第5話 インクバトル
休日の夜は、たまにしょうもない戦争が起きる。
主戦場はリビング。
武器はコントローラー。
争点は、皿洗いを誰がやるかだった。
「勝った方が免除」
「負けた方が全部やる」
「あとプリン一個な」
「なんで増やしたの」
「戦に褒賞は必要でしょ」
「急に時代劇みたいなこと言うな」
ローテーブルの上には、夕飯の皿がまだ重なったまま残っている。
洗えば五分で終わる量だ。だからこそ、どっちもやりたくない。人間の怠惰というのは、だいたいそういうところで発揮される。
テレビには、色インクを塗り合うタイプの陣取りゲームの待機画面。
コントローラーは二つ。
そしてソファのど真ん中には、当然のようにエルちゃんがいた。
「もう観戦席取ってる」
「特等席だねえ」
「いやそこ、俺の足置く場所なんだけど」
「王様の前で不敬」
まるさんは笑いながら、エルちゃんの脇をすり抜けてソファに座った。
俺も反対側に腰を下ろす。
結果、真ん中に猫、左右に俺たち、といういつもの陣形になる。
「ルールは?」
「三本勝負」
「妥当」
「言い訳なし」
「それはそっちに刺さるやつじゃん」
「今日の私は調子いいから」
「毎回言ってるな」
「毎回本当だから」
まるさんはコントローラーを握った瞬間、目がちょっとだけ変わる。
普段はだらっとしてるくせに、ゲームになると急に負けず嫌いが顔を出すの、ずるいと思う。
「たつくん」
「ん?」
「泣いても知らないよ」
「それ、たいてい負ける側の台詞なんだよ」
「今日は違うもん」
「子どもか」
画面のカウントダウンが始まる。
俺たちは同時に少し前のめりになった。
試合開始。
インクが飛び散る。
ステージの色がじわじわ塗り変わっていく。
陣取りゲームって、見た目は派手なのに、やってる本人たちは案外せわしない。
「うわ、来るな来るな」
「行くに決まってるでしょ」
「性格出てるぞ」
「褒め言葉?」
「違う」
まるさんは最初から遠慮なく突っ込んでくる。
慎重に塗るより、まずこっちを潰す方を優先するあたり、ほんとに性格が出ている。
「ちょ、早」
「はい一枚」
「最悪」
「口ほどにもないねえ」
「今のはまだ様子見だから」
「言い訳一件入りましたー」
「まだ試合中だろ」
横でエルちゃんが、画面の動きに合わせて耳だけぴくぴくさせていた。
色がめまぐるしく変わるのが気になるのか、動き回るキャラが気になるのか、そのへんはよく分からない。でも、少なくとも無関心ではないらしい。
第一戦は、ぎりぎりで俺が取った。
「よし」
「うっそ」
「日頃の行い」
「ゲームに持ち込むな」
「結果がすべてです」
「腹立つなあ」
俺が小さくガッツポーズすると、まるさんは本気で悔しそうな顔をした。
その顔になると、たいてい次が強い。
「次」
「早いな」
「今のは指慣らし」
「さっきも似たようなこと言ってたぞ」
第二戦開始。
今度のまるさんは、明らかに動きが違った。
突っ込み一辺倒じゃない。ちゃんと引いて、ちゃんと塗って、ちゃんとこっちの動きを見てくる。
「おまえ、ちょっと学習しただろ」
「失礼だな。最初から賢いです」
「今の返しはだいぶ頭悪い」
「うるさい」
でも実際うまい。
こっちが前に出た瞬間に横から取ってくるし、余計なところで勝負してこない。
「やば」
「やばいねえ」
「さっきまでの勢いだけの人はどこ行った」
「成長した」
「一試合の間に?」
「人は変われる」
その瞬間だった。
テレビの前を、つるん、とした影が横切った。
「うわ」
「ちょっ」
「エル!」
画面の下半分が、きれいにエルちゃんの胴体で隠れた。
しかも、止まった。
「なんで今」
「今じゃないときも困るけど!」
「見えない見えない見えない!」
俺もまるさんも、ほぼ同時に叫ぶ。
でもエルちゃんは気にしない。
テレビ台の前に座り込み、画面の中の色の動きをじっと見ている。興味の向き方が最悪だった。
「どいて!」
「王様そこだめ!」
「負ける!」
「私も見えないって!」
結果。
第二戦はぐだぐだの末、まるさんが取った。
「いや今のノーカンだろ」
「だめです」
「絶対だめだろ」
「環境込みの実力だから」
