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第十一話 さよなら2.0

「人気歌手が引退を発表したら、一部の過激なファンが無理にでも会おうとするから、不必要な移動は避けて当然」

 マイカと会えず意気消沈して帰ってきたニニをそう言って慰めてくれたのは、意外にも生徒会のミチルだった。ニニと一番親しいチユキは、食堂や授業でニニと顔を合わせてもマイカを話題にあげることはなく、むしろどこかよそよそしさすら感じられた。

 何もかもがいつも通りではなくなってしまったニニ自身も、授業や生徒会活動、他のチームの応援と忙しく動き回り、なるべくマイカのことを考えないように日々を重ねていた。

 そしてマイカからのチケットを手にしてから八日目、十月三十一日の今日、ついにマイカの最後の公演が行われる。

 昼の十二時に他の誰よりも早く食堂へ向かって、マザーの用意してくれたコロッケ定食を食べ切ったニニは、見送るマザーに一礼してまた自分の部屋へと戻る。

 マイカから今日の公演チケットを渡されていることを、そしてその裏面に書かれた今日の海での待ち合わせメッセージのことを、ニニはマザーを含め誰にも話さなかった。これは、マイカと自分の二人だけの、二人だけで乗り越える壁だとニニは信じていた。

 ニニはトートバックにチョコを入れた巾着と、今はすっかり普段使いするようになった予備の携帯端末をバッグへ入れた後、机の引き出しをそっと開けた。

 そこには、例の動画データの入ったもともとニニ自身が使っていた携帯端末がひっそりと隠してあった。いつも学園の中を移動する際はこうして引き出しに隠し、学園の外を出歩くときは持ち歩くことがすっかり習慣づいていた。ニニは隠していた携帯端末を引き出しから取り出し、バッグへ滑り込ませる。

 待ち合わせまでまだ余裕はあるものの、マイカに会う前に波音を聞きながら、少しでも気持ちを落ち着けたい。

「よし、忘れ物はないかな」

 トートバッグを肩に掛け、一度くるりと部屋を見回してからニニはコートを手に部屋を出た。

 玄関そばの食堂は学生でにぎわい、廊下まで楽しげな声が響いている。ニニはその明るい空気から逃げるようにスニーカーに履き替えて、外へ駆け出そうとしたその時だった。

「待って、ニニギ待って!」

 自分を呼ぶどこか必死な声と右腕を掴まれた衝撃で、つんのめったニニは玄関の扉で身体を支える。驚いて振り返るニニの前にいたのは、泣きそうな顔をしているチユキだった。

「ニニギ、どこに行くの? ニニギもいなくなったら私嫌だから! どこに行くのか教えて!」

 チユキが珍しく取り乱す様子に胸騒ぎを覚えたニニは、チユキの手を引いて玄関から寮の外に出ると、二人で建物の影へと移動した。

 誰もいない前庭のところどころにスコップや植木鉢が置いてあり、食料自給活動チームが仕事の合間に春に向けた庭造りを始めているようだった。学園から見える山々も落葉樹は赤く黄色く色づいて、いよいよすぐそこに迫る冬の気配を感じる。

「チユキ、私は気分転換に海に行くだけだよ。いったいどうしたの?」

 ニニの問いかけにチユキは顔をしかめると、うつむいて足元を見ながら小さく呟いた。

「ナユタが、帰ってこないの」

 チユキの口からこぼれた告白に、ニニの心臓がどくんと跳ねる。

 ウズメの退学を知った日の夜、技術保全活動チームの部屋でナユタと二人、ひそかに交わした言葉がニニの脳裏を駆け巡る。身体の奥底でほの暗い不安がふつふつと湧き出してくるのを感じた。

「ナユタ先輩が? いつから?」

「一昨日。マザーは理由を知ってるみたいだけど、聞いても教えてくれないの」

「なんだ、それなら大丈夫だよ、ナユタ先輩は優秀だから、仕事で呼ばれてるんじゃないの?」

 一瞬はナユタの身を案じたニニだったが、マザーが把握していると聞いて、内心ほっとする。それならば、あの日記のデータが原因ではなく、技術保全活動チームとしての仕事の可能性もある。

