第十五話 31102055
ナギが空になったティーカップと革張りの大きな本を横にどけて、カウンターに突っ伏して眠るニニの髪を優しく撫でてやる。
開かれた本のページには、ニニが書き遺した祈りの文字が、深い海の色をした光をぼんやりと放っている。
〈人は生まれてから一〇〇〇語、明らかな悪意をもって相手を害する意味のある言葉を書く、またはしゃべったら死ぬ〉
やがて青い光は、少しずつ潮が引くように穏やかに消えていく。ニニが呼吸をするたび上下するセーラー服の肩からも、校章のエンブレムと支部の通し番号の刺繍がふわりと揺れて、消えていった。
サクヤはナギとうなずき合うと、カウンターを出て店の入口の扉の前に行き、迷い込んだ蝶を逃がすように扉を大きく開けておく。
店の外は橙色の夕陽が差し込み、買い物客や観光客をはじめ、たくさんの人々が路地を行き交っている。吹く風は少し乾いて冷たく、耳をすませばすぐそばの海から波音が聞こえてきそうな、よく晴れた秋の夕暮れだった。
しばらくすると、ぱたぱたと軽やかな足音が響いてきて、店の前を一度通り過ぎ、また戻ってきた少女がおそるおそる店内を覗く。
「あのぉ、もしかして……」
黒く長い髪をした少女は、店の奥で自分と同じセーラー服を着て眠るニニの後ろ姿を見つけると、はあとため息をつく。それから店の入口に立つサクヤにひとつお辞儀をして、店内へと足を踏み入れた。
「素敵な喫茶店。御成通りにこんなお店あったかしら。じゃなくて、ちょっと、ニニギ! なんで寝てるの」
少女に容赦なく両肩を掴まれて揺さぶられ、カウンターに突っ伏して眠っていたニニは薄っすらと目を開ける。
「んあ……なんだ、舞歌かあ」
「ここまで探しに来た私に対して第一声がそれ? 校内にもいないし、海にもいないし、けっこう探したんだからね」
ニニはカウンターから身体を起こすと、なぜこんな場所で自分が眠っていたのかわからないらしく、きょろきょろとあたりを見回す。
「あれ、なにここ、すごい! レトロ喫茶だ!」
「あのねえ、知らないお店に入り込んで寝るとか、トルコの猫じゃないんだから。何か頼んだの?」
「んや、わからない。たぶん何も頼んでない」
「寝てただけ? 勘弁してよニニギ。あの、本当に申し訳ありませんでした」
にこやかに見守っているナギに舞歌はすまなさそうに頭を下げると、席に座ったニニを引っ張って立たせる。
「ほら、お店にご迷惑だし早く出よ! 来週の文化祭まで時間ないから、海で歌の練習しようとか言い出したの、ニニギでしょ」
「うーん、音楽室を全日押さえたバンド部が悪い」
「この荷物もニニギのでしょ? もう」
そう言って舞歌は、カウンターの上にあったピンク色のカバーが付いたスマホをトートバッグに入れて肩に掛け、まだ目をこするニニの背を押しながら店の扉へと歩いていく。
「どうも、ご迷惑をおかけしました。この子は私が回収していきます。ねえニニギ、そういえばさっき、千雪先生がニニギだけレポートの提出まだだってガチギレしてたよ」
「えええ、〆切今日だよ? 寮帰って夕飯食べたら出すんだからセーフでしょ。ちゆセンはさあ、化学の那由他先生見習って、もっと柔軟になるべきなんだよな」
賑やかに話しながら二人の少女は扉から外に出ると、一度店内を振り返ってからナギとサクヤにそろってお辞儀をして、雑踏の中へと歩き出す。
二人仲良く並んだセーラー服の後ろ姿が、通り過ぎる人々の波に隠れて見えなくなるまで見送って、サクヤは目を細めて小さく呟く。
「行っちゃいましたね」
「寂しい?」
「なぜか、少しだけ」
