第七話 13102055
十月も半ばに差し掛かかり、山に住むリスたちが学園の庭先を忙しく駆け回り木の実を集め始める頃。学園の学生たちもまた、リスたちと一緒に毎年少し慌ただしくなる。冬用の衣類や下着、毛布や掛布団を繕ったり、暖房機器の修理点検もしたり、いわゆる冬支度をする。
ウズメは九月末に倒れて以降、ニニたちの前に姿を現すこともなく、マザーによると学園外の病院へと移っているようだった。当然、ニニとチユキの二人きりとなってしまった野外調査活動チームはまたもや長い活動休止期間に入っており、代わりに生徒会付となってその日その日に応援要請があったチームへ、助っ人として参加する日々が続いている。
すっかり肌寒くなってきたこの日も、手先の器用なチユキは午後の授業のあと、衣料管理活動チームへ医務室用寝具の一新作業を手伝いに行っていた。
一方でニニは制服の上から薄手の秋コートを羽織り、ポケットに先週届いたマイカからの手紙と携帯端末だけを入れて、一人大通りを歩いていた。朝からどんよりと鈍色に曇った空を見上げ、傘を持ってきたほうがよかったかもしれない、と思いながらニニが視線を戻すと、少し先にたたずむ親友の姿を見つけて小走りに駆け寄った。
「マイカ、久しぶり! 待たせた? ごめんね」
ニニの声に気づいて顔を上げたマイカは、秋色をしたチェックのコーデュロイスカートに白いハイネックセーター姿で、ミルクティー色のトレンチコートを羽織って微笑んでいた。
「大丈夫。さっき着いたとこよ。本当は先に一人で海に寄ってお天気の様子を見ようと思ったんだけど、今にも降り出しそうだしね」
「今日は海で歌うの、無理そうかなあ。待ち合わせ場所をあの店にして正解だったね」
あの店というのはもちろん、前回九月にニニとマイカが訪れた、あの謎多き二人が営む喫茶店のような自称法律事務所のことである。
「先に店に入ってくれててもよかったのに。一人じゃ入りにくかった?」
「それがね」
ニニの言葉にマイカは少し声を落とすと、例の店がある商店街へ続く曲がり角で立ち止まって、店のある方向を覗き込む仕草をする。
「さっきから何度もお店の前を通ったんだけど、今日はやってないみたい。真っ暗なの」
「ええっ? あーでも確かに営業日とか営業時間とか、そういうのナギさん……だっけ、あの店主さんから一切聞いてなかったもんね」
ニニはマイカに先立って商店街をまっすぐ歩くと、通りに並ぶ真っ暗なショーウインドウの前をいくつも通り過ぎて、あの日二人で訪れた店の前までやってくる。後ろからついてきたマイカは、空模様を気にかけながらニニにたずねる。
「どう? お店開いてる? もし開いてなかったら、雨が降る前に学園に行かないと」
「電気ついてる」
以前ナギが座っていた窓際の席には誰も座っていなかったが、ニニは扉をそっと押し開いてみた。
ちりりん、という可愛らしいドアベルを聞きながら店内に入った二人は、やんわり明るい様子に胸をなでおろした。前回同様お客が誰もいないのは同じだったが、店内は橙色の柔らかな明かりに包まれ、コートがいらないくらい暖かだ。羽織っていたコートを脱いで耳を澄ますと、カウンターの向こうにある厨房からかすかに物音が聞こえてくる。
「よかったあ、お店開いてて」
「さっきは確かに暗かったんだけど、私の見間違いかしら」
そんな話をしながらニニとマイカがカウンターに近づいていくと、奥の厨房からオリーブ色のエプロンをしたあの青年が顔を出した。
「おや、お客さまだ。いらっしゃい。先月ぶりかな?」
「おじゃまします。先に着いたマイカがお店の中が暗いって言うから、今日お休みなのかと思いました」
「僕は朝からずっとプリンの仕込みをしてましたよ」
「あれっ、やっぱり私の勘違いだったのかも」
「サクヤさん厨房にいたみたいだし、さっき電気ついたところなのかもよ?」
ニニとマイカの会話を聞いてなんのことかと考え込んでいたサクヤは、ああ、とようやく合点がいった顔でうなずいた。
「ここの扉はちょっと特殊ですからね。でもあとからニニさんが来てくれて、マイカさんも入れたんですね。よかったです」
