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第六話 記録の水底

 もうあと数日で十月ともなると、さすがに朝の空気がひんやりし始める。どことなく秋を感じる静かな土曜日の朝、ニニは長袖のセーラー服姿でトートバッグを片手に寮の玄関へと向かった。

 扉の向こうに広がる前庭にはすでに集まっている人影が見え、ニニが待ちに待った友人の姿もあった。ニニは急いで野外調査用のスニーカーに足を滑らせて、小走りで外へ出る。

「みんなお待たせ、ごめん!」

「ニニギ、今日もよろしく~」

「よろしくー! そしてウズメ復帰おめでとうー! 待ってた! 寂しかった!」

 チユキとハイタッチしたニニはその勢いのまま、隣に立つ小柄なウズメに飛びつく。

「ふふ、ニニギは大きいわんちゃんみたいだね。お休みしちゃってごめんね、今日からまたよろしくね」

 色白で元からほっそりしていたウズメが、しばらく見ないうちにさらにやせてしまった気がして、ニニはウズメを両腕で抱き締めた。

「私はウズメと会えたらそれでいいの。ウズメこそ無理しないで。いきなり外歩き回るの、けっこうしんどいと思うよ」

「みんなと会えないだけで、別の教室で個別授業受けてたし、体育の授業もあったから大丈夫。身体の調子が悪かったわけじゃないから、ごはんもしっかり食べてたしね」

 ウズメが補声器の不調を訴えて療養に入り、マイカがニニの元を訪ねてから三週間が経った今日、ウズメにようやく担当医からの外出許可が下りた。

 野外調査活動チームも、ウズメの療養中は活動規定人数である三人を割り込んでしまうため、この三週間はニニとチユキも活動を休止していた。

 久々の野外調査を前にニニが張り切って準備運動をしていると、チユキがそばにやってきて玄関の方を顎で指した。

「で、あれはなに?」

「え? なにが?」

「それはこっちのセリフだって」

 ニニがチユキの指差すまま寮の玄関のほうへ振り返ると、白衣の裾をたなびかせ、とことこ歩いてこちらへ向かってくる人影が見えた。

「やほ」

「おはようございます、ナユタ先輩」

「ナユタ、どうしたの? 私らもう出かけるけど」

「待って」

 ニニのそばにのんびりとやってきたナユタは、白衣のポケットに手を入れると、携帯端末を取り出してニニへ差し出す。

「これ。ニニギの端末。しっかり直しておいたから。使ってみて、まだ何か不具合あったら、今日帰ってからあたしに渡して」

 端末を受け取りながらニニがちらりとナユタの顔を覗くと、ナユタは無言でうなずいた。

 ニニの手のひらに乗せられた携帯端末は、学園の学生全員に配布されている物で、特に目立つ点もない。

 しかし実は、野外調査活動が休止になっている間、ニニは自分の端末をナユタに預け、ひそかに動画録画機能を付け加えてもらったのだった。

 その目的は、ただ一つ。

「それじゃ」

 特にそれ以上何か言うこともなく、背中を向けてそそくさと去っていくナユタを見送ったニニは、こくりとうなずいてトートバッグに渡された携帯端末をしまい込む。

「えっ、ニニギもしかして自分の携帯端末壊したの?」

「いやあ、うん、この前マイカが来てくれた日に興奮しすぎて、思いっきり地面に落としちゃってさあ」

「へえ。しかも、さっきナユタに『ニニギ』って呼ばれてなかった? いつの間にナユタと仲良くなったの?」

「えっ本当に? 端末ぶっ壊しちゃった~って技術保全活動の部屋に土下座しに行ったとき、ナユタ先輩といろいろ話させてもらって、そのせいかな? ほら、早く出発しよう~! 今日はこの前の本の回収もあるからさくさくやらないとね」

 チユキのどことなく詮索する視線から逃げるようにニニはウズメの元へ駆け寄ると、二人並んで校門へと歩いていく。チユキもそれ以上深追いしてくることはなくニニたちに追いついて、三人並んで坂道を下っていく。

 海から吹き抜けて少女たちの頬を撫で、プリーツスカートを軽やかに踊らせる風は、三週間前よりだいぶ涼やかになった。ウズメを真ん中にして他愛のない話をしながら、しかし、ニニの心臓は緊張でどきどきと早鐘を打っていた。

 ウズメから療養中のお菓子作りの話を聞きながら、ニニは三週間前の夜、ナユタとひそかに交わしたやり取りを思い出す。

 屋敷の書斎で見つけたあの日記を回収する方法がある、と提案してきたのはナユタのほうだった。

 東京へ帰っていくマイカを見送った日の深夜、そろそろ寝ようとしていたニニの部屋をこっそりと訪れたナユタは、小声でとある作戦を伝えてきた。ニニにナユタが語ったその内容とは、こうだ。

 まず、例の日記が見つかった屋敷でニニがピックアップ申請をした雅楽の教本は、古いのでまず間違いなく研究機関からデータ化のための回収指示がくる。となると、あの日記が隠されている書斎を、野外調査活動の一環として正々堂々と、再び訪ねることができる。

 その際、回収対象ではないあの日記そのものを持ち出すことはできないので、日記を全ページ、その場で確実に記録保存する必要がある。

「たぶん、写真だと手ブレしてたら読めなくて一発アウトでしょ。しかも君、あわてんぼうっぽいからね、ちょっと不安。だから、日記を机に置いて、ゆっくりページをめくりながらその動画を撮る方がよさそうって思ってる」

