第9話 スマホロック解除
まるさんのスマホは、たまにしつこい。
いや、スマホが悪いわけじゃない。
鳴らしている相手の方がたぶんしつこい。
ただ、その被害を朝から受ける側としては、まとめて「しつこい」で処理したくなる。
ぶるぶる、ぶるぶる、と低い振動音が鳴ったのは、昼前だった。
俺はリビングで仕事用の画面を見ながら、最初の一回は無視した。
まるさんはまだ寝ている時間だし、起きたら自分で見るだろうと思ったからだ。
でも、二分後にまた鳴った。
さらに三分後、また鳴る。
「……しつこいな」
思わず声が出る。
エルちゃんが窓辺からこっちを見た。
自分の管轄じゃない騒がしさに対して、ちょっと不満そうな顔だ。
「俺に言うなよ」
スマホの振動音は、寝室の方から聞こえてくる。
さっき洗濯物を取り込むときにちらっと見えた位置からすると、たぶんベッドの上だ。
まるさんは昨夜遅かった。
寝たのはたぶん朝方に近い。
そうなると、今起こすのも少し気が引ける。
が、四回目が鳴ったところで、さすがに無視しきれなくなった。
「緊急か?」
俺は席を立って寝室を覗いた。
カーテンは半分閉めたまま。
薄暗い部屋の中で、まるさんは毛布にくるまって完全に沈没していた。顔もほとんど埋まっていて、生存確認が必要なレベルで動かない。
その枕元で、スマホだけがぶるぶる震えている。
画面には、着信の表示。
店長
「うわ」
嫌な感じだった。
仕事先からの着信が一回ならともかく、これだけ続くと、完全にただの連絡ではない。
シフト関係か、遅刻確認か、あるいは別の何かか。
「まるさん」
「……」
「電話」
「……んー……」
反応はした。
したけど、起きていないに等しい。
俺はベッドの脇にしゃがんだ。
「まるさん、店長から」
「……やだ……」
「やだじゃなくて」
「むり……」
「それは見れば分かる」
毛布の中から出てきたのは、寝起きにもほどがある声だけだった。
目も開いてない。腕だけが少し出てきて、どこかを探るみたいに空を切る。
その手の近くで、またスマホが鳴った。
「まるさん」
「……うぅ」
「電話。取るなら起きろ」
「……たつくん……」
呼ばれて、俺は一瞬止まる。
「なに」
「ろっく……」
「は?」
「ろっく、はずして……」
まるさんは毛布に顔を埋めたまま、ぼそぼそと何か言った。
最初は聞き取れなかったけど、次の瞬間、数字が並んだ。
「え」
「……よん、にー……」
完全に寝ぼけていた。
というか、本人はたぶん、俺に話している意識すら半分ない。
眠気と着信への嫌さで、脳が最短距離の処理を選んだ結果なんだろう。
俺はスマホを見た。
鳴っている。
まるさんは起きない。
店長はたぶん急いでいる。
「いや、待てよ……」
こんなの、普通は本人以外が触るもんじゃない。
そう思う。
でも、鳴りやまないのも事実だった。
しかも当の本人は、寝ぼけながら「出て」と言っているようなものだ。
「……電話だけだからな」
誰に対する言い訳か分からないまま、俺は小さくつぶやいた。
ロック画面を開く。
言われた数字を入れる。
ほんとに開いた。
「まじか」
妙にあっさり通ってしまって、逆にひるむ。
ホーム画面にはいかない。
行く気もない。
出るべきは、今鳴ってる電話だけだ。
俺はそのまま通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、まるさん?』
「すみません、違います。同居人です」
『えっ』
「まだ寝てて起きなくて。急ぎですか」
『あー……すみません、起こしちゃいました?』
「いや、すでにだいぶ鳴ってたんで」
店長らしい相手は、一瞬気まずそうに黙った。
『今日、昼のシフト代われないか確認したくて。急に一人欠けちゃって』
「そういう」
『無理なら全然大丈夫なんですけど、もし起きたら折り返しだけお願いできると……』
緊急事態というほどではなかった。
でも何度もかけていた理由は分かる。
「分かりました。起きたら伝えます」
『すみません、ありがとうございます』
「いえ」
通話を切る。
そのまま俺は数秒、スマホを見たまま止まった。
画面には通知がいくつか並んでいる。
当然、目に入る。
でも読む気にはならない。
というか、見たくない。
見えることと、見ることは、違う。
俺はすぐに電源ボタンを押して画面を消した。
そして、そのまま枕元へ戻そうとしたところで、ベッドの反対側から、ぬっと影が現れた。
エルちゃんだった。
「おまえ起きてたのか」
エルちゃんは何も言わず、俺の手元のスマホをじっと見た。
そして当然のように、前足を乗せる。
「いや、だめ」
「……にゃ」
「おまえも出る気か?」
そのままスマホの上に座り込まれたら困るので、俺は慌てて位置をずらした。
でもエルちゃんは諦めず、今度は枕元の一番目立つ場所に丸くなる。
完全に「もう鳴らすな」の顔だった。
「おまえの言いたいことは分かる」
たぶん振動が気に入らないだけだろうけど。
毛布の中で、まるさんが小さくもぞもぞ動く。
「……おわった……?」
「電話は終わった」
「……たすかる……」
