第一話 03092055
天の川銀河が頭上から落ちてくるほど空気が澄んだこんな夜は、月が凍る音が聞こえるらしい。
とうとうと光をこぼすまだ少し欠けた月の下、ニニは一歩、また一歩と狭い路地の古い石畳を踏みしめる。ほのかに明るい地面に、制服のプリーツスカートの影がふわりと揺らめくのが楽しくて仕方がない。
ニニは立ち止まって少しあたりを見回し、他の誰の視線も無いことを確かめてからくるりと回ってみた。たった一人のための舞台に早変わりした石畳の上で、濃紺色の襟がついた半袖の白いセーラー服をまとうニニの姿が、月明かりに青く白くぼんやりと照らし出される。肩あたりまで伸ばした明るい栗毛色の髪と、えんじ色のスカーフは、ニニの足取りにあわせて軽やかに風と遊ぶ。足元でともに踊る濃灰色の影は、輪郭を柔らかくにじませていた。
「先月観たマイカの踊りは、もっときれいだったなあ。それに声も! もっとこう、ニンゲンっぽい感じ」
艶やかな、けれどどこか少し電子音めいたニニの不満げな声は、人の気配のない路地裏に響いて吸い込まれていく。
「いいなあ、マイカの身体」
ニニは立ち止まってそろえた革靴のつま先を見下ろし、顔を上げて月に向かって手のひらをかざした。それから、指先でそっと自分の喉元に触れてみる。夜風で少し冷えた指先に、薄い皮膚の下で規則正しく脈打つ鼓動が伝わってくる。
「私もちゃんとニンゲンなのになあ」
はあ、と大きくため息をついて、ニニは青白く照らされた石畳を歩き出す。他に誰もおらず、建物の中にすらも人の気配がない裏路地を抜けて、少し坂になった道なりに小高い山の上へと歩みを進める。広々と視界が開けた高台まで一息にのぼりきって振り向けば、頭上には数えきれないほどの星と月の浮かぶ夜空が広がっていた。今晩は空気が澄んでいて月がまぶしいので、普段なら暗い海から天空へ立ちのぼる白い天の川も、いつもより心なしか淡く見える。
夜空はこんなにも美しいのに、マザーはいつも「昔は夜になると街が宝石のように色とりどりの電飾で明るかったから、夜空よりも地上のほうがきれいだったのよ」と言う。
確かに本で調べれば、過去の資料としてまばゆい夜景を納めた写真を無数に見ることができる。しかし今、マザーの言葉を思い出すニニの眼下には、ぽつりぽつりと灯るいくつかの街灯しか見えない。さらにその奥には、まるでそこだけぽっかりと空間が切り取られているような、真っ暗な海が広がっている。
人がほとんど住んでいない地上が、星空よりまばゆく輝くなどにわかに信じられない。けれど、「あの日」より前に生まれていたマザーの言う通り、二十年ほど前はこの場所も、夜空より地上のほうが美しかったのだろうか。その時代には、もっとたくさん人がいたのだろうか。
大きく息を吸えば、ようやく涼しくなってきた夜風の中に、水を含んだ土の匂いとかすかな潮の香りが混ざり合い、ゆっくりと身体に染み込んでいく。幼い頃から変わらない、もうすぐ秋を迎える故郷の九月の匂いだ。
自分が生まれるより前の世界に思いを馳せていると、ふと、スカートのポケットに振動を感じる。ポケットから取り出した携帯端末を慌てて覗き込むと、すでに三分毎のスヌーズになったアラームが現在時刻を画面いっぱいに知らせている。
「やっば! 七時! 五十八分! あと百二十秒切ってる! ごはんがーッ」
ニニは思わず叫んで端末をバッグに突っ込むと、踵を返して残りの坂を駆け上がっていく。ほどなくしてニニの背丈よりも大きな門が視界に現れ、その向こうに三階建ての大きな洋館風の建物が二棟ほど見えてくる。建物のいくつかの窓からは、カーテン越しにやわらかな明かりが漏れており、門から建物までの間に広がる前庭に、淡い光を落としている。
「待ってて私のチキン南蛮ーッ」