 そう言ってナユタは、手のひらに乗るサイズの黒い金属製の板と、同じく黒い棒状のものを白衣のポケットから取り出し、ニニに手渡した。窓の外の月明かりにかざしてからニニが触って組み立ててみると、小型の端末用スタンドになった。これなら、小さな端末であれば上部にセットできそうだ。

「なるほど。一枚一枚撮影するたびにボケや手ブレがないか画像を確認するよりは、動画にしたほうが時短になるかもですね。さすがナユタ先輩」

「し。声大きい。そゆこと。この軽量スタンドの先っちょに、君の端末をセットして動画を撮る。そんで、学園に戻ってきたら、端末をあたしに渡して。データを抜き出す」

 ニニは机の上に置いたナユタ自作のスタンドに、早速自分の携帯端末をセットしてから、あっと声を上げた。

「でも私の端末、動画撮影はできないんです。しかも容量の小さい写真なら保存できるけど、せいぜい二十枚が限度かな」

「知ってる。あたしが端末の管理者だから。で、あたしが管理者だからこそ、今から君の端末預かって、次の野外調査活動の日までに、動画機能と動画保存ができるくらいのメモリを足す。それでどう?」

 静かな部屋の中、手元のデスクスタンドの明かりに照らされたナユタの横顔が、にやりと笑う。

 ナユタの言葉にニニは大きくうなずいた。異論などあるはずがない。今まで一人きりで高い壁を切り崩そうと奮闘していたが、ナユタという協力者の出現で一気に進展が加速して視界が開けていく感覚に、ニニは思わず気持ちがたかぶるままにこぶしを握った。

「いけます」

「ほいきた。じゃ、君の端末貸して。代わりに、予備を渡しておく。君、自分の端末をシールとかペンでデコってないよね? おっけ。チユキとか、案外目ざといからバレたら面倒。マザーもね」

 ナユタの手のひらに自分の端末を渡し、ニニは早速受け取った軽量スタンドを野外調査活動用のトートバッグにしまい込む。

「次の野外調査活動の日はいつ?」

「ウズメの療養明け、だと思います。マザーが月末の土曜あたりって言ってたかも」

「おっけー。三週間後ね。じゃ、その日の朝に、改造した端末渡すから。その日は今渡した予備の端末は部屋に置いてきて。混ざるからね。予備はそのまま持ってて。あと、撮影当日の現場での立ち回りまではあたしが介入できないから、そこは頑張って」

「万が一家主が日記を回収してたら?」

「可能性は低いと思うけど、そのときはお互い、きれいさっぱり忘れよ」

「了解です」

「んじゃそゆことで」

 ナユタはニニの端末を白衣のポケットに入れ、足早に暗い廊下の向こうへと消えていった。窓の外から聞こえる秋の虫がりりりと鳴く声を聴きながら、ニニはそっと扉を閉めて部屋の明かりを消し、ベッドに寝転ぶ。

「あの日」に迫る情報が記されているかもしれない日記の発見、マイカと会えたこと、不思議な店での出会いに日記の回収作戦、と一日のうちにたくさんのことが立て続けに起こったせいだろうか。ニニの身体は芯まで疲れているはずなのに、その夜はいつまで経っても気持ちがたかぶって眠れなかった。

「というわけで、薄力粉がお菓子の分まで手に入りそうなんだけど、ニニギはどうする? ……ニニギ?」

「ちょっと、ニニギ、ウズメの話ちゃんと聞いてた?」

「うえっ? 待って待って、意識飛んでたかも。だってほら、せっかくチョコが大量に手に入っても、ただ割って紙に包んで、こうやって持ち歩く女ですよ私は。お菓子作りなんて、数学と同じくらい宇宙の果ての会話なんだってば。ということで、はいどうぞ」

 ウズメとチユキの声に意識を引き戻されたニニは、そう言っていつもの巾着から白い紙に包んだチョコの欠片を二人に手渡す。

 今はとにかく、日記の全ページをデータにして、ナユタに元に持ち帰ることがなによりも大事だ。

 ニニから受け取ったチョコを頬張ってまた話を続けるチユキとウズメに並びながら、ニニは心の中で二人に詫びる。何もかもうまくいった暁には、ナギに頼み込んで二人をあの店に連れて行き、クリームソーダをごちそうするのもいいかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、ニニたちは前回の調査の拠点だった、住宅街を望む見晴らしのいい場所までやってきていた。人のいない街並みは変わらず静まり返り、庭先の木々がさらさらと揺れている。

 チユキは早速自分の野外調査用端末を取り出し、研究機関からの指示依頼を表示させる。

「今日は前回の続き。ニニギは古書のピックアップと、追加された建物の探索をお願い。私はこの拠点を中心にまずは追加された建物の探索をするね。ウズメは今日が復帰戦だから、前回ナユタが担当してくれた区域からの古書回収だけをお願いしたい」

「それだけでいいの? いつも通り、追加探索もするわよ」

「頼もしいけど、しばらく部屋にこもりきりだったでしょ。だから今日はウズメの身体の慣らしもかねて、回収だけお願いしたいんだ。その代わり、終わったら私の区域の回収もお願いできるかな。入れ替わりで私がそっちの区域の追加探索をするから」