「助かってる場合じゃないけどな」
返事はない。
もうほぼ寝ている。
「昼シフト代われるかだって」
「……むりぃ……」
「だろうな」
「……あとで……でんわする……」
「はいはい」
俺はスマホを枕の近くに置き直した。
その上にエルちゃんが来ないよう、少しだけ遠い位置へずらす。
すると今度はエルちゃんが不満そうに俺を見る。
「だめだって。おまえに管理される筋合いはない」
結局、エルちゃんはまるさんの頭の近くに落ち着いた。
見張りなのか、ただあったかい場所に移動しただけなのか、そのへんは不明だ。
俺は寝室を出て、リビングに戻った。
それから一時間くらいして、ようやくまるさんが起きてきた。
髪はぼさぼさ。
目は半開き。
完全に寝不足の人だった。
「おはよう」
「……おはよ……」
「生きてる?」
「半分」
「便利な返事だな」
まるさんはソファに座る前に、キッチンで水を飲んだ。
それからしばらく無言で立ち尽くして、ようやくこっちを見る。
「……電話」
「取った」
「やっぱり」
声はまだ寝てるけど、そこだけ妙にまっすぐだった。
「悪い」
「いや」
俺はノートPCを閉じて、少し体を向けた。
「店長。今日の昼、代われるかって」
「むり」
「だろうな」
「あとで断る……」
「そうしろ」
まるさんは少しだけ目をこすった。
それから、じっと俺を見る。
「……見た?」
「なにを」
「スマホの中」
そこは聞くよな、と思う。
「見てない」
「ほんとに?」
「電話だけ」
「通知とかは」
「視界には入った。でも読んでない」
「そっか」
まるさんはそこで小さく息を吐いた。
疑ってるというより、確認してる感じだった。
「ごめん」
「だから、いいって」
「寝ぼけてた」
「それも知ってる」
「番号、言った?」
「言った」
「最悪……」
まるさんは両手で顔を覆った。
そのまま、ソファに倒れ込むみたいに座る。
「普通に最悪」
「そこまででもないだろ」
「いや、だって、ロック番号だよ」
「言われたから出ただけ。今後は変えとけ」
「変える……」
「それがいい」
俺はできるだけ軽く言った。
本当のところ、俺だって少し気まずい。
信頼されてるみたいで変に落ち着かないし、無防備すぎて心配にもなる。
でも、そういうのを今ここで重くする必要もない気がした。
「たつくん」
「ん?」
「ほんとに見てない?」
「見てないって」
「写真とか」
「見てない」
「メッセとか」
「見てない」
「検索履歴とか」
「おまえ俺をなんだと思ってるんだ」
そこでまるさんが、やっと少し笑った。
「ごめん」
「いや」
「……でも、ありがと」
「起こしても起きなかったし」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあなに」
「勝手に見ないでくれたこと」
その言い方は、ちょっとだけまじめだった。
俺は肩をすくめる。
「当たり前だろ」
「うん」
「電話だけ出た。あとは知らん」
「うん」
まるさんはまた小さくうなずいた。
それから、テーブルに突っ伏しかけたところで、ふと思い出したみたいに顔を上げる。
「エルちゃんは?」
「途中からスマホの上に座ろうとしてた」
「なんで?」
「振動が気に入らなかったんじゃないか」
「それか、管理下に置きたかったか」
「おまえんちの王様だからな」
話していると、ちょうどその王様が寝室から出てきた。
のそのそ歩いてきて、まるさんの足元で止まる。
「おはよ、エルちゃん」
「にゃ」
エルちゃんは短く鳴いて、そのままソファに飛び乗った。
そして、まるさんのスマホの置いてある位置をじっと見ている。
「やっぱ狙ってるな」
「気になるんだろうねえ」
「次鳴ったら、こいつが先に出るかもな」
「やだ、それはちょっと見たい」
まるさんは笑いながら、自分のスマホを手に取った。
画面を見て、一瞬だけ眉を寄せる。
でもすぐに店長への折り返しを押した。
「もしもし、すみません、今起きて……」
ちゃんと仕事の声に戻っていく。
寝起きなのに切り替えが早いなと思う。
俺はその様子を見ないふりで、マグカップにコーヒーを入れた。
二人分。
通話を終えたまるさんの前に置くと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
「やさし」
「今日はな」
「限定なんだ」
「パスコード漏洩記念」
「それ言うのやめて、ほんとにへこむ」
笑いながらそう言って、まるさんはマグカップを両手で持った。
寝起きで無防備で、ロック番号まで口走るくせに、見てほしくない境界線はちゃんとある。
当たり前だけど、そういう当たり前を雑に扱わないことが、たぶんこの家ではいちばん大事なんだろう。
エルちゃんがソファの真ん中に座って、満足そうに目を細めている。
俺とまるさんの間というほどでもない、でも部屋のちょうど真ん中みたいな位置だった。
こいつがいると、近すぎることも、踏み込みすぎることも、なんとなく止められる。
それがありがたいのかどうかは、まだよく分からない。
でも少なくとも、今日のところは、それでよかった。




