはクレイの真っ直ぐ見つめる視線から目を逸らし、不満げに呟いた。
「いいだろう。わずかで良ければ、君に時間を与えよう。それで説得できるなら越したことはない」
そう言うとケルヴィンはデイブレイクに声をかけ退出していく。
デイブレイクは心配げにオレ達の方に目を向けたけど、黙ってケルヴィンの後に続いた。
トルペンはユクのことが話し足りなくて去りがたいのか、少し未練がましく立っていたが、クレイの顔付きを見て、すごすごと出て行った。
部屋の中にオレとクレイの二人だけが残った。
すぐに話し始めると思われたクレイは、何か躊躇う表情でなかなか口を開かない。
あまりに長い沈黙にオレが耐え切れず、話しかけようとした時、搾り出すような声でクレイは言った。
「ごめんな……俺はお前にずっと嘘を吐いていたんだ」
クレイの表情が苦しそうに歪んだ。