第五話 世界の十七条地図
「本当に大丈夫?」
「本当に大丈夫、だと思う」
ニニとマイカは通りの角に身をひそめて、細い道を挟んで向かいにある店先を覗き込んでいた。あたりは陽が暮れて少しずつ薄暗くなりつつあったが、その店先だけはぼんやりと明るく店先の歩道が照らされている。
「私、東京以外のお店入るの、初めてなんだけど……」
「何言ってんの、私もだって! どうする? やめとく?」
「えっ……でも、気になる。お店なんだから私たちお客さんだったら大丈夫、よね?」
こそこそと言葉を交わす二人の視線の先にあるのは、ニニが海辺を訪れる道すがら発見した、あの喫茶店だった。
小窓のはまった木の扉に、店の中が見える大きめの窓が一つ、今は窓際の席には誰も座っていないようだ。席のすぐそばに間仕切りでもあるのか、店内はそれ以上見通せない。喫茶店が入るビルは四階建てだが、明かりがついているのは地上階の喫茶店のみで、上階窓はどこも真っ暗なまましんと静まり返っていた。
「よし、行こう! 我々はクリームソーダの真相を確かめなければならないのだ」
ニニはそう言って、小走りに店の前へと道路を渡る。
「あ、待ってニニギ」
続けてマイカも店の扉前へとやってきて、二人そろったのを確認したところで、ニニは心を決める。
入口の扉にニニが手をかけて押すと、ちりりんとドアベルが鳴ってきしんだ音を立てながら扉はニニとマイカを迎え入れた。
「お、おじゃまします」
「こんにちは……」
店内に一歩だけ踏み入れて扉を閉めた二人を出迎えたのは、淹れたてのコーヒーのかぐわしい香りだった。見回せばアンティークレトロ調の薄暗い静かな店内には誰もおらず、奥のカウンターの向こうにカップや茶器が美しく並んだ戸棚が見える。壁は額縁に入れられた絵や鏡が掛けられ、足元の床は美しく磨き上げられた年代物の板張りだ。
「ねえこれって、これってもしかして、レトロ喫茶ってやつかな! どうしよマイカ、私緊張してきた」
「私も撮影セットとか雑誌で見たことはあるけれど、本物のお店は初めて。誰もいないけどこういうお店って、奥に声かけるのかな?」
「わかんない。奥まで行ってみようか」
店の左奥にカウンター席を見つけて、二人はそっと近づいてみる。ほんのり湯気を立てるポットをカウンター越しに見ながら、呼び鈴を探してあたりを見回していると、突然二人の背後から女性の笑い声が響いた。
二人はとっさに声がした店の入口のほうを振り返る。
こちらからは見えないが間仕切りの向こう、窓際の席に、誰かいるようだ。
「びっ……くりした」
「窓際……お客さん、かな。外から見たときは誰もいなかったけど」
「あそこにいるのはお客さんじゃなくて、この店の主人だよ。いらっしゃい」
今度は背後のカウンターのほうから青年の声がして、ニニとマイカはまた二人してびくりと飛び上がりながら振り返る。
そこには、黒いエプロンに白いシャツ姿の青年が立っていた。人懐こそうに微笑む青年は、どうぞと言ってニニとマイカをカウンターの席へ招く。
「あの、はい、おじゃまします……」
「おじゃまします」
青年は二つのグラスに銀の水差しから水を注いで、カウンター席に腰掛けたニニとマイカの前に置く。よく冷えたグラスの表面はうっすらと水滴を浮かべて、透明な氷がからりと鳴った。何もかもが本や漫画で読んだ通りで、ニニはどぎまぎしながらマイカへちらりと視線を投げる。
マイカは外食に慣れているらしく、すました顔でグラスを手に取り、美味しそうに水を飲んでいる。歌手として仕事でいろいろな場所へ行き、たくさんの人と言葉を交わす機会があるマイカとは違い、それこそ学園内の食堂と限られた人間関係しか知らないニニは、目の前に見知らぬ人がいるというだけですっかり気が動転していた。
「それで、今日は何の御用ですか?」