 しかしチユキは激しく首を横に振ると、ニニの前で頭を抱えて苦しげな声で訴えた。

「違うの! 違うの、たぶん私のせい。私が研究機関に報告したから」

「報告? 何を」

「私は悪くない。規則を破ったナユタが悪いのよ。携帯端末を使ってこそこそと……ねえ、夏にナユタがウズメの代わりに野外調査活動に参加したのを覚えてる?」

 チユキの問いかけに、ニニは一度消えかけた不安が再び腹の底からじわりと湧き上がるのを感じた。チユキの視線を受け止めてニニがまっすぐ見つめ返せば、混乱に揺れるチユキの黒い瞳とぶつかる。

「うん。覚えてる」

「あの日! ナユタ、勝手に古書以外の何かをデータで持ち帰ってたらしいの。先週、ニニギにスープの取り置きを頼まれた日、ナユタから持ち帰ったデータを技術保全活動チームと野外調査活動チームの合同報告として研究機関に上げたいって言われて……そんなのダメに決まってるじゃない! 私たちの活動は他のチームと違って、お邪魔する家の持ち主との信頼関係が一番大事なの。それなのにナユタは勝手に……今までリーダーの私がどれだけ苦労してきたかも知らないで……っ」

 ニニは目の前が真っ暗になる思いで、チユキの涙ながらの告白に天を仰ぐ。ナユタがなぜ、責任感が強くて規則を重んじるチユキを誘ったのか、今となってはわからない。しかしおそらくナユタは、信頼を寄せていた旧友でもあるチユキの説得に失敗したのだ。

 泣き出したチユキの背を撫でながら、ニニはこの場を切り抜けるための言葉を懸命に探す。

「それで、ナユタが不正に入手したデータを持っているって私が研究機関に報告したら、一昨日ナユタに出頭命令がきて、それきり帰ってこないの。ねえ、私がいけないの? 私が悪いの?」

「チユキは、悪くないよ」

 ニニはチユキに言い聞かせるようにゆっくりと、そしてはっきりと断言してやる。チユキがあのデータの内容やナユタの目的をどこまで把握しているかわからない限り、取り乱すチユキから今は離れたほうが賢明そうだ。

 なにより、この後はマイカとの待ち合わせもある。

「とりあえず、チユキはお昼ごはん食べてきなよ。その話は今日帰ったらゆっくりしよう」

「だめ!」

 チユキの手を一度はすり抜けたニニは再び腕を掴まれ、背の高いチユキに壁際へ追い詰められる。

「ねえ、ニニギは、ナユタからもいつの間にか『ニニギ』ってあだ名で呼ばれてたでしょ。もしかして何か知ってるの? ニニギも私に何か嘘ついてる? ニニギも私を裏切るの?」

「そんなことないよ、チユキは友達でしょ」

「ならニニギの携帯端末を私に渡して、今。ナユタは携帯端末にデータを隠してた!」

 チユキの半ば叫ぶような要求に、ニニはすべてを悟る。ナユタの行動は実直なチユキの心を壊し、チユキの中で友人に対する信頼が瓦解してしまったことを。

 動揺して感情的になっているチユキに、ニニが何を言っても、チユキは聞き入れてくれないだろう。誰が悪いわけでもない、と叫びたいのを何とかこらえながら、チユキが差し出す手を悲しそうな表情で見つめたニニは、震える手をトートバッグに入れ、とっさに予備の携帯端末を掴んでチユキに渡した。

「チユキ。チユキは悪くないし、私は裏切ってない。信じて」

 チユキは小さくうなずくと、ニニの携帯端末を胸元にしっかり抱いて、踵を返し校舎の方へと走って行った。

 未だ主の帰らない技術保全部の部屋で、今渡された携帯端末がダミーだとも知らず、中身を調べるのだろうか。壊れてしまった親友の背中を見送って苦しい表情を浮かべながら、ニニもまた学園の外へと走り出した。

