第十四話 さよなら1.0
ニニが舞歌からの合唱部復活のための誘いを承諾した翌日から、昼休みは熱い陽射しの降り注ぐ屋上で、二人並んで弁当を食べながら作戦会議をする楽しい毎日が始まった。
部員勧誘は舞歌、部室候補探しや必要な備品のリストアップをニニ、と担当を分けて夏休み明けの本格始動に向けて動き出す。そして時折、屋上で舞歌と二人で歌う。それだけで、嫌なことはすべて忘れられた。ニニの鈍色をした憂鬱な日々の中で、昼休みの四十五分だけが鮮やかに色づいていく。
「え、夕飯にハムバタートーストだけ?」
「そう。今月は廃棄弁当もらえない日はずっとそうかも。トーストにバター塗ってハム乗せて、焼くだけなんだけど。美味しいよ」
「まあ美味しそうではあるけど、夕飯それだけはきついなあ、私食べるの好きだから」
夏休み前の最後の登校日である七月二十日を目前に控えた金曜日。いつも通りニニと舞歌は屋上で並んで弁当を食べていた。毎日顔を合わせ、歌声を合わせて二週間にもなると、ニニもだんだんと舞歌に心を許して、自分の家庭事情をぽつぽつと話すようになっていた。
「食事かあ。ねねニニギ、明後日の十八日、日曜日だけどさ、私の午前中の料理部が終わったら屋上で歌わない? 作った料理持ってくる。合唱部立ち上げパーティーしようよ」
誰もいない学校で、二人きりで歌って美味しいものを食べる。舞歌のきらきらした言葉に、ニニはうっとりと夢見心地になる。結局母親は一週間経っても帰宅しておらず、仮に戻ってきたところで日曜日に娘がどこにいても気にしない人だ。
「やりたい」
「おっけ! じゃあやろ!」
頬を赤らめてうなずくニニに舞歌もうなずき返すと、ポケットから紙とペンを取り出して何やら書き始める。「教室使用申請書」と書かれた一枚の用紙を、ニニも横から覗き込んだ。
「私、歌手になりたいの」
突然の舞歌の告白に、ニニはこくこくと首を縦に振った。歌が好きな舞歌らしい、ニニにはまぶしすぎる夢だ。
「でもさ、うちの親、歌なんて仕事にならないとか言ってさあ。休みの日も料理とかピアノとか英会話やらされて、もううんざり。だから、日曜日くらいは歌いたいの」
ニニだけでなく舞歌もまた、舞歌なりの逃避行をしていると知り、ニニはどこか安堵した表情で笑った。
「歌おう」
「歌おう歌おう! えっと、部活名は『合唱部かっこかり』でよし。使用教室は、んー『屋上』で通るかな。まあ大丈夫でしょ」
提出先は厳しいことで有名な教頭だが、明るく勉強のできる舞歌はどの教員からも好かれている。横からニニが覗く限りめちゃくちゃな内容の申請書だったが、おそらく舞歌が教師にねだれば通るのだろう。
「はいできた! で今日の日付は……あれ、今って何年だけ」
「二〇三二年」
「にーぜろさんにー、なないちろく、と」
合唱部として初めて学校に提出することになる書面を、舞歌が青い空にきらめく太陽にかざす。ここからすべてが始まる予感がして、ニニは嬉しそうに笑い、舞歌も横で満足そうに笑う。二人の横を吹き抜ける風の音に乗って、午後の授業が始まる予鈴が響き渡った。
ニニと舞歌は手荷物をまとめて屋上を後にし、階段を下りていく。その途中ふと、すぐ下の踊り場を見下ろしたニニは、そこにクラスの女子生徒が数名いることに気づく。彼女らは下りてくるニニと舞歌の姿を確認すると、踊り場で行く手を遮るように立ちふさがった。ニニは少し顔をしかめ、視線を落とす。
「授業始まるし、教室戻るからどいてくれる?」
凛と言い放つ舞歌の力強い声を聞きながら、ニニはぎゅっと目を閉じた。
「三笠さん、来年の生徒会長選で有利になりたいから、高木さんの面倒みてるんでしょ」
