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第二話 世界が一つ、落ちる音彼方

 翌朝、いつも通りセーラー服に着替えたニニが、端末を入れたバッグ一つを提げて玄関に向かうと、前庭にはすでにリーダーであるチユキの姿があった。ぴゅろろろというトンビの鳴き声に誘われて見上げる青空には、夏の名残を思わせる白く柔らかな雲が浮かび、野外調査で市街地を歩き回るには絶好の晴天だ。

「五分前行動、えらいなニニギ。さっき食堂でもらったレポートも問題なかったよ。ありがとう」

「本当に朝まで時間をもらってごめん!」

「ニニギってレポートの内容自体はしっかりしてるからさ、もう昨日の分は全部報告上げてきた」

「今日はお昼ごはん後にすぐ出すよ。ところで……ウズメは?」

 ニニはチユキの背後に無言で立つ人影を気にしつつも、あたりを見回す。通常、野外調査は必ず三人一組で行うことになっている。チームメンバーはリーダーのチユキとニニ、そしてもう一人がウズメだ。

 しかし今朝は、ウズメではなく珍しい人物がチユキのかたわらに立っていた。

「あぁ、ウズメは、昨日の夜からここが調子悪いみたいで、大事をとって今日はお休みって。朝食前にマザーから連絡あった」

 チユキが自分の喉元を片手で叩いて見せる。その仕草にウズメの身に何が起きたかを察して、ニニが顔を曇らせた。

「ウズメ、大丈夫かな。今年の夏前も『寝てる間に声帯と補声器(ほせいき)の連携が切れてた』って言って、入院してたよね」

「心配しないで。午後に補声器の定期メンテの人がウズメの担当医と一緒に来るらしいから」

「うん……」

 震える声でうつむくニニの背を叩いて、チユキは何かが記された紙を一枚ニニに手渡す。「行動計画表」と書かれたその紙には、学園の近くの鎌倉市内の地図と、今日の大まかな探索タイムスケジュールが記されている。

「ニニギ。私たちは、私たちの出来ることをしよう。それが最終的にはウズメの助けになるかもしれないでしょ」

 チユキの言葉に唇を噛みしめ、ニニは顔を上げるとチユキに視線を返して大きくうなずいた。

「よし、いい顔だ。で、学園の規則では本来は二人以下で野外調査を行うことは禁じられている。けれど今日調査する区域は昨日の続きでもあるから、どうしても今日中に終わらせてしまいたいわけ。そこで今日は急遽、助っ人を頼んでてね。ナユタ」

 チユキの声掛けを受けて、その背後に立っていた少女がぬっと顔をのぞかせ、ニニの前へ進み出た。

 少女はニニと同じくらいの背の高さで、なぜかセーラー服の上からゆったりとした白衣を羽織っている。長い黒髪からのぞく顔色は青白く、大きな黒い瞳はニニをじっと見つめている。

 学園と言っても総勢で三十名ほどの女子学生しか在籍していないここでは、その白衣姿が日頃から目立たないはずがない。ニニからすれば所属チームが違う上に学年も一つ上の疎遠な存在とはいえ、時折チユキと会話している姿を遠目で見かけることもあり、見知った先輩でもあった。

「ナユタは技術保全活動チームのリーダーだから、普段は野外活動じゃなくて学校のほうの研究棟にこもってる変人なんだけど、今日は散歩がてら手伝ってくれるっていうから、お願いしちゃった」

 青白い顔をしたナユタはチユキの紹介など気にも留めずにニニの前へ進み出ると、腕を組んでニニをじっとりと見つめ、さらにもう一歩近づいてくる。

「長い」

「へあっ? あの、お、おはようございます」

「君たち、いっつもこう? もう五分ロスした。時間の無駄。あたしはナユタ。ま、知ってるよね。よろしく。さっさと行こ」

 ナユタと名乗った少女は、腰まで伸ばした長い髪を無造作に結い上げ、白衣のポケットから取り出した大きなバレッタで止めると、チユキが持っていたもう一枚の行動計画表をそそくさと受け取って自分の端末を開く。

 普段とまったく違う業務を行うというのにそばにいるチユキに聞くでもなく、端末の画面上で指先を軽やかに躍らせて調査に必要な情報をニニの目の前で打ち込んでいくナユタは、羽織っている白衣の効果も相まっていっぱしの研究者に見えた。

 ニニが、色白というよりむしろ顔色が悪いと言っても過言ではないほどに青白い顔をしているナユタの様子をこっそり見つめていると、ニニの視線に気づいたナユタが、突然がばりと顔を上げる。そのままナユタは慌てふためくニニのすぐそばへ音もなくにじり寄ると、大きな目を見開いて真正面からニニを見つめ返した。

 かすかに火薬が燃えたあとのような匂いがするのは、ナユタの羽織っている白衣からなのだろうか。何を考えているのかわからない無表情と、そのくせ何もかも見透かしているようなまっすぐで強い視線に射抜かれて、ニニが思わず半歩後ずさる。

「ナユタ、そこらでやめておきなって。ニニギが怯えてるから」

「お、お? おお、怯えてないです」

 ナユタは背後で腹を抱えて笑うチユキを振り返ると舌を出して見せてから、再びニニに向き合って目を細めた。なぜかニニの背筋を、冷たくぞわりとした感覚が這い上がる。心底楽しそうな、しかしどこか不気味な笑みをうっすらと浮かべて、ナユタは声を潜めた。

「未知は怖い? 怖いよね」

「えっ」

「だからやってるんだよね。コレを」

 そう言ってナユタは、手元の野外調査用端末の裏側をこんこんと指で弾いて見せた。ナユタの端末画面には、今日の野外調査でピックアップが期待される古書の名前が並んだリストが表示されている。

「これが私の仕事ですから」

「あたし知ってるよ。君が無断で、野外調査活動の時間外も夜まで街中をこそこそ歩き回ってんの。君、この世界の真実を探してるんでしょ」

 ナユタの言葉にニニは思わず一瞬目を見開いて、それから自分たちより離れたところに立つチユキに視線を投げる。チユキには二人のやり取りは聞こえていないらしく、自分の端末にデータを入力する作業に没頭していた。

「行こ」

 最後ににやりと笑ってニニから身体を離し、ナユタはチユキの元に駆け寄っていった。

 夏の気配を残す九月のまぶしい陽射しの下にいるというのに、ニニの手足はひんやりと冷たくなっていた。首筋を伝う汗を拭った手で胸元を押さえると、走ってもいないのに浅く早い拍動が手のひらに触れる。