「なるほど、わかったわ。なんだかごめんね、気を遣わせてしまって」

「気にしないでウズメ。こういうのはお互い様ってやつだからさ!」

 ニニはウズメに向かって親指を立てて見せ、内心ほっとしていた。この割り振りなら、例の日記を撮影するための単独行動時間は十二分に確保できそうだ。

 気配りのできる世話焼きのチユキのことなので、ウズメの体調を気遣って、ウズメにはニニとの二人組で古書回収をするよう言い出す可能性もあった。その場合、どうやって単独行動時間を捻出するか、それだけが気がかりだった。ナユタに見せたような演技はまだしも、嘘をつくのは苦手なニニはチユキに感謝しつつ、頭の中でこのあとの行動計画を即座に組み立てていく。

「それじゃ、集合時間は十一時四十五分。みんな気を付けてね。グッドラック!」

「グッドラック!」

「グッドラック、です」

 三人は大きめの端末を片手に、それぞれの担当区域へと散開していく。

 ニニは軽く駆け足で端末に表示された追加となった建物を目指しつつ、今日の行動計画を何度も頭の中で確認する。

 日記の動画撮影だけで切り上げることは避けたいので、今日の「仕事」の実績作りのため、まずは追加で調査対象となった建物の半分を、手っ取り早く探索するのがいいだろう。そのあと、今日一番の目的地である屋敷へ出向き、場合によっては残り時間のすべてを日記の撮影に費やしてもいい。

「そもそも動画撮影とか、生まれてこの方やったことないんだけどな。大丈夫かなあ~。作り手みたいに尖ったアプリになってないことを祈るしかないか」

 この三週間のうちに、ナユタがあらかじめ託してきた組み立てスタンドに携帯端末をセットし、カメラの撮影範囲内に開いた本を収める練習はひそかに部屋で何度も繰り返してきた。今日初めて使う動画撮影アプリの挙動などまだ不安は残るが、そばにウズメを引き連れて彼女の目をかいくぐっての作業にはならなかっただけでも御の字、むしろ順調なほうだ。

 見上げる青い空には白く薄い雲が広がり、陽射しも真夏のぎらぎらと頭上から刺してくる光線のような強さはもうない。涼やかな空気に満ちた街並みを駆けながら、ニニは一軒また一軒と誰もいない家々を訪ね歩く。

 今日回っている追加調査の対象は、当初は候補から外れたものの新たに加わっただけあって、やはり以前立ち入った建物に比べて収穫は少な目だった。それも、これから大仕事が待っているニニにとっては好都合だ。

「ここも目立った収穫、なしかな。一応これだけ、ピックアップしておこうかな」

 四軒目に立ち入った建物の部屋で見つけたエスペラント語の辞書を、床の上に置いて表紙を端末で撮影し、ニニは立ち上がった。

「エスペラント語……って人が造った言葉、なんだ。初めて知った。世界共通語かあ」

 辞書をもとあった本棚に戻し、ニニは部屋を出る。この間マイカが披露してくれた歌も、言葉を取り払い、コーラスと造語で構成されていたことを思い出す。

 理解し合うための言葉を取り払った方が、広く世界に伝わるというのは、なんとも皮肉なものだ。世界中が同じ言葉だったらよかったのに、とマイカは笑いながら話していたが、ニニの手の中にある辞書が、その願いに対する答えを無言のうちに語っていた。

「共通語があればみんながより深く理解し合えるのかな、って思ったりもするけど、でも『あの日』より前の、自由に話せた時代でもあまり普及しなかったってことはつまり、そういう簡単な話じゃないってことだよね」

 ヒトの世界は「あの日」を経て発声する自由を失い、壊れかけてもなお、言葉によるいじめはなくならないし、世界は争いに満ちている。ニニの学園にも、いじめを理由に他学園から転校してきた学生も少なからずいた。

「わかり合うこともままならないし、同じ言葉を持ってる同志すらも傷つけるし、けっこうヒトって愚か……ってことか」

 呟いた自分の言葉がまるで悪役のセリフのようで、ニニは一人わははと笑いながら玄関先で屋内用サンダルを脱ぐ。

「おじゃましました、ご協力ありがとうございます」

 一礼して踏み出した外は、明るい陽射しに溢れて海の香りを乗せた風が吹き抜けていく。ニニは両手を広げて深呼吸し、天を仰いだ。

「マイカが歌うために必要なら私は、世界の悪役になってもいい」

 もうずっと昔から胸に秘めた決意を乗せた自分の声が、青く高く雲を流す空に吸い込まれていくのを聞きながら、ニニは両のこぶしを強く握る。それから巾着の中のチョコをひとかけら口に放り込んだ。

 いよいよ、あの日記を見つけた屋敷で、ナユタとの計画を実行する時が来た。

 真実へと手を伸ばす行為をこの世界が悪と呼ぶのなら、悪役上等だ。

 はやる気持ちを抑えるために水筒から麦茶を一口含んで、ニニは強い足取りで屋敷へと向かって歩き出した。

 何度も脳内でシミュレーションした通り、最短距離で前回訪れた屋敷の門にたどり着いたニニは、迷いなく端末で開錠した。そのまま、小径に揺れる青紫色の桔梗に視線を投げることもなく足早に玄関へと向かう。

 玄関先で第二の開錠を行い、屋敷内に足を踏み入れた時点で集合時間まであと一時間と少し。ニニはうなずいて、大きく息を吸った。

「失礼いたします。こちら、国立神奈川県東部学園第十八支部、野外調査活動チーム所属の高木ニニです。前回に続き、このたびは国策である調査にご理解とご助力を賜りありがとうございます。これより、政府依頼による探索ならびに古書回収作業をさせていただきます」

