彷徨(さまよ)える本とオレ 前編
『ひ、ひどいですぅ。リデルさ~ん!』
ん、ユクの嘆きの声が聞こえたような……。
許せ、ユク。
お前を連れて行くと、もれなくヒューがおまけに付いてきちまう。
クレイが遊びに行っていない今、ヒューとシンシアさえ出し抜けば、オレの自由を妨げるものはない。
そう……オレとノルティは午後のテニエル先生の実習をばっくれて、王宮から抜け出そうとしていた。
ユクには、実習に出席してテニエル先生にオレ達が体調不良で臥せってることを伝えるという崇高な使命を与えたのだ。
えっ、オレが体調不良だなんて無理があるって?
失礼な!
前にも言ったけど、オレって結構ナイーブで、よく寝込むんだから。
ま、身体が弱いことを威張って言うことじゃないけど。
それに後でばれるのは一向にかまわないんだ。
とにかく今、王宮の外に出ることが出来れば、こっちのもんさ。
「リデル……その格好……良いの?」
わ、わかってる。
ノルティが心配するのもわかる。
オレ達は二人とも、王宮で支給されている皇女候補生の制服を着用していた。
貴族の子女の高等教育を受けさせる私塾の寄宿舎等でよく統一した制服を着用させる慣習があるようだけど、それに倣ったようだ。
ノルティは日常でも制服の上にフードのついただぶだぶのマントを羽織っているので、まだ目立たない方だけど、オレはかなり目立つ格好と言えた。
本当は、目立たない服装に着替えて人目を避けたいところだけど、部屋に戻ると確実にシンシアに見つかる。
そうなれば、オレ達のささやかな冒険は始まる前に潰えてしまうのが必至だ。
同様にノルティも部屋に戻れば、あの怖いリューゼさんに見つかってしまうだろう。
という訳で、オレ達はまさに着の身着のままで逃走を企てていた。
無謀すぎる?
だから、出し抜けるのさ。
「そうなんです。ノルティのお父様が急病で、すぐに赴かなければならないんです。ごめんさい、許可証を待っている余裕もないんです」
オレが目を潤ませながら迫真の演技をすると、門兵はあっけないほど簡単に通してくれた。
帝国図書館は王宮から目と鼻の先だったし、帝都の街壁内では危険な目に会う心配はほとんどなかった。
それに若い門兵としては、皇女候補の可愛い(自分で言うのは気がひけるけど)女の子の頼みを断わるほど勤労意欲に忠実ではなかった。
デイブレイクが休暇中で兵の規律も緩んでいるのだろうか?
まあ、王宮に入るのは難しいけど、出るのは関係者だから大目に見てくれたんだと思う。
「リデル凄い…………役者みたい」
ノルティがオレのやることに、いちいち感心している。
素直な尊敬の眼差しに、ちょっと良心が痛む。
いたいけな女の子に悪影響を与えてるぞって、クレイなら言いそうだ。
とにかく犀は投げられた。
のんびりなんかしてられない。
「さぁ、行くよ。ノルティ」
「…………了解」
オレ達の小さな冒険行が始まった。
「とりあえず…………図書館に戻る?」
「そうだな」
確かに、トルペンの本がノルティのいない間に戻ってきている可能性もある。
それを確認するのが先決だ。
ノルティの言葉に従って、オレ達はまず帝国図書館に向かった。
王宮からさほど遠くなく、主要通りに面したその建物は思いのほか立派だった。
本の倉庫程度に考えていたオレとしては、その佇まいに往時の帝国の権勢を改めて実感した。
建物の規模から、ノルティが言った通り、元々が保管施設というより研究施設の意味合いが大きかったように思えた。
そんな風にオレが考え込んでいる間にノルティは、とてとてと中に入っていった。
慌てて、オレも後に続く。
迷路のような通路を歩いていくと、奥の方で誰かが掃除をしている。
「おや、ノルティじゃないですか。何か忘れ物でも?」
汚れ防止の白い衣服をすっぽり着込んだ、人の良さそうなお兄さんが作業の手を休めてノルティに声をかけてくる。
「ラルフ、父さまは?」