茶色くて柔らかそうな癖毛の青年が、穏やかに少女たちに問いかける。青年の言葉にようやくはっと我に返ったニニが、カウンターに身体を乗り出した。
「そうだ! あの、私さっきこのお店の前を通った時にクリームソーダ飲んでるお客さんがいたの見たんです」
「私はそれを聞いて一緒に来たんです。あの、こちらの喫茶店ではクリームソーダを出していただけるんですか?」
少女二人の言葉になるほど、と呟いた青年はなぜかうーんとうなりながら困った顔をして、店の入口横にある間仕切りの方へと声をかけた。
「ほら、この子たちこう言ってますよ。だから窓際はやめてくださいって言ってるじゃないですか」
「いいだろう、私がどこで何を口にしようと。だいたいこの店の主人は私だぞ、サクヤ」
青年の投げかけた言葉に対して先ほどの笑い声と同じ女性の声が響き、間仕切りが少し動く。その向こうから現れたのは、先ほどニニがクリームソーダを飲んでいるのを目にした、グレーのスーツ姿の女性その人だった。
「あっ、さっきクリームソーダ飲んでたのってあなたですよね? あれ? お客さんじゃなかったんだ」
「そう。私はお客じゃないのよ、お嬢さん」
ハイヒールをカツカツと鳴らしながらやってきたパンツスーツ姿の女性は、混乱するニニを見て笑いながらカウンターにほど近いソファ席に腰を下ろした。コーヒーの香りに混じって、かすかに上品な百合の香りがあたりに漂う。
「そして残念ながら、ここは喫茶店じゃないんだよ。法律事務所さ。ビルの外の袖看板を見なかったの?」
「えっ……えええっ?」
ニニは素っ頓狂な声を上げるとすぐさま立ち上がって、勢いのまま扉から外に転げ出て行く。
「あっ、待ってよニニギ、置いていかないでよ」
慌てたマイカが席を立とうとした矢先に、また外から走って店内に転がり込んだニニが、ゆったりとソファに座って微笑む女性の前にやってくる。
「あの、二階の看板は確かに法律事務所ってなってますけど、二階は真っ暗だし、ここは一階ですよね?」
「ああー、えっとそれは、そう、ここって実はカフェ居抜きの法律事務所なんだ」
ニニの疑問に対して何も答えずにこにこ笑うだけの女性の代わりに、カウンターの中にいる青年がどこか焦った様子を見せながら取り繕うように説明する。
「カフェ居抜きの法律事務所ぉ?」
「飲食店と事務所だと、そもそも必要なお店の作りが全然違うような……? それに、居抜きにしても、この通りにこんな素敵な内装のカフェってあったかな。私が東京に引っ越すまではなかったよね? ニニギ」
「あー、それはそうだね、何て言えばいいのかな、ええとナギさん! 何とかしてくださいよ」
ニニだけでなくついにはマイカにも一緒になって追究され始め、とうとう青年は音を上げてソファに座る自称店主の女性に助けを求めて視線を投げかける。ニニとマイカも青年につられて女性のほうへ振り返った。
「この店の扉はどんな場所にも繋がってるんだけど、最近、ここに扉が開くようになってね」
「とびらがひらく?」
女性の口から紡がれた言葉の意味がわからず、ニニとマイカは思わずそろって首をかしげた。
「またそういうことを。えーと、店主……ナギさんはが言ったのは『このカフェ跡地での事務所営業の許可がやっと下りたんですよ最近』っていう意味です、はい」
ナギと呼ばれた女性のなぞかけじみた言葉を翻訳するかのように、しどろもどろに青年が言葉を添える。それを聞きながら楽しそうにふふっと笑うと、女性は組んでいた足をゆったりと組み替えて、二人の少女を見つめて口を開く。
「この店の扉を開けたのは、どっち?」
「えっ、あの、私、です」
ふいに投げかけられた女性の質問に、ニニがおそるおそる答える。もしかすると、勝手に中に入ったことを怒っているのかもしれない。勢いを削がれたニニは小さく片手をあげた。おずおずとナギの様子をうかがうと、ニニと目が合ったナギはにっこり微笑む。
