第8話 まる酔っ払い
まるさんは、普段そこまで酒に弱いわけじゃない。
仕事柄、飲みの席の空気には慣れてるし、飲まされ方も飲み方も、自分なりの線引きをちゃんと持っている。だから、日付をまたぐ頃にふらふらで帰ってくることは、そんなに多くない。
ないんだけど。
玄関の鍵が、いつもより二回多くがちゃがちゃ鳴った時点で、今日はちょっと違うなと思った。
「……ただいま……」
ドアの向こうから聞こえた声も、だいぶゆるい。
俺はソファから立ち上がった。
時刻は一時半過ぎ。エルちゃんは俺の横で丸くなっていたけど、物音で耳だけ動かしている。
「おかえり」
「んー……たつくんいた」
「いるよ」
「よかったあ」
その返し方で、だいたい理解した。
酔っている。
しかも、そこそこ。
玄関まで行くと、まるさんは片手を壁について、靴を脱ごうとしていた。
でも片足だけ中途半端に引っかかっていて、うまくいっていない。
「大丈夫か」
「だいじょうぶ」
「それ、だいじょうぶな人の立ち方じゃないだろ」
「床がちょっと揺れてるだけ」
「世界のせいにするな」
俺がしゃがんで靴を脱がせると、まるさんは妙に素直にされるがままだった。
こういうときの無防備さは、ちょっと困る。
「飲み会?」
「うん……店の人たちと、なんか、流れで」
「流れでそんなになる?」
「今日はちょっと、すすめられた」
「断れよ」
「断ったよお」
「その結果がこれ?」
「がんばったの」
たしかに、まるさんの中ではこれでも「がんばった後」なんだろう。
顔は赤いけど、目はちゃんと開いてるし、言葉もそこまで壊れてない。歩けないわけでもない。ただ、距離感と声の抑制だけが、いつもよりだいぶゆるい。
立ち上がろうとした拍子に、まるさんの体が少し傾いた。
「おっと」
「わ」
反射で腕を出す。
肩と腕のあたりを支える形になって、そのまま一瞬止まる。
近い。
アルコールの匂いは強すぎないけど、微かにする。
それより、夜の外気で冷えた髪の匂いの方が先にくる。
「歩けるか」
「歩ける」
「ほんとか?」
「たぶん」
「信用度低いな」
でも、完全に抱えるほどじゃない。
そこまで行くと、逆にこっちが変に意識する。
俺はまるさんの手首を軽く取って、リビングまで先導する形にした。
それがいちばん安全で、たぶんいちばん余計な意味が少ない。
「はい、ソファ」
「はーい……」
まるさんは素直に座った。
というより、ほとんど沈んだ。
エルちゃんがソファの端から起き上がって、状況を見ている。
完全に「何事か」と思っている顔だった。
「水持ってくる」
「えらい」
「当たり前だ」
「たつくん、こういうときちゃんとしてる」
「こういうときじゃなくても、だいたいちゃんとしてる」
「それは……そう」
キッチンで水を入れて戻ると、まるさんはソファの背に頭を預けて、ぼんやり天井を見ていた。
目がとろんとしている。
眠いのと酔いが半々くらいだろう。
「はい」
「ありがと」
コップを渡すと、両手で受け取る。
飲み方まで少しゆっくりだ。
「気持ち悪い?」
「そこまではいかない」
「頭は」
「ちょっとふわふわする」
「完全に酔ってる人の感想だな」
「酔ってないもん」
「それも酔ってる人の台詞」
まるさんは小さく笑った。
笑い方まで、いつもより力が抜けている。
「エルちゃーん」
「にゃ」
呼ばれたエルちゃんが、ソファの上をのそのそ歩いて近づいてくる。
まるさんの膝に前足をかけて、少しだけ匂いを嗅いだ。
「お酒くさい?」
「にゃ」
「だめかあ」
「たぶん分かってないけど、なんか違うとは思ってる顔だな」
エルちゃんはそのまま膝の上に乗るかと思ったのに、一度迷って、結局まるさんのすぐ横に座った。
完全には預けないあたりが、妙にリアルだ。
「見張られてる」
「体調チェックだろ」
「王様やさしい」
「たまにな」
まるさんは水を半分くらい飲んで、ふう、と息を吐いた。
それから、コップを両手で持ったまま、少しだけ俺の方を見る。
「たつくん」
「ん?」
「起きててくれてよかった」
「まあ、まだ寝てなかったし」
「でも、いなかったらちょっとやだった」
「コンビニ寄ればよかっただろ」
「そういうんじゃなくて」
言ってから、まるさんは少しだけ黙った。
自分でも何を言ったか分かった顔だった。
俺も、返事に困る。
「……家に誰かいると、楽」
