表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第九話 23102055

 ウズメが学園を去ってから、昨日でちょうど一週間が経った。早いもので十月も残りわずかとなり、ベッドの寝具もそろそろ掛布団に毛布を重ねてもよさそうな気温になってきた。

 あの晩にナユタに聞かされた日記の内容について、まだニニの中では気持ちの整理がついていない。ウズメの退学にともなって野外調査活動も休止となり、何も考えずに街を走り回って気晴らしをすることもできない。いつも通りの日常が失われてしまったせいで、ここ数日ニニの気分は、秋の海のように荒く波立ちどんよりと鈍色に沈んでいた。

 それでも時間は流れ、朝はやってくる。そしてなにより、今日はマイカと待ち合わせの約束をした二十三日の土曜日だ。窓の外は曇ってはいるが、時折雲間からは明るい陽射しが降り注いでいる。これなら今日はマイカと海で歌えそうだ。マイカに会うなら、心配をかけないように笑顔を見せたい。

 ニニは心を決めて起き上がり手早く制服に着替えると、少し遅めの朝食をとるために食堂へと向かった。

 目覚めてから起き上がるまでだいぶベッドの上で過ごしてしまったので、朝の六時から開いている食堂にはもう誰もいないかもしれない。そう思いながら階下にやってきたニニは、食堂のほうからざわざわとした気配を感じて首をかしげる。何か嫌な胸騒ぎを覚えながらニニが食堂の入口近くから中を覗くと、奥の方に人だかりができている。確かあのあたりには、ナユタが組み立てたインターネットに繋がるパソコンが置いてあるはずだった。

「おはようございます」

「おはようございます、ニニ。あなたで最後ですよ」

「あはは……すいません」

 朝食の準備は毎日、寮母であるマザーの担当だ。ニニは食堂に入るなり待ち構えていたマザーに頭を下げつつ、入口にある白いトレーを手に配膳台へと進む。その途中、食堂の奥に集まっている学生たちがみな一斉に、自分を見つめていることに気づいた。

「……何? 寝ぐせついてる?」

 ニニが後ろ頭に手をやって手櫛で髪を整えていると、人だかりの中からチユキが駆け寄ってきてニニの腕を引く。

「こっち」

「え、なになに、マザー待たせてるから先に朝ご飯もらいたいんだけど」

 チユキがニニを連れてくると、パソコンのモニター前の人だかりがすっと左右に割れてニニの前が開ける。みなの視線を感じて困惑しながら、ニニは数歩先にあるモニター画面に歩み寄る。普段パソコンはあらかじめ使用申請を出して時間制限の中で使うルールになっているが、今は誰かが使っていたのだろうか、モニター画面も鮮やかに点灯している。

 そしてそこには、ニニが見慣れた人物の写真が映し出されていた。

「マイカ……?」

 ふらふらと引き寄せられてモニター画面の前にやってきたニニは、マイカの写真に添えられた文字を目で追いかける。

「え? なにこれ……」

 ニニの手から白いトレーが板張りの床に滑り落ち、乾いた音があたりに響き渡る。周りの学生たちはみな、ニニを見つめながら固唾を呑んでじっと立ち尽くしている。

 ニニは何度も何度もモニター画面の文字を読み直し、そして後ずさった。

 〈電撃引退発表! 稀代の歌姫マイカ、来週末開催のライブにて歌手引退を発表〉

 何度読み返しても、モニターに表示された文字列は変わらない。意味はわかるのに、頭が理解することを拒んでいる。

 混乱の中で立ち尽くすニニに声をかけたのは、チユキだった。

「ニニギ、知ってた? マイカ、学園に戻ってくるとか何か聞いてる?」

 ニニはチユキの問いかけに対する答えを持っていない。ただ先週あの店で会った時、次に会う約束をした別れ際に、いつになく真剣な顔をしていたマイカを思い出していた。

 マイカの話したかった「大事な話」とは、このことだったのではないか。しかしあの日はウズメのことで落ち込んでいた自分をマイカが気遣って、引退の話を切り出せずに帰ったのではないか。