「それはそうよね、あなたなら開けられて当然ね。そちらは一緒に来たお友達?」
「はい、ニニの……彼女の友人です」
「そう。ついに時が来たのね。この時代のこの場所に、扉が繋がるはずだわ。ね、サクヤ」
「あー! ちょっと待ってナギさんちょっと」
「ときがきた? って、なんのことですか?」
ナギの口ぶりに再び慌てだした青年が、カウンターの向こうでじたばたと手を動かしている。今一つ話が通らないナギの言葉に首をかしげながらも、ニニは席を立つと改めてそばのソファに座るナギに向き直り、頭を下げた。
「私は高木ニニ、県東部学園の学生です。勝手に中まで入ってしまってごめんなさい! どうしてもクリームソーダが飲みたくて、新しくできた喫茶店だと勘違いした私が彼女を誘ったんです。もし学園に連絡するなら私の名前を伝えてください」
「知ってるわ。向こうの山の上にある学校の学生さんでしょ。その制服を見ればわかるわよ」
そう言って、ナギはニニギの右肩を指さす。学園の制服であるセーラー服は、右肩に校章のエンブレムと支部の通し番号が刺繍されている。右肩に注がれるナギの視線を感じながら、ニニはふとこの制服をあつらえた日のことを思い出す。
制服とは、いずれ街に人が戻ってきたら、身分を証明する大切なものにもなるし、学生の監督責任が誰にあるか示すものでもあるのだ、とマザーは言っていた。改めてその真意をかみしめながらニニがナギの前で頭を下げ続けていると、その腕を引っ張ってマイカがニニの隣に立ち、同じように頭を下げる。
「待って、私もいけないんです」
「まあまあ、ナギさんはなにも君たちが悪いと言っているわけではないから、もう頭を上げて。ね、ナギさん」
カウンターの中からそう声をかけた青年は、ナギの前で神妙な面持ちのまま頭を下げる少女二人を手招きする。
そうは言われても、店主であるナギの許しの言葉を聞くまでは身動きが取れないニニとマイカの耳に、ふふっと楽しそうなナギの笑い声が届く。
「そそ。別に怒ってないわ。むしろ感激してしみじみしちゃった。それに、ここは喫茶店じゃないけど、お嬢さんがた御所望のクリームソーダは出せるしね。この店はねえ、なんでも願いが叶う場所なの」
「え」
ナギの一言に、思わず間抜けな声を出してニニが顔を上げる。ソファに座ったナギが立ち上がり、カウンターの中にいる青年にサクヤ、と声をかけると、サクヤはぺこりとお辞儀をして、カウンター横からさらに奥へ続く厨房へと姿を消した。
「さあさあお席へどうぞ。私はどうしようかしらね、サクヤ、カフェラテ一つ追加でお願い」
「ナギさんは暇なら自分で作ってくださいよ~、お客じゃないんでしょ?」
「ラテに可愛いハートも描いてね」
厨房から飛んできたサクヤの文句もさらりと流し、ナギはニニとマイカににっこり笑って見せてカウンター席に腰を下ろす。手招きされるまま二人もカウンターに近づき、おずおずとナギの隣に腰かけた。
正面に見えるカウンター内の戸棚には、いろいろな形のグラスや白いカップ、紅茶用の美しいカップが並び、店内の穏やかな照明の下できらきらと光を弾いている。戸棚の最上段には少し大きめの銀色の缶が並び、前面にきれいに貼られた白いシールには、美しい筆記体で英文字が綴られている。
ニニは目を凝らしてそのうちのいくつかを読んでみて驚く。シールに書かれた単語が本当ならば、缶に詰められているのはダージリン、アッサムなど紅茶の茶葉であるらしい。
紅茶自体は今では珍しくはないが、やはり他の食品と同じく、多品種を同時に手に入れることは未だに難しい。それなのに、缶の数だけ茶葉をそろえ、その上この空間に漂う香りから考えれば、コーヒー豆もそろえられるこの店の主人は、一体何者なのか。
ニニは思わず隣に腰掛けるナギの様子を横目でうかがい、太もものベルトホルスターに隠してあるナイフを、スカートの上からそっと押さえた。
