第八話 追憶の水底
一昨日マイカと食べたプリンアラモードやモンブランの甘い余韻がまだ残る昼下がり、食堂でニニがチユキと昼食のハンバーガーについていたフライドポテトをつまんでいるときだった。
もうすぐ昼休みも終わるため、少しずつ人がはけてざわめきも引き始めた頃、食堂入口にマザーが姿を現した。ワンピース姿の彼女は誰かを探すそぶりを見せてから一番奥のテーブルにいるニニと目が合うと、まっすぐと二人の元へ歩いてきた。
「お食事中ごめんなさいね。チユキとニニはこのあと午後の授業へ行く前に、生徒会室に立ち寄ってください。学園長よりお話があります。授業の担当教員には話を通してあります」
「はい、マザー」
「もしかして、野外調査活動チームについてのお話ですか?」
チユキの言葉にマザーは小さくうなずくと、それ以上は何も言わず、よろしくね、とだけ言い残して立ち去って行った。
「なになに、ニニギ何かやらかした?」
背後からそばで食事をしていた誰かからの声が聞こえたが、ニニとチユキは答えることなく、皿に残ったケチャップをフライドポテトできれいに拭って口に放り込み、席を立つ。
ウズメが復学できる可能性はとても低い、という担当医の言葉をあらかじめマザーを介して聞いていたニニとチユキには、これから学園長の口から聞かされる話がなんとなく予想できていた。そのせいか足取りも重く、校舎の二階にある生徒会室までがとてつもなく遠く感じられた。
「チユキ、大丈夫?」
「ニニギこそ」
それまで押し黙って歩いてきた二人はそう声を掛け合ってから息を吐いて、生徒会室の扉をノックする。
「どうぞ」
中から生徒会長のツカサの声がして、ニニは扉を開けてチユキと連れ立って中へ入った。
生徒会室には奥に学園長とマザー、そして手前に生徒会長であるツカサと経理係のミチル、技術保全活動チームリーダーのナユタがいた。揃った面々を見渡して、自分たちの予想がおそらく的中していることに暗澹たる思いになりながら、ニニとチユキはみなに会釈した。
他の部屋と違い生徒会室だけは、床がカーペット敷で来賓用の応接セットも備え付けられている。集まった全員が座れる余裕もあったが、今日の話は座るほど長い話でもないのか、みな立ったままだった。ニニとチユキはまず学園長に向かって礼をしてから、ナユタの隣に並んだ。
「野外調査活動チームリーダー、チユキです」
「メンバーのニニです」
二人のあいさつに学園長はうなずいて、さて、と言ってから大きく息を吐いた。そのとき、午後の授業が始まったことを告げるチャイムが鳴り響いた。
「君たちも午後の授業があるから、手短に用件だけお伝えしよう」
白髪交じりの学園長はメガネのブリッジを指で押し上げて両手を後ろに組むと、どこかいたわるような表情でニニとチユキに向き合う。
「チユキくん、ニニくん。君たちとチームをともにしたウズメくんは、本日付で退学となった」
もうずっと前から覚悟していたはずだったにも関わらず、学園長の言葉を聞いた途端、ニニは身体がその場に重く沈み込むような錯覚に目を伏せた。チユキも隣で唇を噛んで、今にも泣きそうな顔をしている。
「君たちには突然の報告になってしまって申し訳ない。最後に一度も会わせてあげることもできなくて、それもすまないと思っている。ウズメくんのご両親の意向もあってね。身勝手な大人を許してほしい」
かろうじて首を横に振ることしかできないニニに向かって、今度はマザーが言葉をかける。
「ウズメの退学にともない、今後、『野外調査活動』のチームは三人目の候補者選定まで引き続き活動休止となります。そして再始動までの間、チユキとニニには正式に『生徒会』に所属してもらいます」
マザーの言葉を受けて、生徒会長のツカサがうなずき、ニニとチユキに向き合う。
「事情はすべて伺っている。正式に所属してもらうといっても、今までの活動休止中と変わらず、いろいろなチームのフォローに回ってもらうことになると思うが、よろしく頼む。とは言え、事情が事情だ。気持ちの整理をつける時間が必要だろう。だから今月いっぱいはゆっくり休んで欲しいと思っている」
横にいる経理のミチルは涙を浮かべながら、ニニとチユキを見つめてただただ首を縦に振っていた。
「それとナユタくん」
学園長がナユタを呼ぶ声に、ニニが思わず肩をぴくりと震わせる。
「君が今のポジションと掛け持ちする形で『野外調査活動』のメンバー入りを立候補してくれたのはマザーからも聞いている。だがね、『技術保全活動』もその重要性と機密性は高く、何より君の持つ技術は素晴らしい。君以上にこの学園で『技術保全活動』のチームリーダーに適任と思える学生が、私には思い浮かばない。だから申出はありがたいが、君には『技術保全活動』にのみ専念してもらいたい」
「問題ないです」
ナユタの承諾を聞いて学園長はうなずき、マザーに視線を投げた。おそらくチームメイトであり同級生の退学にショックを受けているニニとチユキを、必要以上にこの場に留め置く必要はないと思っているのだろう。
学園長の意向を察したように、マザーは集まった学生に微笑みかける。
「今日は金曜日だから、この件で相談があったら私の元に来てください。お話は以上です。もう授業に戻っていいわよ」
「はい」
「失礼いたします」
生徒会メンツのツカサとミチルが先に部屋を出ていき、続いてナユタが部屋の入口で一度ニニを振り返り、しかしそのまま立ち去っていく。
「午後の授業大丈夫そう?」
