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第十話 午後三時に、海で

「来られないって、どういうことですか!」

 ニニの悲痛な声が静かな店内に響き渡る。

 なんと答えてやればいいものかと途方に暮れた顔で、ニニを前にしたナギとサクヤは顔を見合わせていた。

 午後二時四十五分、海を後にしたニニは、マイカとの約束より少し早めにいつものあの店にたどり着いた。

 誰も通らない路地でいつも通りほのかに明かりをこぼす店の扉を開き、暖かな店内にいるナギとサクヤに迎えられる。しかしニニがコーヒーの香りに気づく間もなく真っ先にナギから告げられたのは、マイカが今日は来られなくなったという予想だにしていなかった言葉だった。

「いらしたのはマネージャーのツミキさんだけだったの、午前中だったわ。いろいろ事情があって今日はマイカちゃんが来られなくなったって。それで、これをニニちゃんに渡して欲しいってツミキさんから預かったの」

 ナギがカウンターテーブルの上に置いたのは、少し細長い一枚の紙だった。会いに来るというマイカの約束が果たされなかったのは初めてのことで、ニニは混乱しながら差し出された紙を手に取る。そこには、来週日曜日である十月三十一日の日付とマイカの名前、所属する事務所名や東京にある大きなコンサートホールの名前が印刷されていた。

 それは今朝食堂のモニター画面上で見た、東京で開催されるマイカの引退前最後となる公演のチケットだった。

「ライブのチケット? なんでこんなの……」

「あのね、マネージャーのツミキさんは、本当はマイカちゃんの」

 そこまで言いかけたナギをサクヤがふいに片手で制止して、代わりに言葉を続ける。

「僕らも、ツミキさんからは詳しいことは何も教えてもらってないんです」

 サクヤの言葉に、ニニは顔をしかめて首を横に振る。大事な話があると言うマイカを気遣わせてしまった自分に、マイカを責める資格などない。けれど、先週彼女は別れ際に、確かにニニに言ったのだ。

「絶対に、絶対に来てって、絶対よって言ったのはマイカなのに……なんで?」

 カウンターテーブルにかじりついていたニニは、チケットを握りしめたままふらふらと数歩後ずさり、カウンター近くのテーブル席の椅子に力なく座りこんだ。

 海でたくさん歌って気持ちを波音に預けて、少し軽くなったはずの心が、また身体の奥へ重く深く沈み込んでいく。

 高価な、ましてや最後となるライブのチケットを渡されたところで、学園で面倒をみてもらっている学生の身でしかないニニには、東京へ向かう手段も金銭も無い。

「こんなもの欲しいんじゃないのに。会って、話がしたいよ、マイカ」

 身体の奥底から声と感情を絞り出して、ニニが呟く。すると、テーブルの上にチケットを置いて呆然としているニニの横へ、サクヤがやってきて向かいの椅子に腰掛けた。

「ねえ、君にとって大事なのは、こっちのほうなんじゃないかな」

 そう言ったサクヤの指が、テーブルの上のチケットをニニの目の前で裏返した。

 〈午後三時に、海で。マイカ〉

 そこには、いつもニニが待ちわびているマイカからの手紙と同じ、丸く整った文字が並んでいた。ニニは目を見開いてチケットを手繰り寄せ、白い券面の裏を見つめる。

「これ、マイカの字だ……」

 ニニは困惑した表情のまま、チケットに視線を落とす。公演は東京で午後七時から始まるが、裏書されたマイカの文字は公演が始まる前に、ニニと海での待ち合わせを伝えている。

 マイカが残したこの文字が何を意味するのか、マイカの意思をすくい上げようとニニが指先で文字を何度もたどる。

「君はマネージャーさんや僕らが何を言ったとしても、ここに書かれたマイカさんの言葉を一番信じているでしょう?」

 サクヤの問いに、ニニは今度こそ力強くうなずいた。カウンターの内側から二人のやり取りを黙って見守っていたナギは、どこか安堵したように息をついて、厨房へと下がっていく。

「それなら、大丈夫ですね。チケット、確かに渡しましたよ。ああ、それから」

 そう言ってサクヤは立ち上がり、カウンターの奥の厨房にいるナギを呼んだ。

「わかってるって。これでしょ」

 ナギが厨房から持ってきた白い小ぶりの紙袋をサクヤが受取り、ニニに差し出す。中には赤と白のギンガムチェック柄のペーパーナプキンにくるまれたパックが二つ入っている。

「今日本当は、二人にここで食べてもらおうと思ってた、オムライスとアップルパイ。午前中にマイカちゃんのマネージャーさんがいらしたとき、マイカちゃんの分は持って帰ってもらったわ。だからこれは、あなたの分。これで、今日は会えなかったけど、お昼ご飯は二人とも同じメニューでしょ」

「お昼、にしてはちょっと遅いですけど。さっき作ったばかりなので、もしよかったら食べてください。ミックスベジタブルもチキンもたっぷり入ってるから、みんなに見つからないように部屋でこっそり食べるか、海で食べてくださいね」

「今日は風が無いから、海に、行こうと思います」

 ニニはマイカからのチケットを二つ折りにして丁寧にポケットにしまい込んでから、ナギとサクヤに頭を下げた。丁寧にパックされて用意されていたオムライスとアップルパイには、使い捨ての木製カトラリーも添えられていた。二人はマイカが店に来られないことを知った段階で、それを知らされたニニが一人きりになりたがることをも予想していたようだ。

 二人の心遣いにニニは泣きそうになりながら、それを悟られまいと頭を下げ続け、最後に声を振り絞った。

「ありがとう、ございます」

 ナギとサクヤはそれ以上何も言わず、微笑んでうなずいてみせた。紙袋を提げて暖かな店を出たニニは、見送りに出てきたナギとサクヤを振り返る。

「次に会えるのを楽しみにしているわ」

 ナギの言葉にニニは一度会釈すると、足早に路地駆け抜け、目尻を拭いながら海へと走った。


 ***


 ニニの背中が見えなくなってからも、ナギとサクヤはしばらく店先に立ち尽くしてニニが走っていったほうを見つめていた。

「いよいよ次、かしらね。お互い、覚悟しておかなきゃね」

「つらいですけどね。それにしても毎回毎回この非効率的なシステム、いい加減なんとかしたくなってきました」

 珍しく感情を露わにして苛立ちを声音ににじませたサクヤを見て、ナギはおかしそうに笑う。

「ふふ、そうしてもらいたいのは山々だけど、あなたはもうここで一回お願いごと叶えてもらってるからダメよ」

「一人二回までオッケーってことにならないかなあ」

「意外と過激なこと言うのね。世界の改変なんて、一度きりで十分よ」

 ナギはどこか遠くを見つめるように目を細めて呟いてから、暖かな店の中へと戻っていく。サクヤもその後を追って、店の扉はゆっくりと閉められた。

 二人の会話を聞く者はなく、ただ誰もいない静かな路地を秋風が吹き抜けていく。

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