〜8〜
十分も経たないうちに、空からのうめき声は雨に変わっていた。僕は、近所の中学校の裏を通り、獣道をさらに奥に進んだ。
通称、迷いの森。初めてここに僕を連れてきたとき、浩太は僕にそう教えてくれた。
「うん、迷いの森。僕が生まれる前からあって、ずっとそう呼ばれてるらしいよ」
ざざざざざ……。
森の鳴き声と雨が木々を叩く音が、まるで呼吸をしているみたいに、どこからともなく響いていた。
この森全体が一つの生き物であり、僕はそのおなかの上に立っている。そんな感覚を覚えるのは、あの頃も今も変わらなかった。
僕は落ち葉や枯れ枝を踏み分けながら、狭い一本道を歩いた。
「ふふ、誰も知らないんだよ。知ってるのは僕と真美だけさ」
そう言って、浩太は僕をそこへ案内してくれた。
「ここだよ。これをどけるとね――」
等間隔に背の伸びた木。その間に生えた名前の分からない植物は、体のいたるところから触手を伸ばして胞子を飛ばしていた。その植物をかき分けて僕は奥へと進んだ。雨のせいで視界はほとんど遮られていた。見えないところから冷たいものが僕の首の後ろや、腕や足をつついては、クスクスと笑っていた。
「もう少しだよ。この先にあるんだ。そしてね――」
雨はさっきよりも勢いを増していた。
「そこにね、真美がいるから」
あのとき、僕はなんて答えたろう?
あのとき、僕は――?
「会いたくない」
僕は言った。
「どうして?」
「ちゃんと成仏して欲しいから」
「真面目に答えて」
「真面目にって……」
「いいから、真面目に答えて」
真美はそう言って僕をじっと見つめた。五秒間、真美に付き合うかどうか僕は考えた。そして、ため息をついた。
「じゃあ、こうしよう。真美が死んでここからいなくなった。僕は三日間ぼうっとして、一週間泣きはらして真美のことをすっぱり忘れた」
真美は黙って僕の顔を見つめていた。
「その後、僕はここで真美とした会話を思い出す。真美には忘れるなんて言ったけど、そんな簡単に忘れることなんてできなかった」
分かるだろ?
「ここで会いたくないって答えないと、僕は妄想の中で生きて行かなきゃいけないんだ」
「それはつまり、会いたいってこと?」
「さあ。ただ、幽霊の真美と会いたいとは思わないだろうね」
「つまり、会いたくない」
「そうなるかな」
そこは、三百六十度を森に囲まれた広場だった。ずっと昔に作られたらしいくたびれた不細工なベンチが一つだけ真ん中に置かれている。それいがいにはなにもない、僕と浩太と真美しか知らない場所。
雨のせいで目の前はほとんど見えなかった。僕は額の上に手を置いて、目を細めた。ずっと向こうに置いてあるベンチの輪郭だけがかろうじてもやのむこうがわから透けていた。
「じゃあ、こうしない?」
「なに?」
「会いたくないって言ったくせに、公平がどうしても私に会いたくてたまらなくなったとき。そのときは、私から会いに行くわ」
「構わないけど、そのときは多分逃げ出すと思うよ」
「いいわよ。どこまでも追いかけてやるから」
分からなかった。いや、分かってる。理解はしてる。ただ、納得ができないだけだ。
もやの奥に見える輪郭。そこに座っている誰か。
すべてのことには偶然も備わっているし、必然も備わっている。それを説明しろと言われたところで、そんなことは不可能だ。できることと言えば、物事の終わりに答えをつけることだけ。どうして? と言われれば、さあ、と答えるしかない。 雨は何かに吸い込まれるように弱まっていった。僕は額の上に手を置いたまま、ベンチから中途半端な距離を置いて立ち止まった。
ベンチに座っている誰かは、少し前かがみになって、両手で頭を抱えていた。
顔は見えない。でも、今この状況でそこにいるのが真美以外の誰かである可能性を考えるのは僕には無理なことだった。
「真美?」
僕の声はわずかな雨音にかき消された。
僕の声が届いたとは思えない。それでも誰かは何かに反応したように、ゆっくり顔を上げた。
――真美だ。
真美だった。僕の記憶の中にかろうじて残る真美。そこに足りないものをすべて付け足した真美が、僕と同じ場所に存在していた。
僕は訳が分からずベンチの前に歩み寄った。真美は、なにも言わず少しうつろな表情で僕を見上げた。
「俺たちは、すべてじゃない一部の中で生きてるんだよ」
やがて、真美はうつろな表情のまま僕を見つめると、少し首を傾げて眠そうな声を出した。
「……公平?」