 周りの音が遠くなり、すっと血の気が引いていく感覚にニニが立ち尽くしていると、遠くからチユキが呼ぶ声が聞こえてきた。

「ほら、行くよニニギ!」

 前庭の花壇横を抜けてすでに門の前にいるチユキが、振り返って手招きをしている。ニニはこくりとうなずいて大きく手を振ると、心の奥底からじわりと染み出す不安を振り払うようにゆっくりと駆け出した。

 ニニがいる全寮制の学園こと、国立神奈川県東部学園第十八支部は、成人するまでの子どもたちの教育機関であるだけではない。そもそも今の日本に存在する学校はすべて、国の復興事業や教育の補助を、学生が教師とともに「仕事」として請け負っている国の出先機関でもある。そのため、すべての学生たちは必ず、何らかの活動に従事していた。「野外調査活動」、「技術保全活動」の他、「生徒会活動」、自分たちの食べ物を畑で作る食べ物係こと「食料自給活動」、手先の器用な者がみんなの裁縫や洗濯を一手に引き受ける「衣料管理活動」、学生寮や校舎と家具の保守点検や修繕を得意とする「施設保全活動」など、その種類はそれぞれの学園支部が必要とする内容の数だけあった。

 例えば小さな子どもが多い地域では、保育園のような「幼少保育活動」がある学園支部も存在する。その中でも特に、「野外調査活動」、「技術保全活動」の二つは、国の復興事業にとっても重要な活動内容を担っている。

 未成年にも国家事業を割り振る現状が教育上いびつであることは、これまで何度も国会で議論の俎上に載せられてきた。

 しかし、そうでもせねば国民の生活が何も立ち行かなくなるほどにこの日本は、いや日本だけではなく世界中の国々は、二十三年前の「あの日」のダメージから立ち直りきっていなかった。

「簡単に言うと、私たちのやってる野外調査活動ってやつは、家主がいなくなって持ち主が国になった家から、電子書籍化やデータベース化される前の古い本、特に専門書を探して集める、まあお宝探しみたいなものかな。中等部にならないと入れないっていう規則があるのも、この野外調査活動チームだけだよ」

「おええ、めんどくさぁ」

「そんなことないですよ。探検みたいで面白いですから! それに、私たちの仕事よりも、壊れた機械を直したり、外で回収した機械の起動方法とか仕組みを探ったりするナユタ先輩の技術保全のお仕事の方が大変そうです」

「探検て。十五歳女子のセリフか? ナユタのあれはシュミだよシュミ。ね、ナユタ」

「どうだろうね、ひひ。あ、でも食堂に置いたネット繋がる学生用パソコン、余ったジャンクパーツで組み立て直したのはシュミだね」

「えっ、あれナユタ先輩のおかげだったんですか? いつもマイカのライブ配信見るとき、お借りしてます」

「そ。よかったね。これからは技術保全活動チームを敬うといいよ」

「敬うどころか神ですよ!」

「ニニギ、マイカのライブのために生きてるもんね」

「いつかあのパソコンを設置してくれた人にお礼を言いたいと思ってたんです。あの、お礼にもならないですけど、ナユタ先輩よかったらこれどうぞ」

 ニニがバッグを探って、小さな布製の巾着を取り出した。中からニニの手のひらの上に転がり出てきた物は切手ほどの大きさで薄く、白い紙片に包まれていた。巾着からは心なしか、ふわりと甘い香りが漂ってくる。

「チョコです。先週久々に板チョコがたくさん手に入って、あの、自分用に割ってきれいな紙に包んであるだけなんですけど、それでもよければ」

「上出来。もらう。甘味は貴重品だからね、何でも大歓迎だよ」

「えーニニギ、私にも一個ちょうだい。昨日のレポート朝まで待ってあげたぶん」

「もちろん」

 学園のある小高い山から市街地へとなだらかに下っていく坂を、海からの涼やかな風が吹き抜ける。制服のプリーツスカートを揺らしながら三人並んで楽しげに歩く少女たちの口からこぼれてくる会話には、他愛ない日々の出来事と、すでに日常となり果てた壊れた世界の姿が、当たり前のように糾われていた。

 道なりに並ぶ白いガードレールはところどころ緑色に苔むしていて、時折すぐそばの藪から人の気配に驚いた小鳥が羽ばたく音が聞こえてくる。足元のアスファルトの上には、先週台風がやってきた時に山肌から少し崩れ落ちてきたらしい土砂や大きめの石が、今もそのまま残っている場所もあった。

「ここは相変わらず、未開の原生林だねえ」

「ナユタはめったに学園の外に出ないからそう言うけどさあ。これでも先週、生徒会のみんなと、先生たちと一緒に道周りの草刈りとかしたんだから」

 人の住む土地ではなく、かつて人が住んでいた土地、と言った方が相応しく思えるほど緑の濃い坂道を抜けると、ようやく目の前に旧鎌倉駅へと続く大通りが見えてくる。とはいえ、昼間でもやはり人影はなく、もちろん通る車も無いため、大通りだというのに信号は通電していない。かつてはたくさんの観光客を出迎えたであろう御影石の白い通りだけが、まぶしい陽射しの下できらめいていた。

「久々に街来たな。ま、誰もいないけど」

「はい、ここらで一旦止まって。今日は大通りから続く市街地の中までは行かないよ。今私たちが立ってるこの場所を中心点にして、山に沿って左右に分かれてるこの道沿いに残ってる民家と、お寺の類が今日の調査区域なんだ」

 立ち止まった三人の周りには、しっかりとした塀や立派な門を構えた大きな民家が立ち並んでいる。庭がある邸宅も多く、まだ家主がきちんと管理しているらしい庭先からは、金柑の白い花がかすかに香ってくる。

 もっと遠出をすると思っていたらしいナユタは、ぐるりとあたりを見渡してから端末の地図と見比べ、ふーんとうなずく。

「君たちが毎日あちこちをちょろちょろしてる割に、意外とこんな近場も手付かずだったの」

「このあたりは駅と市街地中心部から離れている山あいだから、家主に放棄されてそのまま老朽化した建物が多いんだ。だから倒壊の危険性があるっていう理由で、安全性の審査に時間がかかったってわけ」