「特殊っていうのは、外からの覗き込み防止ガラスになってる、みたいな?」
「まあ、そんなところでしょうかねえ。ふふ、あまり気にしないで」
先日のナギと同じく、どこか含みのあるなぞなぞのようなサクヤの答えに首をひねるニニの横で、マイカはバッグから何かを取り出す。
「あの、サクヤさん、ここは喫茶店ではないっておっしゃっていましたけど、先日のお代金をやっぱりお渡ししておきたいんです」
そう言ってマイカは薄い水色の封筒をカウンターの上に置いた。中には、ニニとマイカが相談して、東京でクリームソーダを二人分注文してもなお十分なお釣りが返ってくる金額が入れてある。
「私は、また美味しいもの食べたいなっていう下心もあって来ました!」
「ちょっと、ニニギってば」
二人のやり取りにくすりと笑って、サクヤは二人をカンター席へと手招きする。今日はコーヒーの香りはせず、代わりに厨房から砂糖の焦げる甘く香ばしい匂いがかすかに漂っていた。カウンターの正面の戸棚に並ぶ透明のグラスや色とりどりの茶器は、今日も照明の下できらきらと美しく光をこぼしている。
「実は今日、ナギさんは食材の仕入れに出かけてていないんです。この封筒は今日のところはいったん僕が代わりにお預かりしておくってことでいいですか?」
「はい、ナギさんによろしくお伝えください」
マイカに差し出された水色の封筒をエプロンのポケットに入れて、サクヤは水の入ったグラスを二つ差し出す。喫茶店じゃないのに何も言わないうちに水が出てくるのが面白くてニニがくすりと笑うと、続けてサクヤが一枚のカードを差し出してくる。
画用紙より少し硬めの白いカードには、カフェラテにも似た淡い茶色のインクで書かれた整った文字が並んでいる。
「今日僕がお出しできるメニューはこの通り」
「喫茶店じゃないのにいいんですか?」
「喫茶店じゃないですけど、いいですよ。生真面目な君たちのことだから、さっきの封筒にも今日の分の代金まで入れてることくらい、僕もわかってますから」
サクヤの返答にぱっと表情を輝かせて、二人の少女は顔を寄せ合ってメニュー表にかじりつく。ぶどうのコンポート添えバニラアイス、モンブラン、プリンアラモードに、梨のコンポート添えホットケーキ、どれもこれも学園の食堂ではお目にかかれないレアスイーツだ。学園での食事も、娯楽の少ない学生のために許される限りめいっぱい彩り豊かになるよう、工夫を凝らされているのは承知の上だが、メニュー表に並んでいる夢のような文字列に、わくわくと心が躍る。
「ねね、マイカ、このコンポートってなに?」
「お酒にレモン汁とお砂糖を入れて作るの」
「味が想像できない」
「ニニギはお料理しないもんねえ」
「食べる専門だからね」
メニュー表を手にあれこれと楽しそうに語らう二人の前に白いティーカップを置いて、サクヤはティーポットから目が覚めるほど鮮やかな赤い色が美しい紅茶を注ぐ。
「今日のウェルカムドリンクは、とっておきの茶葉で淹れたホットのアールグレイティーです」
サクヤは自分の前にもお気にいりの白とエメラルドグリーンのティーカップを一客置き、紅茶を注いでいる。ニニは遠慮なく自分の前に置かれたカップに顔を近づけ、立ちのぼる軽やかな香りにうっとりとした表情になる。
「私、紅茶好きかも。いい香り」
「おや、ニニさんは僕と同じ紅茶党ですか? 僕はストレートでいただきますけど、お二人は、これをどうぞ」
サクヤはそう言って、白い小さな小皿に盛られたきらきら光る角砂糖を二人に差し出す。照明の光を弾いてきらめく白い立方体は、夜空の星を集めて固めたようにも見える。ニニとマイカは添えられた木製のシュガートングでそっと二つずつ角砂糖をカップに滑り込ませて、熱く赤い海にざらりと崩れ溶けていく透明の粒をじっと見つめた。マイカと二人で熱い紅茶に角砂糖を溶かす、たったそれだけのことでも、ニニにとってはこれ以上ないほど贅沢な時間だった。
「ねえニニギ、違うもの頼んで半分こしよう」
「じゃあいっせーのせで指さしね!」
そう言うとマイカが手元のメニュー表をサクヤに差し出して、ニニとマイカが声をそろえる。
「いっせーのー」
「せっ」