マザーからの言葉にニニとチユキは無言でうなずいて、学園長にお辞儀をして二人そろって部屋を出た。
扉を閉め、教室から聞こえてくる授業のざわめきを聞きながら、お互いに言葉を交わすことなく自分のつま先に視線を落として廊下を歩いていく。
「ニニギ、私今日の午後は家庭科だから、上の階に行くね」
チユキはそれだけ言い残すと、ぱたぱたと廊下の向こうへ去っていった。
ウズメについて一言すらも言葉を交わす気持ちの余裕がないのは、ニニもまた同じだった。なので、今はチユキの心遣いがニニにはありがたかった。ニニはポケットに入れた予備の携帯端末を取り出し、自分の午後の授業が体育であることを確認すると、階段を下りて校舎の裏手に広がる校庭へと足を延ばす。
どんよりと重たく曇った白い空の下、整備された砂地の校庭には、石灰で白線のコートが描かれ、様々な学年から集まった学生が二手に分かれてバレーボールをしていた。
「ニニさん」
試合の進行を見守っていた体育科の男性教員が、ニニに気づいてやってくる。彼はウズメが倒れた際、ウズメを抱きかかえて学園に戻った張本人だ。マザーからの話とニニの青白い顔を見て、すでにいろいろと察しがついているようだった教員は、そばにやってきたニニが申し出るより早く、寮のほうを指さした。
「ひどい顔だね。倒れられても困るから、今日は部屋で休んでいなさい」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
「部屋まで気をつけて帰るんだぞ」
ニニは教員にぺこりと頭を下げ、踵を返して寮の自室へと向かった。背後から聞こえてくる楽しげなみんなの声を聞いていると、一人で外を歩いている自分が世界から切り離された存在のような気がしてくる。
寮にたどりついて消灯されたままの廊下を進む途中、ニニは廊下の窓ガラスに自分の顔を映して、まじまじと眺めてみた。
「そんなにひどい顔かな」
血の気が引いているのか、あるいは今日もあいにくの曇天で空が薄暗いせいか、ガラスに映る顔はいつもより青白く見える。重い気持ちと同じくらい重くなった足取りでようやく部屋に戻ったニニは、ベッドに腰掛ける。そしてそのまま、どさりと仰向けに倒れ込んだ。
「ウズメ、いなくなっちゃった」
改めて言葉にすると、得も言われぬたくさんの感情がニニの身体の中を渦巻いて、心が波立っていく。
すべての人が装着している補声器の故障は、事例としてはありえないわけでもない。
けれど、今回のウズメのように補声器を交換しても不調である場合は、本人の声帯と補声器の不適合が起きていることになる。そしてこの世界で、補声器が使えない人に待ち受けている運命は、ニニですら知っていた。それゆえに、ウズメのことを考えると自分も一緒に押しつぶされそうな気持ちになる。
ベッドに仰向けになりながら天井を見つめていたニニは、片手をあげて手のひらを部屋の照明にかざしてみる。やはりこの小さな手では、ウズメや世界を苦しめる「あの日」の真相になど届かないのだろうか。
大きくため息をついたニニはふと、生徒会室を退出したときのナユタを思い出す。部屋の入口でじっと何かを言いたげに見つめてきたナユタの表情にはっとしながら、ニニはベッドから飛び起きた。
録画データが入った携帯端末を九月末にナユタに預けてから、そろそろ半月は経つ。
「もしかして、解析終わった……とか」
ニニの心臓がどくんと鳴り、指先にじわりと温かみが戻ってくる。まだ、諦めるわけにはいかない。ニニは見つめた手のひらをぐっと握りしめた。
ナユタは午後の授業に出席し、そのあと午後五時までは技術保全活動チームでの「仕事」があるはずだ。こっそりナユタに会いに行くとしたら、他の誰かに見つかったときにもごまかしがきくことを考えると、夜中よりは夕飯前のタイミングがいい。
ニニはそう決めるが早いか、ベッドから飛び起きてコートを羽織り、部屋を出て階下へと歩いていく。
今夜ナユタから日記のあらましについて報告を受けるのだとしたら、それまでには今の気分をリセットして、さらにウズメの退学よりもっと大きな衝撃に備える必要がある。そのためには、きっと誰もいない海に行くのが一番いい。
みんなが授業のため校舎にいるさなか、ニニは一人でこっそりと校門をくぐり、眼下に広がる街へと早足に坂道を下って行った。
少しずつ秋が深まり、いつの間にか海から吹く風には、庭先に咲く金木犀の甘い香りが混じり始めている。白い空と同じくらい白い御影石の大通りの、明かりの灯っていない信号機の下をいくつも通って、やがて開けた視界に一面広がるのは、真っ白な曇天とその下で強い風に荒波を立てる海だ。
「そろそろ海に来るならマフラー必要だな」
ニニは一人呟いて、砂浜には立ち入らずその手前の道路のふちに腰かけた。今日は歌うのではなく、ただ繰り返し押し寄せては引く波音を無性に聞きたかった。
ニニは海が好きだったが、泳ぐことが好きなわけではない。浜辺に立って手を伸ばせば触れられるほどに海はすぐそこにあり、頬を撫でる風は陸も海も分け隔てなく吹き抜けていく。にもかかわらず、目の前にある広大な海は、人間は生きていけない別世界だ。つまり、浜辺の波打ち際は、いわば「ヒトの世界」の境界線でもある。それが面白く感じられて、ニニは幼い頃から海が好きだった。
そして海で歌う声は、海の向こうへも響いていく。命が越えられない境界線を悠々と越えていく歌声、それは世界の隠された真実を探すために、不可能にさえ挑戦しようとしているニニの背中を押す希望そのものであり、マイカと二人、海で歌うのが好きな理由でもあった。