「へぇ、家探しも大変だね」

「ナユタ言い方~。ちゃんと国から依頼された『仕事』だし。不法侵入とかじゃないって」

 チユキの話を聞きながら、ニニもまた端末で昨日の調査画面を開く。昨日の探索でニニが発見できた古書は料理の本と写真入りの風土紀くらいだった。

 せめてもっと冊数を集めるか、出来うることならレポートを受け取った研究機関の大人たちが喜んでくれそうな、現状のロストテクノロジーを覆す古い専門書を見つけられたらそれが一番いい。

 しかし「あの日」以前もすでに電子書籍が広く普及していたためか、どこの家屋でも見つかるのは、データベースにすでに格納されている小説や漫画本が多かった。

「他に聞いとくことある? もう行っていい?」

 早く探索に出向きたいのか焦れた声のナユタに急かされ、チユキが行動計画表と端末に視線を落とす。

「待ってね、まず、中に立ち入る許可が出てる調査対象の家屋は、端末に送ったデータをしっかり確認して欲しい。あと、集合場所は今私たちがいるこの場所ね。見晴らしいいから。この地点を中心に半径二百五十メートルはリーダーの私が担当する。あとはニニギとナユタで両サイド分けてもらう感じ」

「どっちでもいいよぉ。早く」

「タイムスケジュールはさっき配った紙の通りで、終了予定時刻は十一時四十五分。以上!」

「ほい、じゃまたね」

 ナユタはそう言って端末を両手で抱え白衣の裾をひるがえし、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら早々に路地の向こうへと消えていった。

「ナユタ先輩、すごいやる気に溢れてる……」

「いや、あれはどう見ても物珍しさからくる好奇心で動いてるだけでしょ。じゃあ私たちも行こうか、ニニギ。昨日の続きだし、ささっと片付けちゃおう。気を付けてね、グッドラック」

「チユキもね。また後で。グッドラック!」

 チームお決まりの掛け合いをチユキと交わしたニニは、行動計画表をしまい込んだバッグを肩にかけると、端末を手にしてナユタが消えていった路地とは反対方向へ小走りに駆け出した。

 すぐそばの山のほうから、軽やかな小鳥のさえずりに混じって、夏の盛りに出遅れたセミが一匹鳴く声が響き、風にそよいだ藪がさらさらと葉擦れの音を立てる。

 他には一切物音がしない人の消えた街中で、ニニの野外調査活動チームとしての「仕事」が始まった。

 小走りで道なりに進みながら覗き込むニニの端末画面には、あともう少しでチユキの担当区域から抜けることが示されていた。普段からすべての学生が持つことが許されている小さな端末に比べて、この野外調査活動用のノートサイズの端末ははるかに多くの機能を搭載していた。

「あと五メートル、この区画からが私のフィールド」

 小さな小路と交わる四差路で足を止めると、ニニは手近な電信柱に小さく切ったテープをそっと張り付ける。目印代わりの電信柱から向こう五百メートルを見やると、先ほどの集合場所よりは家々の数も点々としており、代わりに一軒当たりの敷地が広い豪奢な邸宅が多いようだ。

 ニニの指先が端末上の地図をタップすると、今回の調査対象になっている建物が表示される。それらに混じって一軒だけ、家主から立ち入り許可を得ていることを示す青い星形のアイコンがついていることに気づき、ニニは目を細めた。

「今日のメインはここかな……」

 普段の野外調査では、家主が所有権を放棄し、代わりに国が管理する建物内の古書が対象となる。しかし時折こうして、政府の施策に賛同した家主が、古書の探索を許可した建物も混じる。

 と言っても、家主が高齢で病院や介護施設に入っていたり、仕事やなんらかの事情があり、家をそのままにして遠く離れた場所にいたりすることがほとんどだ。そのため、探索中に家主と鉢合わせることはまずなかった。

「それじゃ、とりあえず今日の最低限の実績は作っておかないとね」

 そう呟いて、ニニは目の前の少し大きな邸宅の門を手で押し開く。玄関へと続く庭先に植えられた木々は大きく育ち、青々とした枝を四方に広げていた。行政による現状確認の立ち入り以来、もう長らく誰も訪れず、剪定や手入れもされていないようだ。

 かつては趣のあったであろう荒れた前庭を通り抜けて玄関扉を見つけたニニは、トートバッグの中から使い捨ての防塵マスクを取り出し、顔に当てゴムひもを後頭部へ回す。それから扉をノックしてドアノブを握り、ゆっくりと扉を押し開いた。

 手はず通り鍵のかかっていない扉を開けた先には、夏の陽射しが踊るまぶしい屋外に比べて薄暗い部屋が奥まで続いていた。ニニはマスクの下で大きく息を吸って、声を張る。

「こちら、国立神奈川県東部学園第十八支部、野外調査活動チーム所属の高木ニニです。これより、政府依頼による探索をさせていただきます」

 もちろん、家の中から返事はない。

 それでも毎回玄関に踏み入るたびに名乗りの口上を行うのは、万が一屋内に意図しない先客、平たく言えば物取りや不法侵入者がいた場合を想定している。

「まあ、いつも通り誰もいないよね。ここはまだまだ平和だなあ」

 人類史上最もおぞましいとされる「あの日」以来、人口のおよそ六割にあたる国民を失ったこの国では、首都がある東京都内でもない限り、日中に街中で人と出会うことは稀有になっていた。地方都市であるこの鎌倉市も例外ではない。それでも、マザーが昨日「昔よりも人が戻ってきている」と話していたことを思い出しながら、ニニはいつも通り靴の上から屋内用のサンダルを重ねて履き、静まり返った廊下を奥へと歩いていく。

「おじゃましまあす……」

 数分としないうちに、おそらくこの邸宅内で唯一の書斎であろう部屋を見つけ出したニニは、小声で誰にともなく挨拶をしながらそっと足を踏み入れる。

 まずはいつものように窓を開けて換気口を確保してから本棚の背表紙を見回し、手元の端末と見比べながら何冊かピックアップして、埃っぽい書斎机の上に重ねていく。

「うーん、やっぱりここはハズレかな」

 この書斎のかつての持ち主は、教育に携わる仕事をしていたのだろう。本棚に並ぶのは、哲学書や心理学にまつわる本が多かった。多少は期待しながら一冊ずつ奥付を確認してみるものの、やはり電子化されていない専門書は見当たらない。ニニはため息をつきながら天井を仰ぐ。