ニニとマイカの指先は二人の思惑通り、しっかりと別々の場所を指していた。
「はい、ご注文を承りました。マイカさんがマロングラッセ付きのモンブラン。ニニさんがプリンアラモードですね」
「さっき、プリンの仕込みをしてたって聞いたから、食べたくなりました。この甘い香りは、カラメールソースだったりしますか?」
「さすが食べる専門家、鼻がいいですね」
ニニの言葉にこくりとうなずいたサクヤは、ちょっと待っててくださいね、と言い残して厨房へと入っていった。二人の他に誰もいない店内は静まり返っており、時折向こうの厨房から、食器が触れ合う音や冷蔵庫の開く音が聞こえてくる。窓の外は相変わらずどんよりと曇って、誰も通らない店先の路地もいつにもまして暗く見える。
「いやあ、今回は一か月ぶりに会えて嬉しい! マイカがあの日帰ってからそりゃもうほんと、いろいろあって……そうそう、手紙に書いてあった大事な話ってなに?」
「うん、えっと今話していい? できればニニギだけに聞いて欲しいの。学園で話したくないから。今日待ち合わせをここにしたのも、それが理由なの」
「いいよ、実は私も大事な話、あるんだ」
温かなティーカップを両手で包み込むように手を添えていたマイカが、ニニの言葉に顔を上げて穏やかに微笑んで見せる。
「先に聞かせて、ニニギ」
「えっいいの? じゃあ、えっと、どこから話そうかな。この前会ったとき、ウズメの具合が悪そうってのは言ったよね」
ニニの切り出した話題にマイカがすぐに顔を曇らせ、不安そうに小さくうなずいた。ニニはなるべくマイカに心配をかけまいと、言葉を選んで苦心しながら、ウズメが倒れて病院へ行ってしまったことを伝える。
ニニの言葉を黙って聞いていたマイカは、目を細めて眉根を寄せ、ただ目の前のティーカップの赤い水面に視線を落としていた。
「そうだったの……」
「うん。ウズメはマイカが東京に引っ越すまで、よく一緒に調理室でお菓子作ってたでしょ。だから、一応報告しとかなきゃって」
「ええ、そうね。ケーキを作りたいっていうウズメのリクエストでいちごやメロンに挑戦してみたり、楽しかった思い出ばっかりよ」
「そういえば、ウズメも中等部に進級して今の野外調査活動チームに入る前は、マイカと同じ食料自給活動チームで畑仕事してたんだっけ」
「そう。通称『食べ物係』ね。本当に、楽しかったなあ」
十二歳になる年の春、学園を離れ東京に行くまで所属していたチームでの思い出がよみがえってきたのか、マイカは懐かしそうに微笑んだ。
「ウズメ、この前部屋で三週間療養してたときも手紙が欲しいって言ってたから、今回も手紙を書いてマザーに託そうって思ってるんだけど、なんかうまく書けなくて」
「ニニギ、手紙書くの上手よ。私、ニニギからもらう手紙いっつも楽しみにしてるわよ」
「でも今回はうまくいかないんだ。正直、なんて書けばいのかわからない」
「それなら、無理に手紙を書かなくてもいいんじゃない? そのぶん、戻ってきてくれた時にたくさん伝えてあげたらいいのよ」
「だめなの。だめなの、それじゃ」
マイカはニニの声が少し震えていることに気づき、優しくその背に手を添えてやった。しかしニニは首を横に振り続けて、ぽつりと言葉をこぼす。
「マザーからは、ウズメ、ただの入院じゃなくて、もう学園に戻れないかもしれないって、言われてるから……」
「……」
ニニの少し泣きそうな声に、マイカは目を伏せてまた手元のティーカップを見つめる。ニニは少し声を詰まらせながら、自分の中にある気持ちが涙になってあふれないよう必死にこらえる。
「私、ウズメになんて言ってあげたらいいのか、わからないの。こんなにもウズメを助けたいって思ってるのに」
マイカはニニの言葉を聞いてもなお、深く考え込むように視線を落としたままだった。いつものように優しく相槌を打つでもなく、ずっと押し黙っているマイカの様子をいぶかしんだニニがマイカの横顔を覗き込むと、その視線に気づいたマイカは、力なく笑って首を横に振る。
「ごめんね、大丈夫よ」
「私こそごめん、せっかく久々に来てくれたのにあんまり良い報告できなくて。大事な話ではあるんだけど、なんかこう、まだ気持ちの整理がついてなくてさ」
