第6話 在宅勤務崩壊
在宅勤務には、いくつか向いていない条件がある。
ひとつ、回線が不安定なこと。
ひとつ、生活空間と仕事空間の境目が曖昧なこと。
そしてもうひとつ。
猫が、いることだ。
「……よし」
朝から確認していた資料を最後に見直して、俺は小さく息を吐いた。
時刻は十時二十八分。会議開始まで、あと二分。
今日はちょっと面倒な定例だった。
こっちのチームだけじゃなく、別部署も何人か入るし、先週の障害対応の振り返りもある。発言自体はそんなに長くないけど、気を抜いていい会議でもない。
ノートPCの角度を直す。
イヤホンをつなぐ。
マイクを確認する。
資料のタブを開く。
カメラは、まあ、必要になったらでいい。
そして最後に、周囲を見回す。
「よし。エル、今日は静かにな」
窓辺では、エルちゃんが外を見ていた。
鳩の姿はないけど、警備業務は継続中らしい。こっちの声なんかまるで聞いていない顔だ。
「頼むぞ」
「……」
「返事くらいしろよ」
返ってきたのは、しっぽの先が一回だけ動く仕草だった。
不穏だ。
でもまあ、今日は大丈夫だろうと思った。
根拠はない。
ただ、今日は大丈夫であってほしいという願望があっただけだ。
会議が始まる。
画面の向こうに見慣れたアイコンが並んで、いつものように一人が話し始める。昨日までの数字、今週の対応、次の作業予定。淡々と進む。今のところ平和だ。
俺は必要なところだけ相槌を打って、画面の端にメモをまとめていく。
リビングは静かだった。
冷蔵庫の低い音と、外の車の気配くらいしか聞こえない。
いい感じだ。
これはいける。
今日はちゃんと、何事もなく終わる。
そう思った五分後。
背後で、ぴょん、という軽い着地音がした。
嫌な予感がした。
振り向かなくても分かる。
この気配は、たぶん、よくない。
「……」
そっと視線だけ横に動かす。
そこには、机の端に前足をかけて、こちらをじっと見ているエルちゃんがいた。
「おい」
小声で言う。
エルちゃんは目を細めた。
「だめ」
「……にゃ」
「だめ」
画面の向こうでは、まだ別部署の人が話している。
今ならぎりぎり大丈夫だ。こっちが発言するタイミングじゃない。
だから、俺は片手だけでエルちゃんの胸元を押し戻そうとした。
が、押し戻したところで、王様はそう簡単に引き下がらない。
次の瞬間、エルちゃんはするりと机の上に飛び乗った。
「うわ」
小声だったつもりが、たぶんちょっと漏れた。
エルちゃんは迷いなくノートPCの前を横切る。
画面の下半分が、きれいにつるんとした背中で塞がる。
「ちょ、ちょっと」
俺は片手で猫を抱き上げようとする。
その拍子に、キーボードのどこかに前足が乗った。
ぴろん、と不吉な通知音。
画面の隅に、小さく表示が出る。
ミュート解除
「最悪」
しかも、ちょうどその瞬間だった。
「田中さんのところ、インフラ側ではどう見ていますか?」
呼ばれた。
完璧なタイミングで、俺が。
世界ってたまに、信じられないくらい性格が悪い。
「あ、はい、えっと」
言いながら、俺は片手でエルちゃんの胴を支え、もう片手でキーボードのミュートを探す。
でもエルちゃんは不服そうに身をよじるし、尻尾はマイクの前を往復するし、画面の向こうでは全員が普通に待っている。
終わった。
いや、終わってはいない。
終わってないけど、かなり崩壊している。
「こちらでは、先週の障害については、主因としては接続先の負荷集中が……」
「にゃー!」
エルちゃんが、会議史上もっともはっきりしたタイミングで鳴いた。
俺は天井を見たくなった。
画面の向こうで、誰かが一瞬笑いをこらえた気配がした。
最悪だ。いや、まだギリギリ笑い話の範囲か。そう思いたい。
「すみません、猫が……」
「在宅あるあるですね」
向こうの人がやさしく返してくれた。
救いだ。でも救われきってはいない。
俺はなんとかエルちゃんを抱え上げて、膝の上に降ろそうとする。
しかし王様は納得していないらしく、今度はイヤホンのコードに興味を示した。
「それもだめ」
「にゃ」
「全部だめ」
そこで、寝室の方から、かすかな足音がした。
「……なにしてんの」
振り向くと、まるさんが立っていた。
寝起きだった。
大きめのTシャツに、まだ片方だけ変な方向を向いてる髪。目も半分しか開いてない。たぶん、今起きたんだろう。それなのに状況だけは一瞬で把握した顔をしていた。
「会議」
「見れば分かる」
「助けて」
「ひど」
言いながらも、まるさんはすぐ近づいてきた。
エルちゃんは一度だけそっちを見る。
そして、さっきまでの抵抗が嘘みたいに、まるさんの腕にするっと回収された。
「なんでそっちは素直なんだよ」
「日頃の行い」
「その理論、この家で多用されすぎだろ」