「よし、次行こう次!」

 こうして端末の示す対象の建物を一軒ずつ回り、本棚を見つけては背表紙を確認する作業を黙々と続ける。ピックアップするに値する古書を発見した時は、発見場所をチェックした上で古書の写真を撮り、いったん元の場所へ戻す。こうした調査結果をレポートにまとめて研究機関へ送信し、実際にピックアップが必要と判断された場合は、後日その指令をもとに改めて現場へ向かい古書の回収を行う。

 ニニの「仕事」は、おおかたこの一連の作業の繰り返しで成り立っている。運動量と単独で無人の市街地を歩き回るリスクのわりには、なかなか手ごたえを感じにくいこの活動をニニが続けるのにはもちろん、ある理由があった。

 七軒目、八軒目と順調に回り、外に戻ったタイミングでニニはガードレールに腰掛けると、巾着から取り出したチョコレートの白い包みを一つ広げ、ずらしたマスクの隙間から頬張る。

「今日はわりといいペースで回れてるな」

 ちよちよと鳴く小鳥の声を乗せた風がそよぐ中、舌の上で甘くとろける塊をころころと転がしながら、小さなほうの携帯端末をポケットから取り出す。タップしてふわりと明るくなった画面を確認すると、まもなく午前十一時になろうとしていた。残すところは例の家主の許諾を得た青い星形のアイコンが表示された建物のみ。ここまで急ぎ足でノルマをこなしたかいもあって、今日最大の目当てをゆっくり探索するには十分な残り時間だ。

 本命の現場作業に取り掛かる前に、ニニは改めて野外調査用の端末を確認する。急ぎ足で回ったとはいえ、八軒からピックアップできた古書は三冊あった。音楽、薬理学、法学分野の古い教本類で、今日の野外調査の「アリバイ」としては十分すぎる。

 ニニはバッグから水筒を取り出して冷たい麦茶をぐっとあおると、手の甲で口元を拭って立ち上がった。

「それでは行くとしますか」

 目的の邸宅は、ニニが担当する区域のちょうど中央あたりにあった。はやる心を落ち着かせながら足早になりつつ、ニニは野外調査用端末の青い星形のアイコンをタップする。するとメッセージボックスが表示され、鎌倉市が家主から事前に聞き取った情報が簡潔な箇条書きとなって並んでいた。

 ニニがこれから向かう邸宅は、音楽家がかつての主であり、野外調査活動の対象とすることへの許諾はその息子からのものだった。

 音楽家であった父親と同じように、息子である自分もまた音楽家として海外拠点を転々としていること、父親が「あの日」の犠牲者であり、奇しくも生き残った自分や家族、ひいては日本国民のみならず、地球上に残ったすべての人々にとって、少しでもこの世界が生きやすくなるように、という願いから政府の探索事業に賛同したこと。

 端末の液晶画面に並ぶ文字を指先で追いながら夢中で読み進めるニニは、つま先から背筋を駆け上がる高揚感に思わずこぶしを力強く握った。

 今度こそ、見つかるかもしれない。

 誰もいない路地に足音と弾む息を響かせてニニがたどり着いたのは、大きな和風門の向こうに日本家屋の屋根が覗く、古めかしいたたずまいの大きな邸宅だった。先代の家主の「音楽家」という肩書から洋風の建物を想像していたが、もしかすると三味線や琴といった日本古来の楽器演奏を生業にしていたのかもしれない。

 当然だが、放棄され国が管理する建物とは異なり、家主が所有している建物はしっかりと鍵がかかっている。ニニは背筋を伸ばして、門のそばにあるインターホンに近づき、画面に野外調査用端末に配布されたコードを近づけて読み込ませる。ほどなくして日本家屋の趣には似つかわしくないピッという電子音が鳴り、大きな木製の門がきしみながらゆっくりと開いた。

 ニニは敷地にそっと一歩足を踏み入れ、門をくぐって振り向く。再びきしみながら門が完全に閉まるのを確認してから、改めて目の前の屋敷を見上げた。

「すごい。築年数どれくらいだろう」

 屋敷に続く小径は少し下草が茂っているものの手入れされて整えられており、今日訪ねた他の放棄された建物とは比べ物にならないほど「人の気配」が感じられた。玄関先まで続く小径のわきには、青紫色の桔梗の花が揺れている。庭先までぐるりと回って見学したい気持ちを押しとどめて、ニニは大きな玄関前へと急いだ。

 そこには先ほどの和風門と同じく、電子制御の施錠システム画面が取り付けられていた。再び端末を使って解錠用のコードを三つほど読み込ませる。家主から提供されたワンタイムパスコードは問題なく作動したようで、がちゃりと音を立てて解錠されたことを確かめ、ニニは全面にすりガラスのはめ込まれた玄関の引き戸に手をかけた。

 からからから、と軽やかな音を立てて左右に分かれ開いた戸の奥には、ニニが生まれて初めて見る光景が広がっていた。廊下や柱、梁の木材は時を経て落ち着いた深い飴色になっており、滑らかに磨かれた表面は日の光を浴びて艶やかに光っている。そして全面ガラス戸や障子を多用する日本家屋は自然光がたくさん入るため、今日のような天気の良い日中は、照明をつけるまでもなく室内はどこもかしこも明るかった。定期的に掃除もされているようで、ここでは屋内用サンダルを履く必要もなさそうだ。

「お茶室とかあるかも? 茶道やってるウズメが見たら喜びそうな立派なお屋敷だなあ」

 うっとりとあたりを見渡したニニは廊下の向こうに大きな振り子時計を見つけて、はっと我に返って慌てて姿勢を正し直立する。これだけ広大な敷地を探索して回るのだから、今はとにかく時間が惜しい。

「失礼いたします。こちら、国立神奈川県東部学園第十八支部、野外調査活動チーム所属の高木ニニです。このたびは国策である調査にご理解とご助力を賜りありがとうございます。これより、政府依頼による探索をさせていただきます」

 深々とお辞儀をして五秒、誰の返事もない空間で顔を上げ一つうなずく。同じ立ち入りでも、こうして家主が今も管理している建物に自分が「来客」として訪ねる探索のときは、手慣れているニニでも何となく緊張する。それは、無人であったとしてもそこかしこに残る、人が暮らしている気配のせいなのかもしれない。