一人じっと波打ち際を見つめて荒い波の音を聞いているうちに、波立っていたニニの心の中からざわめきが消え、無になっていく。
ぼんやりと海を見つめていたニニは試しに、吹きすさぶ冷たい風に抗って一人鼻歌を歌ってみる。
しかしニニ一人の声は耳元で鳴る風の轟音に負けて、歌うそばから音は空中に離散していく。
「今日は風が強すぎるからだめだな。それより風邪引くかも。何かあったかいもの飲みたい」
少し冷たくなった指先に息を吹きかけてこすり合わせるニニの脳裏に、なぜかあの不思議な店が思い浮かぶ。
一昨日、マイカと二人でいただいた紅茶の香りを思い出しながら、気づけばニニは立ち上がって海に背を向け、あの店がある商店街へと歩いていた。
海を離れれば風もだいぶ収まり、冷えた秋の気配の中コートの裾を遊ばせながら、ニニは商店街へと足を踏み入れる。ニニの他に街を歩く人など誰もいないにも関わらず、あの店の窓からは今日も柔らかい光が見える。
一人で訪れるのは初めてであることに多少緊張しながら、ニニは店の扉を押し開けた。
ちりりんとドアベルが鳴るのと同時に、カウンター席に腰掛けるナギがニニに声をかける。
「いらっしゃい。珍しいわね、一人?」
「あの、ごめんなさい。喫茶店じゃないって聞いてるのに、また来ちゃいました」
「いいのよ。海行ったの? 髪がくしゃってなってるわよ。今日は寒かったでしょう」
ナギがいるためか、一昨日と違って店内はコーヒーの香りにあふれ、今日のナギは窓際の席ではなくカウンター席で新聞を読んでいた。
窓を鏡代わりにして手櫛で髪を整えて、ニニがナギの隣に腰掛ける。ナギは新聞を読みながら赤ペンを握り、たびたびチェックを入れながら隅々まで視線を巡らせている。そのかたわらで、大きめの白いマグカップに注がれたコーヒーからはかぐわしい白い湯気が立ちのぼっていた。
「弁護士のお仕事ですか?」
「ん? あ、これ? 今はねえ、私フリーの記者をしてるの」
サクヤに「何でも屋」と呼ばれていたことを思い出し、ニニはくすりと笑う。
「勉強家なんですね、ナギさん」
「暇だからね。それに、ちゃんと新聞読んで、この時代にこの国で何が起きてるのか、頭に入れておかないとこんがらがるでしょ」
「こんがらがる?」
ナギとニニの話し声が聞こえたせいか厨房から顔を覗かせたサクヤが、ニニを見つけて手を振った。
「こんにちは。お店に来るのは来週の土曜日って聞いてたけど、今日は一人ですか?」
脱いだコートをたたんで膝の上に置いたニニは、こくりとうなずく。
「でも特に何か食べに来たとかじゃなくて、私はお金も持っていないので、今日はその、一人きりになりたくて、来ました」
「ここ、私とサクヤいるけどいいの?」
ナギの言葉にニニは慌てて首を横に振り、両手をぱたぱたと動かして必死に説明する。
「あっそうではなくて、私のことを知っている学園の顔見知りがいない場所に行きたかったんです。自分の部屋だと余計なことも考えちゃって苦しくなって、なら海に行こうって、そう思って外に出たのに思ったより寒くて……仕方ないから帰ろうかなと思ったんです。そしたらふっとこのお店が頭に浮かんで、浮かんじゃったので、来ました」
「そっか」
ナギはただ一言だけそう言って、ニニを否定するでもなく肯定するでもなく、また赤ペンを片手に手元の新聞を読み始める。
「隣がお邪魔だったら、あそこの窓際の席にいていいですか?」
「今日は窓際寒いよー? だから私もここにいるの。隣にいても構わないし、一人でのんびりできる好きな席に座ってもいいよ」
「ありがとうございます」
ニニは席を立ってナギに会釈をすると、店の中ほどにあるテーブル席に歩み寄り、ナギのいるカウンターを背に店の入口を向いて椅子に腰掛けた。視線の先にある大きな窓の向こうに、誰も通らない路地が白い空に照らされてぼんやり明るく映っている。
ニニは膝にコートを掛けてテーブルに両腕を置いて顔を埋めて伏せると、静かに目を閉じた。
暖かい店内の中、時折背後からナギが新聞をめくる音と厨房からかすかに物音が聞こえ、コーヒーの香りに優しく包まれる。まるで時間が流れていないかのような心地よい穏やかな空間の中で、ニニはだんだんうとうとし始め、ついにはふっと眠り込んでしまった。
それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
ティーカップがソーサーの上に置かれるかすかな音に、ニニはふわりと意識を引き戻されてゆっくりと目を開ける。
伏せて寝ていたのに身体は冷えておらず、顔を上げようと身じろぎしてようやく、肩にブランケットが掛けられていることに気づく。窓の外は相変わらず曇天の下で白くぼんやりとにじみ、時間の感覚がわからなくなる。
「おや、起こしてしまいましたか」
「いいタイミングに起きたじゃない、そろそろおやつの時間だし」
ニニが肩のブランケットを押さえながらカウンター席を振り返ると、足を組んで腰掛けるナギのマグカップに、サクヤがコーヒーを注いでいるところだった。
「ニニさんも一緒におやついかがですか?」
「今日は寒いし、遠慮せず温かい飲み物だけでも飲みなさいよ」
ナギに手招きされ、ニニはブランケットを羽織ったままカウンター席にやってきて腰掛ける。サクヤはお気に入りのティーカップに紅茶を淹れており、ニニの好きなアールグレイの香りが鼻先をくすぐる。