サクヤは正直に答えて、手に持っていた新聞を扉の外にかざした。薄い灰色の紙に印刷された文字や写真がばらばらと揺らめいて、ページの上部に今日の日付を表示して止まる。
「二〇五五年十月三十一日、日曜日。ニニさんの修正はきちんと新しい世界として反映されたみたいですね」
「それはけっこう」
サクヤはカウンターで待つナギに新聞を手渡すと、黒いエプロンを外して飴色のテーブルの上に置く。
「珍しい。出かけるの?」
「ナギさん。海、見に行きませんか? 久しぶりに」
誘うサクヤの言葉にナギはその意図を察してにっと笑って、カウンターから出てくる。
「そういうことか。いいよ。行こうか」
二人は顔を見合わせ、笑いながら店の外へ出る。それから、先ほどの少女たちの後を追うように、夕暮れの雑踏へと繰り出した。
のんびりと歩いて十分ほど、御影石の大通りを直進して信号をいくつか越えれば、やがて視界が一気に開けて、一面に濃い青から橙色へと染まりゆく空と海が現れる。
穏やかな海辺には、もうすぐ沈もうとしている秋の夕陽を浴びながら犬を連れ散歩をする人、海に溶けていく美しい橙色の光をカメラに収める人、ただ海を眺めに砂浜に立ち寄った人など、波音と夕暮れの光の中で思い思いに過ごす人々の姿があった。沈みかけた夕陽の光が波間に落ち、きらきらと輝いている。
ナギとサクヤは砂浜に続く道路際に立ち、橙色の夕陽の中で足元の砂浜に影を落とす人々の姿を見つめていた。
「悪くないわね」
「彼女が願った世界に近づいていると、いいですね。人を救う言葉が、満ちた世界に」
サクヤがそう呟いた時、風に乗って澄んだ声が二人の耳元に届いた。ナギとサクヤがあたりを見回すと、遠く沖合まで波間に伸びた橙色の光の道を前にして、並んで歌うセーラー服姿の少女たちの姿があった。
「歌よ、ここに在れ、私を、私にして」
歌う二人の姿を物珍しそうに見ている周囲に物怖じする様子もなく、少女たちの伸びやかで力強い歌声は波音をしたがえて橙色に染まる空に駆け上がる。
「歌よ、ともに在れ、私が、私であるために」
ナギとサクヤはしばらく目を閉じて、二人の歌声が織り上げる祈りの言葉と打ち寄せる波音に耳を傾ける。
「歌かあ。この星のすべてのヒトよ、言葉とともに栄え、豊かであれ! ……って大昔に願ったのがサクヤだって知ったら、あの子びっくりしただろうね」
ナギの言葉に苦笑して、サクヤは歌と波音に満ちた空に向かって両手を大きく掲げて伸びをする。夕陽にかざした指の間から橙色の光をこぼすサクヤの手は今も、本に願いを綴ったペンの重さを覚えている。
「もうずいぶんと昔のことなので、忘れちゃいました。そういうナギさんの願いはなんだったんですか? 僕があの場所を訪れた時には、すでにナギさんはあの不思議な……願いを叶える本とともにあそこにいましたよね」
「さあ、なんだったっけねえ、あまりに昔のことだから忘れちゃったねえ」
ナギはサクヤの言葉を真似てうやむやに答えて、楽しそうにあははと声をあげて笑った。
「もう、ナギさんは……。ずるいですよ」
笑うナギとその背を小突くサクヤを包む二人の少女の澄んだ歌声は、どこまでも高くのぼり天を駆け抜け、人々が生きる命のざわめきに満ちた世界へと溶けていく。
最後までお付き合いくださってありがとう!
こんなところまで読み切ってるなんて、相当なモノ好きだね、ありがとうありがとう。
あなたがいるから、私は生きている。
もしよければ好きなシーン、キャラがあったら知りたいな。
コメントでもいいしXでもいいし、直接会えたら教えてくれても嬉しい。
今その場で、呟いてくれてもいい。
いつものやつも書いておくね。
Special Thanx for
All Readers and Leaders!!