「おじゃまします」

 ニニは土間で靴を脱ぐと、そっと一段高い上がり框へ足を乗せた。玄関から入ってすぐに廊下は二手に分かれており、あえて庭を一望できる明るい廊下を進む。庭園には池があり、手入れされ柔らかそうな芝生が広がっている。屋内はと言えば、襖の向こうに十畳から十五畳ほどはあろうかという和室がいくつも並び、どの部屋からもほのかにイ草の心地よい香りがした。

「うわあ、ここに転がって昼寝できたら最高じゃない、この縁側とかも。はあ……いやいや、仕事のために来てるんだからだめだめ」

 走り回って疲れた身体を休めながらのんびりと日向ぼっこをしたい欲求を押し殺して、ニニは奥まった場所にある階段から二階へと進んだ。家主が野外調査活動に協力を申し出てくれているとはいえ、すべての部屋を好き勝手に立ち入り調査できるわけではない。この邸宅も、二階にある家主の書斎のみが許可された調査対象だ。

 先ほど見た広い庭を眼下に見ながら、陽射しを受けて艶めく飴色の廊下を進んでいく。二階もガラス格子の戸が多く、明かりはいらなさそうだ。

 奥へ奥へと進み、邸宅の中ほどにある小ぢんまりした和室の前でニニは立ち止まる。調査用端末の表示通りならば、この戸の向こうが唯一調査を許可された書斎であり、今日最大の目的地だ。

「失礼します」

 誰にともなくそう告げて、ニニはそっと障子の張られた引き戸に手を添えて引き開ける。眼前に現れた書斎はニニが想像していたよりもこざっぱりとしていた。遺品としてすでにその多くは片付けられているのか物はあまりなく、壁際に四段の本棚が一つとすぐそばに文机があるだけの、質素な様相だ。

 ここに来るまでに目にしてきた窓の多い和室に比べて、外から自然光が差し込むのはニニが今開いた障子しかない造りや、畳の上に残された不自然なくぼみから、本来ならばもっと多くの本棚と書籍が並んでいたであろうことは想像に難くない。

 これは、家主が管理している建物の探索の時に、よくある光景だった。とはいえ、留守の間に見られても問題ないものしか残っていないからこそ探索に協力する、という心理はわからなくもない。

「今回も遅かったか……」

 落胆を隠しきれない声で呟き、肩のバッグを本棚のそばに置いたニニは、端末を片手に早速本棚の背表紙に視線を滑らせる。雅楽、とくに管楽器の笛の歴史書に曲目解説書、古典文学書などが並び、この日本家屋の先代の家主の面影を感じさせる。音楽の中でも珍しい分野なだけに、ピックアップすべき古書は四冊見つかったが、ニニが探している物は見当たらなかった。重い大判の古書を本棚から引っ張り出して腕の中に積み上げ、ニニは大きくため息をついた。

「あー今日もハズレかあ。古い家だし、家主がちゃんと管理してるし、今度こそあると思ったんだけどなあ」

 意気消沈しながらも見つけた古書の表紙を報告書用に端末で撮影しようとするものの、かれこれ一時間以上街中を駆けずり回った疲労もあり、野外調査用の重い端末を持つ腕が震える。ニニは立ったまま撮影するのをあきらめて、古書と端末を文机に置くと、その前に座り込んだ。

 国も、この世界に生き残った人たちもみな、これからどうすればいいかを探している。ニニが今日見つけた古典音楽の歴史書や文化を詳細に綴った目録も、いつか何らかの形で人々を救うのかもしれない。けれど。

「私はもっと、それだけじゃなくてもっと……この世界を……」

 途中でぐっと言葉を飲み込んで、一冊一冊丁寧に古書を取り上げ、文机の上で撮影しては黙々と端末に発見場所と内容のメモを残していく。

「はい、これで今日の『仕事』はおしまい」

 最後の一冊までメモを記録し終えて野外調査用端末をスリープモードに落とし、代わりにポケットから小さい携帯端末を取り出す。画面のデジタル時計表示を確認する限り、集合時間まで二十分ほどはありそうだ。

「どうしよっかな、下で日向ぼっこしたいけど、さすがにそれはね」

 ニニは時計代わりの携帯端末を文机に置いて頬杖をつき、手元の古書を適当に選んで手持ち無沙汰にページをめくり始める。

 そこには、江戸と呼ばれる時代から現代にいたるまでの、人々の生活の移り変わりと雅楽が織りなしてきた歴史が綴られていた。とはいえ奥付を見る限り、発行自体がおよそ五十年前の古書であり、「現代」として描かれた人々の様子もまた、ニニにとっては大昔の物珍しいものばかりだ。

 最初はなんとなく流し読みをしていたニニだったが、過去の人々の暮らしぶりや習慣を鮮やかに綴る歴史書に、いつしか夢中になって文字を追い始めていた。何よりも、ページのところどころに添えられた写真に写る人々は、間違いなく「あの日」より前の世界に生きていたのだ。ニニはどこかうっとりとした表情を浮かべて、色あせた写真の中で笑う少女の姿を指でなぞる。

「いいなあ、やっぱり昔は自分の声でしゃべって、歌ってたんだよね」

 古書に視線を落としたまま、ニニがもぞりと身体を動かして正座をしていた足を崩す。そのはずみに、ニニの右ひざが文机の横に据え付けてある引き出し部分にしたたかに打ち付けられる。ごちっという鈍い音に続けてニニが小さく声を上げる。

「あだっ、いっ……たあ」

 思わず古書から手を離してすぐに自分の右ひざをさする。もう少しお行儀よくしなよ、といつもチユキに言われているのを思い出しながらおそるおそる右のひざ小僧を見ると、打ち付けたらしい場所が少し赤くなっていた。

「あーこりゃ青あざになるやつ」

 自分の右ひざを見つめていたニニの視界にふと、そばの文机の引き出しが映り込む。ニニが右ひざを思いきり打ち付けたときの反動なのか、一番上の引き出しが少し開いていた。

 何か、予感があったわけではない。

 それでも、ニニは考えるより早く無意識のうちに開きかけた引き出しの取っ手に指先を添えていた。

 ニニの手によりそろりと開かれたその引き出しには、何も入っていなかった。そのまま閉じると、ニニはためらうことなくそのすぐ下の引き出しを開けてみる。何も入っていない。また閉じて、さらに下の三段目の引き出しを開ける。やはり何も入ってはいない。