 今日も誰からも返事は無い。

 ニニは前回と変わらず掃除の行き届いた美しい廊下をためらうことなく奥に進んで、陽射しを反射させて飴色に輝く床板を踏みしめて二階へと上がっていく。

 手入れされた和室の前を通るたびイ草が香り、ニニは思わず立ち止まって、眼下に広がる窓の外へ視線を投げた。

 涼やかな風に庭園の木々が揺れ、芝生の上を緑色の波が走る。池の向こうに咲くたくさんの薄桃色の花はコスモスだろうか。前回訪れたときは気づかなかったので、そのときはまだつぼみだったのだろう。季節の移ろいに彩られる美しい秋の庭を目の前にして、ニニは目を細めた。

「きれい。せっかくのお庭も和室も、見せてあげられなくてごめん、ウズメ。このお礼はあとで必ず」

 屋敷の内装や庭園の景色を見たら、ウズメはきっと喜んだに違いない。ここにはいないウズメに向かって、ニニはすまなそうな顔をして手を合わせた。

 階下の美しい庭園が見える廊下を少し進めば、いよいよあの日記が保管されている書斎が見えてくる。

 書斎の前にたどり着いたニニは、耳元に心臓があるのかと思うほどザクザクと大きく響く自分の鼓動を聞きながら、一度自分の胸元に手を当て、それからそっと引き戸に手をかけた。

「日記が残っていますように、日記が残っていますように、お願い」

 心を決めて引き戸を思い切り開き、トートバッグを部屋の隅に置いて、ニニはすぐさま文机の前に座り込む。前回ニニが訪れた後、家主が父親の日記のことを思い出して回収してしまっている可能性も十分ある。

 身体は熱いのに、緊張してすっかり冷たくなった指先で、ニニはそっと文机の一番下の引き出しを開いた。

「あっ…………た、よかった……」

 黒い合皮の表紙に金箔押しの文字。

 それは間違いなく、前回ニニが見つけたあの日記だ。

 ひとまずほっと安堵したのもつかの間、日記を掴んで文机の上に引っ張り出したニニの表情が凍り付く。

 目を見開いてじっと見つめるニニの視線の先、日記がしまわれていた引き出しの中に、もう一冊の本が入っていた。

「なに、これ」

 ニニは慌てて今文机に置いたばかりの冊子の表紙を見て、中を開く。それは確かに、ニニが前回見つけた二〇三二年に書かれた日記だった。前回の探索時、確かにこの引き出しには一冊の日記しか入っていなかった。

 では、引き出しに残っているもう一冊の冊子はなんなのだろうか。

 ニニはおそるおそる引き出しに手を伸ばし、もう一冊の冊子を掴んで文机の上に乗せる。それは同じように黒い合皮の表紙をまとった冊子だ。まさか、と思いながらページをめくって、ニニは驚きを隠せないまま息を呑んだ。

 新たに引き出しに入っていたのは、二〇三三年、つまり見つけた日記の続き、翌年の分の日記だった。

「待って、なんで入ってるの、この前はなかった。なかったよね?」

 少し混乱しながらニニは文机の他の引き出しも開けてみる。一段目、二段目、三段目ともに前回と同様なにも入っていない。一番下の引き出しにのみ、突如として日記が一冊足されていた。そして前回の探索から今日までの間に書斎に立ち入れるのは、本日付の立ち入り許可を得たニニと、この家の持ち主だけである。

「バレた。……ってことか」

 少し青ざめながら、ニニは野外調査活動用の端末を開く。研究機関からの警告や注意事項があれば表示されるアラートの類も特に見つからない。チユキからの口頭注意もなかった。

 つまり、家主はニニが先代の日記を読んだことを、問題としていない。それどころか、その続きにあたる一冊を残していった。

 この状況から楽観的に考えるならば、「日記の存在にニニが気づいた、それを知った家主が、再度訪れるニニにあえて読ませるために続きの日記を提供した」というのが妥当なところだろうか。

 そうなると、一冊目の日記すら、ニニに見つけてもらうためにわざと残していた可能性まで出てくる。

「なんで……? わかんないけど、わかんないけど、もしかしたら……」

 日記が家主に回収されてなくなっている可能性は想定していたが、もう一冊増えることはさすがに想定していなかった。ニニは混乱しながらも、ナユタに託されたスタンドを組み立てて文机の上に置き、一冊目の日記を開く。

「読め……ってことかな。私たちに読んで欲しい、とか」

 スタンドの先にナユタが改造した携帯端末を取り付け、画面をタップする。見慣れた時計表示を指でスワイプしてアプリを確認し、初めて見るカメラのアイコンをタップして起動させる。すぐに画面いっぱいにスタンドの真下に開かれた日記が大写しになり、その画面の端に録画ボタンと停止ボタンが表示される。幸いにも、録画アプリの操作はまったく問題なさそうだ。

「シンプル、助かる。さすがナユタ先輩、ニーズとサービスをマッチさせる技術者としての腕は確かね」

 ニニはスタンドの下に置いた日記を試しにゆっくりとめくりながら、端末画面を覗き込む。どうやら、ピントが合うまでに数秒の時間がかかるようだ。何度かページをめくってピント合わせにかかる時間を確認し、自分の身体が光源を遮らないよう文机の位置も調整する。