 いつからか、全てが壊れ始めてしまった。何がきっかけだったのか、もう思い出せない。

 今はとにかくマイカに会いたい。その一心でニニは海へと走った。

 数日ぶりに秋晴れとなった空はどこまでも青く広がり、雲一つない。陽射しはほの温かく、けれど頬を撫でる海からの風はひんやりとしている。白い御影石の上を走って走って、ひたすらに走って、視界いっぱいに海が見えてくると、ニニはそのまま柔らかく冷たい砂を蹴って波打ち際まで走り抜けた。

 両膝に手を置いて上がる息を整えながら、すぐ足元まで繰り返し打ち寄せる波音に目を閉じる。この砂浜に立つと、たくさんのことを思い出す。幼い頃マイカと探検したこと、一人泣くために訪れた夜のこと、チユキやウズメと仕事の帰りに海に立ち寄った日や、マザーも誘ってピクニックをしたこともあった。

「まるでここが世界の端っこみたい」

 ニニの呟きも飲み込んで、海は脈打つように波音を響かせる。

 待ち合わせ場所の木製のベンチとテーブルがある場所まで、波打ち際の白い泡と遊びながら歩いて、ニニは歌う。

「歌よ、ここに在れ、私を、私にして」

 マイカが言っていた。歌は祈りだ。

 すべての人に覆いかぶさる「あの日」に始まった死の恐怖が、この世界から取り除けますように、そう祈ってニニは歌い、学園での日々を重ねてきた。マイカもみなが幸せに暮らせるようにと祈る歌を作ったばかりなのに、なぜ突然歌うことを辞めてしまうのだろうか。

 砂浜の真ん中にぽつんと取り残されたベンチにたどり着くと、ニニはトートバッグを置いて海に向き合う。ニニは大きく息を吸って、先日マイカに教わった祈りの歌を歌い始めた。

 風は冷たいながら穏やかで、ニニの歌声は秋風と一緒に天高くまで運ばれて空に溶けていく。頭上を駆ける太陽は少しずつ傾いて海へ向かい、青から橙に染まりゆく光を浴びて鳥が遥か向こうへ飛んでいく。高く低く、声と祈りを糾えるニニの瞳の中で、橙の夕陽色に変わりゆく光が揺れて弾ける。

 どれくらいの間、歌っていたのだろうか。ふいに背後からぱちぱちと拍手が聞こえて、ニニはゆっくりと振り返った。

 そこには、待ちわびたマイカが微笑んで立っていた。マイカの黒い髪が穏やかな風にさらさらと揺れ、膝丈のプリーツスカートが踊る。ニニの前に現れたマイカは、紺の襟に白い長袖の、ニニと同じ学園のセーラー服を着ていた。その姿に驚いて歩み寄るニニに笑いかけ、マイカは拍手を続ける。

「ありがとう。マイカ、待ってた。会えてよかった……。引退するって話は、ネットで見たから知ってる。けどそんなことより今は、会えて嬉しい」

 心から溢れるままに言葉を並べるニニにうなずいて、マイカはニニを手招きしてベンチへと腰掛ける。

「あのね、先週会えなかったこととか引退の理由とか、いろいろ聞こうと思ってたの。思ってたんだけど、なんかマイカの顔見たら全部吹き飛んじゃった」

 マイカの隣に座って照れくさそうに笑うニニを見て、夕陽を浴びて髪をなびかせたマイカは穏やかに微笑んでいる。

「その制服を着てるっていうことは、引退したら学園に戻ってくるんだよね? きっとみんなも喜んでくれると思う! もしよかったら、野外調査活動チームに入ってくれてもいいんだよ」

 頬を紅潮させて一人矢継ぎ早に話していたニニはふと、先ほどからマイカが一言もしゃべらず黙り込んだままなことに気づいた。

「……マイカ?」

 ただ優しく笑っているマイカを見ていると、隣にいるはずのマイカを画面越しに見ているように感じられて、ニニは思わずマイカの細い腕を掴む。

 マイカは自分の口元に人差し指を立てて微笑むと、小さく唇を開いた。

「先週は約束、守れなくてごめんね。オムライスとアップルパイ、すごく美味しかったね」

「うん」

「ニニギ、私ね、補声器、使えなくなっちゃった」

 波打ち際から響く波音に混じって耳に届いたマイカの言葉に、ニニは目を見開いた。

「…………え?」

 マイカは言葉を選んでいるのか少し考え込んでから、ニニの手を握って引き寄せ、その身体を優しく抱きしめた。ふわりと鼻先をかすめる薔薇の香りも触れた場所からほんのりと伝わってくる体温も、ニニが良く知るいつものマイカだ。ニニは耳元でマイカが小さく息をする音を聞きながら、目の前で燃えながら沈みゆく太陽の橙色を見つめた。

