第三話 少女たちの十七条地図
体力的にも精神的にも疲れ果てたニニを寮で出迎えてくれたのは、ドアノブにかかっていた白い小さな紙袋だった。部屋に入るなり、ニニは片手に持っていた野外調査用端末やマスクが入ったトートバッグをベッドの上に放り投げかけ、危うくすんでのところで思いとどまる。
「やば、チユキにまた怒られるやつ」
ベッドのそばにそっとバッグを置き、すぐさま端末だけ引き抜いて机の上に乗せると、いそいそと白い紙袋を覗き込む。
「うわ、ウズメだ。別にそんな気遣ってくれなくていいのに」
中には透明な袋と赤いリボンで華やかにラッピングされたチョコチップクッキーと、白い封筒が入っている。そういえばチョコをまとめ買いしたとき、ウズメも一緒にチョコを仕入れていたことを思い出す。片やきちんとお菓子に変身を遂げ、片や適当に割られて白い紙に包まれて持ち歩かれるその落差がおかしくて、ニニは一人笑いながら封筒の中の手紙を取り出す。
便せんを開くと丸く可愛らしい文字が並び、お香が焚き染められているのかウズメがよく口にしているキャンディーによく似た梅の甘い香りが鼻先をくすぐる。
〈ニニギへ。今日は本当にごめんなさい。ナユタ先輩が代わりに入ってくれたとマザーから聞きました。先輩には私からもお手紙でお礼しておくね。安静にしているだけだと落ち着かなくて、マザーに校舎の調理室を借りてクッキー作ったよ。よかったら食べてね。新しい補声器が喉になじむまで当分の間は部屋で過ごすことになってしまったので、野外調査活動もお休みします。次に会えるのは少し先になってしまいそう。迷惑ばっかりかけてごめんね。よかったら、手紙ください。退屈なので(笑) ウズメ〉
「迷惑なんて思わないよ、だってウズメは悪くない。悪いのは『あの日』を引き起こした『何か』だから……」
ニニは悲しそうに顔をしかめ、自分の喉元を指先で撫でた。触れた皮膚の下には、声帯を覆うように埋め込まれたチップ状の機械が発声を担っている。
補声器、それは数多の犠牲の末に「なぜかはわからないが、発声さえしなければ死の危険はないこと」を見つけ出した人類が、「あの日」以来命を守りながら発声するために選んだ手段だ。補声器と声帯の連動に不具合が起きれば、あの日記の中に綴られた過去の犠牲者たちと同じようにあっけなく命は失われてしまう。そしてその理由は未だに謎に包まれている。
人類にとって二十年ほど前に手に入れたばかりのこの新しい声は、「あの日」より後に生まれたニニにとっては当たり前のものだった。事実、大人たち誰しもが羨む歌声を持つマイカに出会う五歳頃までは、自分の声に違和感を持つことなどなかった。
そう考えると、「あの日」よりも昔の世界を知っている大人たちやマザーはきっと、声を出すたびに昔には戻れないことを思い知らされているのかもしれない。それほどまでに、新しい声は本来のヒトの声とはかけ離れた電子音混じりの音をしていた。
「まあね、それを原因探って何とかしてやろうってね、私はそのために生きるって決めてるから。待っててね、ウズメ」
便せんを封筒に戻して机に置き、気持ちを込めるように片手で上から押さえて話しかけると、ニニは卓上の時計をちらりと見て部屋を出る。
階段を下りて一階の食堂に近づくにつれ、学生たちのざわめきと空腹を誘うコンソメの香りがあたりに漂い始める。今日の昼食は大好物のスープにありつけるかもしれない、そう期待しながらニニが食堂を覗くと、すでに十二時を回ったこともあって賑やかな学生たちの姿であふれていた。外にテラス席も備えた食堂は教室や自室に比べて窓も大きく、木目の床にオフホワイトの壁がよく映える。
「今日の当番、誰?」
「はあい、ニニギお疲れ! 今日の食事当番は私たち生徒会でーす」
「あ、じゃあ生徒会長のお手製スープあるってこと?」
「あるある」
厨房に声をかけたニニに向けて、顔なじみの生徒会の面々が手を振る。食堂を見渡せば四人掛けの丸テーブルはどこも制服姿の先客で埋まり、そこかしこから楽しげな話し声が聞こえてくる。
毎週土曜日の午後は、授業も「仕事」もなく、自由時間になっている。そのため、午後の授業に備えて決められた時間内で食事をする必要が無い土曜の昼は、食後もそのまま食堂でゆっくりとお茶を飲んで、友達と他愛ないおしゃべりをしながら三時頃にささやかなおやつをいただくのが、この学園で暮らす学生たちの数少ない楽しみの一つになっている。