女子生徒が言い放つ言葉に、ニニは耳をふさいでしゃがみこみたい衝動に駆られる。やはり、一緒にいることで舞歌に迷惑をかけてしまった。後悔がどす黒い重い塊になって、ニニの心に沈んでいく。
「なにそれ」
「高木さんのお母さん、売春婦なんだって」
「だから何。私は合唱部を作りたいの。歌いたいの。ほら、友達も来たしもう行くね。千雪、次の授業なんだっけ?」
舞歌が立ちふさがる女子生徒の間を通って、階下に下りていく。下には、舞歌のクラスメイトらしい少女が一人、こちらを見上げ手を振っていた。ニニは取り残されまいと、慌てて舞歌の後を追おうとする。
「三笠さんに近づかないでよ、汚い売春婦の臭いがうつるでしょ」
ニニの耳に罵声が届いた、その瞬間だった。
背中にどん、と衝撃を感じて、ニニの身体がふわりと宙に押し出される。
突き落とされたんだ、とすぐにニニの頭が理解して、けれどなぜか死の恐怖よりも安堵が心に満ちた。
突き落とされたのが舞歌じゃなくてよかった、何もないつまらない自分でよかった。
一秒がどこまでもどこまでも引き延ばされてコマ送りの映像になり、ニニは微笑みながら数段下にいた舞歌を見た。舞歌は目を見開いて、宙に投げ出されたニニを見つめている。その黒い舞歌の瞳を見て少しだけ、明後日のパーティーができないことを心残りに思った。
温かい感触、体中に伝わる衝撃と痛み、空気を裂く誰かの悲鳴。
どれくらい倒れていただろうか。柔らかな感触にニニはうっすらと目を開けて、灰色の視界に色が戻ってくるのを待った。
耳元で誰かが叫んでいる。自分たちが突き落としたくせに、なぜそんなに騒いでいるのだろう。
「ねえ、誰か早く先生を呼んで!」
バタバタと駆けていく足音、集まってきた学生のざわめきを遠くに聞きながら、ニニは痛みをこらえて身じろぎした。そこで初めて、自分の身体が冷たい床の上ではなく、誰かを下敷きにしていることに気づく。
「誰かタオル持ってない? 舞歌が、舞歌が! 那由多はここにいて、私タオル探してくる」
先ほど舞歌から千雪、と呼ばれて手を振っていた少女が舞歌の名前を叫ぶ。その声にもうろうとしていたニニの意識が突然引き戻され、ニニは痛みが走る身体をかばいながら上半身を起こした。
すぐそばに、血だまりがあった。弁当の包みや荷物は散らばり、少し距離を置いてたくさんの人影が周りを囲んでこちらを見つめている。
そしてニニの身体が下敷きにしていたのは、うつ伏せになった舞歌だった。
「え……? なんで?」
「だいじょぶ? あたし見てたけど、三笠、両手を広げて君を受け止めようとした。それで一緒に落ちて、たぶん三笠は頭を打った」
千雪に那由多と呼ばれた青い顔をした少女は、呆然としているニニの横にやってきて階段を指さす。ニニが那由多の細い指を追いかけて視線を投げると、一番下から数段目の角にべっとりと赤黒い血がついて、滴っていた。
目の前にうつ伏せで倒れている舞歌の、長い髪に隠れたその表情はわからない。しかし、彼女のこめかみあたりから広がっていく血だまりを見て、ニニは目を閉じた。
これはきっと夢だ、いつもの悪夢、起きればまた屋上で舞歌に会える。
心の中で何回も繰り返しながら、ニニは再び眠るように意識を手放した。
次にニニが気付いたときは、降りしきる雨の中、三笠家と書かれた白い大きな看板が立ち、通夜を営む舞歌の自宅の前にブレザーの制服姿でビニール傘をさして立っていた。