「いいの、話してくれてありがとう。ちょっとびっくりしちゃっただけ。ニニギもウズメも大事な友達だから、教えてもらえてよかった」
マイカが見せた笑顔に、ニニは少し安心して表情を緩める。次はニニがマイカの大事な話を聞き出そうと身を乗り出したところで、厨房からサクヤが銀の盆を持って戻ってきた。
「ちょうどお話が終わったところですか? 持って行っても?」
「はい、お願いします」
マイカの返事にサクヤがうなずいて、ニニとマイカの前に紙ナプキンを置き、フォークとスプーンをそれぞれセットする。よく磨かれたスプーンの表面は鏡のように照明を反射して、きらりと光っている。それだけでもニニがわくわくしていると、マイカが隣で目の前に置かれた白い皿に嬉しそうな声を上げる。
「見て、モンブラン美味しそう!」
白い皿の上に置かれた金色のカップに、ごろっと大粒のマロングラッセが頂に添えられたモンブランがどっしりと鎮座している。少し前まで落ち込んでいたことも忘れて、ニニはマイカのモンブランにくぎ付けになる。
「お皿がちょっと大きいから、ティーカップ動かしますよ」
次にサクヤはニニの手元に置かれた白いティーカップを少し動かして、銀の盆からニニの目の前に置いた。宝石箱のような皿に、ニニとマイカが歓声を上げる。
「わーっ、なにこれなにこれ!」
高台がついた銀色の楕円形の皿の上には、いちごにりんご、キウイ、バナナが添えられ、クリームまで絞られている。そして真ん中には、濃い褐色のとろっとしたカラメルを乗せた主役のプリンがバニラアイスのお供をしたがえている。季節がめぐれば学園でも旬のフルーツを口にすることはできたが、これほどまでに色とりどりのフルーツや甘味を皿の上に集めることはとても難しく、それこそ金があれば解決できるわけでもない。
文字通り宝石箱となった皿の上にニニが言葉を失っていると、サクヤがにっこり笑って見せる。
「プリンアラモードのフルーツとアイスは二つずつ乗せたので、仲良く半分こして食べてくださいね」
「ありがとうございます。ニニ、早く食べよう」
サクヤの言葉を聞いたマイカは、フォークを手に取るとためらいなく自分の目の前に置かれたモンブランの上からマロングラッセをどかして半分に割った。続けてマロングラッセも半分に割るマイカの手元を見ながら、サクヤは二人が注文の前に交わしていた言葉を思い出して微笑んだ。
「本当に仲良しなんですね」
「昔から、美味しい物は半分こです。ずっと一緒だったもんね」
「初めて会ったのが五歳で、十二歳になる春までは同じ学園育ちなので、人生の半分は一緒です。モンブランいただきまーす」
ニニはフォークを手に取り、マイカと一緒にケーキを一口頬張る。モンブランクリームと生クリームの甘みが口の中いっぱいに広がり、鼻を抜ける栗の香りも格別だ。
「ニニギ、これすごいかも。見た目はプリンアラモードみたいに華やかじゃないけど、使われているクリームと生地の種類がとっても多いの」
モンブランとマロングラッセのかけらを一緒に頬張ったニニはマイカの言葉に答えることもできないほど感動して、フォークを握ったまま目を閉じてただただ首を縦に振っている。その横で、マイカは前回口に出しそびれた疑問を、思い切ってサクヤに投げかけてみた。
「サクヤさん、このお店はどうやってこんなにたくさんの食材をそろえているんですか?」
「仕入れは店長のナギさん担当なので、今度聞いてみてください。今日もきっと美味しいものを探して持って帰ってくるんじゃないでしょうか」
「弁護士なのに?」
モンブランをきれいにお腹に収めたニニの言葉にサクヤが笑って、二人のティーカップに紅茶を注ぎ足す。
「ナギさんはああ言ってましたけど、つまるところ『何でも屋』なんです。もちろん、ナギさんがその気になれば十分弁護士も務まると思いますけども」
「じゃあ、例えば『明日から花屋をやるぞ』ってナギさんが言い出したら、サクヤさんはそのお手伝いをするんですか?」
「そうですね、花屋でも洋服屋でも本屋でも。なにせ僕は、こうして趣味で喫茶店ごっこをする程度には暇なので」