 四段ある引き出しのうち、残る一番下の引き出しを開ける前に、ニニは一つ深呼吸をする。それから引き出しの取っ手に手を添えてそっと引っ張りながら、ニニは目を閉じた。

 なんてことはない。もしこの四段目に何も入っていなくても、いつも通り今日も無事野外調査活動を終え、チユキやナユタとともに寮に帰るだけだ。そう何度も自分に言い聞かせる間にも、ニニの心臓は早鐘を打ち、耳の裏でざくざくと鼓動音を響かせる。

 なめらかに滑る引き出しを開けきり、ニニがおそるおそる目を開ける。

「あっ……」

 そこには、野外調査活動用の端末より大判の、黒い表紙の冊子が収められていた。黒い合皮の表紙に金色で箔押しされてきらりと光る文字列に、ニニは呼吸を忘れて目を見開く。

「これは……」

 ニニは冊子を掴み出して文机の上に置くと、震える手で表紙を開く。中は色あせておらず、表紙に刻まれた「Diary」の文字通り、どのページにも濃紺の万年筆による美しい筆跡で日々のできごとが書き遺されていた。

 日記。

 それこそが、国ではなくニニ自身がいつも探し求めているものであり、この学園で野外調査活動を「仕事」として選んだ理由でもあった。

 さらに内容を確認するうちに、ニニはあることに気づく。どのページにも左肩には同じように二〇三二年と印字されており、冊子の表紙をめくってすぐのページを確認すると、二〇三二年のカレンダーが印刷されていた。

「ちょっと、ちょっと待って! これって、この日記ってまさか」

 半ば混乱したまま口元を押さえ、紙の上に並ぶ四桁の数字を何度も指先でなぞって確認する。

「二〇三二年、この年って確か……ねえ、嘘でしょ。だって……」

 この書斎の主が今から二十三年前に書き遺したらしい日記。それは、世界に「あの日」が訪れた、まさにその年の日記に他ならない。

 ニニは思わず息を呑む。

 ついに、見つけた。

 まばたきすらも忘れて、ニニは冊子にかぶりつく。すぐ横に積み上げていた古書が一冊、ニニの肘とぶつかり畳の床に落ちてごとりと音を立てた。ニニは見向きもせず、ばらばらとページを手繰る。先ほどから手の震えが止まらない。動揺でうまく動かない指先でようやく探し当てたページを押し開いて、ニニの震える指先が必死に文字をたどる。

 〈7月20日 

 今日ほど忘れえぬ日は、後にも先にもないだろう。朝起きてテレビをつけた瞬間から、私は日常が音を立てて瓦解してくのを目の当たりにした。初めはスタジオにいたニュースキャスターの女性。中継で繋がっていた海外のキャスターの男性。恐ろしい。新たな伝染病か? みな、人形が倒れるようにテレビ画面の中で倒れ絶命していった。じきに、悲鳴は家の外からも聞こえだした。正午前、東京の息子に電話。なるべく部屋で静かにしていること、念のためマスクをつけることを伝える。〉

 自分の浅く短い呼吸だけが、ニニの耳元に響く。腹の底で得も言われぬどろっとした不安の種が芽吹いて重く頭をかしげる感覚に襲われながら、ニニは隣の枠の文字を指先で追う。

 〈7月21日

 夢であって欲しいと願って就寝したが、好転の兆しなし。家内が備蓄用食料を買い足しに行くと言ったが、今日は止めた。人が次々に死んでいる原因がわからないうちは、人込みは避けるよう伝える。大気汚染か、放射能か。朝から緊急特番が流されるも、一人また一人と画面の中で人が死んでいく。つい数舜前まで、普通にしゃべっていたのにだ。東京から電話あり、数名の訃報を聞かされる。来週の興行中止の報。現実感が無い。暗澹たる思いのまま、食事も簡単に済ませる。夜、緊急事態宣言が発令される。〉

 〈7月22日

 今日も陰鬱な一日が始まった。息子に教わってから放置していたSNSを覗くも、訃報や、デマかどうか判断が難しい情報ばかりですぐに見るのをやめた。何かしていないと落ち着かないので、楽器を手入れする。テレビを見ると人死にを目撃することになるためラジオへ切り替え。しかし、悲鳴が響くためラジオも断念する。夕方、息子からメール。世界中の演奏仲間とメールでやり取りをした結果、どうやらしゃべらないほうがいいとのアドバイス。隣家のご夫婦亡くなる。(警察がきた)〉

 初めて出てくる身近な死の気配に、思わずニニの指先が止まる。この屋敷に立ち入るときに見たはずの隣家は、どんな建物だったろうか。今日の調査対象ではないぶん記憶が定かではないが、すでに更地になっていた気もする。日々の記録から伝わる重い空気に、思わず自分まで不安感と少しの息苦しさを感じながら、ニニはさらに読み進める。

 〈7月23日

 新聞が昼頃に届く。この異常事態で人が亡くなりすぎて、人手不足故との旨のメモ入り。朝息子からメール。この異常事態は世界規模で起きていること、年齢や性別を問わず死亡すること、声を発する仕事に就いている人間ほど犠牲となっていることが書かれていた。情報から推測できるのは、空気感染または発声に関する疾病とのこと。息子は教授陣や他学部学生、海外交流をしたことのある他国の学生とも、メールで連絡を取り合っているらしい。頼もしい限りだ。ペストもスペイン風邪も、コロナウイルスも鳥インフルエンザも乗り越えてきた人類だから、今回もきっと乗り越えられると信じたい。〉

 歴史の授業で目にしたことのある感染症の文字を追いながら、ニニは少し考えこむ。

「このときはまだわかってないみたいだけど、今のところ、突然死の原因は感染性のある病気ではない、というのが今の世界の共通認識……だよね」

「あの日」とは、今から二十三年前、二〇三二年七月二十日のことを指す。

 その日を境に、世界中の人々が原因不明の突然死に見舞われ始めた。国籍も性別も年齢も分け隔てなく人々が死んでいく様子は、まさに地獄そのものだった。

 新たなウイルスによる感染症なのか、突然死の原因が一切わからないまま日一日と犠牲者は増え続けるさなか、当時、各地で生き残っている多数の医師や研究者たちが導き出した推論は「発声を原因とする謎の死亡現象の発生」だった。

