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第十三話 08072032

 いつだって月曜日は憂鬱だが、火曜日も水曜日も変わらず憂鬱だ。しかし今週は、いつもと少し様子が違った。塔屋に現れた黒髪の少女から突然弁当を手渡された月曜日、それ以来毎日欠かすことなく、ニニは彼女から弁当を手渡され続けていた。昼休みになるとニニより早く屋上にたどり着いて待ち構えている彼女は、一緒に弁当を食べながらも黙り続けるニニの横で、一人何かを話しながら上機嫌で弁当を食べ、空になった弁当箱を二人分引き取ってまた教室へと帰っていく。

 家に帰っても食べるものがないニニとしてはありがたかったが、あとで見返りに金銭を求められるのも怖かった。

 弁当を渡され始めて四日目の今日、ついにニニは初めて自分から口を開いた。

「……あの、何がしたいんですか……あなたは一体……」

 晴れ渡る空に溶けていく弱々しいニニの呟きにはたと箸を止めた少女は、弁当箱と箸をベンチに置いて立ち上がる。

「ありがとう、やっと私のこと聞いてくれた! 私は隣のクラスの三笠舞歌(まいか)。実はね、折り入って高木さんにお願いがあって、こうして三顧の礼をしているってわけ」

「三個の、霊……?」

 舞歌と名乗った少女を、ニニは見かけたことが無いわけではない。選択授業である音楽の教室で、隣のクラスの前の廊下で、いつも誰かに囲まれて笑っている明るい人気者だ。

 中学二年生になってニニが執拗ないじめのターゲットになってから、ニニはクラスメイトの顔と名前を覚えることを辞めた。けれど舞歌の名前と顔だけはなぜか、ニニの印象に強く残っていた。それは音楽の授業でいつも、心から楽しそうに歌う姿を見ているからかもしれない。

「高木さん、歌うの好きでしょ。私と選択授業で一緒だもんね。実は先月、屋上で高木さんが歌ってるのをたまたま聞いちゃってさあ」

 舞歌の言葉にニニは食べかけの弁当箱の上に突っ伏して、耳まで赤く染めながらうなった。雨の日は雨音が声を消してくれるので、ニニはいつも屋上で一人傘をさして歌うのが好きだった。他に誰もいないか確認しているはずなのに歌を聞かれていたとは、歌うことに夢中になりすぎていたのだろう。

「歌うの、好きなんでしょ?」

「うん……まあ……誰にも迷惑かからないし……」

「ということで高木さん、よかったら私と合唱部を作らない? この学校、私たちが入学する前の年に合唱部が廃部になってるから、それを復活させたいんだ」

 舞歌の意外な申出に、ニニは驚いて目を見開いた。自分に声をかけてくるだけではなく、一緒に何かをしようと誘われたのは、この学校に入学して以来初めてだった。

「なんで私なの? う、歌が上手い人、他にもいそうなのに」

「私が一緒に歌いたいって思ったのは、高木さんだから」

 屋上を駆け抜ける熱い夏風に長く黒い髪をさらさらと揺らして、ニニの前で仁王立ちした舞歌が自信たっぷりに笑みを浮かべる。

「歌って、私と」

 差し出された舞歌の手を見つめて数秒、気づけばニニは無意識のうちに自分の手をそっと舞歌の手に預けていた。自分の中に誰かと関わろうとする気持ちがまだ残っていることに驚きながらも、ニニは自信なさげにうつむく。

「手伝うのはいい、けど、私じゃ大したことできないかも。先生にも無視されてるし」

「協力してくれるの? やったあ! 昨日七夕でお祈りしたかいがあったわ」

 ニニの承諾を勝ち取って大喜びする舞歌の耳に、ニニの言葉など届いていないらしい。ニニはため息をついて、弁当箱に残ったソーセージをつついた。舞歌もニニの横に座りなおすと、自分も弁当の続きを食べ始める。

「じゃあ早速生徒会に掛け合ってくる! ひとまずは女子だけの部にしたいんだけど、いいよね?」

「それは三笠さん……に任せるよ」

「舞歌って呼んで。私もニニって呼んでいい?」

 舞歌の上機嫌な声が紡ぐ自分の名を意味する音を聞いて、ニニはうつむいて憂鬱そうな顔をした。

「私、自分の名前好きじゃなくて」

「なんで? ににって可愛い音なのに」

「母親の、二人目の男との間にできた二人目の子どもって意味らしいから……」

「そっかあ。じゃあ、高木さんのほうがいい?」

「苗字も嫌い……かも」

「えええ? もうー、じゃあそうだなあ、ににっち、タカニニ、うーん違うなあ……ニニギ。あ、ニニギにしよう!」

 この短い間のやり取りで、舞歌は一度こうと決めたら貫く性格であることを把握しつつ、不思議な音の並びに思わずニニはえええと声を上げる。

「まあ、別にいい、よ」

 不満そうに答えつつも頬をうっすらと上気させたニニは、内心嬉しさのあまり喜ぶのを必死にこらえていた。

 ニニギという音、それはニニが誰かに初めてつけてもらった優しい呼び名だった。

「よろしく、ニニギ」

「こちらこそよろしく……ま、舞歌」

 お互いに箸を持っていない左手で握手を交わす手のひらは、少し汗ばんでいて温かかった。

 昼休みが終わって舞歌と別れ、ニニが教室に足を踏み入れるやいなや、ざわめきの合間に悪意を含んだささやき声が混じる。

「ああいう家庭に払う助成金は税金の無駄って、うちの親父も言ってたわ」

 男子生徒の声に、どっと笑い声が起きる。ニニは自分の席に座って目を閉じ、授業の始まりを告げるチャイムをひたすらに待った。

 授業中は休み時間より気が楽だった。淡々と授業を受け、終わったら荷物をまとめて誰よりも早く教室を出ていく。校門をくぐった瞬間の解放感はしかし、自宅に近づくにつれてまたどろりと重く、憂鬱な気持ちに打ち消されていく。