階段から突き落とされてから、記憶があいまいになっている。自分が病院に行ったのか、家に帰ったのか、それさえも覚えていない。ただ、舞歌とパーティーをするはずだった昨日の日曜日は屋上を使えないほどの雨だったこと、そしてその正午頃に舞歌が病院で息を引き取ったと誰かから聞かされた記憶だけが、ニニの身体の中に残っていた。
夜の闇がすぐそこに迫る夕暮れの中、傘を差した喪服姿の弔問客やニニと同じブレザーを着た学生がニニの前を通り過ぎていく。
ニニは身動きができないまま、ただ立ち尽くしていた。
「もしかして、あなたが高木さん?」
雨音に混じって自分の名前を呼ぶ声に気づいて、ニニは顔を上げた。
いつの間にか陽が落ちてあたりは夜の闇に包まれ、開け放たれた舞歌の自宅の玄関先からこぼれる明かりと、つるされた提灯だけがぼんやりとあたりを照らしていた。その明かりを背にしてこちらを向いているせいで顔はよく見えないが、傘をさして立っているのは喪服に身を包んだ女性だった。
「あの……はい」
「やっぱりそうなのね。もう何時間も前からそこに立っていたでしょ?」
そう言って喪服姿の女性はニニのそばへ歩み寄ると、深々とお辞儀をした。
「舞歌の母の津美紀です。最近あの子から聞くのはいつも高木さんの話ばかりだったの。ありがとう、舞歌と一緒に歌ってくれて」
ニニは何も言えなかった。
巻き込んでごめんなさい、生き残ってごめんなさい、頭に浮かぶ言葉はどれも相応しいとは思えなかった。ご両親の気持ちを思えば、きっと謝ることすら許されないだろう。
ニニはただ、深く深く腰を折り、頭を下げ続けた。やがて、ざあざあと響く雨音に女性がすすり泣く声が混じり、ニニは一度顔を上げるとまたお辞儀をして、津美紀に背を向けた。
ニニが数歩足を踏み出した時、背後からばたばたと騒がしい足音と、津美紀、と舞歌の母の名を呼ぶ男性の声が聞こえてくる。どうやら、姿が見えない津美紀を外まで探しに来た舞歌の父親らしかった。
「えっ、あの子が?」
きっと津美紀は、今背を向けて立ち去ろうとしているニニが、自分たちの娘である舞歌が身を挺して救った少女だと夫に説明したのだろう。
「通夜にきて、両親の俺たちに挨拶もせず焼香もせず帰ろうとしてるような子を……あんな子をかばって舞歌が? あんな子の代わりに、舞歌が死んだのか?」
「やめて……」
「他の子たちの話だと、あの子の家は水商売をしている母親しかいないらしいじゃないか! そんな家の子どもに」
「あなたやめて! もうやめて……」
途端に泣き崩れる津美紀の叫びを聞きながら、ニニは振り向くことなく走り出した。
走って、走って、ただ夜の闇の中を濡れながら走って、叫んだ。
自宅どころかこの世界のどこにも、きっと自分の居場所はないのだ。もう自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかもニニにはわからなかった。
雨足が強まり人通りもない街を走り続け、鎌倉駅の前も通り過ぎて、いつしかニニは海にほど近い商店街までやってきていた。昼間は賑やかな場所だが、もうすでにだいぶ夜遅い時間になっているせいか、どの店もシャッターを下ろして真っ暗な夜の静けさの中に沈んでいる。ニニは走っていた足を緩めて、誰も歩いていない商店街を通り抜ける。
このまま歩いて海に行こう、そこで終わりにしよう。
そう決めて顔を上げたニニの視線がふと、ぼんやりと路地を明るく照らす光を見つける。窓際に席がある喫茶店の店先から橙色の優しい光がこぼれており、なぜか目が離せず、ニニはふらりと引き寄せられる。そして気づけばニニの右手は、その喫茶店の扉をゆっくりと押し開けていた。
「で、ナギさんはどう思う? 父さんはドイツと戦争が始まるから田舎に逃げろって言うけど、父さんも母さんも牛たちも残るなら、置いていけないよ」