「私の声は補声器を通しても電子音が混ざらないから、不適合を発症してるって気付くのが遅れちゃった。ずっと検査してて正式に診断されたのは、この前会う約束を守れなかった日の朝だったんだ。だからね、歌手、もうできなくなっちゃった」

 耳元から聞こえてくるマイカの言葉すべてを、信じたくなかった。

 マイカが二週間ほど前のあの日、あの店で伝えたかった「大事な話」とはこのことだったのかという思いとともに、ウズメの話をしたとき少し元気のなかったマイカの横顔がニニの脳裏に鮮やかによみがえる。続けて、あの日記に書き遺されていた惨劇やナユタの話、ウズメと別れた日の記憶が一気にニニの中で湧き上がり、目の前が暗くなっていく。

「ほんと……なの?」

 声を振り絞って問うニニにマイカは抱きしめる腕を解くと、ニニをまっすぐに見つめてすまなさそうな表情で小さく笑ってうなずいた。足元のすべてが崩れて叫び出したくなる衝動のまま、ニニはマイカの両手を握った。

「ねえ! 何もしゃべらなければ大丈夫なんでしょっ? 一緒にいようよ、大丈夫、私がマイカを助けるから! ねえ、もうマイカは歌わなくていいから、……っ」

 叫んでから、自分の言葉が自分の願いもマイカの想いをも否定することに気づいて、ニニはぐしゃっと顔を歪め、その場で泣き崩れた。冷たい砂に両膝と両手をついて、嗚咽を漏らす。

 何が間違っていたのか、何をすればよかったのか、世界はなぜ、こんな残酷な形をしているのか。少しずつ失われていくすべてに対して、ニニはあまりに無力だった。

 声を枯らして泣き続けるニニの横にマイカもそっとしゃがむと、ニニの背を優しく撫でる。触れられたマイカの手は温かく、さらに溢れたニニの涙が点々と落ちて、砂に濃い色をにじませしみ込んでいく。

 うまく息もできないまま泣き続けるニニの腕を、マイカが引っ張ってベンチに座らせるものの、ニニは泣き止まない。マイカは困った顔をしながら、涙で濡れたニニの頬を両手で包む。ニニの瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれるたび、マイカの手を濡らしていく。

「今日ライブで歌うより、私は最後にニニギと歌いたいと思った。だからここに来たの」

「マイカ、もうしゃべらないで!」

「歌って、私と」

 涙で見えるものすべてがぼんやりとにじんで揺れる視界の中で、ニニは何度も瞬きをして必死に目の前のマイカを探した。

 鼻先が触れるほど近くで、視線を外すことも許さずじっとニニを見つめるマイカの瞳が、夕陽の橙色を弾いてきらめく。マイカの強い視線に射抜かれたニニの世界から、波音も風の鳴る音も何もかもが消えて、時間すら止まったような気がした。

「……うん」

 ニニがうなずくとマイカが嬉しそうに顔をほころばせて、ニニの手を引いて立ち上がる。涙でぐしゃぐしゃになった顔のままマイカに手を引かれたニニは、見覚えのあるスーツ姿の女性が、砂浜を望む道路際にたたずんでいるのをマイカの肩越しに見つける。それはいつもマイカを学園まで車で送り届けている、マネージャーのツミキだった。

 ツミキはニニと目が合うと、悲しげに目を伏せて深々と頭を下げる。ツミキの仕草は、マイカがニニに打ち明けた言葉がすべて事実であることを、残酷なまでに物語っていた。

 マイカに手を引かれるまま、涙で濡れた顔のニニは波打ち際にやってくる。時折しゃくりあげながら制服の袖口で顔をごしごしと拭って背筋を伸ばすと、マイカが横でにこりと嬉しそうに笑った。マイカの笑顔を見て、ニニは覚悟を決める。

