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訪れたその日

 自分の体を搾りたくなるような暑い熱を帯びた空気の頃、その日は突然やってきた。母がいなくなったのだ。

 どうして?今この状況で考えられる理由はひとつしかない。ヒトに捕まったのだ。いつか、どういう形でかはわからないものの、こんな日が来るとわかっていた。


 ある日、ひとつの食糧も捕れないまま家に帰ると、母はいなかった。

 (母さんも食糧を捕りに行ってるのか)

 そう思って母の帰りを待つことにした。大量の食事を抱える母の帰りを。しかし、もう母が帰ってくることはなかった。

 無音の家。食糧の無い家。初めて自分の家に恐怖を覚えた。

 (…母さん…母さん…母さん…)

 (これから自分はどうすれば…)

 泣いて、泣いて、泣いて過ごした。どれぐらいの時間、そうしていたかはわからない。少し前に、彼女のために、と誓ったのに情けない、そんなことを考える余裕もなかった。

 「だってあなたはあの人の子なんだから」

 あの母の、あの言葉さえ、もう懐かしく、そしてもう聞くことはできなかった。この数日前に、あんな話をしたことは、まさしく虫の知らせだったのかも…。



 その日、母に自分の決意を話した。もちろん、彼女のことも含めて。

 「母さん、自分は自分自身で食糧を捕りたい…」

 「ど、どうしたの?急に…」

 「一生を共にしたい、そういう…相手が見つかって…」

 「嘘…?」

 「彼女のために、母さんに頼らず、自分の食糧を自分で捕って、幸せにしたい…」

 今までひとつの食糧も捕れたことのない能無しが、何を言ってるんだ、と言われ、そうして自分は家を飛び出るつもりでいた。ところが現実の母の対応は違った。

 「そう…良かった…本当に良かった…」

 そう言って涙を流したのだ。産まれて初めて見る、母の涙だった。

 「あなたはこれからよ!これからその能力は必ず開花するわ!」

 母のいつもの同情、ではなかった。まるで予言のような、力強い言葉だった。

 「だってあなたはあの人の子なんだから!」

 そう、自分は、自分が凄いと思う母、その母より凄かった父の子なんだ!そう思うと、なんだか見たことのない父に励まされたような、そんな気持ちになれた。そして、産まれてからいつも見ている母は、今まで以上に丁寧に、そして詳しく、食糧を捕るコツを教えてくれた。

 「母さん…必ず、今度こそ…!」

 「大丈夫。あなたに不可能なことなんて、何ひとつないわ」

 そして久しぶりに、母に軽くキスされた。その時から、まるで世界が違って見えた。明るく見えた。数日後にその日が待ってるとは、全く考えていなかった。



 なぜ、自分だけがこんなに不幸なんだろう。“生きていくための能力”が低く、さあこれから、というときに母はヒトに捕まった。

 なぜ、なぜ、なぜ、その言葉ばかりが頭の中を支配し、目の前はまるで暗闇で、体はもう全く動かない気がした。



 どれぐらいの時間を、家の横に生えている赤い花のように、じっと動かずに過ごしただろう。気がつけば今までに感じたことのないような空腹で、とにかく何かを食べなければ今すぐにでも死んでしまう、そんな状態だった。今の自分なら、昔、草むらに保管していた食事たち、あの腐った食事たちでも食べられるな、そう思った。

 ふと、彼女のことを思い出した。あの時の彼女も今の自分ぐらい、空腹だったのかな…。あれからあの場所には一度も行ってない。家から出てないのだから当然だ。

 (そうだ、自分は彼女のために…彼女は自分を頼りにしてくれているのに…)

 まだ体が動くような気がした。誰かに頼りにされる、それこそが生きていくために最も有効な、それこそ食事よりも力を与えてくれる物なのでは…?母も、自分が頼りにしていたからこそ、あれだけの食事を持って帰ってきてくれていたのでは…?いや、今そんなことを考える必要はない。

 とにかく、やるしかない。そう思った。自然と足は、母が教えてくれた食糧を多く捕れる、という場所に向かっていた。

 (とにかく、なんでもいい、食事になるもの…)

 少し先にいる蝶々に、目を付けた。

 「あなたは草むらの草よ。決して気配を出してはダメ」

 「勝負は一瞬よ。振り下ろす手は片方だけでいいわ。もう片方は捕った食糧を支えるのに使うの」

 「そしてこれが最も大事なこと。相手は食糧じゃない…相手も、生きている」

 母の教えを頭の中だけで復唱し、蝶々に近づく。気づかれていない。自分の手の射程距離。勝負は一瞬。

 次の瞬間、振り下ろした左手は、空を斬っていた。相手も生きていた。自分の手がかかる、その直前に、ギリギリのタイミングで飛んで逃げていた。それでも、今までで一番、捕れる気配があった。捕れる気もした。

 それからひたすら、食糧を捕る、そのことに集中した。そして、夜に溶け込んだその場所で、そいつは飛んで、目の前を横切ろうとした。待っていたのだ、この瞬間を!初めて自分の手が、空を斬らなかった。


 母を思い、空腹を感じ、彼女を思い出し、食糧を捕りに出掛けたのが、太陽が一番高いところにあるときだった。そして今、自分の手に確かな食糧の重みがあるのが、太陽が完全に沈んで星が出ている、というような状態だ。

 しかし、とにもかくにも、初めて自分の食糧を、自分で捕ることができた…。

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