「そうねえ、私は、あなたの街は大丈夫だと思うわ。これからも毎朝こうして美味しい牛乳を届けて欲しいしね」
「そうだよね、僕もみんなと残りたいんだ」
店の奥のカウンターそばで会話していた女性と金髪の少年が、ちりりんと控えめに鳴るドアベルに気づいて店の入口に立つニニへと振り返る。アンティーク調のイスとテーブル、壁に小さな鏡や絵を飾った洒落た店内は、淹れたてのコーヒーの香りに満ちていた。
「お客さんみたいだし、僕はこれで!」
「まだ外は暗いから、気を付けて」
金髪の少年はカウンターの中にいる女性にぺこりとお辞儀をすると、小走りにニニの立つ店の入口までやってきて、ニニにも可愛らしいお辞儀をした。
「初めまして! 今ちょうど僕が牛乳持ってきたから、よかったら飲んでください」
少年はそう言うと、少し開いた扉から真っ暗な外へすっと消えていった。
こんな夜遅くに小学生くらいの、しかも外国人らしい少年が出歩いていることを不審に思いつつも、ニニは店の奥にあるカウンターテーブルへ歩み寄る。その後ろから、店内に置かれた古い振り子時計が響かせる心地よい重みのある音が追いかけてくる。ニニが振り子時計を振り返ると、長針と短針が重なり合い、真上を指していた。
「いらっしゃい。ご注文は? その前にずぶ濡れなのをなんとかしないとね。サクヤ、タオルあったかしら」
どうやらこの店の主らしい女性がカウンターの奥に声を掛けると、奥にある厨房から茶色い癖毛の穏やかそうな青年が、白いタオルを持って現れる。白いシャツに黒いカフェエプロン姿の青年は、にっこり微笑んでニニへタオルを差し出した。
「どうぞ。自分で拭けますか?」
「ありがとう……ございます」
濃紺色のブレザーは、雨の染みた部分が黒くなっている。ニニは青年からタオルを受け取ってブレザーを拭き、スカートの雫をはたいてからカウンター席に浅く座ってあたりを見回した。どんな店なのかわからず中に入ったものの、店主の女性が店の雰囲気とは不釣り合いなグレーのパンツスーツ姿であることを除けば、どこにでもありそうな個人経営の小ぢんまりとした喫茶店のようだった。しかし初めて入ったはずの店内に、何故かニニは奇妙な既視感を覚える。
「タオル、ありがとうございます。あの、これでお水、頂けますか」
ニニはブレザーのポケットから、最後の百円玉を取り出しテーブルに置いた。深夜の十二時を回ったのなら、もう海も人がいないはずだ。最期にのどの渇きさえ癒せれば、この店に長居をする理由はなかった。
「お水ならいくらでも出せるけど、この店の扉を開けられたっていうことは、あなた何か願いごとがあるんじゃない? 私の名前はナギ。ここで、願いごとをする人を待ってるの。ここは何でも願いごとを叶えられる場所なんだから」
ふいにかけられた言葉にニニは戸惑って、少しいぶかしげな顔をする。
「怪しい店だって思ってる? ふふ、都会の歓楽街でもないのにこんな日付が変わるような時間までやってるなんて、怪しい店に決まってるじゃない」
そう言って笑うナギを前に、ニニは自分の膝に置いた手に視線を落とした。ただ楽に死ねたら、なんて本音を言ったところで無為に心配をさせたり、引き止められても困る。
「特に……ないです……。あっ、でも友達……には謝りたい、かも」
「その程度なら、こんなところで願わずに、お友達に直接言ったほうがずっといい。違う?」
「それは……できないです」
ニニは心が波立つのを必死に抑えようとして押し黙ったが、女性は学校の教師たちのようにニニを問いただすことなく、じっとニニを見つめて次の言葉を待っていた。