 今自分にできることは、歌詞のない歌を歌ってマイカに満足してもらうこと。今日満足するまで声を出せば、マイカも明日は考えが変わるかもしれないし、補声器の不適合もいずれ技術の進歩とともに解決する日が来るかもしれない。

 今を、明日に繋ぐために。

 ニニは大きく息を吸った。橙色の夕陽を浴びるマイカの髪を揺らす風に乗って、ニニの祈りの歌が空高くのぼっていく。自分の曲を歌うニニに微笑んで、マイカも目を閉じていつもよりさらに透き通る声でメロディを紡いだ。

 ニニの声に寄り添うマイカの声が、波音をたずさえて広い広い空間に溶けていく。少しずつ海へと向かう夕陽はさざめく波間に橙色の光を落として、遥か遠くまで続く光の道を作り出す。

 ニニは祈りを込めてマイカを先導するように、コーラスと誰も知らない架空の言語で織り上げられた祈りの歌を何度も歌い続けた。

 橙色に溶けた太陽がいよいよ水平線に近づいてきた頃、濃紺色の夜の気配が染み出した空から、ニニの声に伴走していたマイカの声だけがふっと消える。

 思わず横にいるマイカを振り返ったニニは、穏やかに笑って歌を紡ぐために大きく息を吸うマイカを見つけた。

「マイカ……?」

「歌よ」

 ニニの鼓膜を凛と震わせたのは、マイカと何度もこの砂浜で歌ってきた、あの合唱曲だった。ニニが顔を歪ませてマイカの手を握り締める。ナユタとあの夜に確かめた「あの日」の呪いが、頭をよぎる。

 意味のある単語を、一千語。

「マイカ、だめ」

「歌よ、ここに在れ」

 マイカは自分の手を必死に掴むニニにどこか請うような表情を浮かべて、天を仰いだ。

「歌よ、ここに在れ、私を、私にして」

「マイカ……」

 それはまるで、先ほどマイカの両手を握り、歌を捨てて一緒に生きていて欲しいと懇願したニニの叫びへの、返歌だった。

「歌よ、ともに在れ、私が、私であるために」

 ニニは目を閉じて顔をしかめ、首を振るとマイカをまっすぐに見つめ返して、泣き顔のまま微笑んだ。

 初めからわかっていた。

 マイカが選ぶ道、望むこと。

 今日ここで出会ってすぐ、マイカは残り僅かな言葉を使って伝えてくれたではないか。

「歌って、私と」

 マイカの言葉にニニはうなずく。胸いっぱいに吸い込んだ冷ややかな秋の空気が、ニニの心の奥、指先まで染み込んですべてを透明にしていく。

 歌よ、ここに在れ、私を、私にして。

 歌よ、ともに在れ、私が、私であるために。

 燃える太陽が少しずつ、光を放ちながら海へと溶けていく。空の濃紺、海を渡る風、すべてを照らす橙色の光に手を伸ばして歌うニニとマイカの歌声が、波音とともに響き渡る。

 このままいつまでも、二人で歌っていたい。

 ニニは笑いながら、隣で歌うマイカを見る。マイカはニニの視線に気づいてそっとニニに向き合った。

「ニニギ」

「うん」

「一緒に歌ってくれて、ありがとう。私、すごく幸せ」

 そう告げると、マイカはニニに背を向けて波打ち際へ数歩歩み寄る。

「もっと歌おう、マイカ」

 背後からのニニの言葉にゆっくりとうなずき、マイカはまぶしく光を放つ夕陽に向かって大きく手を広げた。

「歌よ、ここに在れ」

 祈りを紡ぐマイカの力強い声が海を走り、ニニの心を震わせる。そして美しい逆光の中、漆黒色に浮かび上がったマイカの姿がゆっくりとニニの目の前で崩れ落ちた。

「…………マイカ?」

 ニニはふらふらとした足取りで、つい数秒前まで透き通る美しい歌声で歌っていたマイカのそばに歩み寄り、波打ち際の濡れた砂に膝を付く。

「マイカ……」

 ニニが抱き起こしたマイカは、楽しそうに笑みを浮かべて目を閉じていた。手繰り寄せた手も温かい。足をもつれさせただけかと安心したニニの手の中から、マイカの腕が力なく砂の上に落ちた。