「先生なら、相変わらず第3資料室に閉じこもりですよ。新たな資料が発見されたとかで……。それより、里帰りしたなら、少しは掃除を手伝ってくださいよ」
「やだ、面倒、疲れる。それ、ラルフの仕事」
あれあれ、ノルティが普通にしゃべれる相手がいたんだ。
「何、言ってるんですか。私の仕事は研究助手で掃除屋さんじゃないんですから。大体ですね、あなた達、親娘は…………」
そこまで話して、助手さんはノルティの後ろにいるオレの存在に気付いたようだ。
「……ラルフ?」
話しかけた口の形のまま、硬直してるラルフにノルティが訝しげに問いかける。
「あの……大丈夫ですか?」
息、止まってんじゃないか?と心配になったオレも声をかける。
「め、女神がいる…………」
ようやく息を吹き返した彼は感動に打ち震えるているようだ。
「へ?」
「これは夢なのか? それとも知らない間に私が死んで天界にいるとか……」
ぶつぶつ呟くラルフをノルティが立て掛けてあった箒の柄で思い切りぶん殴る。
「うぎゃ、痛い! ん、痛いってことは現実だ」
「だ、大丈夫?」
ノルティの大胆な行動にさすがのオレも不安になる。
ノルティ……箒の柄、折れてるよ。
「わ、私は大丈夫です。女神様!」
心配して覗き込むと、ラルフは頭を押さえながら、にっこり微笑む。
あの……血、出てるよ。
相当、痛そうだけど、本人が大丈夫って言うんだから、大丈夫なんだろう。
ノルティも知らん顔をしてるし。
「あ、オレ、ノルティの友だちのリデル・フォルテって言います。ちなみにあなたの女神じゃないんで……」
自己紹介しつつ、やんわりと彼の思い込みを修正する。
最近、これをやっとかないと、後々面倒になることが多いんだ。
「私はヴィオラ先生の助手をしているラルフ・ベネディクトと申します、女神様。貴女とお近づきになれて嬉しいです」
ダメだ……研究者ってのは思い込みが激しいからなぁ。
オレがげんなりとした顔をしていると、ラルフはキラキラした目をオレに向けながらノルティに尋ねた。
「ノルティ、いったいどういう経緯で、この素晴らしい御方と出会ったのか、後で書面にまとめてもらえると嬉しいんだが……」
「拒否……」
冷たく言い放つノルティを見て、オレはおやおやと思った。
さっきから何気に機嫌が悪い。
もしかしたら、まだ意識はしてないけど、そういうパターンか?
まぁ、彼女にとって今までの人生で父親以外の身近な男って、たぶん彼だけだだろうから、選択肢が狭すぎって感もしないでもないけど。
この時のオレはそう思い込んでいた。
後で、その勘違いに気付かされてエライ目に遭うとは思ってもみなかった。
「すまないけど、ラルフさん。オレ達、確認したいことがあって、ここに来たんだ」
「なんでも聞いてください、女神様!」
即答だな……。
全身全霊で期待に応えようとするラルフにちょっと引き気味なオレと不機嫌なノルティ。
ここは聞くこと聞いたら、早めに退散するに限る。
しゃべらなくなったノルティの代わりに、嫌々ながらラルフと話した結果、トルペンの本は戻ってきていないことがわかった。
「その本の所有者は?」
「確か、イグナス子爵です」
オレの役に立てるの心底、嬉しいらしいラルフが満面の笑みで答える。
「わかった、ありがとう。助かったよ……じゃ、行こう、ノルティ」
このままいると、案内すると言い出しかねないので、話を切り上げて逃げ出すのが得策だ。
名前が分かれば、居所もすぐにわかるだろう。
「ノルティ、先生に会っていかないのかい?」
「うん、本に没頭してると……会話にならないから」
ノルティにそう言われるようじゃ、お父さんも相当なものに違いない。
「そうか、それは残念だ」
オレを見ながら、悲しそうに言うなって。
まとわりつくアホ犬を振り切る気分で図書館を後にした。
トルペンといいラルフといい、研究者の類いには気をつけた方が良さそうだ。
他人の言うことは耳に入らないし、行動力は一直線だし、関わるにはあまりに危険過ぎる。
近寄らないことに越したことはない。