と、まるさんは言った。
「特に、たつくんだと」
そこでコップを受け取るふりをして、俺は少し視線を外した。
まともに聞くと、たぶんだめなやつだ。
「酔ってるな」
「酔ってるよ」
「さっき酔ってないって言っただろ」
「今は酔ってるって思った」
理屈が雑すぎる。
でも、その雑さにちょっと救われる。
まるさんはソファの上で足を少し崩して、パーカーの袖を引っ張った。
帰宅後に上着だけ脱いで、家の中の空気に戻りかけている。
「仕事、疲れた?」
「うん」
「嫌な客?」
「それもいた」
「そっか」
そこはあまり踏み込まない。
聞けば話すかもしれないけど、今はたぶん、整理して話したいわけじゃない。
代わりに、俺はテーブルの上のティッシュ箱を少し近づける。
髪留めも置いてやる。
そういう細かいことでしか、今はたぶん支えられない。
「メイク落とす?」
「……そのうち」
「今すぐの方がいいだろ」
「分かってるー」
「絶対分かってない返事だな」
まるさんは笑ったあと、急に少しだけ身体をこっちに寄せてきた。
肩が触れる。
ただ、それだけだ。
それだけなのに、妙に意識するのはよくない。
「ねえ」
「なに」
「ちょっとだけ、このままでもいい?」
「……気持ち悪くなる前に洗面所行けよ」
「そういう正論は今いらない」
「酔っ払いに人権ないから」
「ひど」
言いながらも、俺は離れなかった。
離れたらたぶん、まるさんはそれ以上何も言わないで引っ込める。
そういうところは、酔ってても変わらない気がした。
ソファの上の空気が、少しだけ静かになる。
テレビはついていない。
キッチンの方から冷蔵庫の低い音だけがして、窓の外はもうほとんど真っ暗だ。
「たつくんといるの、楽」
と、まるさんが、今度はさっきより小さい声で言った。
俺は返事をしなかった。
できなかった、の方が近い。
昔なら、こういう夜はたぶん危なかった。
危なかったというか、言葉をそのまま受け取って、もう一歩踏み込んでいたかもしれない。
でも今は、そうしない。
そうしない方がいいって、二人ともたぶん知っている。
「それ、明日には忘れてるやつだろ」
と、俺はわざと軽く言った。
まるさんは少しだけ笑って、
「半分くらいはね」
と返した。
その瞬間だった。
エルちゃんが、ぬっと俺たちの間に割り込んできた。
「うわ」
「わ」
ためらいがない。
当然の顔で、まるさんの脚と俺の腿の間のわずかな隙間に体をねじ込み、そのまま丸くなろうとする。
「そこ入る?」
「入るんだねえ」
「タイミング完璧すぎるだろ」
「王様、空気読んでる?」
「読んでない。ただ中央に来たいだけだろ」
でも、結果として空気は完全に戻った。
近かった肩は離れて、真ん中にはエルちゃんがいる。
いつもの構図だ。
いつもの形に戻されると、さっきまでの数秒だけが妙に浮いて見える。
まるさんが、エルちゃんの背中を撫でた。
「えらいねえ」
「なにが」
「止めてくれた」
「誰を」
「いろいろ」
「雑だな」
でも、たぶん、その雑さで十分だった。
「はい、もう洗面所」
「えー」
「えーじゃない」
「たつくん、厳しい」
「明日の朝つらいぞ」
「送って」
「洗面所までなら」
俺が立ち上がると、まるさんも渋々立った。
でも案の定、少しふらつく。
「ほら」
「……ありがと」
今度は肩ではなく、肘のあたりを軽く支える。
それくらいがちょうどいい。
洗面所まで連れていくと、まるさんはドアのところで振り返った。
「たつくん」
「ん?」
「今日、起きててくれてほんとによかった」
「はいはい」
「それは流しすぎ」
「明日も覚えてたらもう一回言え」
「覚えてたらね」
少し笑って、まるさんは洗面所に入っていった。
ドアが閉まる。
その足元で、エルちゃんがすでに戻ってきている。
「おまえ、仕事早いな」
「……にゃ」
「護衛か監視かどっちだよ」
エルちゃんは返事の代わりに、俺の足に一度だけ体をこすりつけた。
リビングへ戻る。
さっきまで二人で座っていたソファの真ん中に、もう誰もいない。
でも、少しだけ体温の名残みたいなものが残っている気がした。
俺はその端に腰を下ろして、息を吐く。
近いようで、近くない。
そういう距離を、たぶんこの家では、エルちゃんが毎回きれいに保っている。
ありがたいのか、ありがたくないのかは、まだよく分からなかった。




