第7話 夜のコンビニ
夜の十一時を過ぎると、この部屋はだいたい一回、全部がゆるむ。
仕事の画面は閉じていて、洗い物も終わっていて、エルちゃんはベッドかソファのどこかでぬくくなっていて、俺もまるさんも、ようやく「今日」を雑に扱っていい時間に入る。
そのはずだった。
「……ない」
「なにが」
ソファに座ったまま、まるさんが冷蔵庫の中を覗き込んでいた。
俺はローテーブルに突っ伏しかけた姿勢のまま顔だけ上げる。
「アイス」
「昨日食っただろ」
「昨日のは昨日の」
「最近その理論よく使うな」
「真理だから」
真理ではないと思う。
まるさんは冷凍庫をもう一度開けて、閉めた。
往生際が悪い。
ないものは二回見てもない。
「プリンは?」
「ない」
「買えよ」
「昨日たつくんが負けたからプリン買うって言ったじゃん」
「明日って言っただろ」
「もう日付変わるよ」
「詭弁が強いな」
まるさんは満足そうにうなずいた。
その横で、エルちゃんがのそりと起き上がる。
いやな予感がした。
案の定、まるさんはそのまま猫棚の引き出しまで開けた。
中を見て、数秒止まる。
「……たつくん」
「ん?」
「エルちゃんのカリカリも、朝の分しかない」
「まじで」
「まじ」
「それはだめだな」
アイスはまあ、なくても死なない。
プリンも、かなりどうでもいい。
でも猫のフードはだめだ。うちの王様は、食事の遅れに対して厳しすぎる。
「コンビニ?」
「しかないか」
「ついでにアイス」
「ついでの圧が強い」
エルちゃんは、自分の名前が出たことだけ理解したらしく、こちらを見て短く鳴いた。
「おまえのためだからな」
「にゃ」
「あと私のアイスね」
「そこは知らん」
まるさんはすでに玄関に向かっていた。
行動が早い。こういうときだけ妙に軽い。
「ちょっと待て、上着」
「外そんな寒い?」
「夜なめるな」
俺も立ち上がって、壁にかけてあったパーカーを取る。
まるさんは玄関でスニーカーを履きながら、ちらっとこっちを見た。
「それ貸して」
「俺の?」
「うん」
「自分のは」
「出すのめんどい」
「雑だなあ」
でもそのまま断るほどでもないので、パーカーを投げる。
まるさんは受け取って頭からかぶった。
少し大きい。
袖も長い。
それなのに、変に似合うのがなんか腹立つ。
「ありがと」
「なくすなよ」
「子ども扱いしないで」
「信用が薄いだけ」
玄関のたたきで、エルちゃんがじっとこちらを見上げていた。
行くなと言っているのか、早く買ってこいと言っているのか、そこはよく分からない。
「すぐ帰るって」
「にゃ」
「王様、留守番よろしく」
「その前に、おまえ玄関から出るなよ」
念のためドアの開け閉めに気をつけながら、外へ出る。
夜の空気は、思っていたより少し冷たかった。
昼間に残っていた熱がようやく引いた感じの、乾いた夜だった。
「うわ、ちょっと寒い」
「だから言っただろ」
「言ったねえ」
「素直か」
「たつくんの服あったかい」
「返せよそれ」
「帰ったらね」
アパートの階段を降りる。
見慣れた道なのに、夜が深いと少しだけ別の場所みたいだった。
車通りはほとんどない。
遠くで信号が変わる音だけがかすかに聞こえる。
コンビニまで徒歩五分もかからないのに、この時間に並んで歩くと、昼より少しだけ遠く感じる。
「なんか静かだね」
「平日だからな」
「うん」
まるさんは俺の隣を歩きながら、ポケットに手を突っ込んだ。
借りたパーカーの袖が少し余っていて、その先が夜風に揺れる。
しばらく、特に意味のない話をする。
エルちゃんが朝うるさかったとか、今週のゴミ出しどっちだとか、コンビニで余計なもの買うなよとか、そういう会話だ。いつものやつ。家の中の続きを、そのまま外でやってるみたいな。
でも、道が静かだと、その雑談も少し違って聞こえる。
「私、この時間けっこう好き」
と、まるさんが言った。
「夜のコンビニ?」
「それもあるけど、このへん全部」
「真っ暗な住宅街を?」
「そう。なんか、この時間だけは世界が静かでさ」
俺は少しだけ歩幅を落とした。
まるさんの声も、いつもより少し低い。
「昼とか夜の仕事中とかって、ずっと誰かの音があるじゃん。店の音とか、車の音とか、人の声とか」
「まあ、あるな」
「でもこの時間って、みんなちょっと諦めて寝てる感じがして、好き」
諦めて寝てる感じ、という言い方が、まるさんらしいなと思う。
「世界に期待されてない感じ?」
「近い」
「安心するのか」