 日記は見開きごとに七日分の枠と自由筆記枠があり、横書きで書かれている。一か月分の撮影におよそ五回ページを繰ることを考えると、少しゆったりしたスピードでもなんとか二冊の撮影と、倍速再生でデータの確認くらいはできそうだ。移動時間も考えると当然、残り半分の追加物件の探索は諦めなければならないが、そこはなんとでもごまかしがきく。

 ニニは文机の前にどっかりと座り込んで深呼吸を繰り返すと、日記を一番初めの見開きに戻す。

「よし、いくよ」

 自分にそう声掛けをして、ニニはスタンド上部にセットした端末の赤く丸い録画ボタンをタップした。

 画面上で、録画時間表示が始まる。

 ページをめくり、端末画面を覗きながらピントをチェックし、四隅が撮影範囲に入っていることと明るさを確認、数秒待機してまたページをめくり、端末画面を覗きながら同じように確認して待機、またページをめくる。

「思ったより重労働かも」

 座り込むより膝立ちになったほうが、身体が安定することに気づいたニニは、呟きながら手を動かし続ける。

 一月から始まる日記帳は、今はまだ穏やかな日々が綴られている何の変哲もない内容だが、「あの日」である七月二十日を境に、その内容は過酷で凄惨なものとなる。

 ニニは少し迷ったが、音楽家夫婦の他愛ない平和な日常が繰り広げられているうちにページをめくるリズムを身体に覚えさせ、七月以降は紙面の文字を一切追わないことに決めた。中の記述を読んでしまったが最後、もし何かしらショックを受けて手が止まってしまったら、この計画そのものが台無しになる。七月に到達する前に、目視でピントを確認する場所を四つ角とページ上の「2032年」という部分、ページ下のページ番号、中央の綴じひも部分だけと決めて、淡々とニニはページをめくっていった。

 ページを繰るごとに紙の上の時は流れ、ニニの視界の端をたくさんの文字が通り過ぎていく。

「よし、十二月終わり、このあと……のページも撮った方がいいな」

 無事十二月までめくり終わったニニは、その次のページから続く自由筆記部分も同じように撮影していく。

 数ページにわたって上から下まで罫線上にびっしりと書かれた文字をなるべく見ないようにめくり続け、自由筆記のページも終わり、念のため最後の表紙裏にたどり着いた瞬間だった。視界に飛び込んできた物に、思わずニニは叫んだ。

「わっ、ああっやめて心臓吐くかと思った」

 危うくスタンドごと日記をはたき落としかけた手をぐっと押さえたニニの目の前には、日記の表紙裏に挟まれた一枚のスナップ写真があった。この日記の主とその奥方だろうか。雪が残る青い連山を背景に、ハイキングの装いで仲睦まじく並んでいる。

 穏やかに微笑む二人の写真がいつ撮影されたのかはわからないが、ニニは前回この日記を部分的に読んだとき、妻が死んだことを記した日があったことを思い出す。

 ニニはくしゃっと顔を歪めると、手の甲で目じりを拭って、スタンドの端末に表示された停止ボタンをそっとタップした。

「残して下さって、ありがとうございます。この記録は必ず、私が、私たちが受け継ぎますから」

 端末画面には録画時間が十五分ほどだったことを示す数字が表示されていた。二冊目も同じペースで録画できれば、撮影した動画を再生して確認する時間もぎりぎり取れそうだ。

 ニニは文机の引き出しに一冊目の日記をしまい、今度は今日見つけたばかりの二冊目を文机の上に置いた。

 四隅が撮影画面範囲に入っていることを確認し、すぐさま赤い録画ボタンをタップする。こちらは前年の続きとなるため、ニニは出だしから文字をなるべく視界に入れないようページをめくっていく。

 字を追わないようにしつつも何となく全体に目を通していたニニはふと、前年の日記は罫線いっぱいに文字が並んでいたのに比べて、少しずつ空いている行や、時には記載自体がない日が現れ始めていることに気づく。

 なるべくその理由に思いを巡らせないように意識しながらニニはめくり続け、ついに完全な白紙ページにたどり着く。端末画面越しに日付を確認すると、八月半ばだった。

 念のため、そのまま続けてページをめくり続けたものの、濃紺の万年筆による文字は現れない。九月、十月、十一月とそのまま白紙が続き、ついに十二月も一切の記述が無いままページが終わる。

 しかし次のページからは一冊目と同じく、自由筆記欄が何ページか続いている。もしかすると、と思いながら、ニニは次のページをそっとめくった。

「……っ」

 白紙のページが続き、少し気が緩んでいたからだろうか。

 罫線だけの自由筆記部分の、その一ページ目の冒頭に書かれていた文字を、思わずニニの目が拾ってしまう。

 〈息子と、これを読んでくれた、あなたへ〉

 何とか手の震えを押さえながら、ニニは必死に自分の視線を濃紺色の美しい文字の上から外してページをめくっていく。日記の冊子についている自由筆記欄五ページ分はすべて文字で埋め尽くされ、そして裏表紙へとたどり着いた。

 日記をそっと閉じて端末画面上の停止ボタンをそっとタップし、ニニはその場に座り込んだ。

 ページをめくるために三十分ほど動かし続けた左手が、重くだるい。先ほど思わず読んでしまった文字が、脳裏に焼き付いて離れない。右手でそっと口元を押さえ、ニニはくしゃりと泣きそうな顔になった。

