第四話 午後三時に、いつものとこで
風の中に海の気配を探しながら、早足で街を歩くのは気持ちがいい。つい数時間前にチユキとナユタと共に歩いた坂道を軽やかに駆け下りて、ニニは一人トートバックを手に誰もいない昼下がりの街を歩いていた。
昼食を自室に持ち帰ったおかげで、午前中にピックアップした古書に関するレポートは無事完成し、食器を戻すついでにまだ食堂にいたチユキに提出することもできた。おやつのスティックラスクをウズメからもらったクッキーの袋に一緒に入れて、マイカとの待ち合わせ場所へ向かうニニの足取りは軽やかだ。
マイカが指定した「いつものとこ」とは、学園のある小高い山を下ってさらに十分ほど歩いた先にある浜辺の事だ。
昔は夏になると皆がこぞって訪れた国内有数の海水浴場だったらしい。その言葉通り、広くどこまでも続く外海を正面にして、右も左も砂浜が延々と続く景色は春夏秋冬いつ見ても壮観で、何よりも美しい。
「マイカ、今日は何を歌ってくれるのかな、この前のライブの新曲、聞けるかな」
機嫌よく鼻歌を歌いながら、ニニは通りを駆け抜ける。途中、ニニはまぶしい陽射しできらきらと白く輝く御影石が敷き詰められた通りから一本裏路地へと入り、少し歩みを緩めた。
そこは所有者が手入れを続けている商店街の跡地で、かつては菓子や土産物が飾られていたであろうガラス張りのショーウインドウを持つ小さな店が、路地の両脇に立ち並ぶ。
ニニは早速店先の大きなショーウインドウを鏡代わりにして、くるっと回ってみる。店内は誰もおらず真っ暗なため、ガラスはまるで鏡のように明るい外の景色とニニの姿を映し出してくれる。
「ソックスよーし、スカートもよし、髪型も急いだわりに完璧」
毛先が肩につきそうなミディアムショートを、右側だけラフにハーフアップにしたテールを作るのが、最近のニニのお気に入りだ。
白線が引かれた濃紺の襟がついた白いセーラー服も、歩くたびに軽やかに揺れる濃紺のプリーツスカートも、なかなか悪くはない。
学園での「仕事」でもらえる活動ポイントは学園内通貨なので、学生の間は着たい服を自由に買うだけの貯金はできない。そのため、授業が無い日や自由時間も、ほとんどの学生が制服に身を包んでいる。中には実家からの仕送りで休日用の服を持つ学生もいないわけではなかったが、ニニは学園のセーラー服を気に入っていた。
「セーラー服、可愛いからよし!」
誰もいないのをいいことに、いつだったか探索中に目にした雑誌に載っていた、アイドルのポーズをガラスの前で真似てみてから、ニニはまた軽やかに歩き出す。
次の角を曲がってまた大通りに出る算段でスキップしながら歩いている道すがら、何気なく視線を投げた、その時だった。
数歩先にある店先の大きな窓ガラス越しに、人影が見えた。
「えっ……」
久々に見る学園外の人間の姿に、思わずニニの足がぴたりと止まった。そこは喫茶店なのか、その人は窓際の席に一人座り、何やら本を読んでいる。店内よりニニがいる外の陽射しのほうが明るいため、中まではよく見えない。
「おばけ……なわけないか」
ニニは息をひそめてそっと足音を立てないように歩き出すと、怪しまれない程度にゆっくりと喫茶店の前を通りながら、窓越しに見える人影を横目で観察する。
マザーと同じくらいの年齢だろうか、グレーのスーツ姿で明るめの長い髪をしたその女性は、もちろんニニの見知った顔ではなかった。
そして何よりニニを驚かせたのは、その女性の前に置かれた食べ物だった。
「……」
そのまま店の前を通り過ぎ、予定通り角を曲がって大通りに出て少し歩いてから、ニニは自分が思わず呼吸を止めていたことに気づいて息を大きく吐いた。