「私の……せいで、死んでしまっ……」
そう言葉にした途端、ニニの視界がにじんで歪み、膝の上で握りしめた手に温かい涙がぽつぽつと落ちる。
舞歌にただ、謝りたい。しかしもう彼女に会うことはできない。なぜ舞歌が死ななければならなかったのか、何が悪かったのか。
この四日間、何度も何度も繰り返した問いがニニの頭の中を駆け巡り、やがてうつむいていたニニはすっと顔を上げた。
「私、願いごと、あります」
ナギは静かにうなずくと、カウンターの内側から古びた大きな革張りの本を取り出した。深い葡萄酒色の本は少し埃っぽく角が崩れているが、大切に保管されているのか本を閉じるベルトは最近補修されたらしく新しかった。
「この本は、『世界を変える願い』を何でも一つ絶対に叶えられる、不思議な本。そしてこの店の扉は、この本が気まぐれに選んだ者しか開けられないようになってるの。つまりあなたは、選ばれた一人よ。この気まぐれな本にね」
おとぎ話の魔女のような口ぶりに、ニニは泣きながらくすりと笑った。どうせ夜明け前には死ぬのだから、この女店主の即興劇に付き合うのも悪くはない。
「変なの。でも何でも絶対に叶うのかあ。世界を変える願いなら、なんでもいいんですか?」
ナギの隣に立つ青年が、ニニの前に水を注いだグラスを置いて、ニニの問いかけに小さくうなずく。
「誰かひとりのためではなく、世界のために願われたものならば、なんでも」
「サクヤの言う通り、それが世界のためになる、とあなたが心の底から強く信じている願いならば、なんでもよ」
ナギとサクヤと名乗る二人の不思議な会話を聞きながら、ニニは自分の胸の内に渦巻く今の気持ちが少しずつ言葉になっていくのを感じた。
「その顔を見ると、願いは決まっているんだね。ずっと前から」
ニニがうなずくのを見て、ナギは革張りの本を開くと、まだ何も書かれていない白紙のページをニニに差し出す。
「この本に願いごとを書く前に、二つだけ、伝えておかないといけないことがあるの。まず一つ。ここに願いを書いたら、今のあなたは一度生を終えて消滅する。そして自分の願い通りに書き換えられた世界で新しい命として生まれ、生きていくの。つまり、今のあなたは死んでしまうということ。もちろん、ここで私たちと会って願いを叶え、自分の願いが世界を変えた記憶も失われるわ」
ナギが告げる自分の死を暗示する言葉にも、ニニは動揺しなかった。むしろ、何もかも捨ててしまおうと思っている身ならばちょうどいい。
「そして二つ目。自分の叶えた願いは、修正も取り消すこともできない」
「修正なんて必要ないです。何か書くものをお借りしてもいいですか」
ニニは肩をすくめてみせ、片手をナギに差し出した。
あまりにあっさりと自分の死を受け入れるニニの姿に、サクヤは少し驚いた表情を浮かべる。
「願いごとを叶えたら死ぬって言われても、びっくりしないんだね。だいたいの人はここで諦めて去っていくよ。どんな願いもたいていは、命あってのものだからね」
「いいんです。どうせ、この後死のうと思っていたから。むしろ、死ぬ大義名分ができてよかった」
濡れたブレザーの袖で涙を拭って、ニニは笑う。
ナギはじっとニニを見つめてから、カウンターの上に透明なガラス製のインク壺を置く。中には晴れた日の海を思わせる濃い青のインクが揺れていた。そしてニニの手には、繊細な細工が施された透明のガラスペンが差し出される。
見た目よりも重さを感じる、透き通った美しいペンを右手に、ニニはペン先をインク壺へと落とす。
ためらうことは何もない。綴るべき言葉はもうすでにニニの中で決まっていた。