「さっきはあなたにだけ自己紹介させてごめんなさいね。私はナギ。あっちの子はサクヤ」
「ニニです。彼女は友達のマイカです」
「何年生?」
「今、中学三年で、十五歳です」
「マイカと言います。ちょっと前に彼女と同じ学園から東京に引っ越してしまったけど、同い年です」
「そう。一番楽しい盛りじゃない。学園に所属しているということは、もうお仕事してるのよね」
ナギの言葉にニニが反応してぴくりと肩を揺らす。その様子に気づいたマイカは、ニニの横から顔をのぞかせる。
「あの、代金は私が二人分、ちゃんとお支払いできますから安心してください。私、東京で歌手の仕事してるので、お給料もあるんです」
「あっ、そうだった私の全財産、円じゃなくて活動ポイントだわ!」
「やだ、ニニギもしかして今気づいたの? もしかして、誘われた時点で私のおごり確定してたわけ?」
「うん」
「あっはははは、いいね、楽しそうね。好きよ」
ニニとマイカのやり取りを聞いていたナギが大笑いして目じりを拭う。マイカが歌手だと打ち明けても詳細をこと細かく詮索してくる気配が一切ないナギの様子に、ニニは内心ほっと胸をなでおろしていた。
「二人ともお代はいらないよ、今日は私のおごりだから。ちゃんと看板を出してなくて、お客を困らせちゃったのは私だからね」
「でも……」
「いいの。こういう大人の見栄を受け入れてあげるのも、子どもの仕事なんだから」
そう言ってナギがマイカにウインクしてみせる。二人のやり取りを聞いてタイミングを見計らっていたニニは、機嫌がよさそうに笑うナギに改めて問いかけた。
「それで、ここは結局何のお店なんですか?」
「さっき言ったとおり、なんでも願いを叶えられる場所。ニニちゃん、何か願いごとはないの? 願いごとを書けば、そのとおり叶えられる不思議な本がここにはあるのよ。興味ない?」
「はい! あります!」
なおもはぐらかそうとしているのか、どこか胡散臭いナギの言葉にめげず、ニニは元気よく手を挙げる。
「クリームソーダが飲みたい!」
「ちょっと、ニニギってば……」
横から慌ててニニをたしなめようとしたマイカがふいにぴたりと動きを止め、言葉を失ってカウンターの向こうを見つめている。
何ごとかとニニもマイカの視線をたどれば、そこには銀のトレーの上に緑色に染まったグラスを二つ乗せたサクヤの姿があった。
「はい、お待ちどおさま。願い、叶ったかな?」
「く、クリームソーダだ! 本物?」
「そうよ、だってあなたがサクヤに注文したんじゃない、ニニちゃん」
サクヤは銀のトレーから紙製の白いコースターをニニとマイカの前に置くと、その上にクリームソーダのグラスを乗せる。グラスの横に置かれた長いスプーンはいつか雑誌で見た通り、掬う部分が紙ナプキンでくるまれており、紙の袋に入った使い捨てのストローもある。
「すごい。ウエハースまでついてる。ニニギ、こんなに素敵なクリームソーダ、東京でも見たことないよ」
グラスを満たす緑色のソーダには氷が浮かび、ぱちぱちと小さな泡が弾ける。グラスにふたをするほど大きく盛られた丸くて白いバニラアイスは甘い香りがして、その上にはぷっくりした真っ赤なさくらんぼが透明のシロップを光らせながら乗っている。さらにアイスの横には、扇形のウエハースが添えられていた。
これぞまさに完璧、完全なる憧れの姿そのままをした緑色の飲める宝石を前に、二人の少女は思わず言葉を忘れて緑色のグラスを見つめ続ける。
「溶けないうちに召し上がれ。ナギさんはご要望通りカフェラテです、どうぞ」
ニニがナギの手元を見ると、これもまた探索中に手にした古い雑誌の中でした見たことのない、ふわふわした薄茶色の表面に白いハートがいくつも描かれたコーヒーカップが置かれていた。
「本物だ……。ここ、本当に喫茶店じゃないんですか?」