「ぶわっ……、ちょっと待って、あれ、クリームソーダってやつじゃないっ? そんなまさか……」
クリームソーダ。それは、冷えた炭酸水の上に丸いアイスクリームが乗り、さらにその頂上にシロップ漬けの真っ赤なさくらんぼが厳かに鎮座した、憧れの飲み物だ。そこにウエハースが刺さろうものなら、もう伝説級と言ってもいい。
そもそも、ソーダ水、アイス、シロップ漬けさくらんぼ、ウエハースを同時に入手することが非常に難しい今の状況においては、物資が集中する東京以外でお目にかかることはまずなかった。
「どうしよう、大事件すぎる……見間違いかな。そもそもあんなところに喫茶店なんてあったっけ? まあ、ここもマザーの言う通り、本当に人が戻ってきてるってことか」
数分前にガラスの前でひとしきり踊ったことを思い出し、ニニは人知れずうなだれた。
「だめ。人目があるって思ったよりしんどい。街中が賑やかになるのは嬉しいけど、あんまり嬉しくないかも」
気を取り直してそそくさと大通りを進み、やがて少しずつ海の気配が濃くなる空気に、心が踊り出す。海が近くなるほど立ち並ぶ家々や店舗は少なくなっていき、少し木の生い茂った公園の横を抜ければ、もう海はすぐそこだ。
御影石の白で染まっていた視界が急に青く広く開けて、ざあっと押し寄せる波しぶきの音が鼓膜を震わせる。空高くで大きな翼を広げて旋回するトンビのぴーひょろろという鳴き声を聴きながら、ニニは両手を広げて吹き抜ける海風を全身で受け止める。
「海だぁあっ!」
鼻をくすぐる少し生臭い潮の香りと、すべての音を吸い込む広い大きな空間、決して鳴りやむことはない波音が心地いい。
ニニは砂浜の手前で靴と靴下を脱いで手に持ち、素足でさくさくと砂浜に踏み入れる。夏の盛りもとうに過ぎ、秋の入口が見え始める九月の砂浜は、それでもほんのり暖かく、踏みしめる足裏が気持ちいい。
砂浜をさくさくと進みつつ、念のためぐるりとあたりを見回してみる。江の島が見える方面から反対側は逗子に続く海岸線まで、やわらかな砂浜の上にニニ以外の人の気配はない。ようやく安心したニニは大きく伸びをして海の香りをめいっぱい吸い込み、大きく息を吐く。それから、大きな声で叫んでみた。声は波音と溶け合い、波打ち際の白い泡と一緒に消えていく。
「やっぱり、海、好きだなあ」
ニニにとって、自分の中に溜め込んだ気持ちや言葉や歌やいろいろなものをすべて吐き出せるのはここくらいしかない。海はいつでも、ニニの言葉や歌をとがめることなく、否定することもなく、静かにただ黙ってすべてを聞いてくれる。
幼い頃からマイカと二人、海辺でどんなに大声で歌っていても、歌声は波のざわめきとともに広い空に飲み込まれていくため、うるさいと大人たちに怒られずに済んだ。十五歳になった今もなお、何に遠慮することもなく思い切り心のままに海辺で歌うのが、ニニは何よりも好きだ。
青く広く、神秘的でどこまでも続く、謎めいていて優しい場所、それがニニの海だ。
ニニは砂浜をさらに歩き、やがて木製の大きなテーブルとベンチのもとにたどり着くと、トートバッグをテーブルの上に置く。いつかの夏に置き去りにされたらしいこのテーブルとベンチは、探索中の休憩用にとわざわざニニが学園に掛け合って残してもらったものだ。
ポケットに入れた携帯端末をテーブルの上に置いて、ニニはベンチに腰掛けた。マイカとの待ち合わせまで、あと十五分とちょっと。
ここが、ニニとマイカの秘密の待ち合わせ場所だった。
海面にきらきらと陽射しを反射させる海を眺めて、ニニは鼻歌を歌う。言葉を乗せず、空に抜けていくニニの声が紡ぐのは、マイカの歌、マザーに教わった昔の合唱歌、学校の授業中に聞いた外国の歌、そしてマイカと一緒に幼い頃に作った、二人だけの歌だ。