「うん。今はもう、なにも求められてない、みたいな」
まるさんは前を見たまま言った。
冗談っぽくもなく、深刻すぎもしない声だった。
俺は少し考える。
「分かるかも」
「ほんと?」
「夜中にアラート飛んでなければな」
「現実的すぎる」
「いやでも、あれないだけでだいぶ平和だぞ」
「たつくんの平和の基準、インフラで決まってるね」
「職業病だから」
まるさんが笑う。
その笑い方が、いつもよりやわらかかった。
「でも、分かるならよかった」
「なにが」
「この時間好きなの、変かなって思ってた」
「変ではないだろ」
「よかった」
コンビニの明かりが見えてきた。
白くて、明るくて、なんでもない看板の光なのに、夜道の先にあるとちょっとだけ目的地っぽい。
自動ドアが開いて、冷たい空気が当たる。
店内の明るさに一瞬だけ目が慣れない。
「猫フードどこだっけ」
「ペット用品の棚、奥」
「把握してるねえ」
「何度来てると思ってんだ」
結局、買うものは最初からほぼ決まっていた。
エルちゃんのカリカリ。
まるさんのアイス。
ついでに俺の缶コーヒー。
あと、まるさんが当然のようにプリンの棚の前で止まったので、俺は無言で一個だけカゴに入れた。
「買ってくれるの?」
「うるさい」
「やさし」
「負けた分の処理だろ」
「そういうことにしとく」
レジを済ませて、店を出る。
袋の中で、フードの音が小さく鳴った。
それだけで、なんとなく仕事をひとつ終えた気分になる。
帰り道は、行きより少しだけゆっくりだった。
急ぐ理由がなくなったからかもしれないし、さっきの会話の続きが、まだどこかに残っていたからかもしれない。
「たつくん」
「ん?」
「家帰ったら、エルちゃん絶対玄関いるよね」
「いるな」
「なんで分かるんだろ」
「袋の音」
「そんな遠くから?」
「王様をなめるな」
まるさんが笑う。
「でもさ」
「うん」
「帰ったらいるって、ちょっといいね」
「猫が?」
「猫も」
「も?」
「……別に」
言いかけて、まるさんはやめた。
俺も追わない。
追わなくても、その先の意味が分かるほど、子どもでもない。
でも、分かったふりをするほど器用でもなかった。
アパートの階段を上がる。
袋の中で、アイスのカップがかすかにぶつかる。
隣で、まるさんが小さく息を吐いた。
「ちょっと散歩みたいだったね」
「買い出しだろ」
「夢がない」
「現実担当なんで」
「じゃあ私が雰囲気担当やる」
「そんな部署あったのか」
「今できた」
玄関の前まで来て、鍵を回す。
ドアを開けると、案の定だった。
「にゃー!」
エルちゃんが、たたきのぎりぎり手前まで出迎えに来ていた。
目がものすごく真剣だ。愛情とか再会とかじゃなく、完全に袋の中身を見ている目だった。
「やっぱりいた」
「言っただろ」
「ただいま、エルちゃん」
「にゃー!」
まるさんがしゃがむと、エルちゃんはその膝に前足をかける。
でも顔はずっと袋を見ている。
分かりやすい。
「おまえ、俺らを迎えに来たんじゃなくて、フードを迎えに来ただろ」
「にゃ」
「否定しないな」
「王様、正直でよろしい」
玄関の静けさが、一瞬でいつもの家の音に戻る。
まるさんが笑って、俺が靴を脱いで、エルちゃんが袋に顔を突っ込もうとして止められる。
さっきまで外にあった、二人だけの静かな空気は、そこで自然にほどけた。
でも、消えたわけじゃない気もした。
俺は袋を持ち上げて、エルちゃんの頭を軽く避ける。
「はいはい、今出すから」
「にゃー!」
「圧が強い」
「ずっと待ってたもんねえ」
「おまえはアイスの方持ってけ」
「了解」
まるさんが冷凍庫を開ける音がする。
エルちゃんは俺の足元でそわそわしている。
狭い玄関なのに、いつもの三人分の気配がちゃんとある。
夜の道は静かだった。
たぶん、あの時間だけの静けさも本物だった。
でも、帰ってきた先にこうして猫がいて、部屋の灯りがついていて、誰かがアイスをしまっているのも、たぶん同じくらい本物だ。
エルちゃんの皿にカリカリを入れると、王様はようやく満足したらしく、すぐに食事へ向かった。
その背中を見ながら、まるさんが言う。
「なんか、いい夜だったね」
「コンビニ行っただけなのに?」
「行っただけだからでしょ」
「詩人みたいなこと言うな」
「褒め言葉として受け取っとく」
俺は笑ってしまった。
ただ買いに行っただけだ。
猫のフードと、アイスと、ついでのプリンを。
それだけなのに、少しだけ、夜がやわらかくなった気がした。