「ニニさんも紅茶かな? けど今日はなんだか疲れてるみたいだから、紅茶を使った温かい飲み物にしましょうか。牛乳は飲めますか? あと、甘めが好きなんだったかな」
ニニがこくりとうなずくと、サクヤはカウンター後ろの戸棚からナギが使っているものと同じ大きさの白いマグカップを手に取り、厨房に戻っていく。
「いつも元気なのに、今日はしおらしいじゃない。一人きりになってちょっと寝て、気分はリセットされた?」
「おかげさまで、頭が少しすっきりしました。つらいことも悲しいことも忘れることはできないけど、私は前に進むしかないから」
ニニの言葉にナギは目を細め、組んでいた足を解いてカウンター席にきちんと腰掛けなおす。手元のマグカップに残ったコーヒーの黒い水面に映る自分の顔を見つめながら、ナギはニニに優しく話しかける。
「ニニ、願いごとはある? 前にも言ったと思うけど、この店にはね、書いた願いごとが必ず叶う不思議な本があるの」
何と答えようか迷いながら押し黙るニニの耳に、厨房からお湯を沸かす音と、茶葉をスプーンですくってさらさらとポットに落とす軽やかな音が聞こえてきた。ニニは息を吸って目を閉じ、少し考えてから唇を開く。
「マイカが、みんなが補声器とか気にせず歌える世界になって欲しい。友達が今日、退学したんです。補声器の不適合、起こしちゃって、それで……もう学園には戻れなくなったって、先生から聞かされました。だから」
ニニの隣でナギは静かに耳を傾け、何度も小さくうなずいている。
「なんでこんな世界になっちゃったんだろうって、ずっと考えています。結果があるなら原因がある。なら、私は、その原因を探って何とかしたい。それが願いです」
銀の盆にマグカップと白いポットを二つ載せて戻ってきたサクヤは、ニニの言葉を聞きながらその手元にそっとマグカップを置く。それから、普段より少し濃い色をした紅茶をポットから注ぎ、次に別のポットから牛乳を注ぐ。濃い茶褐色の中に牛乳の白がふわっと雲のように広がって少しずつ混ざり合い、白茶色に変わっていく。
「今日はホットミルクティーです。あらかじめ紅茶に砂糖を溶かしてあるから、そのままでも甘いですよ」
「ありがとうございます」
ニニが両手でマグカップを包むと、じんわりとした温かさが手のひらに伝わってくる。柔らかな湯気からはほんのりと紅茶の香りがして、ニニはそっとマグカップに口を付けた。
「美味しいです」
こっくりとした甘みが優しく広がり、身体がほっと温まる。ニニは羽織っていたブランケットをたたんで隣の椅子に置いて、大きく息を吐いた。
「ちょっとは元気出てきた? じゃあ一緒にこれ食べない? おやつ代わりにさ」
ナギがそう言うと、二人の前にサクヤが白い皿を置く。六枚切りほどの厚さのトーストに丸いハムが一枚乗っており、耳がカリッと焼けている。トーストの表面にはバターがじゅわっと溶けて染みており、食欲をそそる香りがニニの鼻をくすぐる。サクヤが持っていたナイフでトーストを四等分になるよう十字に切り分けると、待ち構えていたナギが早速扇形になったハムが乗ったトーストをつまんで頬張る。
「んー、ハムとバター、相性最高ね。ニニちゃんもどうぞ」
勧められるままニニもトーストをひときれ手に取って、ふっと笑う。
「これ、懐かしい! 私このハムバタートースト大好物なんですよね。昔は夜ごはんにこれ作って一人で食べてました」
さくっとかじると、ハムの塩気とバターの風味がトーストによく合う。懐かしさのあまりさくさくと食べ進めて、ニニはふと顔を上げる。
「あれ? でも、私これ、いつ作ったことあったんだっけ。学園では一人分の食材量が決まってるから勝手に料理できないし、調理室を借りて作るのはいつもお菓子だけ……小学生の頃、はそもそも先生同伴じゃないと調理室入れない。なんだろ、なんかおかしい、でもこれ私の好物だよね? なんで今まで忘れてたんだろ……」
舌の上に感じるのは確かに忘れがたい思い出の味のはずなのに、ニニにはそれが何歳頃のどこの記憶なのかがまったくわからない。ただただ懐かしさだけが残る味に、ニニは少し混乱しながら助けを乞うようにナギとサクヤのほうを見ると、二人は黙ってニニを見つめていた。
「なんか、私、変です。思い出せなくて」
「ゆっくり思い出せばいいんじゃないの? 大丈夫、いずれ全部思い出せるから」
ナギはそう言ってもうひとかけトーストをつまんで、最後の一つが乗った皿をニニの前へと指先で押しやる。自分の中に生まれた知らない感覚に戸惑いながら、ニニが目の前のハムトーストの切れ端を見つめていると、背後からちりりんとドアベルが鳴った。
驚いて振り返ると、いつの間にかカウンターから出て店の入口へ歩み寄ったサクヤが扉を開け、外から金髪の少年が一人店内へやってくる。
自分以外の来店客を初めて目にしたニニが驚いた表情で少年を見守っていると、膝丈のズボンに丸い襟のついた白いシャツ姿の上品な少年が、がちゃがちゃと音を立てて牛乳瓶の並んだ木箱を抱えてカウンター席へとやってくる。くるんとしたくせ毛の金髪と薄い青色の瞳を持つ色白の少年は、頬を紅潮させながらナギに微笑んだ。
「ナギさんこんにちは」
「はい、こんにちは。今日も配達ありがとうね。美味しい牛乳、楽しみにしてたわよ。ちょうど今このお姉さんもミルクティーにしていただいているとこなの」