サクヤの手から次々に運ばれてきたものに圧倒され、ニニが思わずぽろりとこぼす。
「それはさっき言ったわよ。法律事務所だって」
「あの、今さっき厨房で作業しながら考えてみたんですけど、『コーヒー好きな弁護士ナギがカフェを居抜きでそのまま事務所にして、けれどお客さんが一向に来ないから事務員の僕も暇を持て余して趣味でカフェごっこをしている』っていうご説明でどうでしょう」
「ああ、その設定いいわね。採用」
「設定……ですか」
「ナギさんは終始こんな人なので、許してください」
呆れた声で呟くニニにサクヤがウインクして、カウンターにティーカップとティーポットを置く。縁や持ち手に金の縁取りが入ったティーセットは、白とエメラルドグリーンの色合いがとても美しく、磨き上げられて深い飴色のカウンターテーブルによく映える。
「それはなんですか?」
「僕は紅茶党なので、ダージリンをストレート、ホットティーでいただきます。そろそろホットも美味しい季節がきますね、紅茶もおすすめですよ」
「カップの色がとってもきれい。南の国の海みたい」
サクヤがポットからカップに鮮やかな赤い紅茶を注ぐのを見て、マイカが呟く。
「そうなんです。実は僕が昔住んでいた場所は、北西から南東を横切る大きな川があって、その川が最後に流れ込む海が、こんな色をしていました。お気に入りのマイカップですね」
「あーと、サクヤの故郷は確かシュメールだから、ペルシャ湾だっけ?」
ナギの思わぬ言葉に、ニニとマイカが驚いた顔をする。
海外との往来がまったくなくなったわけではないものの、未だに世界中どこも急速な人口減による国内の立て直しが急務のため、今やわざわざ国境をまたぐ転居をする人は非常に珍しい。
「すごい! 砂漠のそばの国に住んでいたんですか?」
「まあ、うん。昔々ね。それより、アイス溶けちゃいませんか?」
「あっ」
ニニは言われるがまま急いでストローをグラスに挿して、マイカと並んでソーダを一口飲んでみる。冷たく甘いソーダがぱちぱちと弾けて、少し溶けたバニラアイスの香りに包まれる。
「どうでしょう。念願のお味は」
「美味しいね、ニニギ」
「……」
「ニニギ、なにその顔」
言葉にできない、とでもいうような表情で目を閉じて天井を仰ぐニニを見て、マイカが思わず笑うと、サクヤとナギも一緒に笑う。
「お嬢さんがたのお気に召してなによりだよ」
香ばしいコーヒーと優しいダージリンの香りに包まれて口にするアイスは格別だった。ソーダ水は先月の学園の夏祭りで特別に用意された瓶入りのものをみんなで飲んだが、アイスと一緒に口にする贅沢な食べ方はニニにとっては生まれて初めてだった。
それからは、四人であれこれと賑やかにクリームソーダの美味しい食べ方議論を始め、二人のグラスが空になるころには窓の外はすっかり陽が落ちて薄暗く、夜の気配が近づいていた。店内の照明は明るすぎず柔らかだったが、街灯のない外に比べればまぶしいくらいに感じられる。
マイカが腕時計を見る仕草につられてニニもポケットから携帯端末を取り出すと、画面上の時計はもうすぐ午後六時になろうとしていた。
「とっても楽しいから帰るのが惜しいけど、私も東京に帰る前に学園に寄らないといけないから、そろそろおいとましようか、ニニギ」
マイカの言葉にうなずいて、ニニもバッグを片手に席を立つ。
「ごちそうさまでした。とっても美味しかったし、お話できて楽しかったです。本当にお支払いしなくてもいいんですか?」
「いいんだよ、カフェは私の趣味だからね」
「そうそう、僕たちの趣味の空間ですから」
ナギとサクヤの言葉に顔を見合わせて、ニニとマイカはそろってお辞儀をする。
店の外まで二人の見送りに出てきたサクヤは、横に立つナギの顔をちらりと見てから神妙な面持ちでニニとマイカに言った。