 海は沈む太陽の最後の一筋の光を飲み込んで、夜の静けさを含んだ濃紺色の空が頭上から降り注ぐ。波打ち際に押し寄せる波の音だけが、マイカの呼吸の代わりにニニの耳を打つ。

「…………っ」

 横たわるマイカに覆いかぶさり、ニニは声を殺して叫んだ。言葉になる前の感情がニニの心から溢れて涙に変わり、ぼろぼろとこぼれてはマイカの穏やかな顔に落ちていく。

 大切なものをすべて失い身体の真ん中を空っぽにして、ただただ泣き続けるニニの背に、そっと温かな手が添えられた。

「高木ニニさん、ありがとうございます」

 ニニが顔を上げるとそこには、遠くからニニとマイカを見守っていたツミキが立っていた。ツミキはニニに一礼すると自らも砂に膝を付いて、横たわるマイカを抱き起こす。

「この子から聞くのはいつもニニさんの話ばかり。私の娘の、マイカの最期のわがままを聞いてくれて、ありがとうございます」

「むす、め……、ツミキさんの?」

 ニニの言葉に小さくうなずいて、ツミキは手にしていたニニのトートバッグを手渡す。

 マイカはニニと同じく施設と学園暮らして、両親は知らないと言っていた。ツミキはどんな思いで、実母であることを秘めたままマイカのそばにいたのだろうか。何もかもに心が追い付かないまま、ニニは泣きながら首を小さく横に振って、差し出されたバッグを受け取る。

「あの、マイカは、ツミキさんは、……」

 ツミキはマイカの身体を横抱きにして、砂浜に座り込み、夜の闇色に変わっていく空を見上げた。

「マイカが移動に使っているあの車は、事務所に常に所在を把握されています。おそらく、今日の公演のリハーサルにマイカが現れないことを不審に思い、そろそろこちらへやってくるでしょう」

 その言葉にかぶせるように、遠くの空から空気を震わせて耳障りな低い音が響いてくる。過去に、学園で急病人が出たとき一度だけ、こんな轟音を立ててドクターヘリがやってきたことをニニは思い出す。

「この子のことは、マネージャーとして、母として、私が最後まで責任をもって守ります。さあ、ニニさんは行ってください」

「でも」

「マイカの補声器不適合発症を知ってなお、事務所は公演をキャンセルすることを許しませんでした。あなたまでそんな大人たちの犠牲になることを、マイカは望まないでしょう。だから、報道ヘリがあなたの姿を見つける前に、早く」

 ツミキの気迫に押されて、ニニが震える膝で立ち上がる。けれど、最後までマイカと一緒にいたい気持ちを飲み込むことなどできなかった。

 波打ち際のぬかるんだ砂の上で立ち尽くしその場を離れようとしないニニに、ツミキは優しく微笑んだ。

「さっき、最後にマイカの手を握ってくれましたね」

「……はい」

「そのときはまだ、温かかったでしょう。どうかこの子の体温を、覚えていてやってください。あなただけは」

 あふれる涙で、ニニの世界がにじんで崩れていく。

 波音と近づいてくるヘリの轟音にかき消されながら、ツミキが叫んだ。

「さあ、お行きなさい!」

 一歩、二歩あとずさると、ニニはマイカとツミキに背を向けて砂浜を駆け出す。

 にじんだ視界の中をがむしゃらに、大声で泣きながら何もかもわからないまま、ただ、走った。

 波音から離れれば離れるほど、マイカの死を受け入れることに恐怖を感じて、ニニは振り向くことすらできずに走り続けた。足裏が蹴る柔らかな砂の感触がやがて硬い御影石に変わり、上がる息と耳元を切る風の音を聞きながら、ニニは夜の訪れた空を仰いだ。

 ナユタが消え、チユキに疑われている今は、学園に戻ることすらできない。御影石を蹴って走り続ける足は自然と、真っ暗な闇の中にほの明るくともる光にすがるように、ニニをあの場所へと運んでいた。