「猫ありルール聞いてない」
「この家でやる以上、常に猫ありだよ」
ものすごく正しいことを言われてしまった。
しかもエルちゃんは、自分が試合を壊したことなんて一切気にせず、テレビの前で堂々と座っている。しっぽだけがゆるく左右に揺れていた。
「完全に愉快犯じゃん」
「色が気に入ったんじゃない?」
「もっと穏やかな趣味持ってくれ」
俺がエルちゃんを抱き上げてソファに戻すと、本人は少し不満そうな顔をした。
だが抵抗はしない。
注目されるのは嫌いじゃないからだ。
「はい、最終戦」
「くっそ」
「勝った方が皿洗い免除、プリン獲得」
「負けた方が全部な」
「泣かないでね」
「それ毎回言うな」
三戦目ともなると、もう皿洗いはどうでもよくなってくる。
プリンもたぶん本質じゃない。
問題はただひとつ、「負けたくない」である。
試合開始。
今度はどっちも無駄口が減った。
「……」
「……」
インクの飛ぶ音と、ボタンを押す小さな音だけが部屋に響く。
隣ではエルちゃんが一度丸くなりかけたけど、俺たちが妙に真剣なので、なんとなく起きている感じだった。
終盤。
ほぼ互角。
「そこ、来るなって」
「行く」
「いた」
「よし」
「まだだろ」
俺が前に出て、まるさんが横に回る。
ステージの色が塗り替わる。
残り数秒。
そのとき、ソファの上でエルちゃんがふっと立ち上がった。
「え」
「ちょっと」
次の瞬間、俺たちの間にすとんと降りてくる。
正確には、俺の腕とまるさんの腕の間に、当然みたいな顔で体をねじ込んできた。
「うわ邪魔」
「今はだめ!」
「エル!」
「にゃー!」
抗議なのか、勝ち名乗りなのか。
エルちゃんは堂々と鳴いて、そのまま俺のコントローラーに前足をかけた。
キャラが、ありえない方向へ走る。
「あっ」
「勝った」
「最悪だ!」
試合終了の音が鳴った。
結果表示。
ほんのわずかな差で、まるさんの勝ち。
「っしゃあ!」
「納得いかねえ……」
「いやあ、実力だね」
「猫を使うな」
「使ってませんー。勝手に味方しただけですー」
まるさんはコントローラーを置いて、心底うれしそうに笑った。
その顔がちょっと子どもっぽくて、腹は立つのに、見てるとまあいいかと思ってしまうのがずるい。
「はい、皿洗いよろしく」
「プリンも?」
「もちろん」
「横暴」
「戦の結果だから」
さっき自分で言ってたことを、そのまま返された。
ぐうの音も出ない。
俺がため息をつくと、エルちゃんがなぜか満足そうに俺の膝に前足を置いた。
いや、おまえはどっちの味方なんだ。
「完全に判定買収されてる」
「王様は気まぐれだから」
「最悪の審判だろ」
「でも、たつくんも楽しそうだったじゃん」
「……まあ」
「ほら」
そう言われると、否定しづらい。
悔しいのは本当だ。
でも、こうやってくだらないことで本気になって、ソファの左右から言い合って、真ん中の猫に試合を壊されるのは、たしかに嫌いじゃない。
俺は立ち上がって、ローテーブルの皿を重ねた。
「洗えばいいんだろ、洗えば」
「お願いしまーす」
「プリンは明日な」
「忘れないでね」
「うるさい」
キッチンに向かいながら振り返ると、まるさんはもうソファに沈み込んでいた。
その横で、エルちゃんがまたど真ん中を取っている。
「なあ」
「ん?」
「結局一番得してるの、あいつじゃない?」
「そうだね」
「俺が負けて、皿洗いして、プリンまで買うのに」
「うん」
「納得いかねえ」
「でも王様だから」
「その言葉、万能すぎるだろ」
まるさんが声を上げて笑う。
エルちゃんは喉を鳴らす。
シンクに水をためながら、その音を背中で聞く。
たぶん、こういうしょうもない夜の積み重ねで、今の生活はできている。
勝ち負けなんて、ほんとはどうでもいい。
いや、負けたのは悔しいけど。
それでも、明日プリンを買って帰ることまで、少し込みで悪くない気がした。
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リビングから、まるさんの笑い声がまたひとつ聞こえた。
その真ん中で、たぶんエルちゃんは、今日の勝者みたいな顔をしている。