 発端となった場所や関わった人、物、なにもかもが不明のまま、かろうじて生き延びた人類がさらに多大な犠牲を払って補声器を作り出し、ようやく犠牲を食い止めた頃には、すでに地球上の人口は半分を割り込む最悪の事態となっていた。

 補声器の発明からしばらく経ち、生まれたばかりの新生児はいくら泣き続けても犠牲者が一切出なかったことから、突然死のトリガーは「発声ではなく発語である可能性が高い」ことまではわかった。しかしあくまで可能性の域は出ておらず、依然としてそれ以上のことは不明である。

 世界共通で名付けられた正式呼称はあるものの、いつの日からか、誰が言い始めたか、災厄の始まりの日は世界中で「あの日」と呼ばれるようになった。こうして「あの日」以来、すべての人々は喃語から言葉を話し始める年頃になると声帯に補声器を装着し、成長とともに補声器を乗り換え続けて声を出す助けとした。

 しかし当然、いろいろな要因により補声器が身体に馴染まない人も少なくはなかった。その場合は、なるべく声を出さずに暮らしていけるよう、通常の社会生活からは離れて一生を過ごすしかない。発声する能力や身体機能的には特に問題ないにもかかわらず声が出せない苦痛は筆舌に尽くしがたく、今なお人類に立ちはだかる大きな課題の一つだ。

 これが、ニニの知る、紙の上に記された知識としての「あの日」の全容だ。

「原因は……やっぱり、声、言葉? でもただの声じゃなくてもっと何か……」

 呟きながら、夢中で次の日の枠へと読み進めたニニの手が、ぴたりと止まった。

 〈7月24日

 家内が死んだ。混乱。朝から神戸の義姉へ電話をしていた途中、突然倒れた。何が起きているのかなぜこうなってしまったのか何が原因なのか私はどうすればよかったのか。何もわからない。どうすればいいのか。私は、一人泣くことしかできない。〉

 字が、震えていた。

 そこから先はしばらく乱れた筆跡が続き、やがてまた少しずつ整い始め、まるで記録すること自体が使命とでもいうように、より克明に日々が綴られていた。簡潔な文章ながら、あまりにも重く生々しい文字列に、ニニは血の気が引いていくのを感じる。

 日記は八月以降も続いており、それらの記述が内包する情報量はおそらく膨大であろうことは明らかだ。このまま読み進めるべきか、野外調査用端末でこっそり撮影して後で読むか、それとも秘密裏に日記を外へ持ち出すか。

 どちらにせよ、集合時間までにすべてを読み切り、記憶し、理解することはニニには不可能だ。かと言って、野外調査用端末は、そのフォルダ内を他のメンバーや技術保全部、そして政府の研究機関すらも閲覧する権限を持っているため、レポートに関係のない画像は数枚ならまだしも、大量に保存しておくことはできない。

 さらに、日記本体を無断で持ち出すのも、万が一発覚した場合は学園全体を巻き込んだ大問題に発展してしまうため、手段としては絶対に選べない。

「どうしよう、時間が足りない」

 ニニは血の気の引いた顔で一度日記を文机の上に置き、混乱した頭を必死に整理しようと試みる。

「あの日」から世界を覆った凄惨な光景、集合時間までの残り時間、日記の回収方法、それらが頭の中を回るばかりで、動揺したままの気持ちでは何一つ決められない。

 その時、日記の横に置いた携帯端末がぶるりと震えだした。

「びっ……くりした。まずいな、もうそんな時間」

 まだどきどきと早鐘を打つ胸元にニニは手を当てて、集合時間十分前にセットしたアラームで震える携帯端末に手を伸ばす。

「そうだ、こっちで写真撮ればいいかも」

 ニニたち学生が持ち歩いているこの携帯端末にも、野外調査用端末ほど高性能ではないが、簡単なスナップ写真を撮るには十分なカメラが付いていた。ニニは急いで日記を押し開くと、端末画面を素早くタップしてから、端末裏面に付いたカメラを文机に向けてかざしてみる。

「いけるかも。ちょっとボケるけど、読めなくはないし」

 残りの十分で一ページでも多く撮影して、データとして持ち帰るしかない。データをどうやって秘密裏に端末から取り出すかは、後で考えればいい。

 そう判断してかざした携帯端末画面をのぞき込みピントを合わせている途中、画面に映り込んだ文机の上の様子に、ニニは違和感を覚える。

 廊下や柱と同じくつるりと磨き上げられた深い飴色の文机の表面は、背後から差し込む陽射しを白く反射していた。そこに、暗い人影が写り込んでいる。ニニ自身が陽射しの差し込む戸を背にして文机の前に座っているので、文机の上に人影が映り込むこと自体、不思議ではない。

 しかし、その人影はニニが先ほどから微動だにしていないにも関わらず、ゆらりと揺れ動いていた。

「……ッ!」

「やあ」

 何者かの襲撃を察知したニニが、スカートの下のホルスターベルトに隠したナイフを掴みつつ文机の前から飛びのくのと、背後からの侵入者が声をかけてきたのはほぼ同時だった。

「誰っ!」

 誰何の返答を待たず腰を落とし、ナイフを構えたままニニが目の前を見据えると、逆光の中にいたのはよく見知った人物だった。

「ナユタ、先輩」

「その動き、ただの学生の身のこなしじゃないでしょ。ひひ」

 ナユタは白衣を羽織った身体を左右に揺らしながら、書斎の中へと足を踏み入れてくる。畳の香りに混じって、花火が消えた後のような匂いがニニの鼻先をかすめた。

「知らなかったんですか? 私たち野外調査活動チームは野外で活動する手前、最低限の護身と戦闘体術は叩き込まれてますから」

「いいね。そんな表情もするんだ、君。ただの陽気な後輩キャラだと思ってた」

 まっすぐにニニを見つめてにたっと楽しげに笑うナユタを前にしても、ニニはナイフをかざして低く身構えた態勢を崩さない。

 ナユタに割り振られた区域はニニの担当である現在地とは、真ん中のチユキの担当区域を挟んで正反対のはずだ。つまり探索中に同じ物件に足を踏み入れるどころか、偶然顔を合わせる可能性すらない。