ナギに褒められ照れくさそうに頭をかいた少年は、カウンターに牛乳瓶が六本入った木箱を置いてから、ナギの隣に座るニニにもお辞儀をした。
「お姉さんも久しぶり! お洋服が紺色から白になってて気づかなかったよ。うちの牛乳、どうですか?」
どう考えても日本人には見えない金髪の少年の口から紡がれる流ちょうな日本語にどぎまぎしながら、ニニは座ったまま会釈をする。
「こんにちは……。あの、すごく美味しい」
「よかった。うちの牛乳、そのまま飲んでも料理に使っても、温めても冷たくても美味しいんですよ。たくさん飲んでくださいね」
ニニは少年に見覚えは無く初めて会ったはずなのだが、彼は満足げな表情でナギとニニに手を振ると、半ばスキップしながら店の扉へと戻っていく。
「今日もまだ配達に行くんですか?」
「そうなんだよ、ドイツとの戦争も終わって父さんたちが忙しいから、僕もお手伝い頑張らなくちゃ」
「気を付けてくださいね」
「ありがとう、サクヤお兄さん!」
サクヤの横をすり抜けて店を出ていく少年の後ろ姿を目で追っていたニニは、サクヤの背中越しに見えた扉の外の景色に思わず目を見開いた。
路地は舗装されておらず泥で覆われており、たくさんの足跡と細いわだちがくっきりと残っている。そして少年が出ていった扉がサクヤの手によって閉められる寸前、その泥の道を大きな黒い馬車が横切ったのだ。
「ナギさん、ナギさん! 外、今馬車が」
「あれ、見えちゃいました?」
隣に座るナギの二の腕を掴んでぐいぐいとナギの身体を揺するニニに、扉の前に立つサクヤが笑いかける。
「サクヤさんも見ましたよね? 今、外が泥だらけで、えっとサクヤさん、もう一度扉開けてください」
「いいですよ」
ニニは思わず立ち上がって、店の入口に立つサクヤの元へと駆け寄る。ドアノブを握ったままのサクヤが、ニニのリクエストに応えてもう一度、ゆっくりと扉を開く。
「……あれ?」
ニニの目の前には先ほどの泥が跳ねる道ではなく、白い曇天の下でひっそり静まり返っている見慣れた路地が横たわっていた。
「んん? どういうこと? さっきのは何だったの」
「やだ、ニニちゃんまだちょっと寝ぼけてるんじゃない?」
ナギが笑う声を聞きながら、サクヤに促されてカウンター席に戻ったニニは、大人しくもといた席に腰掛けて首をかしげた。ふと、ナギの横に置かれた牛乳瓶の入った木箱をのぞく。木箱の側面には何やら英文の焼き印が施されており、中の牛乳瓶には英語のラベルが貼ってある。先ほどの少年の顔立ちと、路地を通り抜けていった馬車、そして少年がサクヤに語っていた戦争という言葉をニニは頭の中で思い返してみる。
今の地球上には、大小の内紛はあれど国家間の戦争をしている国はないはずだ。聞き間違いでなければ「ドイツとの戦争が終わった」と少年は言っていたが、あれはどういう意味なのだろうか。
「ドイツと戦争してた国……? そもそもいつの話だろ」
「どうしたの、ニニちゃん。この牛乳は紅茶にもすっごく合うしょ」
「美味しいです」
諦めた顔でそう呟いて、ニニは目の前の皿の上に乗った最後のハムトーストをひとかけら手に取り、口に運んだ。トーストに染みたバターは香ばしく、ハムの塩気もちょうどいい。見知らぬはずの、しかしただただ懐かしい思い出の味にニニは盛大にため息をついて、また呟いた。
「わかんない。何もかも」
「いずれわかるようになりますよ。何もかも」
珍しくサクヤがナギのようなことを言って、ニニに笑いかける。ニニは半ばやけになってマグカップにほんの少し残ったホットミルクティーをあおる。ミルクティーは冷たくなりかけていたが、ナギや牛乳売りの少年の言う通り、冷えてもなお美味しかった。
不思議な店での不思議な茶会の後、ナギとサクヤからさらにスイーツを勧められたが今日のところは遠慮することにしたニニは、二人に厚く礼を言って店を後にし、学園へと続く坂道をのぼっていた。ウズメの退学で落ち込んでいた気持ちも、先ほどの不思議な体験のおかげか少しは上向いた気がする。これならナユタからの報告も、何とか口頭でなら聞き遂げられそうだった。それに、店でごちそうになったハムバタートーストとホットミルクティーのおかげで、食堂が閉まる午後八時までは夕飯をお預けにしても大丈夫そうだ。
陽が落ちてきて薄暗くなり始めた灰色の静かな街を坂の上から見下ろしてから、ニニは校門をくぐって寮へと向かう。
「五時ちょっと前か……ナユタ先輩はまだ部屋に戻ってないだろうな」
むしろこの時間なら、チーム活動から寮へ帰る学生たちに紛れ込んで、校舎の技術保全活動チームの部屋へ行くこともできそうだ。静かな寮の階段を上って自室にたどり着き、そっと扉を開けたニニは、すぐ目の前の床に白い紙が落ちていることに気づいた。
「なんだろ」
拾い上げて折りたたまれた紙を開き、ニニははっとして息を呑んだ。ちぎられたノートの切れ端らしいその紙には、見慣れない文字で「戻ったらきて。ナユタ」とだけ書かれていた。おそらくはナユタが一度はニニの部屋を訪れたものの、不在だったので扉の下からこのメモを滑り込ませたのだろう。
「わー、これいつ来てくれたんだろう。待たせてごめんなさい」
ニニはコートをハンガーに通して部屋の隅に掛けると、すぐさま部屋を出て階下へと向かった。
午後五時にチーム活動が終わってから食堂が開く午後六時までは、学生の自由時間だ。寮と校舎の間の渡り廊下には、夕食までの時間をつぶす学生たちがまばらに集まっている。その間をすり抜け、ニニはすでに消灯され始めた校舎の中へと入っていく。