 そう思い至った瞬間、ニニはたくさんの視線から逃げ出すようにその場を駆け出していた。

「ちょっと、ニニギっ?」

 チユキの声を振り切り、驚いた顔のマザーの前も素通りして走り抜け、気づけばニニは息を切らしながら自分の部屋に戻っていた。

 ずっと自由に歌い続けて欲しいと願っていたマイカが歌うことをやめる、マイカには何回も会っていたのに悩んだそぶりも見せず相談もなかったこと、先週見たマイカの真剣な眼差し、乞うような切羽詰まった声で告げられた待ち合わせの約束、色々な感情がニニの頭の中をぐるぐると回り、何も考えられない。

 自室の扉にもたれて膝を抱え座り込んでいたニニが、外からのノックの音と背中に伝わる振動に気づいたのは、だいぶ時間が経ってからだった。

「ニニ、聞こえますか」

「……マザー」

 すぐに立ち上がって中に迎え入れるべきだとわかっていたが、ニニの足は動かなかった。

「チユキからおおまかにお話を聞きました。あなたの分の朝食を持ってきたので、受け取ってください。ニニ、今日は午後にマイカと会うのでしょう? そのためにも、しっかり食べてください」

 マザーはいつでも優しく、学生たちの生活を守る寮母としての職務もある。そんな彼女を困らせるわけにはいかない。ニニはゆっくりと立ち上がって扉を開けた。マザーは白いトレーに朝食を乗せて、微笑んでいた。

「美味しそうな鮭が手に入ったので、今朝は焼き鮭とごはんにお味噌汁です。しっかり食べて、お皿とトレーはあとで食堂に返すこと。それと、今日の昼食当番は生徒会ですが、チユキがツカサから承諾を得て、ニニは無理に参加しなくてもよいことになったと言っていました」

「ありがとうございます」

 ニニはトレーを受け取って会釈をすると、マザーの暖かな優しい手が、ニニの両肩に乗せられる。

「ニニ、あなたには心配してくれる友達がこんなにいるのだから、忘れないでね」

 ニニがこくりとうなずいたのを見て、マザーは微笑んでゆっくりと歩いて帰っていった。

 ニニはそっと扉を閉めると、マザーから受け取ったトレーに視線を落とす。手元の皿の上には焼き鮭と卵焼き、少し醤油のかかった大根おろし、豆腐の味噌汁に炊き立てのごはんが並んでいる。味噌汁のお椀からはまだほんのりと湯気が立ちのぼっており、おそらくマザーはニニのために温めなおしてくれたのだろう。

 ニニは窓際の机にトレーを置いて前に座ると、大きくため息をついた。頭の中はまだぐちゃぐちゃなままで、考え一つまとまらない。けれど今はマザーの言う通り、マイカに会うために準備をする、それだけに集中するしかない。そしてマイカに会って、今度こそ大事な話を聞こう。そう心に決めて、ニニは箸を手に取った。

「いただきます」

 一口サイズに切られた黄色い卵焼きを頬張ると、ほんのりとした甘さとともに口の中でほろりと崩れていく。マザーの卵焼きはいつも通り美味しかった。鮭もきっと人数分を手に入れるのは苦労したことだろう。一口食べ始めれば身体が空腹を思い出したように箸が進み、気づけばしっかり全部平らげてニニは箸を置く。

 少し気分も落ち着いて、ニニはまだ温かいカップの番茶を口にしながらこれからの行動に思いを馳せる。美味しい朝食を用意してくれたマザーには、今度きちんとお礼を伝える。食事当番を免除してくれた生徒会のみんなとチユキには、あとで機会を作って謝ろう。