しかし今日のニニには、マイカとの待ち合わせまでにさっさと午前中のレポートをやっつけて、出かける準備をする、という大切な使命がある。
昼食を自分の部屋に持ち帰ることを決めたニニは、入口にある白いトレーを一つ取り、配膳台へと向かった。配膳台の大皿には耳がきれいに落とされた食パンで作られた三角形のサンドイッチが並んでいる。そのすぐ横で、エプロンにマスク、両手に銀色に光るトングを持った経理係の少女がニニを待ち構えていた。少女は栗毛色のくるくるした癖毛のツインテールを揺らしながら、ニニを見つけてぴょんと小さく跳ねて手を振っている。
「ニニギ、今帰り?」
「やっほ、ミチル、朝からお疲れさま。今日はサンドイッチかー、いいね」
「ニニギも朝からお疲れーだよ。たまご、メンチカツ、ポテトサラダ、ハム野菜の四種類の中から好きなの三つまでと、会長お手製のミネストローネスープだよ」
「朝から野外調査で走り回っておなかぺっこぺこなんだ。メンチとたまご、ポテトで。あ、でも私ちょっと出遅れたから、もう無かったらなんでもいいよ」
配膳台に並べられたサンドイッチの皿を見ながら、ニニが持っていたトレーをミチルに差し出す。
「オッケー。たぶんそうだろうと思って、朝から体力仕事した野外調査活動チーム分は特別に、全種類確保してあるんだ」
「さすが生徒会。仕事ができる」
「ツカサ会長発案のサービスだよ。今後ともごひいきに~また草刈り手伝って」
「あはは、いいよ。今日ナユタ先輩に『未開の原生林』って言われたけど」
「そんなこと言うならナユタ先輩も草刈り手伝って欲しいです~。お願いしてもいっつも逃げられるってツカサ会長も言ってるし」
注文通りのサンドイッチが三つ並んだ皿をトレーで受け取り、ニニは一歩進んで隣に置かれたスープ入りの大きな鍋を覗き込む。おたまで深い底までくるりとかき混ぜれば、先ほど廊下にも漂っていたコンソメとベーコンの匂いが鼻先をくすぐり、ニニの腹の虫がぐるると鳴る。
「ニニギ、ツカサ会長のスープ好きだねえ」
「夏でも冬でも毎日飲みたい。これ、スープカップじゃなくて今日はもうちょっと底が安定した形のマグでもらっていいかな?」
「いいよ、ちょっと待ってて」
ニニのリクエストを受けて一度厨房に戻ったミチルの代わりに、両手に大きめのマグカップを持った生徒会長、ツカサがやってくる。厨房に引きこもっていたツカサが姿を現すやいなや、ニニの背後から少女たちの小さなざわめきが聞こえだす。
チユキよりもさらに背が高く、明るめの茶色い髪をショートカットにしたボーイッシュな姿とその物腰も相まって、女子生徒しかいないこの学園では「かっこいい先輩」として不動の人気を誇るのは言うまでもない。そんなツカサだが、誰よりも料理が上手く、生徒会が食事当番の日は一番食堂が賑わう。
「会長、今日もスープごちそうになります」
「ニニくん、この前は草刈りありがとう。また助力願えるとありがたい。お礼と賄賂、というわけではないが、これを」
そう言ってツカサは、湯気の立つ白いマグカップ二個をニニのトレーに置いた。キャベツ、じゃがいも、ニンジンにたまねぎ、ベーコンが贅沢に顔を覗かせるとろりとした赤い海に、ニニがうっとりする。
「やったー! スープ二倍だ~ありがたく賄賂いただきます。ミネストローネって、秋の夕焼けを映した海にそっくりで、昔から好きなんですよね」
「それは素敵だね。今度私も夕暮れ時に海に行ってみようかな。これからもよろしく頼む」
ツカサは穏やかに微笑んで、また忙しそうに厨房へ戻っていった。
「ニニギは海好きだよね。昨日も海行ってたんでしょ」
「ああー、うん、まあ、そんなところ」
どこか気まずそうに言葉を濁すニニの様子など気にも留めず、ミチルはマグカップの横に、こんがりきつね色に揚がったスティックラスクを乗せた皿を追加する。サンドイッチなどパンメニューの日は、こうしてパンの耳を揚げてきなこと砂糖をまぶした自家製ラスクがおやつとして登場する。さくっと軽い触感ときなこの香りがお茶うけにぴったりで、学園でも人気のおやつメニューだ。
「スープをマグにするってことは、部屋で『仕事』のレポートまとめながら食べるんでしょ。だから、後で皆に出すこのおやつも一緒に持って行って」
「ミチルありがとう~」
「いいのいいの。ところでお昼急いでるってことは午後出かけるの?」
「あー、今日はちょっと」
ミチルの問いかけに何と答えようかニニが思案していると、二人の真横から白い人影が突然ぬっと割り込んでくる。
「ニニギちゃんはねえ、デートなんだって」