途中でチユキや生徒会の面々と会うこともなく三階までたどり着いたニニは、周囲を見回しつつゆっくりと足音を忍ばせながら、「技術保全活動」という木札がはめられた扉の前に立つ。
「入っていいよ」
「わっ……」
ニニが扉をノックするより早く目の前でがらりと引き戸が開き、中からナユタの姿が現れる。
「おっつー。お昼ぶり。入って」
「おじゃまします」
ナユタはニニを中に入れると、扉をしっかりと施錠して、さらに窓に掛かった厚い遮光カーテンを引いた。
部屋は思ったより広く、片隅には修理中と思われる機械やジャンク品が転がっている。机の上は大きさごとに仕分けされたネジが入ったケース、何に使うのかわからないケーブルの束が乗っている。
初めて立ち入った部屋の様子が物珍しくあちらこちらを見ているニニに、ナユタはそばにあったパイプ椅子を指さして、自分もその横に座った。
「今日はうちの活動、休みにして人払いしておいたから大丈夫。このフロアはあたしとニニギの二人きり。ここに来るまで君が誰かにつけられてなければ、の話だけど。ひひ」
「それは……たぶん大丈夫」
思わず声をひそめたニニを見て、ナユタは面白そうに笑った。
「なんてね。心配はご無用。誰か近づいたら反応するセンサーが、このフロアの階段に置いてあるから」
ノックをせずともナユタが自分に気づいて扉を開けたのは、そのセンサーで感知されたからなのだろう。ナユタの用心深さは信頼できそうだが、一応声をひそめたままニニは単刀直入に問いかけた。
「それでナユタ先輩、終わったんですか、あの日記の解析」
「終わった」
短くそう答えて、ナユタは目の前のノートパソコンの液晶画面をニニに見せる。そこには、文書ファイルのアイコンがいくつも並んでおり、すでに文字起こしまで終わっているらしい。月ごとにファイルが分けてあり、ざっとニニが見る限りやはり、先代の家主が残した日記の最後は「あの日」の翌年八月に書かれたもののようだ。
「読めない場所もなかったし、おおむねよく撮れてた。君の働きと、あたしのアプリのおかげかな。使い勝手どうだった?」
「ページをめくるとピントが合うまでちょっと時間がかかるかなって心配しましたけど、それほど問題なかったです。何より、屋内撮影で色調補正がいらなかったのはびっくりしました。陽射しは入ってたけど、やっぱり屋内って暗いので」
「フィードバックありがとう。今後の参考になる。で、ニニギは文字起こしはいらなくて口頭でとりあえず聞きたいんだっけ」
「そう、です」
携帯端末を託した際に出した答えと同じ言葉をニニから聞いたナユタは、ふーんと言いながらパイプ椅子に深く腰掛けて天井を仰いだ。
「何から話すかなぁ、まあまあ濃いしエグかったし、たぶんニニギはそういうとこじゃなくて結論とか、聞きたい感じでしょ」
ナユタがそう言って投げかけてくる視線を受け止めて、ニニはこくりとうなずいた。膝の上に置いた手をぐっと握って、ニニは小さく深呼吸して唇を引き結ぶ。
「おけ。まず、一番の結論から言うと、あの日記には『あの日』の原因そのものまでは書いてなかった。当たり前だよね、まあ単なる一個人の私的な記録だから。書き手のじいさんが犯人でない限り、原因なんて書きようがないでしょ」
ニニはどこかがっかりしたような表情を見せつつ、けれど初めからわかっていたことでもあったので、こくりとうなずくに留めた。
「んで、じゃあ何が書いてあったのか。ざっくり言うよ。『あの日』から半年ばかりは、じいさんの身の回りとニュースから得られた情報の整理。そこからは、国の要請で補声器の研究開発に協力したみたいで、その経過で判明した事実。その二本立て」
「補声器の開発、ですか」
「そ」
ナユタはたくさん並ぶファイルのうちの一つをクリックして開き、画面に目を走らせてうんうんとうなずいている。
「あと、もしかしたら録画してる時に、日記が途中で終わってるし最後に遺書くっついてるし、それに気づいて君は気にしてるかもだから言うけど。じいさんの死因は自死じゃないよ」
「そう、ですか……」
その瞬間、ニニはどこかほっとした気持ちになって思わず胸元に手を当てた。「あの日」から日を置かずに妻を失った日記の主が裏表紙に挟んでいた、幸せそうな夫婦のスナップ写真を思い出す。
地獄のような世界で、心穏やかにというのは変かもしれないが、絶望に溺れて亡くなったわけではないのはニニにとって救いだった。しかし同時に、ニニは以前読んだあの屋敷に関する報告書のことを思い出していた。
野外調査活動の最中にあの屋敷の物件情報を確認した時、鎌倉市による家主からの聞き取り報告書には確かに「父親は『あの日』の犠牲者」だと書かれていた覚えがある。文字通り素直に理解するなら、日記の書き手である先代の家主もその妻と同じく、未だに確たる原因がわからない「何か」の影響で命を落としたと推測できる。ニニの心にはあの報告書の言い回しが引っかかっていた。
「よかった……って言っていいのかな」
「いや、どうだろうね。よかったかどうかは、人により判断が分かれるかもしれない」
「えっ……?」
どこかもったいぶったナユタの言い方に、ニニは思わず小さく声を上げてナユタを見つめた。ナユタは口を固く結んだまま無表情だったが、ニニを見つめ返す黒い瞳は、何かを迷うかのように揺れていた。