そう言ってにこりと笑うサクヤを前に、少しナギとサクヤの正体に近づいたような、余計にわからなくなったような気がして、ニニとマイカは顔を見合わせる。
「ナギさん、すごい人なのかも」
「私もそれ思った。どうしよう、もしかしたら大人の世界ではすごく有名な人かもしれない」
今のところ、食うに困らない多才な資産家とその秘書、という肩書が一番しっくりくる謎多き二人だが、これ以上突っ込んで身の上話を聞き出すのは野暮というものだ。
ニニはマイカとの間にプリンアラモードの大皿を引き寄せて、スプーンを握った。
「どの順番で食べる?」
「私はりんごから。ニニギはキウイでしょ」
新鮮なフルーツはそれだけでごちそうだ。濃い甘味、軽やかな酸味、しゃくりとした食感にみずみずしい香りを一通り楽しむうち、銀色の大皿はあっという間に空になって、ニニは幸福な時間との別れを惜しみながらスプーンを置いた。
サクヤが注ぎ足してくれた紅茶を試しにストレートで飲んでみると、舌の上に残った甘い名残が紅茶の香りを残してすっと消えていく。
「ごちそうさまでした」
「今日は海でマイカと歌えなかったけど、満足しちゃったかも」
「美味しかったっていう顔を見られると、作ったかいがあって嬉しくなっちゃいますね。本格的に喫茶店を開こうかな」
二人の幸せそうな顔に満足そうにうなずいて、サクヤは空いた皿を銀の盆に乗せ、厨房へと戻っていく。ニニはティーカップを置いて、背後の窓の外へと視線を投げた。まだ店を訪れてから小一時間ほどしか経っていないはずだが、秋の日はつるべ落としと言われる通り、窓の外はすっかり暗くなっていた。幸い、通り雨は店の前の路地を濡らしてすでに降りやんでいる。
「暗くなる前に学園に戻ろうか。マネージャーのツミキさんも心配するだろうし」
「そうね、学園の音楽室借りて歌ってもいいかも」
「その前に、マイカの大事な話も聞かせてよ。ここでしか話せないんでしょ? 私、忘れてないよ」
「あぁ、それは……」
マイカはなぜか少しだけ言いよどむと一瞬視線を落とし、すぐに笑いながら顔を上げる。
「ニニギびっくりするよ。なんと私、来週の土曜日もまた来られそうなの。ね、大事な話でしょ?」
「えっ、来週も? いいの? えっと今日が十三日で水曜日だから、えーと……あと十回寝たらまたマイカに会えるってこと?」
思わずがたりと椅子を鳴らして立ち上がり頬を紅潮させるニニを見て、思わず笑いながらマイカはうなずく。
「ニニギ、ちっちゃい子みたい。ふふ。そう、来週の土曜日ね」
今まで数か月に一回会えればいいほう、というくらい多忙を極めているマイカが、ほんの十日程度でまた遊びに来ることは今までになかった。今日はあいにくの天気でいつも通り海で歌えなかったこともあって、ニニは嬉しそうに隣に座るマイカの手を握った。
「やったあ! 実はウズメがいないから野外調査活動もしばらくはないし、退屈だなって思ってたんだ。こんなにすぐマイカに会えるなんて、すっごく嬉しい」
喜ぶニニの手を握り返したマイカは小さく微笑んだものの、すぐに真剣なまなざしでニニの目をまっすぐに見つめ返す。橙色の明かりの下で、マイカの瞳が揺れて小さく光をこぼす。
「来週土曜日、午後三時にここにきて。約束ね」
「うんうん、約束ね! 心配しないで、手紙がなくても忘れないってば」
「絶対よ、絶対」
マイカのいつになく真剣な表情とどこか切羽詰まったようにも聞こえる声に何度もニニがうなずいて、マイカもまた席を立ったとき、厨房からサクヤが戻ってくる。
「そろそろお帰りですか? 外、少し暗くなってきましたもんね」
「サクヤさん、今日もごちそうさまでした」
「いえいえ、お楽しみいただけたならなによりです」
ニニの隣でマイカも頭を下げて、近くの椅子の背もたれに掛けていたコートを手に取った。すっかり温まった身体が冷えないように、ニニも自分のコートを羽織る。
「本当はナギさんがお帰りになるまで待っていたいんですが、これで失礼します」