 そのナユタがなぜ目の前に現れたのか。

 思えば最初からナユタに監視されていたのかもしれない、そう考えながらニニは目を細める。最悪のパターンもいくつか想定しながら、ニニはナユタに問うた。

「どうしてここに?」

「ええ? 集合時間ぎりぎりまで来ないから、チユキに頼まれて迎えに来たんだよ」

「私たちの野外調査活動は集合時間いっぱいまでが『仕事』です。だから、集合時間より前に担当区域を放棄して他の場所へ出向くのは規則違反です。嘘はやめてください。チユキにも無断で来てますよね? ここに」

「おお、こわ。そのナイフ下ろしてよ。軽くて使い勝手よさそうだね。フィッシングナイフ? 夏の合宿用って言えば簡単に購入許可出そうだしね」

 口では怖いと言いながら一歩近づいてくるナユタに気圧される形で、ニニは一歩後ずさる。なおもナユタは笑みを浮かべたまま、ニニが握るナイフを指差す。

「規則違反と言えばさあ、学園規則『殺傷能力のある物品の携行は許可を得ること』、野外調査活動規則『業務中に知り得た情報の無断持ち出しを禁じる』ってのあるでしょ。ねえ、今この瞬間にあたしの目の前で二つも破ろうとしてるけど、だいじょぶ?」

「……っ」

 ニニは唇を噛みしめ、一言も返すことができないまま、ナユタの歩みに合わせてまた一歩後ずさる。

「あとさ、朝も言ったけど、学園規則『活動時間外に活動に類似する行為を禁じる』これもだね。君が門限までひそかに街へ出歩いて、こうして昼間の家探しで見つけた持ち帰れないたぐいの手記を読み歩いてることも知ってるし、たまにその場で読み切れない分をこっそり野外調査用端末に勝手に写真として残して、寮に帰る道すがら読んですぐ消してるのも知ってる。どうしてかって?」

 そう言ってナユタは目の前の文机の上に開かれたままの日記と、横に転がる二台の端末を見下ろす。

「だってあたし、技術保全活動チームのリーダーだよ? この学園にある端末はぜーんぶ、あたしの管理下にあるんだもん。ひひ」

 ナユタの笑い声に、ニニはナイフを構えたまま目を細める。

 もし違反の告発が目的ならば、チームリーダーであるチユキの目の前で今の会話をすればいいだけの話だ。なにより、ずっと探し続けてきた「あの日」についての日記が今まさに目の前にあるというのに、簡単に諦めるわけにはいかない。ニニはナユタの足元に視線を落とし、突破口を探るために考えを巡らせる。

 ナユタに端末を介して行動を把握されていたこと、あえてチユキに黙ってまでわざわざこの場所に来たことから、考えられるナユタの目的はかなり限定される。あとは、ナユタ自身の性格と、自分の演技力に賭けるしかない。

 ニニは少し表情を緩めて見せると、正面に立つナユタを見据えた。

「私は、これからどうするか、ではなく、なぜこうなったのかを探しているんです」

「君さあ、世界的に有名な学者でもなんでもない、無力な未成年の君ひとりがこそこそ探し回って、それで世界の謎を見つけ出せると思ってんの?」

「偉大な発見は偉大な人物にのみ許されたものじゃない。科学技術の歩みを知っている先輩なら、わかっているんじゃないですか」

 ニニの言葉を耳にして、今度はナユタが目を細めた。ずっと笑みを浮かべていたナユタの表情が初めて変わったのを見て、ニニは言葉を畳みかける。

「私は、マイカが自分の声で歌える世界にしたい。ただそれだけです。マイカだけじゃなくて私もみんなも、機械に頼らず自分の声を出せるように。そのために、世界がこうなってしまった原因を探り当てたい。でも、規則違反を理由に学園を追放されてそれが叶えられなくなるなら、もうどうでもいい」

 ニニは一息に言い放ってナユタに向けていたフィッシングナイフを下すと、刃先を自分の喉元に当てる。

「潔い。けどそういうことを言いにきたんじゃない」

 ニニの行動にも動揺したそぶりを一切見せず、ナユタは文机の上から日記を拾い上げる。正午近くになり一層まぶしさが増す外からの陽射しを受けて、表紙の金文字がきらりと光る。

「これ。実はさ、あたしもね、君が言うところの『これからどうするかではなく、なぜこうなったのか』を探してるんだ。だからさ、共同戦線といこうよ。あたしと君。技術保全活動チームと野外調査活動チームのさ」

 ナユタは拾い上げた日記の黒い表紙を閉じると、ためらうことなくニニに差し出した。ニニは日記を一瞥しただけで、ナユタの真意をはかろうとなおも無言でじっとナユタを見つめ返す。

 動こうとしないニニの様子にやれやれ、と肩をすくめ、ナユタは両腕を広げて羽織った白衣をひるがえしながら、くるりとその場で回って見せる。踊るナユタの足元でひらりと白衣の裾が広がり、夏の花火を思わせる火薬の香りがあたりに漂う。

「ほら。あたしは丸腰だよ」

 ナユタに敵意が無いと判断して、ようやくニニがナイフを下したのを確認してから、ナユタは改めて日記をニニへと差し出す。ニニはそっと受け取ると、片腕から伝わる重みを噛みしめる。

 この中に「あの日」の原因に繋がる手がかりがあるはずだと思えば、中等部に進学してからの日々の苦労も報われる気がした。

 黒い表紙を感慨深げにじっと見つめるニニに、ナユタが今度は右手を差し出してきた。治りかけの切り傷や新しい火傷のあとをそこかしこにくっつけた手のひらを目の前にして、ニニはナユタに向き直る。相変わらず何を考えているのか読み取れない笑みを浮かべた表情と、大きな黒い瞳に射抜かれる。

 ナユタの視線を受け止めながら、ニニは今朝がたナユタにかけられた言葉を思い出す。「未知は怖い? 怖いよね」と、確かにナユタはそう言っていた。だとするならば、ナユタを突き動かしている動機はただ一つだ。ニニは確信しながらも、わざといぶかしげに顔をしかめてこう言った。

「何が、目的なんですか」

「好奇心。決まってんじゃん。一応あたし科学者の卵なんだから」

 嬉しそうなナユタから迷うことなく放たれたのは、ニニの予想通りの言葉だった。

 この人なら大丈夫かもしれない、そう思いながらニニも右手を差し出すと、ナユタはまた嬉しそうににたりと笑った。

「よろしく、ニニギ」

 ニニギというのは、マイカが幼い頃につけてくれた大事なもう一つの名前だ。ニニは思わずつられて笑いながら、ナユタの傷だらけの手を握り返した。

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