海の方へ向いてベンチに座り、背後のテーブルのふちに背中を預けてニニは歌いながらマイカの顔を、声を思い浮かべる。
マイカは、ニニと同じく親の顔を覚える間もないほど幼い頃から、国の政策に従って学園に預けられ育った。ニニがマイカに出会ったのは、マイカがこの学園に転入してきたちょうど五歳の頃だ。同い年の二人はいわば幼馴染でもあり家族同然で、ずっと一緒に育ってきた。
しかし、マイカとニニが十二歳を数える年の春、その透き通った、大人たち曰く「補声器を使っていない時代の人」のような声質を見出されたマイカは、歌手として一人東京へ旅立っていった。
それからというものの、ニニがマイカと会えるのは、数か月に一度マイカが訪れてくれる時と、モニターの画面越しにマイカの歌う姿を見ることが許される時だけになってしまった。
自分の身に降りかかる理不尽を飲み込むにはまだ幼かった当時のニニには、大人の事情などわからない。なぜマイカが東京に引っ越す必要があったのか、なぜマイカの住む東京を訪ねることが許されないのか。そして、なぜ子どもは、マイカの歌う姿を見るために大人の許しが必要なのか。
マイカと引き離されたばかりの頃の幼いニニは、何度も大人たちに問いかけた。そのたびに、いつも優しいマザーや何でも教えてくれる学園の教師たちすら、「決まりだから仕方ないんだよ」とすまなさそうにニニをなだめ、自分たちも寂しそうに笑うだけだった。
あれから三年経った今のニニには、マザーたちがあえて言葉にしなかった「大人の事情」も、何となくわかっている。なぜなら、ニニはマイカと別れたあとに学園の授業で「あの日」の存在を学び、知ったからだ。
マイカは補声器と声帯の相性が非常によく、かつて誰しもが補声器を使わず生きられた時代の人々のように歌声が美しいこと。そういった存在は非常にまれであること。そして、人類が直面している危機をよく理解しきれていない子どもたちが、歌手という声を使う「危険な仕事」に憧れないようにするため。大方、そのあたりが大人たちのいう「事情」なのだろう。
そんないろいろな日々の理不尽を挙げ始めればきりがないし、飲み込むたびに気持ちは鉛を詰めた袋のように暗く深く沈んでいく。
けれど、今この瞬間だけはそんなことなどどうでもよかった。
ただ、久々にマイカに会える喜びで、ニニの心はいっぱいに満たされていた。
ニニは先月の配信ライブでも聴いたマイカの得意な歌を口ずさむ。緩やかに流れる琴の音に合わせて紡がれる恋の歌には、遥か幾星霜も昔にこの国で残されたとされる、三十一音からなる言葉が使われていた。短歌と呼ばれるその歌について、ニニは国語の授業で歌として織られた言葉の意味を教わった。
ニニは目を閉じると、こみ上げる感情を覚えているメロディに乗せて、言葉を紡ぐ。
「あらざらむ、この世のほかの思い出に」
「今ひとたびの逢うこともがな」
波音とともに添えられた美しく澄んだ歌声に、ニニはハッとして目を見開いた。
「私もこの歌好きよ。久しぶりね、ニニギ」
振り返ると、いつの間にかベンチに腰掛けるニニのすぐそばに、マイカが立っていた。
微笑むマイカをじっと見つめて、ニニは立ち上がって思わずその細い身体に飛びつく。
「マイカ、おかえり!」
「ただいま、あはは、ニニギ重いってば。大きい犬みたいだよ」
全身で喜びを表現するニニに、マイカは笑いながらよしよしと頭を撫でてやり、自分もニニの背中に両腕を回す。
ニニはマイカの肩口に顔を埋めながら、抱きしめた身体全部から伝わる体温にうっとりと目を閉じる。画面越しに歌声を聞いても、紙の上の筆跡をたどっても、こんなにもマイカには近づけない。