 最後の数ページにわたって書かれていた文章、あれはきっと遺書なのだろう。冒頭のあの一文しかニニは読んではいないが、日記の主が置かれていた当時の状況や日記の記述が不自然に途切れたことから、死因はわからないもののおそらく遺書であろうことは想像にかたくなかった。

 どこか身体の奥深くに鉛の塊が入っているのではないかというほど重い気持ちのまま、ニニはスタンドから携帯端末を取り外して、録画した二本の動画を三倍速再生で確認し始める。

 この書斎を訪れたときのニニは、日記の最後の一ページまで撮り切るこの計画が無事に達成出来たら、もっと晴れやかな気持ちになると信じて疑わなかった。

 それなのに今は、たった一行の言葉だけで、自分の存在が窓の向こうに広がる明るい陽射しに溢れる外の世界とは切り離されていく感覚に溺れそうになる。

 淡々と画面端だけを見つめてピント確認をしながら、ニニは気持ちを吐き出すように深く大きくため息をついた。

「こんな絶望が、人の数だけあったんだよなあ。きっと」

 端末の画面上を流れていく濃紺色の残像を見送りながら、ニニは小さく呟く。

 ナユタの作った録画アプリはピント機能が優秀で、動画は問題なさそうだ。日記の四隅もしっかり録画範囲内に入っていたことを確かめて、ニニは二冊目の日記もそっと引き出しにしまった。

「ちゃんと、お預かりしました。ありがとうございます」

 あくまで研究機関の委託を受けて立ち入っているニニの立場では、お礼のメモも残すことはできないし、日記を残した人物の息子である家主と直接連絡を取ることもかなわない。

 それでもせめてもの伝言になればと、ニニは取り出した時とは反対に、一冊目の日記の上に二冊目の日記をそっと置き、引き出しを閉めた。

 スタンドや端末と、回収指示があった古書をしっかりトートバッグに入れて、ニニが再び屋敷の玄関先まで戻った頃には、集合時間まで残り十五分ほどとなっていた。

 外のまぶしい陽射しに目を細めながら屋敷を仰ぎ、一礼して元通りに施錠する。玄関から門までの小径に咲く青紫色の桔梗に見送られて、ニニは大きな門から外に出た。背後から、オートロックの閉まる音がして、これにて今日の個人的任務は完了だ。

 空は高く青く晴れ渡り、海で歌うには最高の天気だ。

「じゃ、まずは集合地点に戻って、チユキに回りきれなかった分の報告ね。ちょっとおなか痛くて休んでた、とかでごまかせるかな」

 集合地点まで住宅街の中を伸びる道路を道なりに歩き、時折庭先の美しい花に立ち止まる。風に揺れる木々がさらさらと葉擦れの音を立てる、いつも通りののどかな昼下がりの風景の中にいると、先ほどから続く重い気分が少しずつ晴れてくる。

 午後はウズメと一緒に先ほど話していたクッキー作りでもしようか、とニニが考えながら歩いていると、遠く道の向こうに人影が見えてくる。

 紺のプリーツスカートに白いセーラー服、茶色い柔らかな髪を後ろでハーフアップにした小柄なあの姿はウズメだ。ニニは小走りになりながら手を振った。

「おーい、ウズメお疲れさま~! もう終わったの?」

 集合時間まで少し余裕を残してきっちり仕事をこなす生真面目さは、さすがウズメらしい。

「ねえウズメー、よかったら午後一緒にクッキー作らない?」

 青く晴れた秋空の下、遠くから自分に投げかけられたニニの声に気づいたらしいウズメが、ゆっくりと振り向いた。

 その表情がどこか悲しげに見え、ニニが眉根をひそめた、その時だった。

 まぶしい陽射しが降り注ぐ中、ニニの視線の先で、立ち止まったウズメが両手で顔を覆い、ふわりとスカートを膨らませてゆっくりと膝から崩れ落ちていく。

「ウズメ……?」

 まるで、学園の視聴覚室で見た古いコマ送りフィルムを見ているようだった。

 呆然としていたニニは、その場にうずくまったウズメのバッグが地面に落ちてどさり、と重い音を立てた瞬間、我に返る。

「ウズメ……? ウズメっ」

 ニニは名前を叫んですぐさま全速力で走り出す。

 ニニがウズメのそばに駆け寄ると、血の気が引いて真っ白な顔をしたウズメが、道路に両手をついて肩で短く息をしながら、悲しそうに顔をしかめてしきりに首を横に振っている。

「ウズメ、どうしたの? 具合悪い? ちょっと待ってて」

 ニニはバッグから野外調査用の大きな端末を取り出した。携帯端末と違い、こちらの端末は学園やリーダーであるチユキに連絡できる機能が付いている。しかし実際に使ったことはなく、ニニの指先が画面上をさまよっていると、遠くからチユキの大きな声が聞こえてきた。

「ニニギ! ウズメ! どうしたの!」

「チユキ、学園に連絡して!」

 ニニが短く叫ぶと、チユキは走りながらうなずいて抱えていた端末の操作を始める。ニニは自分もしゃがみこんで、震えるウズメの肩を抱き寄せる。

「大丈夫だよ、ウズメ、もう大丈夫」

 根拠のない励ましだとわかりながらも他に掛けるべき言葉が見つからず、何とかウズメを安心させようとニニがウズメの背中を撫でてやる。しかしウズメはふるふると首を横に振って、うつむいたまま小さく呟いた。