「どういうことかって言いたいんでしょ。まあ、実はじいさんがなぜ死んだかは、もともとこの日記の内容の結論として話そうとしてたことと連動してるから、避けては通れないんだよね。なんだけど、まあなんだ、ちょっとエグい。話すか悩むんだけど、結論が聞きたいって言ったのはニニギだからね。話すよ。いい?」
ニニは一度視線を落として足元を走る水色のケーブルを見つめ、やがてナユタに向き直ってうなずいた。
「聞かせて」
「わかった。ま、なるべく端的にまとめるけど」
そう言ってナユタはゆったりを足を組むと、パソコンの液晶画面を見つめながらぽつぽつと語り始める。
「じいさん、音楽に携わってたからね、声楽やってる知り合いが真っ先に犠牲になっていったし、何より妻も目の前で亡くなっている。それが理由で、『あの日』の翌年、二〇三三年に始まった地球規模のプロジェクト、補声器開発に協力することにしたらしい」
ニニの脳裏に、妻が亡くなったこと記す、罫線をはみ出して乱れた文字がよみがえる。
「補声器開発プロジェクトは歴史の教科書の通り。声帯を使わなければよさそうっていうアタリをつけて、各国の医者とか科学者とか、総がかりでやったやつね」
「ここまで聞く限り、そんなにエグくはないですけど」
「まあ最後まで聞いてって」
ナユタはさらにいくつかのファイルを開くと、白い画面に整列した文字の上に視線を滑らせる。
「で、そうそう、ニニギは『無音時代』もちゃんと覚えてる?」
「突然死の原因が発声じゃないかってわかって以降、補声器が完成するまでの間、なるべくしゃべらないようにした期間のことですよね」
「えらい。ちゃんと歴史の授業起きてるね。でもさ、補声器の試作を装着して試す人がいないとだめ。当たり前だよね。どういうことか、わかる?」
ナユタの問いかけに首をかしげていたニニは、いろいろと考えた末に思い至った残酷な結論に目を見開いた。
「それって、黙っていれば死ななくて済むけど、補声器の試作機のために誰かが、あえて声を出す……ってことですか? 死んだら試作機は失敗で、死ななければ成功っていう、そうことですか?」
「そう。殉死扱いだったそうだよ。もちろん被験者は立候補制、ご遺族にはプロジェクトの基金と国からそれなりの弔慰金が出たそうな」
ニニは思わず両手で顔を覆った。
補声器は自分も装着しているし、時には本当の声で歌いたいとやっかんだことさえある。その補声器が完成するまでの途上で失われた命の数を思うと、めまいすらしてくる。少し考えれば簡単にわかりそうで、けれど他愛ない平和な日々を送っているとあまりに遠すぎる悲劇が、自分の喉元に埋め込まれている。ニニは両手を握り合わせて、深くうつむいた。
「歴史の教科書には『多大な犠牲を払って完成した』って一行でさらっと書かれてるけど、つまりは誰かに試作機を付けさせて、声を出させて、その繰り返しで完成したってこと。そして、この日記を書いたじいさんは、八月初旬に志願した」
そこまで聞いて、ニニは先代の家主が日記の最後に残した、あの自由筆記欄の遺書を思い出す。もしかすると自分は、いや補声器を使うすべての人は、あのページに書き遺された想いを読むべきなのかもしれない。そして家主もまたそう思ったからこそ、ニニたちにあの日記を託したのかもしれない。ニニは悲痛な顔をしながらも、顔を上げてナユタを見つめた。
「ナユタ先輩、日記の最後の遺書のページだけは、私もみんなも読むべきだと思うんです」
「でっしょ! 実はあたしもそう思ってる」
突然ナユタが明るく声を弾ませて、ニニは面食らった。ナユタは手早くマウスをクリックしてとあるファイルを開くと、目を輝かせる。
「実はここまでは序盤も序盤。一番大事なのはこのじいさんが残した遺書の中身なんだ。まあ未来の子どもたちへとか、世界の平和がとか命の重さとか、それはいい。そうじゃなくてこの遺書、書いてあるんだよ、ねえ、ニニギ、見てよここ」
「いや、あの、待ってください。まだ自分で見る勇気というか心の準備ができてないです。何が、書いてあるんですか」
ニニが思わず自分の両手で目元を隠し、パソコン画面から顔を隠す。しかし、ナユタは何も言わない。
急に静かになったナユタの様子をいぶかしんだニニが、指の間からそっとナユタを覗く。ナユタは押し黙ったまま、白く光る画面から視線を外して、ゆっくりとニニのほうへと向き直る。ニニと目が合った瞬間、ナユタがにたりと笑った。
「人が死ぬ条件」
ナユタの言葉が何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。
その短い呪いのような音を三度頭の中で繰り返してようやく、ニニは驚きで顔をこわばらせた。
「いや、待ってください、一応教科書にも詳細不明って書かれてるし、広く世間一般でも『わからない』ことになってる……はずじゃ」
「そう、表向きにはわからないことになってるだけで、実際は補声器開発の途上で、突然死の誘因条件はほぼわかってたみたいだね」
「そんな、そんなことって!」
ニニは思わず身を乗り出して、ナユタの見つめる液晶画面の白の中に浮かぶ文字列を見た。
〈およそ一〇〇〇語程度の意味ある言葉の発声〉
「いっせん、ご?」
ニニは呟いて、椅子の上にどさりと座り込んだ。鼓動は浅く早くなり、短い自分の呼吸音が耳元に響いてくる。