 夕方だというのに湿度の高いむっとする熱い空気の中を歩き、ニニは自宅からほど近いコンビニへ向かう。自動ドアが開くと、蒸し暑い外とはうって変わってひんやりとした冷蔵庫を思わせる涼しい空気が吹き付けてくる店の入口から、ニニはそっとレジを覗いた。

 レジで接客をしているのは、ニニとそう年が変わらない茶色い髪の小柄な少女だ。レジ待ちの客をさばききった少女はニニの姿に気づくと、無言で店の裏口を指さし、隣にいるもう一人の店員にカウンターを任せてバックヤードへと下がっていった。ニニもそれを見て、店を出て裏口へと向かう。

 ゴミ箱や段ボールの積み上がる雑然とした裏方で、少女は白いコンビニの袋を二つ提げてニニを待っていた。

「はい、今日はこれ。ハムは私のサービス」

「ごめんなさい……ありがとうございます、うずめさん」

「いいのいいの謝らないで。私も中学卒業して毒親から離れるまで、すっごい苦労したから放っておけないだけ」

 ニニにうずめと呼ばれた少女は、廃棄弁当や棚から下げた菓子パンが詰まったコンビニの袋をニニに手渡す。うずめから譲り受ける食べ物は、ニニの生命線だった。

 数年前、母親が連れ込んだ男に煙草を買いに行くように命じられ、困り果てて訪れたコンビニで幼いニニを接客したのがうずめだった。ニニの姿が自分の生い立ちと重なって見えたうずめは、すぐに児童相談所に通報してくれた。しかし、それを理由に後日母親は男と別れることとなり、激怒した母親にニニはひどく殴られた。

 その事件をうずめはずっと気に病んでいるらしく、それからというもの週に三回の出勤日には、こうしてニニに食べ物をこっそり分けてくれる姉のような存在となっていた。

「むしろ、ごめんね。こんなことしかできなくて」

 すまなそうにそう言ううずめの背後から、店内に残した同僚がうずめを呼ぶ声が聞こえてくる。

「それじゃ、また明日ね」

「ありがとうございます!」

 急いで店内へと戻っていくうずめの背中を見送り、ニニもまた踵を返して自宅へと歩いていく。

 自宅へ近づくごとに街の喧騒は遠くなり、住宅街の中ほどにある古いアパートにたどり着くと、ニニは二階の一番奥の扉のドアノブに、ポケットの中から取り出した鍵を差し込む。

 きしむ音を立てて開けた室内は、普段なら真っ暗なはずだった。

 しかし今日は奥の部屋だけ明るく電気が灯っており、ニニは顔をしかめて中に入ると、そっと扉を閉めた。

「ただいま」

 聞こえているはずのニニの声に部屋の奥からの返事は無く、ただ小さな物音だけが静かな部屋に響いている。

「お母さん、ただいま」

「うっさいな、聞こえてるから」

 玄関を開けてすぐのキッチンと、その奥に一つ部屋があるだけの狭い自宅で、ニニは両手に持った荷物を声の主から隠すすべなどない。靴を脱いでニニが明るい部屋に入ると、着飾った出勤前の母親が鏡台の前で化粧をしていた。

「これ……もらってきた」

 ニニは部屋の真ん中にある机に、先ほどコンビニでうずめからもらい受けた食料の入った袋を置く。

「ちょっと、そこに化粧品置いてあるから気を付けてよ!」

 怒鳴り声にびくりと肩を揺らし、ニニは荷物を机の端に置きなおす。母親は二つのコンビニの袋をじっと見つめると、ブランドの財布から千円札を一枚抜き取ってニニに渡した。

「あたしさ、来週まで旅行行ってくるから。そんだけ食べ物あんならこれで足りるでしょ。あとは自分でなんとかしな」

「あの、お母さん、これだけ……?」

「は? 十分だろ。めんどくさ。ほんと、あんたなんて産むんじゃなかった。邪魔すぎる」

「ごめ、ごめんなさい」

 ニニは渡された千円札を大事に握りしめて、玄関へ向かう母親を見送る。この狭く薄汚れた家とは不釣り合いなほど着飾った姿の母親は、ヒールの高い靴に両足を滑らせると扉を開けて外に出る。

「お母さん、いってらっしゃい」

 ニニの声に一度も振り向くことなく、母親はヒールの音を高らかに響かせて立ち去って行った。

 ニニは母親の足音が聞こえなくなるまで玄関で立ち尽くして、それからそっと扉を閉めた。

 まだ大丈夫、まだ大丈夫。

 繰り返し唱えながら、ニニはコンビニの袋からたまごサンドイッチを取り出してかぶりつく。なぜか無性に、舞歌の作った卵焼きの味が恋しくなった。


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