「こえ、が」

 か細いウズメの声に、ニニは思わず驚きの表情を浮かべる。

 ニニの鼓膜を震わせたウズメの声は、聴きなれたいつもの彼女の声ではなく、まるでマイカのように軽やかで美しく透き通る声だった。

 マイカの声に似ている、その事実が意味するところをようやく理解して、ニニの血の気が引いていく。

 ウズメの補声器が、機能していないのだ。それはつまり、死を意味するに等しい。

 一瞬にして、ニニの脳裏に、つい先ほど手にした一冊目の日記に残されていた惨状がよみがえってくる。半ば混乱しながらニニが顔を上げると、ようやく駆け付けたチユキが大きな野外調査用の端末をニニに手渡し、バッグから未使用のマスクを取り出してウズメにつけてやる。

「ウズメ、しゃべらないで。先生呼んだから」

 ウズメはこくりとうなずくと、横にしゃがみこんだチユキに身体を預けて目を閉じた。

 その時、遠く坂の上からたくさんの足音とざわめき声が近づいてきた。学園から迎えに来た大人たちを迎えるため、ウズメを抱えるチユキの代わりにニニは立ち上がろうとしたものの、ショックで貧血を起こしたのかうまく両足に力が入らない。

「ごめ……立てない、チユキ。私もちょっと具合悪くて、今日の探索全部終わらなくて……」

「いいって! とにかく、今はウズメを連れて帰るのが先」

 ニニはこくりとうなずいて、ウズメの冷たい手を握ってやった。ばたばたと近づいてくる足音と自分たちを呼ぶ声の中にマザーを見つけて、チユキが大きく手を振る。

「マザー!」

「チユキ、連絡ありがとう。とりあえず、ウズメを連れて帰りましょう」

「ウズメさん、立てないだろうからちょっと失礼するよ」

 難しい顔をしたマザーの隣にいた背の高い運動科の男性教員が、しゃがみこんでいた小柄なウズメを抱え上げる。もう一人の男性教員は、携帯端末で通話先の学園長に電話で状況説明をしている。マザーは地面に落ちているウズメのバッグを拾い上げ、心配そうな表情のニニとチユキに微笑みかけた。

「チユキとニニはゆっくり戻ってきていいわよ。私たち教員は先に急いでウズメを連れて帰るわね」

「私も行きます! このチームのリーダーなので」

 チユキはそう言って、ウズメを抱きかかえて足早に坂を駆け上がっていく大人たちを追いかける。一人道路にしゃがみこんだままのニニは、自分を振り返るマザーとチユキに向かって手を振った。

「私は大丈夫です。ちょっと貧血起こしちゃって。ゆっくり帰ります」

「気を付けてね、ニニギ。今日のレポートとかは全部追って明日連絡する!」

「うん、ありがと」

 学園へと足早に戻っていく大勢の後ろ姿を見送り、騒然としていたあたりに静けさが戻ってくる。

 そよぐ風の中、わきの藪でちちちと小鳥がさえずる声を聴きながら、ニニはまだ浅く脈打つ胸元を押さえてゆっくりと立ち上がった。ウズメの「本当の声」を聞いて気持ちが動揺して波立ったまま、身体の中がざわざわとしていた。けれどニニには、やり遂げなければいけないことがある。

 肩からかけたトートバッグに入った携帯端末をバッグ越しにそっと押さえて、ニニは上を向いてゆっくりと坂道を歩き始めた。優しく吹き抜ける風にさらさらと揺れる木々の葉擦れも今のニニの耳には入ってこず、このまま押し黙っていると、えも言われぬ不安に押しつぶされそうになる。ニニは顔をしかめたまま、そっと小声で呟いてみた。

「だいじょうぶ」

 一歩足を踏み出して、地面を踏みしめてまたニニが呟く。

「なんとかなる」

 だいじょうぶ、なんとかなる、一歩踏み出すたびに小さく呟いていれば、余計なことを考えずに済み、頭の中をよぎる不安や雑念が消えていく気がした。

 だいじょうぶ、なんとかなる。自分の言葉で自分を奮い立たせ、ニニは誰もいない静かな坂道を進んでいく。

 普段より長く感じられる坂道をなんとかのぼり切り、校門をくぐって寮の玄関にたどり着いたニニは、あたりの空気が珍しくざわざわとしていることに気づいた。

 人影は見えないが、開いた窓の向こうから風に乗ってざわめきが聞こえてくる。ちょうど土曜日の昼どきで、昼食のために一階の食堂へ学生が集まってくる頃合いでもある。しかし、聞こえてくるざわめきに、いつもと違って不安の色がかすかに混じっているのがニニにも肌で感じられた。

 このままいったん自分の部屋に戻るか迷うニニだったが、話題の渦中にいる自分が寮を歩き回るのも気が進まない。であれば、とにかく今は携帯端末を少しでも早くナユタに届けるのがよさそうだ。寮に向かい歩いていたニニは踵を返すと、技術保全活動チームが部屋を構える、寮と隣り合った校舎へと向かう。

 他の学生からの視線とまぶしい陽射しを避けるため、ニニが寮と校舎を繋ぐ渡り廊下の屋根の下へと入った時だった。

 突然、柱の陰からぬっと現れた傷だらけの手に腕を掴まれ、引きずり込まれる。

「わッ!」

「おっつー。ね、なに起きィ? さすがのあたしもびっくりしたんだが」

「それはこっちのセリフなんですけど? 驚かせないでください、今気持ちに余裕ないんです」

 自分の腕を引っ張ったのが白衣をまとったナユタだとわかり、ニニは眉根を寄せて抗議する。

「ごめ。で、なに起きた。こっちはいきなり職員緊急招集の警報が鳴り響いてさ。学園中に。でもみんなはあのけたたましい音が職員緊急収集の警報だって知らされてないわけ。警報の音をセットしたあたしだけは知ってたけど。で、午前のチーム活動残り十分のとこでそれが鳴り響いたもんだから、みんな大騒ぎになって。学生に対しては生徒会から問題ないって説明があって、やっと落ち着いてきたとこ」