セーラーの襟とプリーツスカートをたなびかせながら、ニニは鈍く重い音を立てて目の前で閉じ始める門の間に滑り込む。
正面玄関の扉に全体重をかけて押し開けスライディング入館するやいなや、ニニの背後で閉じた扉からがちゃり、と音がして、玄関扉が自動施錠された。
「はあ、間に合った。あっぶなかった」
玄関の橙色の明かりの中で顔を上げたニニは、すぐ目の前にある人影に気づいて再び叫び声を上げる。
「うっわ! じゃなかった、マザー、ただいま帰宅いたしました」
「おかえりなさい、ニニ」
ニニは乱れた前髪をさっと直して背筋を正すと、自分の名前を呼ぶ女性に会釈をする。ニニの帰りを待ち受けていた濃紺のワンピースに白いエプロン姿の女性は、この学生寮の寮母だ。長い髪をふんわりとゆるめのお団子にまとめ、いつも笑顔で柔らかな雰囲気をまとっている。そんな彼女のことを、ニニをはじめこの学園の学生たちはみな、親しみを込めてマザーと呼んでいる。
マザーはやわらかく微笑みながらニニに会釈を返し、首をかしげて見せる。
「今日もずいぶんと門限間近にお帰りのようだけれど、野外調査活動は何時に終わったのでしたっけ?」
「えーっと、今日は金曜日なので午後二時には授業が終わって、そのあと五時まででした」
「そう。お疲れ様でした。今日あなたと一緒に仕事をしたチユキとウズメはもうとうに戻っていますよ。あなたは今までどこへ?」
「いつもの通り、海です海。そこの浜辺です。マザ~、勉強も仕事もちゃんとしてるし、お説教は勘弁してください。門限にはぎりぎりだけど間に合ったし、私、成績は優等生ですよ?」
「優等であることは、自称ではなく他称されるものですよ、ニニ」
「正論すぎてぐうの音も出ません~」
マザーはくすりと笑って優しくニニ、と呼びかけながら、乱れたセーラーの襟を直してやる。寮母であるマザーの優しい指先からは、ふわりと石鹸の香りが漂う。
「許して、ニニ。大人は心配性なのです。二〇五五年になってここ鎌倉もひと昔前よりはだいぶ人が戻ってきました。人が戻ってくるということは、残念ながら予期せぬ危険が増えるということでもあります」
「でも、海からここまで誰にも会いませんでしたよ。だからこのあたりはまだ大丈夫ですって」
「会わなかったのではなく、気づかなかった可能性は?」
マザーの年齢はわからないが、ニニにとって母と呼ぶには若すぎて、姉と呼ぶには歳が離れすぎている。けれどもし自分に母や姉がいたなら、こんな感じなのだろうかと思いながら、ニニは肩をすくめた。
「マザーのおっしゃりたいことはよくわかっています。マザーが私を、私だけじゃなくてこの学園に住んでる子どもみんなを守ろうと、いつも必死になってくださっていることも。なので、これからは七時半には戻るように善処します」
「良い心がけだと思います。それより早く晩御飯を。今日の調理場当番が何時に自由になれるかは、あなた次第ですよ」
「はあい。今日の当番って誰ですか?」
「私です。フルーツサラダも用意して待っています」
「わ! ごめんなさい、部屋に荷物を置いたらすぐ食堂に行きます!」
「待って、ニニ」
明かりがついておらず真っ暗な廊下を数歩ダッシュしたニニがつんのめりながら壁に手をつき、呼び止めるマザーを振り返る。その目の前に、白い封筒が差し出されていた。封筒の左肩には青い切手が貼られ、宛名面にはこの学園の場所を示す十桁の数字と「高木ニニ様」という整った筆跡で書かれた文字が行儀よく並んでいる。
「これ……! 手紙、マイカからだ!」
ニニは手に持っていた二つのバッグをためらいなくその場にどさりと手放して、マザーの差し出す白い封筒を両手で恭しく受け取る。
「まさか、私があなたに説教をするためだけに、玄関先であなたの帰りを待ち受けていたとでも? 早めに食堂に来てくださいね」
