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第十二話 記憶の水底

 冷たい。

 深い眠りから呼び戻される感覚にゆっくりと目を開けると、ニニの髪からは水が滴り、ブレザーの制服も全身びしょ濡れだった。

 校舎の階段の踊り場でうずくまって眠りこけていたらしく、壁に預けていた肩が少し痛む。昨日の昼から何も食べていないせいで、踊り場で昼寝というより気絶していたのかもしれない。

 ぼんやりとしていたニニは、頭上に人の気配を感じて見上げた。するとニニと同じブレザー姿の女子生徒が三人ほど、上階の踊り場からニニを見下ろしてクスクスと笑っていた。

「お風呂に入れない分、きれいになってよかったね」

 女子生徒たちは高い声でおかしそうに笑って、ぱたぱたと走り去っていった。ニニはゆっくりと立ち上がってスカートを軽く絞り、水の滴る髪も絞ってため息をついた。

 水の入ったバケツごと落とされなくて、運がよかった。そんなことを思いながら、ニニは足元の水たまりを踏みしめて一番近い女性用トイレに入ると、ブレザーのジャケットを脱いで洗面台でもう一度軽く絞り、ふと隅にあるゴミ箱を見つめる。ニニがそっとフタを開けて中を見ると、昼休みに入ってからずっと探していた自分の黄色い弁当箱が、真っ二つに割られて入っていた。

「……ふふ」

 それを見て、ニニは思わず小さく笑う。いつも弁当の中身を捨てられるので、今朝は小さな報復として、ニニは試しに弁当箱にわざと濡れたぞうきんを詰めてきたのだ。弁当箱が割られているところを見ると、相手はきっとニニの思惑に激怒したのだろう。

「ざまーみろ。でもまた新しく買わないとなあ、お弁当箱」

 水が滴らない程度にブレザーから水抜きをしたニニは、昼休みのざわめきに背を向け、屋上へと続く階段を上っていった。

 夏休みまであと二週間ばかりとなった七月の空は真っ青に染まり、早くも夏らしいもくもくと大きく膨れた入道雲を浮かべている。頭上から降り注ぐ灼熱の陽射しは痛いくらいだが、海からの風が心地いい。ここにいれば日焼けを嫌うクラスメイトたちも来ないし、濡らされた制服も身体もよく乾きそうだ。

 ニニは濡れたスカートをはためかせながら、屋上に作られた塔屋にかけられたはしごに足をかけ、さらに上へのぼる。

「あ……」

「どうも」

 塔屋の上までのぼりきって、この街で一番空に近い場所にたどり着いたニニを待っていたのは、同じブレザーの制服を着た隣のクラスの女子生徒だった。

「お邪魔してます。私、実は待ってたんだ、高木さんのこと」

 そう挨拶されたものの、ニニは返事をせず、はしごから塔屋の上へ上がることなく、すぐ下へ降り始める。

「待って! 待ってごめん、私がここどくからさ」

 顔を合わせるや否や立ち去ろうとするニニを呼び止めて、塔屋の上にいた少女はニニの腕を掴んだ。

「あれ、なんか高木さん濡れてない?」

 ニニは押し黙ったまま腕を掴む少女の手を振りほどいて下に飛び降りると、屋上の片隅に置かれた古いベンチへと歩いていく。

 連日雨の続く梅雨から灼熱の太陽が照りつける夏の間は、屋上の塔屋だけは一人になれるニニにとって唯一の安全地帯だった。その場所に、先週の木曜日頃からあの黒髪の少女がやってくるようになったのだ。

 とはいえ、屋上は誰のものでもなく、ニニには食べる弁当もない。ニニはベンチに座ると、背もたれに濡れたブレザーを掛けて遠く向こうに見える、きらきらと光る海を眺めていた。

「隣、座っていい?」

 塔屋にいた少女はニニを追いかけてきたようで、ニニの返事も待たず自分もベンチの反対側の端に腰掛けて、海を眺める。

「高木さん、屋上好きなの?」

「……やめたほうがいいと思うけど」

「えっなになに?」

「私と関わるの、やめておいたほうがいい。あなたもくだらないやつらのターゲットになるよ」

「ターゲット?」

 能天気な少女に少し苛立ちながら、ニニは自分の濡れた髪を目の前で絞って見せた。肩につくくらいのミディアムショートのニニの髪から滴るしずくが、屋上の防水加工された緑色の床にぽたぽたと落ちる。

「授業以外は教室にいられないし、お弁当も教科書もトイレに捨てられるし。先生も見て見ぬふり。嫌でしょ、そんなの」

「…………」

 ひるんでくれれば、それでよかった。

 押し黙って横に座る少女の横顔をふと、ニニが覗き見る。少女はニニと目が合ったことが嬉しいのかにっこりと笑うと、白くて丸いクマのイラストがプリントされた布の包みをニニに差し出してきた。

「じゃあ食べよう! お弁当無いんだよね? よかったあ、二人分作ってきて」

 何を言っているのかわからず呆然としているニニの膝に包みを置くと、少女はもう一つ丸いハチワレ猫のイラストがプリントされた同じくらいの大きさの包みを取り出し、結び目をほどく。中からは白い弁当箱が現れ、少女は箸を出すといただきまーすと言って美味しそうに食べ始めた。

「なに……これ」

「ん? これ? お弁当。あっ、気にしないで、料理部の自主練で私が作ってるから」

 少女の手元の弁当箱には卵焼き、ミートボール、ミニトマトとブロッコリー、茹でたにんじんは星形に型抜きされており、隙間には高野豆腐の甘辛煮が詰められていた。

 どうすればいいのかわからずニニが包みを持ったまま困惑していると、少女は自分のスマホ画面をニニに見せてくる。

「ねね、高木さんも早く食べなよ。昼休みあと十分だし」

 ニニは弁当の包みを持ったままため息をついた。あと十分では制服も乾かないだろうし、何よりまたあの嘲笑がうずまく教室に戻ることを考えると気が重かった。

 うつむくニニの横で弁当をかきこんだ少女は、空になった弁当箱を手早くまたランチクロスに包みなおし、両手をぱんと合わせる。

「ごちそうさまでした!」

「あの……」

「よかったら、お弁当の感想聞かせて! 私、次移動教室なんだよね、だからお先に!」

 そう言うと、少女は荷物をまとめてベンチから立ち上がり、そのまま背を向けてすたすたと歩いて校舎の中へと去って行った。

 誰もいなくなり静まり返った屋上に一人取り残されたニニの頭上で、トンビが青い空に円を描きながらぴーひょろろと鳴いている。

「何なの……」

 膝の上に残された可愛らしい弁当の包みを見下ろして、ニニは深々とため息をついた。手を付けずあとで返しに行こう、と心では思うものの、育ち盛りのニニの腹は素直にぐうと空腹を訴える。

 ニニは少しの間葛藤したが、ついに包みの結び目をほどき、弁当箱のふたを開けて生唾を飲む。ニニはおそるおそる卵焼きをそっと箸で掴んで口に運んだ。甘くほろっと口の中でとろけるその味は、見知らぬどこか遠くの幸せな家庭の味だった。

 


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