「うっ、懐かしいマイカの匂いがする」
「なにそれ。あっそうだ、ニニギが送ってくれたハンドクリーム使ってるよ、薔薇の香りの。今日も出かける前に使ったんだ、ほら」
顔を上げたニニの前で、マイカの細い指が軽やかに遊ぶ。頬を撫でる海風は相変わらず潮の匂いを鼻先に運び、ニニはうーんと首をかしげて見せる。
「わかんない。海の匂いがきつすぎて」
「確かにそうかも」
そう言って、二人で笑う。薔薇の香りも楽しげな二人の笑い声もすべて飲み込んで、海は優しく波音を運び続ける。ニニが海に向いたベンチに腰掛けると、マイカも隣に並んだ。
久しぶりに会ったらたくさん話そうと用意した言葉など、一つも思い出せない。今はただ、隣にいられるだけでこれ以上はないほど幸せだった。
マイカは学園を出てしまったのでニニと揃いの制服ではなく、おっとりとしたマイカの雰囲気によく似合う、水色の大きな襟がついたセーラー服風の上品なワンピース姿だった。マイカの細い指先が長い黒髪を梳く仕草があまりに華麗で、思わず目を奪われるニニの鼻先に、かすかに薔薇が香る。
「ちょっと前にもらった手紙の通り、元気そうでよかった。マザーも変わりなく?」
「うん、元気。おかげさまでね、私は最近生徒会の草刈りも手伝うくらい元気だよ」
「そっか。私も体力づくりにジムに通わないといけなくて、でもそんなとこに行くより、みんなで朝から畑に出て農作業したり草刈りしたり、そういうほうがいいなあ。ああいうお花も、東京の路地には咲いてないの」
マイカの視線の先、ベンチのすぐそばの草むらで咲く昼顔が、風にそよいで薄い桃色の花を揺らしている。
マイカはニニと一緒に学園にいた頃、植物の世話するのが人一倍好きな食料自給活動チームの一員だった。
「今年は七月入ってすぐの陽射しがしっかりしてたから、マイカが造った畑でインゲン育てたんだ。すごくたくさん採れたんだよ」
「インゲンかあ、やっぱり天ぷら一択ね」
「なすとインゲンが採れた日に、えびもあったから天丼作った。豪華でしょ」
畑のこと、学園の様子、日々折々の話を二人で交わしながら、傾いていく夕陽の下で少しずつ橙色に染まる海を眺める。
「マイカは最近どう?」
「うーん、授業もリモートだし、歌のレッスンも相変わらずだし、代り映えしないかも」
「何か美味しいもの食べたりしないの?」
「引っ越してすぐはね、物珍しくてマネージャーさんに連れて行ってもらったり、買ってきてもらったりしてた。でも、一人で食べても味気ないなあって気づいちゃったから、最近はあんまり。ねえ、私のつまんない話よりさ、せっかくだから歌わない?」
マイカはそう言って、テーブルに置いていたバッグからノートを取り出す。それを見て、ニニも思い出したように自分のトートバッグを覗き込んだ。
ニニの手に乗せられた透明の袋にラッピングされたお菓子の袋を見て、マイカが嬉しそうな声を上げる。
「これ今日のおやつ。生徒会メンバーが作ったラスクと、ウズメにさっきもらったクッキーなんだ。一緒に食べようと思って持ってきたの」
そう言って、ニニが今度は出かける前に寄った食堂で借りてきた白い陶器の皿をトートバッグから引っ張り出したのを見て、マイカが口元に手を当ててなにやら笑いをこらえる仕草をする。
「え、なに?」
白い皿にクッキーとラスクを開けるニニを見て、マイカはついに声を上げて笑いだす。
「ニニギ、ごめんおかしくて、ふふ、この夏で一番笑ったかも。だって、お皿。紙でいいじゃんっていつも言ってるニニが今日はお皿なんて持ってくるんだもん。しかも紙皿じゃなくてこれ、普通の食器じゃない?」