俺が小声で文句を言っている間に、まるさんはもうエルちゃんを胸に抱えたまま、こっちのマグカップを机の端へ寄せて、散らばりかけたメモ帳までまとめてくれていた。
手際がいい。
寝起きのくせに、妙にいい。
「続けて」
「え、あ、うん」
まるさんはそう言って、エルちゃんの前足を片手で押さえつつ、もう片方の手で俺のノートの開いたページを見やすい位置に直した。
そこまでやってから、静かに寝室へ戻ろうとする。
エルちゃんは抱えられたまま、まだ不服そうだったけど、まるさんの肩に額を押しつけたあたりで、まあいいかと思ったらしい。
俺は咳払いして、会議に戻る。
「すみません。改めてですが、こちらでは負荷分散の設定見直しを優先していて……」
今度はなんとか、言葉がつながった。
その後の十分は、ほぼ奇跡みたいに平和だった。
エルちゃんの乱入もない。
俺の声も震えない。
画面の向こうの人たちも、誰も深く触れない。
優しい世界だなと思う。
でも同時に、助けられた直後の居心地の悪さみたいなものが、胸の奥に少し残った。
会議が終わって、通話が切れる。
画面から人の気配が消える。
俺はそのまま、しばらく机に突っ伏した。
「……終わった」
声に出すと、どっと力が抜けた。
寝室の方から、また足音がする。
今度はさっきより少しちゃんと起きた顔のまるさんだった。片手にはマグカップ。湯気が立っている。
「生きてる?」
「たぶん」
「はい、コーヒー」
「え、いいの」
「さっきのお礼、前払いでいい?」
「助けられた側が払うシステムじゃないの?」
まるさんは笑って、俺の隣にマグカップを置いた。
ちょうど飲みやすい温度にしてあるっぽい。そういう細かいところだけ、妙に現実的だ。
「エルちゃんは?」
「寝室でふて寝」
「自由すぎるな、あいつ」
「たつくんの会議、つまんなかったんじゃない?」
「娯楽扱いすんな」
マグを手に取る。
あったかい。
そのままひと口飲んで、ようやく人心地ついた。
「ありがと」
「ん」
「助かった」
「珍しく素直」
「珍しくは余計だろ」
まるさんは机の横に立ったまま、画面をちらっと見た。
まだ共有したままの資料が残っている。
「大事な会議だった?」
「まあ、ちょっと」
「じゃあ危なかったね」
「かなり」
「エルちゃん、いいタイミングで鳴いたし」
「最悪の意味でな」
思い出して、また少し頭を抱えたくなる。
でも、まるさんは面白そうに笑っているだけだった。
「向こう、笑ってた?」
「ちょっと」
「よかったじゃん。場が和んだ」
「俺の犠牲で?」
「たつくん、そういう役まわり似合うよ」
「不本意だなあ」
まるさんは椅子の背に軽くもたれた。
「でもさ」
「ん?」
「在宅って、そういうもんじゃない?」
「どういう」
「ちゃんとしすぎないっていうか。生活の気配がちょっと混ざるやつ」
「いや、混ざりすぎだろ。猫が主張強いんだよ」
「それはそう」
そこで、寝室の方から、ひとつ短く鳴き声がした。
「ほら、呼んでる」
「反省してる声じゃないな」
「してないねえ」
まるさんはくすっと笑って、寝室へ戻りかけた。
でも途中で足を止めて、振り向く。
「次、会議のときは先に隔離しとけば?」
「言い方」
「王様のご機嫌次第だね」
「それ、一番あてにならないだろ」
まるさんはまた笑って、今度こそ寝室へ消えた。
ひとりになったリビングで、俺はもう一度コーヒーを飲む。
机の上にはノートPC、散らばりかけたメモ、半分冷めた朝の空気。さっきまでの崩壊が嘘みたいに静かだった。
でも、完全に元通りでもなかった。
助かったことは間違いない。
あのまま一人だったら、たぶんもっとぐだぐだだった。
それなのに、助けられたことにうまく慣れない自分もいる。
支える側でいる方が、たぶん楽なんだろうと思う。
段取りを組んで、問題を整理して、対処法を出して。そっちの方が、俺には分かりやすい。
でもこの家では、たまにそうじゃない。
俺が崩れかけると、誰かが勝手に机を片づけて、猫を回収して、コーヒーまで置いていく。
それが大げさでもなく、恩着せがましくもなく、当たり前みたいに行われる。
当たり前じゃないだろ、と思う。
でも、向こうはたぶん当たり前だと思っている。
「……やりにくいな」
小さくつぶやくと、今度は寝室の方から、喉を鳴らすような音が返ってきた。
エルちゃんか、まるさんか、あるいはその両方かもしれない。
俺はマグカップを持ったまま、少しだけ笑った。
仕事は仕事。
生活は生活。
ほんとはきっちり分けたいのに、この家ではたぶん、いつも少しだけ混ざる。
そしてその真ん中には、だいたい猫がいる。
次の会議までに、エルちゃん対策を本気で考えよう。
たぶん無駄だけど。




