〜4〜
*** ***
彼と顔を合わせることになったのは、多分、初めからそうなることになっていたからなのだろう。毎年一年ごとに行われるクラス替えが、成績やら、普段の素行やら、その他さまざまなサンプルを元に、厳正な審査を得て出来上がっていようと、生徒一人一人の名前の書かれた紙を一つの箱に閉じ込めて、そこから適当に担当の教師が一人一人を割り振っていたとしても、それは変わらない。僕たちは、気の遠くなるような、天文学的確率の難関を知らず知らずのうちに突破して、必然的にそこに割り振られてもいたし、単にたまたまそこに割り振られてもいた。
すべてのことには、偶然も備わっているし、必然も備わっている。ただ、そのどちらか一つが単独で物事に働きかけることはない。僕たちは、偶然と必然の狭間で揺れ動き、結局は、そのどちらにも引き寄せられて生きているんだ。
お前たちはもう三年生だ。毎日のように聞かされる言葉は、変わることもなく教室に響いていることだろう。
「もう二年生とは違うんだ」と当たり前のことからはじまり、五分もすれば、「もう受験まで時間はないんだ」に発展し、十分も経てば息を切らして、そこに戦争を持ち込んでくる。
それが、進学校の三年生を担当する教師としての義務だとしても、やっぱり僕には、朝の貴重な十分間をそんなつまらないことでつぶす気にはなれなかった。少なくとも、息を切らしながら、秀原のだみ声を聞くために教室に駆け込むよりは、ふかふかの布団の上で、ちょっとだけ長く夢の中にとどまっているほうが、ずっといい。どう頭をひねってみたって、僕には夢の中のほうが魅力的に映る。
だからといって、秀原を否定しているわけじゃない。その半分以上皮膚に侵食されたおでこも、ドラえもんの出来損ないのような体型も、すべては自分のことを省みずに、二十年以上も生徒たちに変わらぬ情熱で接してきた何よりの証なのだろうから。
その勲章を武器に秀原は生徒たちに正論を投げつける。そして、僕以外のみんなはそれを、そつなく器用に受け取って、本人に気づかれないようにそっと捨てている。
投げつける、受け取る、捨てる。
やっぱり、僕には朝の十分で秀原の講義を買う気にはなれなかった。かといって、十日もそれが続けば、いい加減目をつぶっているわけにはいかないらしい。
「森本、それと加藤。お前たちはちょっと残れ」
秀原のその言葉で、ようやく一日の授業から開放された生徒たちのざわめきは、ぴたりと止んだ。いつもなら、だらだらと教室に残って話し込む数人の生徒は、教台の前で仏頂面をして立っている秀原と指名された僕たちを交互に見てから、そそくさと立ち去り、教科書を開いてそこに目を落としていた数人の生徒は、はいはい、勝手にしてくださいよ、という具合に、無言で帰り支度を整えると、すたすたと教室から出て行った。
やがて、教室に僕たちだけが取り残されると、秀原は仏頂面を維持しながら、声を出した。
「どうして残されたのかは、分かるな」
僕たちの返事を待たずに、秀原は続けた。
「ただの遅刻でも、内申書には大きく響くんだ。お前たちは、まだこれ以上自分の首を自分で絞めるつもりか?」
初めは僕をにらんでいた秀原の視線が、斜め後ろへと注がれる。その時点で、ようやく僕はこの忠告が僕だけになされているものではないことに気づいた。
自分の首を自分で絞める変わり者は、どうやら僕だけじゃなかったらしい。
秀原は一通り説教を済ますと、捨て台詞に「もしこれ以上こんなことが続くようなら、こちらにも考えがあるからな」とはき捨てて、教室を出て行った。
僕は秀原の吐き捨てた、考えというものを少しの間、頭の中で思い浮かべた。それが、毎朝家まで押しかけてくるというものにせよ、そうじゃないにせよ、これ以上このままを続けていると面倒くさいことになりそうだった。
とりあえず、やることはなくなった。秀原の説教も終わったし、その後物思いにふけるにしても、これ以上ここに残る必要はなかった。それでも、僕が席を立たなかったのは、斜め後ろにいる彼が気になったからだ。
秀原が出て行ってから、十分弱。これ以上席を動かずに、何の行動も起こさないのはさすがに不自然だった。
「はあ……」
わざとらしくため息をついて、僕はチラッと彼の様子をうかがった。何の反応も返ってこなかったので、今度は体ごと彼のほうを向いてみせる。
「はあ……」
二度目のため息。それも彼の耳には届かなかった。彼の目には僕の姿が全く映ってはいないのかもしれない。人間の目の構造を考えれば、おそらく彼の視界の端っこぐらいには僕は映っているはずだけど、彼は見事な演技でそれをなかったことにしようとしていた。
早く帰れよ。そう言われているのはもちろん分かってる。でも、それをここでしてしまうのは、あまりにも不自然なような気がしたし、ため息でつないで無理やり自分の存在をアピールするのも間抜けな気がした。
「おい、用がないならさっさと帰れよ」
彼にそう言われてから席を立つのが、一番自然な形だろう。
「どうした?」
いつの間にか、彼の視線が僕に向いていた。いつの間に、こうなったのだろう?