「私がおおざっぱだって言いたいんでしょ」
「だって、ニニギっぽくなくておかしかったの。あ、ラスク美味しいね」
スティックラスクを片手に笑いすぎて涙を指で拭うマイカの期待に応えるべく、ニニはいつもバッグに入れている巾着の中のチョコ片も皿に並べた。
「はい、いつものやつ」
「あはは、そうそう、ニニギと言えばこれでしょ」
マイカはなおも笑いながら白い紙に包まれたチョコをつまんでそっと紙を開き、チョコを頬張る。ニニはラスクをつまんでぽりぽりとかじりながら、マイカが木製テーブルの上に広げたノートを覗き込んだ。
「今度の新曲ね、初めてコーラスと造語だけで構成したの。造語だから、どこの国の人が聞いても世界観を掴めるかなって。なんで同じ人間なのにこの世界は言葉がバラバラなんだろう、同じ言葉だったらよかったのになって、時たま思っちゃう」
マイカが指し示す五線譜には、メロディラインと造語の歌詞がアルファベットで記されている。讃美歌を思わせるような、ゆったりと伸びやかな、マイカの歌声にぴったりの構成だ。
「みんなが幸せに暮らせますようにって思いながら作ってみたの。ね、簡単だから二人で歌ってみない?」
「うん、歌いたい!」
「じゃあ、私が先に通しで歌うから、ニニも聞いて、覚えたら一緒に合わせて歌ってみて」
マイカはベンチからすっと立ち上がると、海の方へ向き直り大きく息を吸う。腰あたりまで伸ばされたマイカの艶やかな黒い髪が、海風とともにさらりと揺れる。
そしてその唇から紡がれる音に、ニニはうっとりと目を細めた。
架空の言葉を織りなす透き通ったマイカの柔らかな声は、波打ち際のざわめきをもかき消して空へのぼっていく。月のない夜闇に燃える焚火のような、深い森の奥でひっそりと咲く白い花のような、美しくも凛として力強い声に、ニニは自分の心が熱く沸いて震えるのを感じる。
ゆるやかに伸びてひるがえり、繰り返される旋律をすぐに覚えて、ニニも自分の声をマイカの歌声のそばに寄せる。
そこからは、二人で声を重ねて太陽が沈んでいく橙色の空の向こうまで音を届けるつもりで歌い続けた。
ニニが歌い始めてから五回目になる音の旅をめぐり終えたその最後の音で、どちらからともなく示し合わせたように歌い終えて顔を見合わせる。重なり合った声の残響はやがて波音にさらわれ、二人だけの空間はまたいつも通りの砂浜へと戻っていく。
「未発表新曲ゲリラライブ、だね」
ニニの言葉にマイカは笑ってピースサインをする。気づけば目じりを濡らす涙に慌ててニニは手の甲で拭って、ごまかすようにマイカへお菓子の盛られた皿を差し出す。
「一緒に歌ってくれて、ありがと」
「ニニギも、私のためだけに歌ってくれてありがとう」
久しぶりに思いきり声を出して一緒に歌えたことに心の底から満たされた二人は、ベンチに並んで腰掛けてウズメのチョコチップクッキーをさくりと頬張った。ざっくりした食感のクッキーは口の中でほろりと崩れ、チョコチップの甘さとバターの香りが広がる。きなこが香る生徒会お手製のスティックラスクとはまた違う甘味も気に入ったらしく、マイカは嬉しそうに二枚目に手を伸ばす。
「美味しい! ウズメは食べるとほっとするお菓子作りの天才ね。きっとウズメが淹れてくれるお茶があったらもっと美味しいんだろうなあ。あ、そうだニニギ、いいこと思いついたかも」
「なに?」
「今歌った曲、クッキーのお礼代わりにあとでウズメに歌って聞かせてあげるの、どう?」
まばたきをするマイカの瞳の中で、夕陽色の光がぱちりときらめく。
嬉しそうに笑うマイカになんと伝えればいいのか一瞬迷って、ニニは思わず言葉を濁した。