聞き覚えのある声と鼻をつく火薬の匂いに、ニニがうんざりした表情を浮かべる。白衣を揺らしながらやってきたナユタは、身体を寄せてニニにわざとらしく笑いかけて見せた。
「ね、デートなんだよね。ところで海がなんだって? あたしにも聞かせてよ。ひひ」
「えっニニギ、デートなの? 誰と?」
「ほら、あの、とりあえず今日は急いでるからまた今度!」
面倒くさいことになりそうなこの場からは逃げるが勝ちと判断したニニは、トレーを持ったまますっと一歩引くと、二人に背中を向けてそそくさと食堂を後にする。
「えーん、ニニギ今度絶対に教えてよお」
ミチルの声を背後に聞きながら、ニニは振り返ることなく片手を振ってみせる。好物のスープにサンドイッチを食べ終われば、今日は午後の授業は無いしマイカにも会える。文句なしの最高の週末だ。
ニニは早々にレポートを片付ける決心を固めると、サンドイッチとスープを乗せた白いトレーを手に、上機嫌で部屋へと戻っていった。
***
ニニがそそくさと廊下の向こうへ消えていったあとも、名残惜しそうに見送るミチルの姿に、食堂の奥の丸テーブルに陣取っていたチユキは笑いながら声をかけた。
「ミチル、ニニギの待ち合わせ相手はマイカだよ、マイカ」
「なんだマイカか~。いつものデートだね」
「そういうこと」
そこへ騒ぎを聞きつけて、ツカサが再び厨房から顔を出した。
「ミチルくん、ナユタが来たって? あ、ナユタ」
「げ。ツカサ」
「げ、ではない。ニニくんに聞いたよ、今度はナユタも我々生徒会の草刈りを手伝うこと。これは生徒会長命令だからね」
「うーん、いやあ、それはねえ」
ツカサの登場で急に落ち着きを失ったナユタはごまかし笑いをこぼし、先ほどのニニのように空のトレーを持ったまますっと一歩後ずさると、そのまま一目散に食堂の奥に座るチユキの元へと逃げてくる。
「ちょっとナユタ先輩、サンドイッチ何にするんですかあ」
「ハム野菜二つ。無かったら作って」
「もぉ、スープも一緒にちゃんと取りに来てくださいね」
「あいあい」
生返事をしながらミチルに手を振って、ツカサから逃げおおせてきたナユタはどっかりとチユキの前の席に腰かけた。メンチカツとハム野菜のサンドイッチが乗った皿を少し横によけて、チユキはナユタのトレーが置けるスペースを作ってやる。ツカサとニニやナユタのやり取りに聞き耳を立てて静まり返っていた食堂にも、また元通りのざわめきが戻ってきた。
「あたしツカサだけはどーも苦手なんだよね。いっつも嫌なこと押し付けてきて、技術保全の予算を平気で人質にとる。ツカサにきゃあきゃあ言ってるやつらの気持ちがわからん」
「ナユタみたいな変人に付き合いきれるの、私とツカサ会長くらいなんだから、たまにはお礼代わりに働いてきたら?」
「草刈りは無理ィ」
テーブルにつっぷしたまま、ナユタがふるふると首を横に振る。ナユタが身体を使うことを何よりも嫌っていることを知っているからこそ、今朝急にウズメの代打を打診したときナユタが快諾したことは、チユキにとっても予想外だった。
「でも体力仕事、午前中やってくれたでしょ。お疲れさま、助かっちゃった。同じチームリーダー同士のよしみとはいえさ」
「あ」
チユキの言葉に何かを思い出したのか、ナユタが突然がばりと顔を上げ、にやりと笑みを浮かべる。
「ところであれ、相当やんちゃだね」
「え? あれ? あー、ニニギのこと?」
「そ。リーダーすんのも大変でしょ。世話係、お疲れさま」
「まあ、やんちゃなような、そうでもないような……。なに、なにかあった?」
「べっつにぃ」
「何それ、もったいぶってないで教えてよ」
「いつかね。ひひ」
ナユタはそう言って意味ありげに笑うと、再びトレーを片手に立ち上がる。配膳台から自分を呼ぶミチルの元へ白衣の裾を躍らせながら歩いて行くナユタを見送って、チユキはかすかな火薬の残り香にやれやれとため息をついた。
先輩後輩の間柄を超え、同じチームリーダーとしてチユキはナユタと過ごす時間が多い。とはいえ、そんなチユキでもナユタが何を考えているのか、未だによく理解しきれないこともある。
「気になるけど、私が一人であれこれ考えても仕方ないかぁ」
ミネストローネスープのカップに銀のスプーンを入れ、くるりとかき混ぜると、ベーコンとコンソメの香りを乗せた湯気が立ちのぼる。赤い海に沈む野菜をすくって口の中に広がるとろけた野菜の甘みを味わいながら、チユキはナユタが席に戻ってくるまでつかの間の休息を堪能するのだった。