「ウズメが倒れたの。補声器がうまく動かなくなったみたいで……」

「なるほど。ちょっとこっち行こうか」

 ナユタはニニの手を引いてそそくさと渡り廊下を通り、静かな校舎内へと入る。今日は土曜日で課外授業も終わっており、学生たちも寮の食堂へ集まっている。周囲に人の気配がないことを確認してから、ナユタは声をひそめて話を続ける。

「野外調査活動チームが例えば暴漢に遭遇したとか、事故にあったとか、そういう場合に通話なしのワンタップで学園に緊急通報できるようにしておいたんだけど、それが作動したってわけね。おけ。使ったのは? チユキか」

「リーダーだから知ってたみたい」

「あたしが使い方を教えたからね。わかった、あとでフィードバックもらいにいく。それで、どうだった? どうだった? あった? 撮れた? 持ってきた?」

 技術屋らしい顔を見せたと思いきや、すぐさまナユタは今までニニが見たこともないほど生き生きとしたまなざしで目を輝かせて、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

「あったし、撮れたし、持ってきました」

 ニニは肩から掛けていたトートバッグから携帯端末を取り出し、ゆっくりとうなずいてナユタの手に乗せる。ナユタはすぐさま端末画面の動画撮影アプリを立ち上げて中を確認し、何かを察してニニを見つめ返す。

「どゆこと……? データ二つあるけど。途中で失敗して撮り直した?」

「あったんです、二冊目が」

「……二冊目?」

 驚きを隠せないナユタは大きく目を見開いて、再び端末画面に視線を落とす。そこでニニは、前回と同じ文机の最下段の引き出しに目当ての日記があったこと、その日記の下に翌年分の日記がもう一冊足されていたことをナユタに伝えた。

「なるほどねぇ」

 にやにやと笑いながらニニの目の前で端末画面を凝視しているナユタは、おそらく録画データを再生して映し出された内容を速読しているのだろう。時折目を細めては、文字が流れる画面に見入っていた。

「で、中は読んだ?」

「読めなかったです。動揺したら、録画失敗しそうで」

「正解だね」

 そう言って、ナユタはニニから受け取った携帯端末を白衣のポケットにしまい込むと、そっとあたりを見回す。そろそろ、早めに昼食を終えた誰かが校舎にやってくるかもしれない頃合いだと気づいて、ニニも一緒に寮へ続く渡り廊下を振り返る。

「じゃ二冊分、きっちり解析する。半月くらいかな。文字起こし欲しい?」

「それは大変そうだから、ひとまず概要だけ口頭で聞かせてください」

「おけー。しばらくまた渡してある予備の端末使っておいて。動画録画アプリのフィードバックも欲しいけど、それはまたそのうち。ほら、早く食堂行ってきな、今日の昼は食料自給活動チームが担当で、彩り野菜炒飯と餃子のセットだって。じゃね」

 ニニに手をひらりと振って校舎の最上階にある技術保全部の部屋へ戻っていくナユタの背中を、ニニは思わず呼び止めた。

「あの」

 日記を撮影したデータがナユタの手に渡った今、もうニニもナユタも後戻りはできないことになる。

 今朝までのニニは、とにかく今日の計画を遂行して、目の前に立ちはだかる「世界崩壊の謎」という高い壁を切り崩したい気持ちでいっぱいだった。チユキに黙ってチームの規則を破っている罪悪感と、真実を知ることへの恐れが、不安に姿を変えてまさかこれほどまで胸の内に重くのしかかってくるとは思ってもみなかった。

「あの、どうして日記の二冊目が引き出しにあったんだと思いますか?」

 階段を三段ほどのぼったところで、ニニの問いかけにナユタが振り返る。その顔はいつも通り、楽しそうにニヤリと笑っていた。

「そりゃあ、持て余したんでしょ、家主は。父親の手記はどう考えても外に出すべき情報で、でもどうすればいいのかわからない。家主が見つけてもらうことを望んでいるんだとしたら、結果的に今のあたしたち、悪いことをしてるとは言い切れないんじゃない? ……って言えば安心する? 詭弁だけどね。ひひ」

「意地が悪いこと言わないでください、ナユタ先輩」

「そ? 察しがいいって言ってよ。あと、規則なんて今までも破りまくってたじゃん君。今さらでしょ。生きてる限り、前に進むしかないんだから」

「そうですよね」

 そう言って力なく笑うニニにまた手を振ると、今度こそ振り返らずにナユタは階段をのぼっていった。その背中が見えなくなるまで見送って、ニニは渡り廊下へと歩き出した。

 前に進むしかない。

 ナユタの言葉通りだった。ならば少しでも望みに近づけるよう、意志を貫けるよう、自分を信じる強い心を持たなければならない。心を決めれば自然と気持ちの揺らぎもやわらいで、身体が軽くなった気がした。

 ニニはまっすぐに前を見据えると、目の前に伸びる廊下を、まだざわめきの中にある食堂に向かって歩き始めた。


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