透明なペン先は、長い時間に染められて少し黄色くなった紙の表面を迷いなく滑り、海の色をした言葉が生まれていく。
「これでいいです」
最後の一文字を書き終えたペン先が紙の上から離れ、ニニがほっと息をつく。
ニニが記したのは心からの願いでもあり、自分が後にするこの世界への最期の復讐でもあった。
ニニの綴った海の色に染まる文字列を見て、サクヤはゆっくりうなずく。未だガラスペンを握って頬を上気させているニニに、ナギは優しく問いかけた。
「どうして、これを願ったのか、聞いていい?」
「いじめられている私をかばって死んだ親友は、もう戻ってこない。こんな、こんなバカげた死を、深い悲しみを、もう私以外の誰も経験することが無いように。生まれてから死ぬまでに話せる言葉の数が有限だとわかってたら、きっと人は言葉をもっと大切にすると思う。感謝と愛と、喜びと、そういう誰かを救う言葉だけに満ちた世界になって欲しい」
ニニは自分が今さっき綴った文字列を、愛おしそうに指でなぞる。
「だからこれで……」
〈人は生まれてから一〇〇〇語、意味のある言葉をしゃべったら死ぬ〉
本の上に刻まれた文字を追っていたニニの目が、ふいに見開かれる。
「あれ……これ……って……まさか……」
ニニの右手から、透明なガラスペンが落ちて紙の上を転がった。
今のニニは、自らの手が生み出した文字列によって変わってしまった世界を、すでに知っていた。
「私の、願いごとが……世界を?」
ニニが呟いた瞬間、紙の上に並んだ文字列がぼんやりと青い光を放ち、ニニの着ていた濃紺色のブレザーが、壊れたテレビの画面の砂嵐のように揺らいでざらざらとかすれ、紺色の襟がついたセーラー服へと変わっていく。
目を見開いたまま震える自分の両手を見つめていたニニは、全てを悟った悲痛な顔で、目の前に立つナギとサクヤを見上げた。
「ナギ、さん……私……」
「おかえりなさい、ニニ。あの日、あなた自身が書いた願いごと、思い出した?」
ナギの言葉に確信したニニは、顔を歪ませ目の前に置かれた本を見て、そして両手で顔を覆った。
「もしかして全部、私の、せい……? 私が、……私が? 私が殺したの? 過去の舞歌も、今のマイカも……みんなみんな。私が……、私が二十三年前の七月二十日、『あの日』に、世界がそうなるように願ったから! 私が願ったから!」
自分が生きる理由にしていたほど、追い求めてやまなかった世界の真実が、自分の中にあった。
「私が世界を、マイカを殺した……っ、あぁぁあああぁぁッ」
その言葉が意味する現実の重さに耐え切れず、ニニの心が黒く押し潰されひしゃげていく。
ニニは自分の声が枯れ果てるまで、叫んだ。
サクヤは口を閉ざしたまま、ニニの前に置いた水のグラスを下げ、かわりにニニが以前好きだと言った紅茶が入ったティーカップを置く。
それからしばらくの間、嗚咽をもらして泣き続けるニニを、二人は黙って見守っていた。ニニの前に置かれたティーカップからふわりと湯気が立ち上り、ゆっくりと流れる時間に溶けていく。
静かな空間の中で、しかしニニはくしゃりと顔をしかめて目を閉じ、荒れ狂う心の海で溺れないよう必死にもがいていた。自分の選択への後悔、マイカや親友たちへの懺悔、それすらももう二度と叶わない現実が、ニニの生きる気力をさらっていく。肩で短く浅い呼吸を繋ぎながら、ニニは叫び出したい衝動を必死に抑え込む。
そう、全ては、自分のせいだったのだ。
あの日から世界の人々が声を失ったのも、ウズメやナユタがつらい目に遭ったのも、マイカが死んだのも、全て。
どうすればいいのだろうか?