「そうですね。あの人、気まぐれですから五分後に帰ってくるかもしれないし、今日は帰らないかもしれない。僕にもわからないんですよ。お二人にお代をいただいたことは、しっかりお伝えします」
三人で連れ立って店の入口まで行き、サクヤが扉を開けた。外からひんやりとした空気が吹き抜けて、思わずニニがマイカと腕を組む。
「暗いから、気を付けて帰ってくださいね」
「ありがとうございました。今日もとっても美味しかったです」
「また二十三日にマイカと一緒におじゃましますって、ナギさんに伝えておいてください」
ニニとマイカは店先のサクヤに手を振り、秋の薄暗い空の下を並んで歩き出した。
***
「来週の土曜日、今度はなにを作ろうかな」
商店街の向こうへと歩いていく二つの小さな背中を見送ったサクヤは一人呟いて、そっと店の扉を閉めた。
先ほどまでの賑やかさが消え、物音ひとつしない静まり返った店の中をぐるっと見回して、サクヤはカウンターの中に戻る。カウンターの内側にある作り付けの本棚には、切り抜きの貼り込みやメモの差し込みで厚みが増したノートが何冊も並んでいた。それらはすべて、これまでサクヤが集めてきた世界各地のスイーツレシピだ。
その中の一冊を手に取って、サクヤはゆっくりとカウンター内の椅子に腰掛ける。どうせナギが帰ってくるまで暇なことに変わりはないし、ここでは時間の流れも時計を見る意味もない。
「ミルフィーユ、クレープ、あの子たちの時代の季節に合わせて、ハロウィンにちなんだお菓子でもいいのかな」
サクヤは棚に置かれたメモ用紙を一枚取り、カフェラテ色のインクが注がれた万年筆でメニュー候補を書き並べていく。パンプキンパイ、ラズベリージャム添えのレアチーズケーキ、手堅くオーソドックスなアップルパイもバニラアイスを添えれば二人も楽しみながら悩んでくれそうだ。せっかくだから、あの時代では秋に手に入らない春が旬のフルーツも使おうか、そんなことをサクヤが思い浮かべていると、店の扉が控えめにノックされる音が響いた。しかし、サクヤはノートとメモから視線を上げることもなく、扉の向こうに声をかける。
「自分で開けて入ってきたらどうですか? あなたはこの空間の主なのだから、自分で開けられるでしょう」
その声が届いたのか、しばらくして扉がそっと少しだけ開き、ドアベルがちりんと控えめに鳴る。扉の隙間から顔を覗かせたのは、トレンチコート姿のナギだった。
「いやいや、そうは言うけど、鉢合わせしないように気を遣ってるんじゃないのさ。で、どう? お嬢さんたちはもう帰った?」
「お帰りになりましたよ。そこに置いてある時計で言うと……二十分ほど前でしょうか」
「よかった」
心底安心した表情を浮かべてほっと息をついたナギは、両手いっぱいの荷物を持って店内に入る。サクヤは立ち上がると、店の入口まで荷物を受け取りに行く。
「私がメニューに入れたプリンアラモード、選んでくれてた?」
「ニニさんが選んで、二人で半分こしてましたよ。先日と今日の分の代金も置いて帰られました。そんなに気になるなら、二人に会える時間に帰ってきたらどうなんです?」
「いや、それはできない。ニニだけならいいけど、あのマイカっていう子がいる前でめったなことは口走れないでしょ」
「もう充分に不審がられてますよ、ナギさん。食べ物をどこから仕入れてきてるんだって、今日しっかり聞かれましたからね」
ナギから受け取った大きなビニール袋の中身を選別するため、サクヤはとりあえず手近なテーブルの上に荷物をすべて乗せる。中を覗くと、マグロやサーモン、かんぱちなど、美味しそうな刺身のパックが入っている。その下には生エビといくらのパックに、ウニが並んだ箱まである。
「今日はどちらまで?」
「急にお刺身食べたくなっちゃって、築地市場行ってきたの。二〇〇四年だったかな? そこの扉、まだ繋がってるから、サクヤも外覗いてみたら?」
ナギにそう言われてサクヤはふと荷物を解く手を止め、ナギが指さす店の扉へと歩み寄った。小窓から見える路地には、他に人の気配もなくどこまでも静まり返っていた。サクヤはそっとドアノブを握り、一呼吸おいてからそっと引いてみる。