「それすごくいいと思う、思うんだけど、実は……」
ざざ、と寄せる波音を聞きながら、言葉を切ってうつむいたニニの顔をマイカが不安そうに見つめる。
「それが、この前……夏前にマイカが来てくれたあと、ウズメの補声器の調子が悪くなって」
ぽつりとこぼされたニニの言葉に、マイカは驚いて少し目を見開いてから表情を曇らせる。
「そのときは数日で良くなったんだけどね、また昨日から具合悪いみたいで……今日も野外調査活動はお休みだったんだ」
歌うことを職業に選んだマイカもまた、補声器がこの世界では自分の命綱であり、どれほど大切なものかを知っている。それゆえか、夕陽の橙色に横顔を照らされながら不安そうな顔をみせるマイカの前で、ニニは明るく笑って見せる。
「でも、たぶん大丈夫! チユキが言うには、今日お医者さんと補声器メンテの人に朝から診てもらったみたい。クッキーは今日の野外調査活動に出られないお詫びにってウズメが作ってくれたんだけど、『新しい補声器がなじむまで部屋で一人で安静にしてなきゃいけないのは退屈』って手紙も入ってた。ウズメはいつも通り元気そうだよ」
「そう……」
目を伏せてそう答えて、マイカは潮風になびく長い髪を手で押さえながら、ゆっくりと顔を上げてうなずいた。ニニも黙って、うなずき返す。
こんなにも不安定な世界に生きていることに、時折不安で押しつぶされそうになる。
けれど、鳴り止まない波音と同じように刻々とめぐりくる日々を生き延びるためには、無理にでも前を向かなければいけないこともわかっている。
「ウズメにクッキーのお礼の手紙書くわね」
「うん、きっと喜ぶよ。私も今日から毎日ウズメに手紙書こうって思ってる」
二人の心に重くのしかかる不安を振り払うように、ニニは努めて明るくマイカに笑いかける。
ニニはラスクからこぼれ落ちた皿の上のきなこを指で集め寄せて、クッキーの入っていた袋にさらさらと滑らせて皿をバッグに片付けると、手元に携帯端末を取り出す。マイカと合流してから、そろそろ一時間が経とうとしていた。
「そういえばさ、今日マネージャーさんは? 姿が見えないけど」
歌手として顔と名前を出して活動しているマイカのそばにはいつも、茶色い髪をハーフアップにまとめてサングラスにスーツという装いの、背が高い女性マネージャーがいた。ニニは言葉を交わしたことはないが、マイカが東京から学園を訪れるときは送迎も担当しており、いつもマイカを車に乗せて一緒にやってくる。
「先に車で学園に行ってもらっているの。私が、海から学園まで街を歩きたいって言ったから。だって、東京でもどこでも、移動中はいつも車の中でしょ。今日くらいは風の匂いとか季節の色とか、好きなだけ楽しみたいって思ってるの」
「あ、じゃあさ、ちょっと寄り道してかない?」
いたずらっぽく笑うニニを見上げてきょとんとしたマイカが、すぐににやりと笑ってこくりと首を縦に振った。マイカの楽しそうな顔を見ただけで、幼い頃に二人して浜辺沿いのありとあらゆるところを探検した頃の気持ちがニニの中によみがえってくる。いつだって楽しいことは全部マイカと一緒だったし、ニニにとってそれは今も変わらない。
久しぶりにどきどきと高鳴る鼓動に心がはずむ自分がいることを感じながら、ニニはマイカに手を差し出した。
「行きたい! 連れてって」
「よし、じゃあ今から行こ! きっとびっくりするよ」
秋の気配をにじませる夕陽は、あっという間に落ちていく。ニニがバッグを持って駆け出すと、マイカもニニを追いかけて並んで走り出す。
波音に時折二人の楽しそうな鼻歌を織り交ぜながら、海は少しずつ橙色から濃紺へと染まっていく。