堂々巡りする思考の中でどれだけ必死に考えても、ニニは自分の中に、世界を救うための光を見つけることができなかった。
やがて甘く優しい香りにそろりと顔を上げたニニは、涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭って、両手を祈るように結ぶと、嗚咽に枯れた声で目の前の二人に嘆願した。
「教えてください。二十三年前の『あの日』の願いごと、それがこの世界が壊れた原因だったんですね?」
「壊れたのではなく、あなたの願いでそういう風に『変わった』だけよ」
「私は、私は取り返しのつかない愚かなことを願ってしまった。やり直したい、全部、全部。……けど、一度書いた願いごとは取り消すことができない。あってますか」
ニニの悲痛な声が響く店内で、ナギとサクヤは押し黙ったままゆっくりとうなずく。
「私は……『あの日』の私は、許されないことをしたんだ……」
「ねえニニ。かつてのあなたがこの本に託したこの言葉たちを、『取り返しのつかない愚かな願い』だとは、私は思わない。だって、あの時のあなたにとって、世界が幸せになるよう一生懸命に考えた、世界のための願いだったんでしょう? この本があなたの書いた願いを叶えたことが、それを証明してる」
「でも、まさかこんなことになるなんて……私は、みんなに謝る事すらできない……」
「ニニ。何度も私は言ったわよね。『ここはなんでも願いを叶えられる場所』だって」
うつむくニニの言葉にナギが優しく微笑むと、カウンターテーブルに置かれたままの海色のインクが入ったインク壺を指差した。飴色のカウンターテーブルの上で、ガラスのインク壺が照明を弾いて青くきらめく。ニニの脳裏をよぎるのは、さざめく波音とマイカと一緒に何度も歌った歌、そしてマイカとの海辺での待ち合わせが書かれた、穏やかな青空色の便せんだ。いつしかニニは記憶の青い光の中で、自室の机に向かいマイカに宛てた手紙を書く、自分の後ろ姿を思い出していた。
そういえば、マイカに手紙を書くときはいつも、書いては消し、また書いては書き直し、時には書き上げた後にもいくつか文字を足して綴り、想いを込めて封をしていた。
「そうだ……それなら」
もう二度と戻れない、甘く懐かしい日々の思い出は、やがて一つの光に姿を変えて、ニニの心を照らし始める。
「ここに書かれた願いごとの文字は確かに消せないけれど、もしかして、手紙みたいに文字を足すことはできる……? そういうことですか?」
ニニがそう言ってナギを見上げると、ナギは嬉しそうに笑ってうなずいた。
「そういうこと。元の願いの文字列に文字を足せば、さかのぼって最初の願いをこの本に書いた日から、世界がもう一度書き換わる。ただ、そうすると今のあなたはあなたのままではいられないし、私たちのこともこの場所のことも忘れて、また新しい世界を新しいあなたとして生きていくことになる」
マイカを助けられるかもしれない。その可能性に気づいたニニはナギの言葉を聞きながら、すぐさま本の上に手を伸ばし、転がったままのガラスペンを手に取った。しかし、ペン先をインク壺に漬ける右手が重い。
ニニの脳裏には、思い出した過去の自分の母親やクラスメイトたちの顔が、次々とよぎっては消えていく。そして彼らからの罵声や心無い言葉は、ニニの耳の奥に残り続けている。過去の自分の痛ましい環境や壊れかけていた心を思い出した今となっては、目の前の本に綴られた「あの日」の自分の願いもまた、確かにナギの言う通りニニにとっては真実なのだ。
手が止まったニニを見て、ナギは少しおどけた声で続ける。
「もちろん、あなたと同じように文字が足せるって気づいても、願いごとを修正しない人もいるわね。その場合はこの世界の仕組みを知ってしまったわけだから、すべての理から解き放たれてヒトではないもの……この世界が終わるまで見守る存在になるけど。私とサクヤのように」