 心を決めれば、いつもの自分に戻ったように身体が動き出す。ニニはひとまずトレーを持って、階下の食堂へと足を向けた。

 食堂にはすでに誰もおらず、厨房から水音だけが響いている。ニニが入口からそっと覗くと、足音を聞きつけたのか厨房からチユキが顔を出した。

「ニニギ、食べられた?」

「うん、さっきはごめん」

「いやあ、まあうん、気にしないで、私も悪かったよ。今日マイカと会えるんでしょ? その時に話してくれるって。マイカだってプロの歌手なんだから、公式発表前はニニギにすら言えなかったんじゃないかな」

 チユキの気遣いの言葉に、ニニは黙ってうなずく。

「まだ顔色悪いから、昼まで部屋でのんびりしてなよ。それも私が洗っておくからさ」

 厨房にはまだ生徒会の面々は見当たらず、どうやらチユキは一足先に厨房に入り、マザーを手伝って朝食の後片付けをしているらしかった。

「今日はお言葉に甘える」

「いつも、でしょ」

 チユキの言葉にニニはふっと笑って、トレーをチユキに託した。それから、と言いよどんでから、ニニは厨房に戻りかけたチユキの背中に声をかける。

「今日、私お昼パスしていいかな」

「えー、ツカサ会長のスープなのに?」

「ちょっと部屋で寝てる。よかったらスープだけ一人分残しておいて欲しいな」

「そういう規則違反のご要望は受け付けてませんけどぉ」

 そう言いつつも、チユキは笑って親指と人差し指で輪を作って見せる。チユキならきっと、ツカサを説得してくれるに違いない。お互い笑いながら手を振って、ニニは食堂を後にした。

 一度部屋に戻ったニニは身支度をしてコートを羽織り、こっそりと再び階下へと降りていく。寮の玄関のすぐそばが食堂なので、生徒会の面々とチユキの楽しげな声や器具の触れ合うにぎやかな音が、ニニの気配を都合よくかき消してくれた。

 玄関まで響くチユキたちの声をどこか遠い世界のように感じながら、履き慣れたスニーカーに両足を滑らせ、そっと玄関の扉を開けてニニは外に出た。

 鈍色の雲間からこぼれる陽射しはまぶしく、ニニは目を細める。目指す場所は決まっている。マイカとの待ち合わせまで、気持ちを言葉に乗せて海で心のままに歌いたい。

 ニニは校門を通り抜けると誰かの目に留まる前に坂道を足早に駆け下りていった。

「歌よ」

 枯れ始めた薮の混じる茂みに挟まれた坂道を進みながら、ニニは思いついたまま歌を口ずさむ。

「歌よ、ここに在れ、私を、私にして」

 ニニが小声で歌うのは、いつどこで覚えたのかもう忘れてしまった、マイカとよく海で歌う合唱曲だ。地面に散った枯れ葉がからからと音と立てて風に舞う中で、ニニの祈りの歌は続く。

「歌よ、ともに在れ、私が、私であるために」

 ニニの伸びやかな歌声は、乾いた冷たい秋風に乗って街の静けさの中へ溶けていく。紅く色づき始めた山を背景に大通りの白い御影石を舞台にして歩きながら歌い続け、いつしかその歌声すら飲み込む波のざわめきにたどり着く。ニニは大きく息を吸い込んで、海に向かって両手を広げた。

「私は、歌があって言葉があって、よかったって思ってる。ありがとう」

 ナユタと読み解いた日記に書き遺されていた、この世界に命を賭して「声」を繋ぎ止めたたくさんの人たちに思いを馳せる。ニニの指先が、補声器が埋め込まれた喉元に触れる。

「だからマイカにも、もっと歌って欲しい」

 ニニの願いを飲み込んで、海は何を答えることもなくただ寄せては返す波の音を響かせ続ける。

 ざわざわと心を波立たせ身体の奥深くに沈み込んでいく感情を、少しずつ言葉に変えて海に還すように、ニニは砂浜を歩きながら、マイカと今まで歌ってきた歌を思いつく限り歌い続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