「どうした?」
僕は彼とまったく同じ台詞を吐いて、彼に目を向けた。今の状況が上手く把握できなかった。
つまり、用がないならさっさと帰れよ、ということだろうか。一番自然な形で僕をここから追い出してくれる、これは彼の無愛想な好意。そう受け取ればいいのか?
「どうした?」
彼は少し待ってから、もう一度同じ質問をしてくれた。
どうした? 用がないならさっさと帰れよ。には聞こえなかった。
つまり、彼の目には本当に僕が映っていなかっただけのことなのかもしれない。もし、視界の端に留まっていたとしても、ただ単に気づかなかっただけ。そして、ため息も耳に入らなかった。それなら、彼の疑問符の浮かんだどうした? も納得できる。
自分のほうに体を向けて、変にうつむいてる奴がいる。なんだろう? 用でもあるのだろうか?
どうした?
うん。無理がない。
「……」
納得した時には、すでに彼の質問に対する回答権はなくなっていた。質問の答えを考えるにしろ、一分は長すぎるだろう。彼はすでに僕から顔をそらして、窓の外を相変わらず背筋をぴんと伸ばしたまま、眺めていた。
「あっと……、君も?」
彼はこちらに顔を向けてくれた。どうやら、気長に待ってくれていたみたいだ。
「なにがだ?」
「君も、秀原の講義をサボってたの?」
彼は僕の目を確かめるように見た後に、ゆっくり目をそらして「ああ」と呟いた。
「でも、僕が教室に入ったときには、君は席についてるよね」
「ああ」
「僕よりも少しだけ早く来てたってことかな」
「ああ」
「――残念だな」
彼は、なに? とは声に出さず僕に顔を向けた。変わりに僕は、だって、と声を出した。
「もし君がもう少し遅くて、僕がもう少し早ければ、僕たちは今頃、秀原の欠点を十個ぐらい挙げて、笑い合ってたかもしれない」
彼は少し考えるように僕から目をそらしてから、再び僕に視線を戻した。
「確かに、そうなっていたかもしれないな」
「うん」
それも悪くない。だろうか?
「それで、君はどうするの?」
「なにがだ?」
それはつまり、お前はどうするんだ、ということだろう。
「とりあえず、僕は明日から10分早起きすることになるけど」
君は?
「そうだな」
彼は小さく唇をゆがませて「とりあえず、このまま様子を見てみる」と言った。
「本気?」
「気になるだろ。あいつの言ってた考えってやつが」
僕は少し考えるふりをして、視線を上に向けた。
「確かに」
それが、毎朝家に押しかけてくるものなのか、それとも、それ以外のものなのか。
「気になるね」
視線を彼に向けると、彼は小さくうなずいて、言った。
「あいつなら、やりかねない」
「確かにそうだし、できれば確かめてもみたいけど、それは止めたほうがいいと思うよ」
「どうしてだ?」
「そうすると、君が主犯格ってことになる」
彼が目を細めるのを見て、僕は言った。
「気づかなかった? 僕たちは今、共謀してストライキを起こしてるんだ。我々に穏やかな朝の10分を! ってね」
「ああ」
彼は煩わしそうに頭を一度かいた。
「そういえばそうだったな」
「こればかりはどうしようもないね」
「そうだな」
「考え直す気になった?」
「考えとくよ」
ああ、そう。
とりあえず、これ以上会話を引き伸ばすのは不可能に思えた。もう彼から僕に声をかけてくることはないだろうし、僕からも、彼にかける言葉は一つしかない。
「そろそろ、帰る?」
僕は言った。
「そうだな」
彼はうなずいて立ち上がった。
「一つ、聞いてもいいか?」
教室を出ようとドアをくぐろうとしたところで、彼の声は響いた。振り返ると、自分の席の前から彼は一歩も動いていなかった。
「俺は、お前と一緒に帰るのか?」
決して、それが嫌だといってるわけじゃない。遠まわしに勘弁してくれ、といってるわけでもない。だからこそ彼の周りには人が集まらないのだろう。
僕は考えるふりをしてから、視線を上に向けた。彼に目を戻すと、彼は真剣な目で答えを待っていた。
「まあ、そうなるだろうね」