「心配せずとも、けっこう楽しいですよ。ここでの生活も」
ニニはペンを握ったまましばらくうつむいていたが、やがてゆっくりと顔を上げると、目の前で見守っている二人を見つめ返す。その表情は、涙で濡れたまま笑っていた。
「あの日の私は……なんにもなくて、舞歌さえ失って、何もかもどうでもよかった。でも今の私は、あの日の私の願いが世界を壊してしまったことを、知っています。だから、今、私はどうすればいいのか、わかっています」
ナギは微笑んで、海をたたえたインク壺をニニに差し出す。
ニニは右手に握るガラスのペン先にインクをつけて、青く輝く文字の上へかざした。
すべてに絶望して死にたかった「あの日」の自分も、すべてを失った今の自分も、壊れてしまった世界の何もかもを救うための願いを、もう一度。
ニニの握る透明なペンの先が紙の上をゆっくりと滑り、青い光が足されていく。
いくつかの文字を書き足し終えて、ニニは何度も紙の上に並ぶ文字を読み直してから、ようやくほっと息を吐いて泣きながら笑った。
「これで、いいです」
ニニはガラスペンとインク壺を、手を差し出したサクヤに手渡す。それから、サクヤが淹れてくれた紅茶のカップに手を伸ばした。この店でナギとサクヤと一緒にこの紅茶を飲むのも、これで最後だ。少し冷めた紅茶の優しく甘い香りが、たくさんのものを失ってまだ埋まらないニニの身体に染みていく。
「まだ少し時間があるなら、お別れの前に聞いていいですか? ここは結局、どこなんですか? ナギさんとサクヤさんは何者なんですか?」
「ここはあらゆる次元と時間と、すべてに繋がる場所。例えば、いつかあなたが飲んだホットミルクティーの牛乳は、今からだいたい百年とちょっと前、歴史の教科書では第二次世界大戦と呼ばれている時期のイギリスから毎朝届けてもらってるの」
ナギの告白に半信半疑になりながらも、ニニはこの場所で二度顔を合わせている金髪の少年と、彼とナギが交わしていた戦争についての話を思い出す。
それに、ナギの言うことが事実であれば、この店を訪れるたび、クリームソーダやプリンアラモードといった、色とりどりの季節の菓子と飲み物が次々と出てきたことにも合点がいく。信じる、信じないに関係なく、ナギの言う通りこの空間は本当に、どこでもないどこかなのだろう。
「私とサクヤは、……なんなんだろうね」
「ニニさんと同じように、遠い昔、この本に願いごとをして、世界から追い出された、世界の観測者です。傍観者、と言ったほうがいいかも。世界に対して、見守る以外にもう何もできないですからね」
「お二人はこの本にどんな願いごとを書いたんですか?」
「それは……秘密です」
「ニニ、あなたが願いを修正せず、世界からはじき出された観測者として、私たちとここに残ることを選んでいたなら教えてあげられたのにね」
最後まで怪しい口ぶりの二人に、ニニは思わず笑った。それからニニは隣の椅子に置いてあったトートバッグから、ナユタに託された携帯端末を取り出し、カウンターに置く。自分が書き足した文字で再び世界が書き換わるなら、きっとこれも必要なくなるのだろう。
少しずつ眠くなっていく意識の中、ナユタやウズメ、チユキにまた会えることを祈りながら、ニニはマイカの澄んだ歌声を思い出す。
「またマイカと歌いたいなあ」
「歌えるわ、きっと」
ナギの声を聞きながら、ニニはカウンターに頬杖をつき、やがて寄せては返す波を思わせる眠気に耐え切れず、両腕を置いてその中に顔を埋める。
「ナギさん、サクヤさん、ありがとうございました。また……いつか……」
そう最後にこぼして、ニニは心地よい眠りの波間に落ちていった。