封筒を裏返して金色の封緘シールをうっとりと見つめるニニに笑いかけて、マザーはくるりと踵を返し、奥にある食堂へと歩いていく。
「あっ、マザー、ありがとうございます!」
我に返ったニニは暗い廊下に落ちた荷物をかき集め、その先に続く階段へ一目散に駆けていく。数分前まで感じていた疲労と空腹感はどこかへ飛んでいき、今はつま先が床に触れるたび跳ね上がるように身体が軽く感じる。
一段飛びで自室のある三階まで駆け上がり、古めかしい木目の床をきしませながら暗い廊下を抜けて部屋の前にたどり着く。静けさに沈んだ夜闇の中で弾む息を抑えながら、ポケットに入れていた銀の鍵で部屋の扉を開け、ニニは室内へ転がり込んだ。
「やった、マイカ、私のことちゃんと覚えてくれてた」
震える声で呟きながら、ニニは手に持っていたバッグを二つともベッドに放り投げて、部屋の奥にある窓際の机へと駆け寄る。
ぱちりとデスクスタンドをつけ、白い封筒のふちをはさみで切って待ちきれず中に指を滑り込ませると、四つ折りになった薄い便せんが一枚指先に触れた。破らないよう丁寧に開くと、封筒の宛名面の硬い文字とはうって変わり、青空模様の便せんに見覚えのある親友の少し丸い文字が踊っていた。
「『ニニギへ。次の土曜、午後三時、いつものとこで。マイカ』、次の土曜か、消印は……四日前だから明日! 明日マイカが来るんだ」
思わず小さく叫んでから便せんを胸元に抱いて、ニニは薄暗い部屋の中、一人嬉しそうに笑って天井を仰いだ。
「久々にマイカと歌える」
「ニニギ」
「夏休みぶりだなあ~マイカと会えるの」
「おーい、ニニギ。電気くらい点けなよ」
背後から投げかけられた声に驚いて振り向くと同時に、突然部屋が明るくなる。まぶしさのあまり、ニニは思わずウッとうめきながら片腕で顔を覆った。
「うわぁ汚ったな。六畳しかないこの部屋をよくもまあここまで散らかせるなーニニギは。天才か?」
顔の前に手をかざして目を細めたニニが、声の主を視線でたどる。すると、部屋の入口によく見知った髪の長い少女の姿があった。
「びっくりしたぁ、チユキかあ。というか、ちょっとチユキ見ちゃだめ、部屋の中勝手に見ちゃだめ」
「ドア開けっぱなしのニニギが悪い」
腕を組んでいた黒髪の少女はそう言い放つと、慌てふためくニニをよそに服や本があちらこちらに散らばる室内を見渡し、どこか呆れた顔をしながら部屋に足を踏み入れる。
「チユキ、なんで私が帰ってきたってわかったの? また……うるさかった?」
「そりゃさあ、あれだけどったどった足音たてて階段駆け上って、部屋に転がり込んでたらね、そりゃね、ニニギだなーってわかるよ。うるさかった。だいぶ。ナユタとかキレてると思うよ」
チユキは艶やかな黒く長い髪をゆったりと一つに束ねて右肩に流し、オーバーサイズの丈が長いカーディガンを羽織っている。チユキが部屋の中央までやってくると、部屋の空気が動いてニニの鼻先にふわりと薄荷が香る。最近お気に入りのハンドクリームの香りをまとったチユキの白い頬はほんのりと上気しており、どうやら夕食後の入浴もストレッチも、すでに済ませているようだった。
「ところでさ、ニニギ」
そう言って、チユキがすぐそばのベッドの上に放り投げられたニニのバッグを、ちらりと横目で見る。片方のバッグにはニニの教科書が、そしてもう片方には、夕方の野外調査で使った端末と記録ノートが入っている。
「あ! あの、今帰ったばっかりで、今日の分の調査レポートはまだで、その」
チユキは放課後にニニが所属する野外調査活動チームのリーダーであり、野外調査のたびにメンバーが作成するレポートを、政府の研究機関へ送るために取りまとめてくれている。
そのチユキが自分の部屋を訪れた目的を察して、ニニはしどろもどろに言葉を繋ぐ。
「これから作業しようと思ってて、それでつまりまだ……終わってません……」