そこには、驚くほどたくさんの人々が行き交っていた。秋の夕暮れの中、駅へ向かう人、駅から出てきた人、学校から帰る途中の学生や買い物に行く人、夕飯を食べる店を探す観光客、犬の散歩中の人や、立ち話をしているお年寄りもいる。通りの向こうからは電車や車の走る音が響き、すぐそばの店先からかすかにこぼれる音楽も聞こえてくる。
みなこの時代に生きている人々で、交わされる言葉たちが雑踏のざわめきと混ざり合い、終わらない音楽となってサクヤに降り注ぐ。街から人の匂いがする光景に魅入られて、サクヤはしばらく立ち尽くした。
「この時代はたぶんここ、御成通りって呼ばれてたんじゃないかな。サクヤ、そろそろ閉めないと面倒なことになるよ」
「そうですね……」
背後から飛んできたナギの言葉に従って、サクヤは目の前の雑踏と人々の息遣いをどこか惜しむようにゆっくりと扉を閉めた。
途端に窓の向こうから雑踏は消え去り、ただただ重くべったりと塗りたくられたような、光一つない闇の中に沈んでいく。サクヤは真っ暗になった窓に手を当てて、その冷たい表面にくっきりと映る店内の様子と自分の姿に小さくため息をついて、ナギが持ち帰った荷物が乗せられたテーブルの元へと戻る。
「いやあ、今日はちょっとこのコートはまだ暑かった。厚着が苦手な私がせっかく着て行ったのにまったく」
「それなら別に無理せず、ナギさんが好きな服で、気楽に立ち寄れる季節と時間に出向けばいいんじゃないですか」
サクヤの言葉にナギはちっちっちっと舌を打って、わかってないなあとでも言いたげに指を振る。
「ただでさえこんな、時間の流れから断絶してるつまらない場所に延々といるんだから、季節感をね、大事にしたいわけよ私は」
「季節感、ですか」
「サクヤだって、お嬢さんに出してあげる季節のメニュー選定、楽しいでしょ?」
刺身やウニのパックを両手に持って厨房まで運ぼうとするサクヤに、ナギがカウンターの上に置きっぱなしになっていたサクヤのメモをひらひらと見せる。サクヤは少し考えてからふっと笑って、素直にうなずいた。
「確かに、思ったより心が弾むことに気づきました」
「でしょ? 季節感ってけっこう大事なの。サクヤはただでさえ感情の起伏が穏やかなんだから、意識的にエモーション大事にしていかないと喜怒哀楽を忘れちゃうぞ。ほら、サクヤの好きな甘いだし巻き玉子買ってきたんだから喜んで」
サクヤはナギがもう一つの袋から取り出した黄色い玉子のパックと、自分が両手に持った海鮮の山を交互に見て、ふと思いついたように呟く。
「じゃあ僕は海鮮丼にしようかな」
「あ、私もそれがいい」
「それならお米、炊きましょう」
その他にもテーブルに残った生卵、豆腐や牛肉、鶏肉のパック、さんまのかば焼きの缶詰などなど、たくさんの食材を手分けして厨房に運びながら、ナギがそれにしても、とため息をつく。
「あの子らの時代、だいぶ食料調達に苦労してるみたいだけど、こうさ、時間なんてものはシュッとスライドさせて、好きな時代にいくらでも買い物行けるって、人類みんな早く気づけばいいのに。なんか不憫になっちゃう」
「それは、僕らが世界から弾かれた『観測者』側になってしまったからこその気づきでしょう。それに、そういう僕らだって、この空間とあの『本』が一体なんなのか、誰が作ったのか、全然わかってないじゃないですか」
「うーん、確かに! ならその分、今度来たときはまた美味しいもの食べさせてあげようかね」
ナギはそう言ってからりと笑うと、さっと手を洗って慣れた手つきで鶏肉の下処理を始める。
「明日の昼は鶏の唐揚げ、親子丼でもいいよ。牛肉はどうしようかな、夜すき焼きいっとく? ちょうど焼き豆腐と長ネギが都合よく残ってるんだわ」
「じゃあお米は三合炊いておきますね」
「よろしくぅ」
そこからしばらくは交わす言葉が途切れ、黙々と夕食の支度に取り掛かる二人の手元から、水音と包丁がまな板の上で踊る小気味のいい音だけが厨房に響く。
厨房の端に作りつけられた小さな窓の外は、相変わらずどろりと重く深い闇に沈んでおり、まだ夕方なのかすでに夜なのかすらもわからない。ただ、ナギの手首にはめられた金色の腕時計だけが、静かに時の流れを刻んでいた。




