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〜7〜

「あら」

「あ」

外に出ると、ちょうどマンションに入ろうとしていた美咲さんとばったり顔を合わせた。僕たちは同時にお互いの顔を確認してから、同時に声を出して、同時に笑いかけた。

「出かけるの?」

「ええ、そこの本屋まで」

「参考書?」

「漫画です」

美咲さんは上手に眉をつり上げて

「コラ」

と僕の頭を小突いた。

「受験生がなに言ってるの」

「戦士にも休息は必要ですから」

「この時期に休息をとる戦士がいるかしら?」

僕は少し考える振りをしてから言った。

「ここに」

美咲さんの手をひょいとかわしてから、僕は美咲さんの左手に目をやった。僕の視線に気付いた美咲さんは、買い物袋を提げた左手を軽く持ち上げて言った。

「カレーよ」

「またですか?」

少しだけ殺気のこもった攻撃。それが空をきると美咲さんは、もう、と悔しそうに声を出した。

「またですか? やったあって言おうとしたんですよ」

「よく言うわよ」

「ほんとですよ。美咲さんのカレーなら毎日だって食べられます」

「なるほどね」

「なんです?」

「今までそうやって女の子を口説いてきたわけね?」

「よしてくださいよ」

そう言って僕は買い物袋に手を伸ばした。

「重いでしょう。持ちますよ」

「なるほど」

「怒りますよ」

まあ怖い。美咲さんはそう言うと胸に手を置いて、目をパチパチさせた。まるで下手な役者見習いがやるような演技も、美咲さんがやると高度な演技に見えてしまう。

「大丈夫よ」

ふふ、と笑って美咲さんは言った。

「残念ながらカレーの材料しか入っておりません」

「それは残念ですね」

「あら、私のカレーなら毎日でも食べられるんでしょ?」

「いえ、僕が言ってるのは美咲さんの部屋に上がり込む口実がなくなったことですよ」

四度目の攻撃はうまくかわせなかった。美咲さんは僕の頭をとらえると、うれしそうにガッツポーズをとった。

僕は苦笑して

「じゃあ、僕はそろそろ」

と言った。

「あ、うん。ごめんね、引き留めちゃって」

「じゃあ、行ってきます」

そう言って背を向けた僕に美咲さんは、あ、と言って声をかけた。

「なんですか?」

顔だけを後ろに向けた僕に、美咲さんは言った。

「うん。その……雨、降りそうだったから」

僕は顔を上げた。確かに、いつの間にできあがったのか、そこにはどす黒い雲が見渡す限りを我が物顔でのさばっていた。

僕は美咲さんに目を戻して言った。

「大丈夫です。本屋すぐそこだから」

美咲さんは何かを言いかけようとして止めた。それを悟られまいと動かしかけた唇を無理に持ち上げたせいで、美咲さんの笑顔は微妙に形を失っていた。

僕はその笑顔に笑みを返して言った。

「じゃあ」

「うん」

子供達の悲鳴は絶えることなく響いていた。




美咲さんは僕たちとほぼ同時期にあのマンションに越してきたらしい。ということは、僕たちはもうかれこれ五年のつきあいということになる。

基本的に僕も父さんもあまり人付き合いは上手じゃない。いや、上手とか上手じゃない以前の問題で、僕たちは親子そろってそういうことには無頓着なだけだった。でもまあ、お隣の人に挨拶をする程度の常識は持ち合わせていた僕たちは、引っ越してきたその日に、その町のデパートへ足を運んだ。

高級すぎず、それでいて安すぎず。日に一度ぐらい顔を合わせたときは愛想笑いをして、挨拶をかわす程度のお隣さんに贈る愛想だけの贈り物。 僕たちは、一通りデパートの中を回ってさんざん頭を悩ませた挙げ句、二千円の何かよく分からない詰め合わせを買った。

もし、隣に住んでいるのが一人暮らしの若い女の人だと分かっていれば、それは、複雑な種類の中から適当に選んだ防犯グッズになっていたかもしれないし、痴漢撃退用の一度目に受ければ地獄を見る特殊なスプレーの詰め合わせになっていたかもしれない。結局僕たちは何かよく分からないものか、気の利いているようで実はそうじゃないものを贈る羽目になっていたのだ。

きれいな人だな。それが愛想笑いをして、父さんから包みを受け取る美咲さんを見て一番に感じたことだった。飛び抜けて美人というわけじゃないし、身につけているものも少し控えめで周りに見せるためのようなものじゃなかった。多分、美咲さんと町ですれ違ったとしても僕は振り返って見るようなことはしないだろう。

笑った時にできる小さなえくぼとか、控えめな態度で笑顔を振りまいて父さんと話すところとか、多分、そういうところに僕の目は向いていたんだと思う。

それから僕たちは日に一度ぐらい顔を合わせたときは愛想笑いをして挨拶をかわす程度のお隣さんから、日に何度か顔を合わせると立ち止まって少し会話を交わすお隣さんになり、冗談を言い合うお隣さんになり、放っておくとコンビニ弁当だけで済ますお隣さんの為に、栄養配分を考えた夕飯のおかずを毎日届けてくれるお隣さん、へと変わっていった。

もし僕たちが美咲さんの隣に越してこなければ、僕たちは顔を合わせても愛想笑いを浮かべた挨拶だけで通り過ぎることになっていただろうし、今頃は栄養失調になってもいただろう。

一歩間違っていたら僕も父さんも、今頃は生きてはいなかった。つまりはそういうことだ。

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