「ところで、今日ここで美味しいものを食べたことは、僕たち四人だけの秘密にしてください。なにせここは、僕とナギさんの趣味の空間なので、お客さんがたくさん来られたらそれはそれで困ってしまうんです。ね、ナギさん」
「ま、見つけたところで中には入れないだろうけどね」
「ナギさんはまたそういう……。まあ、とりあえず、今日のことは他のみんなには秘密っていうことでよろしくお願いします」
「誰にも言いません。任せてください」
ニニとマイカはサクヤの言葉に素直にうなずいて、暗くなった通りを歩き出す。商店街から大通りへ出る最後の曲がり角でニニとマイカは店のほうを振り返って、まだ店先に立つ二人に向かって手を振った。
「ありがとうございました!」
手を振り返すナギとサクヤにもう一度お辞儀をして、夜闇がすぐそこに迫る空の下、学園に向かって歩き出す。
陽射しの下ではまぶしいほど明るかった御影石敷きの大通りも、本を読むには光が足りないほどに暗くなりかけていた。
「美味しかったね、また行きたいかも」
「うん……」
マイカのご機嫌な声にどこか上の空で返事をして、ニニが立ち止まる。
一歩遅れたニニを気遣ってマイカが振り向いたその視線の先で、ニニは小走りになって来た道を店へと戻っていく。
「どうしたの? 忘れ物?」
追いかけようとするマイカの声掛けにも答えず早足で、しかし足音を殺して曲がり角まで戻り、ニニはそっと店のあった方向を覗いた。
「もう、ニニギってば。なに?」
ニニの背後から、マイカも今しがた出てきたばかりの店先のほうを覗く。
真っ暗な商店街の中で、ナギとサクヤの店の周りだけがぼんやりと橙色の柔らかな光に包まれ、細い路地を明るく照らしている。
「注文の多い料理店じゃなかった……」
「なにそれ」
「いやあ、あの店もしかしたらドロンって消えてたりして、なんて思ったんだけどな」
ニニの呟きに思わずマイカが噴き出して、ニニの肩を小突く。
「でも、ニニギの言いたいこと、わかる気がする。物がたくさん集まってくる東京でも、あれだけの品数を趣味で集められる人っていないんじゃないかなと思うわ」
「ナギっていう女の人も、いちいち引っかかる謎解きみたいなことばっかり言ってたけど、あれってむしろなんのことかを私たちに聞いて欲しかったのかもしれない、って思ってた」
「言われてみれば、あのナギさんって弁護士さんみたいだけど、そもそも弁護士って随分前にAIシステムに移行して、もう仕事にしてる人はほとんどいないんじゃない?」
「……おばけ、にしてはリアルだったけど。どうする? 店まで戻ってみる?」
「忘れ物しました、とか言って?」
そこまで言葉にして二人は顔を見合わせると、いたずらっぽく笑う。幼い頃、二人で門限ぎりぎりまで海辺を探検した懐かしい日々の記憶が、わくわくとした胸の高鳴りが、鮮やかによみがえってくる。
「昔二人で決めた探検の極意、覚えてる? 謎は少し残して次回のお楽しみにすべし。だったっけ」
「そうそう。懐かしいなあ。そうだね、じゃあさ、次また会うときはあのお店に寄ってみるっていうのはどう?」
「賛成」
ニニとマイカは笑ってうなずき合い、柔らかな明かりに背を向けて大通りを歩き出す。夢にまで見たクリームソーダの甘い余韻と不思議な空間を思い返しながらマイカと並んで歩いていると、まるですべてが夢の中のできごとなのではないかという気がしてくる。「あの日」から続く死の恐怖も、食べ物を手に入れる苦労も、過去の世界に憧れる必要もない、穏やかな世界。
ニニは小さく笑って、マイカと腕を組んだ。今はこうしてお互いの体温を感じられるだけでも幸せだ。
「マイカ、学園に帰る前にさ、海で聞かせてくれた歌、もう一回だけ聞かせて」
「なに? 今日のニニギは甘えん坊さんだなあ。いいよ」
マイカがそう言って、大きく息を吸い込む。
幸せを願う透明な祈りの歌が、濃紺色の夜に沈みゆく静かな空に、優しく響いて溶けていく。