「わかってるって。今日の野外調査は範囲が広かったし、レポートは今日の十時頃まででいいよーって本当は言いに来たんだけどさ」
そこで一度言葉を切ると、チユキはにやりと笑ってニニの手元を指さす。
「ラブレター、来たんでしょ? 大好きなマイカからさぁ」
冷やかすチユキの言葉に、ニニは便せんに視線を落とし、満面の笑みを浮かべながらこくりとうなずく。ラブレターじゃないと反論するどころか、デレっとしたその幸せそうな表情にやれやれと首を振って、チユキは額に手を当てた。
「あー、だからさ、いいよ、明日の朝までで。嬉しすぎてこの部屋みたいにぐっちゃぐちゃになった頭で書かれたレポートとか、夜中に整えたくないし」
「本当にっ? 明日の朝食堂に持ってく。チユキありがとう~神だー拝む」
「はいはい、明日の朝には頼みますよ」
自分より少し背の低いニニの肩をぽんぽんと叩き、チユキは部屋を出ていこうとする。
「ところで、さ」
チユキを見送ろうと一緒に扉のそばまでやってきたニニの頭越しに、チユキがベッドの上を指さす。つられてニニも室内を振り返ると、先ほどチユキが見つめていたバッグが二つ、どちらもニニが部屋に入るなり放り投げたせいで、中身が少し顔をのぞかせていた。
「まあ、レポートは明日でもいいからさ、あの端末は大事にしてよ、ニニギ。世の中ロステクから立ち直りつつあるとはいえ、半導体を使った物はまだまだ高価なんだって。壊れた時に反省文を書かされるのはニニギだし、活動ポイント減点されてマイカのライブ見られなくなったら困るのもニニギでしょ」
「あーっ、それはその、はい、ごめんなさい……以後気を付けます」
「それと、明日は土曜で授業ない分、野外調査は十時からだからね、そっちもよろしく。じゃあおやすみ」
「おやすみ」
暗い廊下の向こうへ消えていくチユキの背中を見送り、部屋に入ったニニはふうと息をついて自室の扉を閉めた。机の上に置かれた時計に視線を投げると、もうすぐ八時二十分になろうとしている。
ひとまず、マイカからの手紙を丁寧に封筒にしまって机の上に置き、ニニはチユキのお小言に従って、ベッドの上にぐちゃりと鎮座しているバッグに手を伸ばした。使い込んで少しくったりとなった生成り地のトートバッグからは、野外調査用の端末が少し顔を出している。
ニニはおそるおそるバッグに手を突っ込み、指先に触れた冷たい端末を引っ張り出す。厚みは失敗した時のぺちゃんこパンケーキと同じくらい、大きさは学校で使っているノートほどのそれは、見た目よりも少し重い。
真っ暗な画面いっぱいに移り込んだ不安げな自分の顔に苦笑いを浮かべながら覚悟を決めたニニが、その画面右上を指先でととっと素早くタップする。端末の画面はすぐに薄い青色に光り、ニニにロック解除のためのパターン入力を求めてくる。
「よっ……かった。だいじょぶ、壊れてない壊れてない」
青い空に浮かぶ星にも見える点のうちのいくつかを、星座をつくるように指先でなぞると、先ほど野外調査中に最後に見た画面がふわりと表示される。資料として撮影した写真やレポートのためのメモもきちんと保存されていることを確認してから、ニニは今度こそ恭しく両手で端末を掲げると、机の上にそっと置いた。
「レポートもあるけど、ひとまず今はチキン南蛮を救出しないと」
デスクスタンドと部屋の明かりを消して部屋を出ると、ニニは軽い足取りで階下の食堂へと降りて行った。
***
誰もいなくなった暗い部屋の中、先ほどニニが起動させた端末画面が、まだほのかにあたりを照らしている。
白く光を放つ画面上には、ニニが昼間に残した走り書きのメモが表示されていた。
『なぜ、世界は壊れてしまったのか?』
しばらくすると端末画面はゆっくりと暗くなり、やがて最後にはふっと光が消えて、室内は再び夜の闇に溶けていった。