「そう、一千語。たった一千語、補声器着けずに自分の声帯で話したら死ぬんだよ。これは政府も国連も、どこも発表してないでしょ。どうやら補声器の試作機装着を志願した人にだけ知らされていた、いわゆるトップシークレットみたいだね。死人に口なし、かどうかはわかんないけど、当時のお偉いさんたちは、これを公表するのは都合が悪いって結論に至ったんだろうね。戦争に使われることを防ぐためか、無茶して試したくなる人が出ないようにするためか、まあそこらはあたしの憶測だけどさ」
血の気が引いてめまいがしてくると同時に少し気分が悪くなり、ニニは思わず口元を押さえた。
「一千語、って、単語のこと? それとも文節のこと?」
「そんなのあたしが知るわけないでしょ。じいさんの日記にも特に書いてなかったし」
きっと一か月前までならこの話も、どこか他人事として考えることができていたのだろう。けれど今のニニは、大切な親友が補声器との不適合を理由に学園を去ったばかりだった。最後に聞いたウズメの不安そうなか細い、しかし澄んだ美しい声がニニの頭から離れない。
「じゃあ、ウズメは……」
「死ぬってことでしょ。遅かれ早かれ」
ナユタの声がニニの鼓膜を震わせた瞬間、ニニは無意識のうちにがたりと椅子を鳴らして立ち上がり、隣で液晶画面を見つめているナユタを見下ろしていた。
「先輩、今のは撤回してください」
ニニの震える声に心底面倒くさそうな顔をして、ナユタは視線すら動かさずにのんびりと答える。
「感情的になって、解決するぅ?」
「撤回してください!」
「今あたしは君と、この世界が壊れた原因とか経緯とか、そういうことをできる限り理論的に話してるつもりだったけど、違ったみたいだね」
ナユタはどこか悲しそうな表情を一瞬浮かべると、席を立ってニニに背を向け、机に転がっている中の基盤がむき出しになった端末に手を伸ばした。
「感情的になっても、解決しないんだよ。解決しなかったんだよ。あたしの親はどっちも、補声器の不適合で死んだ」
「……」
ニニはナユタの背中を見つめたまま、息を呑んだ。ナユタは振り返ることもせず、携帯端末をいじって繋がれていたコードを抜いていく。
「おやじが先に死んだ。母さんは、自分も不適合者だって知ったとき、呪ってたよ。自分を。両親とも補声器と相性が悪いなんて、ありえない確率って言われたけど、ありえたんだよ、あたしの家ではね。この世のありとあらゆる確率なんてものは、本人にとってはゼロか百かでしかない」
ナユタは手のひらの上の端末からコードを全部抜き終わると、そばに置いてあったプレートをはめ込む。
「母さんは、声を出さずにあたしと生きることを選んでくれた。けど、一言もしゃべれない片親と幼い子が一緒に暮らすのは、しょせんは夢物語でさ。母さんは、たくさんの感謝の言葉と懺悔の言葉をあたしに残して、目の前で死んだ」
ナユタの手元でぱちっと音がして、端末に液晶画面がはめ込まれる。それを天井の蛍光灯に掲げてくるりと回してパーツのつけ忘れがないか確かめる。ニニはただ、ナユタの背中を見守る事しかできなかった。
「感情じゃ、何も解決しなかった。だからあたしは、『あの日』の真相を確かめたいし、今をどうにかしたいから科学者になるって決めた」
そう言ってやっとニニのほうへと振り返ったナユタは、穏やかに笑っていた。組み立てた携帯端末を手に歩み寄ってくるナユタを見て、ニニは頭を下げる。
「あの、ナユタ先輩、ごめんなさい」
「ごめんね」
ニニの声にかぶせるようにナユタは一言謝ると、ニニの片手を掴んで手繰り寄せ、その手の上に今組み立てたばかりの携帯端末を乗せる。それは、ニニがナユタにデータ抽出のために預けたものだった。
「あたしのわがまま、聞いてくれる? ニニギ、あたしはこの日記は広く世に出すべきだと思ってる。だから手始めに、政府に報告するつもり。けど、ここに書かれた突然死の条件が政府によって故意に隠されていたのか、それとも実験の途上で記録しなかったがゆえに失われた情報なのか、あたしたちにはわからない。だから、これ君が持ってて」
ニニは手渡された自分の携帯端末を見つめて、目の前のナユタを苦しげな表情をして見つめる。次にナユタの言おうとしていることが、ニニにはわかっていた。
「もし政府が故意に事実を隠している場合、あたしは……わかるよね。だから、君の端末にはあの日記の録画データをそのまま残してある。いつかあたしが学園に帰ってこない日がきたら、そのデータを守って欲しい。そんで、好きに使って」
ニニは顔を歪めて唇を噛む。いつもポケットに入れてどこにでも持ち歩いているはずの携帯端末が、なぜかひどく重く感じられる。
「ま、そうは言ってもあたしら、たまたま見つけちゃっただけだし? ヒトがすーっごく減ってるこの世界で子ども殺すなんて愚かなことはしないだろうから、心配いらないと思うけどねー。しかもあたし、天才科学者だよ。ひひ。まあしょっちゅうはんだごてでやけどするし、組み立て作業で切り傷つくってる『見習い』だけど」
おどけてみせるナユタの声を聞きながらニニは袖口で目元を擦って、手のひらの上に乗せた携帯端末に視線を落とす。
「わかりました。でも、このデータをどうすればいいかなんて、私にはまだわからないです」
決意と覚悟を語ったナユタの前で吐露するにはあまりに幼く、頼りない自分の言葉がいやになる。顔をしかめたままのニニに笑いかけると、ナユタはその背をぽんぽんと叩いた。
「君ならどうするか、どうしたいか、考えて考えて、考え抜いて決めたらいいよ、ニニギ」
背を撫でる一つ年上の先輩の声は、傷だらけの手のひらと同じくらい優しかった。