 海を背に大通りをたどり、途中の路地を一つ曲がり飛び込んだ通りをまっすぐに走り抜ける。そしてニニは、誰もいない路地を明るく照らす、マイカと何度も訪れたあの店の扉を走ってきた勢いのまま身体で押し開けた。

「ナギさん!」

 コーヒーの香りが漂い、ほんのりと暖まった店内の一番奥、カウンターの内側にサクヤが、そしてカウンター席にはナギが腰掛けていた。

 ノックもせずドアベルも乱暴にかき鳴らして静かな店内に走り込んできたにも関わらず、二人はニニの来訪に驚くそぶりも見せず、黙ってニニの言葉を待っている。

「ナギさん! いつか言ってましたよねっ? 『何か願いごとはないの?』って。お願いです、叶えてください、私の願い」

 両膝とスカートを濡れた砂で汚し、涙で頬に髪を貼り付けたニニがナギにすがりつく。自分でも非現実的な、夢物語のようなバカげたことを言っているとわかっていたが、ひび割れた心がバラバラに砕けかけている今のニニに、他にすがれるものは無かった。

「ウズメもナユタもいなくなって、チユキも壊れちゃって、マイカも……っ、お願いです、みんなを返して……」

 その場で泣き出すニニを抱き寄せたナギが、何も言わず震える背を撫でて隣に座らせてやる。その温もりがツミキの手のひらとマイカの手を思い出させて、ニニはナギに抱きつくと、肩口に顔を埋めてまたぽろぽろと涙をこぼした。

「ううっ、ああぁっ」

「落ち着いて、ニニ。あなたは昔々、ここで願いごとを叶えたことを思い出してここに来たわけじゃないのね?」

「私はいつも会うたび聞かれた、ナギさんからの言葉を思い出してここにきました」

 しゃくりあげながら訴えるニニの背を優しくとんとんと叩いて、ナギがサクヤへ視線を投げる。ガラスのコップに水を注いでニニの前に置いたサクヤは、ナギの視線にうなずいてカウンターの内側の棚から大きく厚みのある革張りの古い本を取り出した。古びた革の角は崩れ、深い葡萄酒色になった表紙は、かつては鮮やかな赤い色だったことをうかがわせる。

 ニニはサクヤが目の前に置いた古めかしい本を前にして、ナギに問いかける。

「これは?」

「この本は、ここで願いごとを叶えてきたたくさんの人たちの記録よ。そしてここが、ニニ、あなたが遠い昔に願いごとを書いたページ」

 ナギは革張りの表紙に手を添え、分厚い古書の中ほどのページをゆっくりと開いて見せる。あの屋敷で目にした日記を思い出して身構えたニニだったが、目の前に示されたのは古びて端が茶色くなった白紙のページだった。

 ナギの言葉が理解できず、ニニは戸惑いながらナギを見つめる。ニニがこの古い本を目にしたのは今日が初めてで、ましてやここに何かを書き記した記憶などない。現に、目の前の古びた紙の上には何も記されていない。

「あなたはすでに一度、ここで心からの大切な願いをこの本に書いて、叶えているの。あなただけじゃない、私も、そしてサクヤも」

「本に書いて? 私が? そんな覚えないし、そもそもこのページ、白紙です」

「それはニニ、君が願いごとを忘れているからだよ。手をかしてごらん」

 そう言ってサクヤがニニに手を差し出してくる。言われるがままニニが片手を差し出すと、サクヤはその手を引いてそっと本の白紙のページの上に置いた。

「思い出してきて。ニニ。あなたの願いごとを」

 ナギの言葉がニニの耳に届いた、その瞬間だった。

 ニニが手のひらをあてた本から真っ白な光があふれだし、一瞬にして視界の何もかもが白く染まっていった。隣にいるナギも目の前のカウンターも、自分の手も身体さえも強烈なまぶしい光に飲み込まれて、何も見えない。

「ここで待ってるわ、ニニ」

 遠く、ナギの声を聞いたのを最後に、ニニは自分のすべてが白い光に溶けて、身体の感覚が遠のいていくのを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。

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