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第4話 掃除機vs王様

 エルちゃんにも、ちゃんと苦手なものはある。


 いつもはベッドのど真ん中で寝て、窓辺で鳩を睨んで、気が向けば俺たちの生活導線を堂々と塞ぐ、あの尊大な王様にも、唯一と言っていいレベルで露骨に機嫌を損ねる相手がいた。


 掃除機である。


「今日こそやる」


 土曜の昼前、俺はそう宣言した。


 リビングの床には、猫砂の細かい粒がいくつか落ちていて、ソファの下にはいつの間にか埃がたまっていて、テーブルの脚のあたりにはエルちゃんが転がしたおもちゃが散乱している。毛がない猫だから抜け毛問題は少ないけど、だからといって家が勝手にきれいになるわけじゃない。


 むしろ、毛がないぶん妙なところに生活感だけが濃く残る。


 ソファでは、まるさんがまだ半分だらけた姿勢でスマホを見ていた。

 その膝の上に、エルちゃんが当然のように乗っている。


「えらい決意表明だね」

「もう限界」

「昨日も言ってた」

「昨日は決意。本日は実行」

「政治家みたい」


 まるさんは笑って、エルちゃんの背中を撫でた。

 エルちゃんは撫でられながらも、なぜかこっちをじっと見ている。


 嫌な予感でもしたんだろうか。

 鋭いな、王様。


「とりあえず、そこどいて」

「私ごと?」

「おまえらごと」

「雑なくくりだなあ」


 そう言いながらも、まるさんはすぐには動かなかった。

 エルちゃんももちろん動かない。

 家の中でいちばん動く必要がないと思っているのは、たぶんこの一人と一匹だ。


 俺は収納から掃除機を引っ張り出した。


 その瞬間だった。


 まるさんの膝の上で、エルちゃんの耳がぴんと立った。


「あ」

「気づいた」

「早いな」


 さっきまでぬるく伸びていた体が、一瞬で緊張する。

 視線が掃除機に固定される。

 完全に敵認定した顔だった。


「まだ電源入れてないぞ」

「存在がだめなんでしょ」

「繊細すぎるだろ」


 俺がコードを伸ばそうとした、その一秒後には、エルちゃんはもうまるさんの膝から消えていた。


 消えたというか、飛んだ。


「うわっ、速」

「どこ行った」


 ソファの裏。

 次の瞬間にはテーブルの下。

 そこから進路を変えて、寝室の入口へ。


 狭い一LDKのくせに、逃走経路だけはやたら豊富だ。


「おい、まだ何もしてないって」

「言い訳を聞く顔じゃないね」

「完全に俺が悪役じゃん」


 まるさんはソファの上で笑いながら、その逃走劇を眺めている。

 ひどい。こっちは家をきれいにしようとしているだけなのに。


 俺が掃除機のスイッチを入れた。


 ぶおん、という起動音が響く。


 その瞬間、寝室の入口からこちらを窺っていたエルちゃんが、信じられない速度で踵を返した。


「逃げた」

「逃げたねえ」

「そんなに嫌か」

「嫌なんでしょ。顔見なよ」


 顔を見る余裕があれば見てる。

 でも今のエルちゃん、顔より速度が先に来る。


 ベッドの下に潜り込むかと思ったら、途中でやめて、今度はまるさんの足にしがみついた。


「おい、助けを求める相手選ぶな」

「当然でしょ」

「当然なんだ」


 まるさんは笑ったまま屈んで、エルちゃんを抱き上げた。

 するとエルちゃんは、待ってましたとばかりに肩口へよじ登る。


「うわ、避難した」

「高台を取ったね」

「ずるい」

「戦略です」


 掃除機をかける俺。

 猫を肩に乗せたまま観戦するまるさん。


 なんだこの構図。


「手伝う気ある?」

「あるよ」

「見てるだけじゃん」

「精神的にはかなり応援してる」

「一番いらないやつ」


 まるさんが肩越しにエルちゃんを見る。


「ほら、大丈夫だよー」

「……」

「掃除機に食べられたりしないから」

「認識が幼児なんだよ」

「でも今、完全にそういう顔してる」


 たしかにしている。

 俺の肩越しに掃除機をにらむエルちゃんの目は、明確に「いつ襲ってくるか分からない怪物を見る目」だった。


 ぶおん、と音を立てながら、まずはリビングの中央から片づけていく。

 テーブルの下、ソファの前、窓際のあたり。猫砂の粒が吸われていくのは見ていて気持ちがいい。


「ほら、きれいになるだろ」

「本人には何も伝わってないよ」

「だろうな」


 エルちゃんはまるさんの肩の上から、微動だにしなかった。

 爪だけは、ちょっと食い込んでいるらしい。


「痛っ」

「ほら、王様が怖がってるから」

「俺のせい?」

「たつくんのせいだね」

「納得いかねえ……」


 ソファの下にノズルを入れようとしたところで、まるさんがひょいと立ち上がった。


「はい、通ります」

「警備対象かよ」

「避難経路の確保」

「おまえ完全に敵側だな」


 でも、ソファを少しずらしてくれたのは助かる。

 そのままクッションも持ち上げてくれたので、俺は一気に隙間を掃除した。


「その辺のコード気をつけて」

「分かってる」

「あ、エルちゃんのおもちゃ吸わないでよ」

「分かってるって」


 言ったそばから、小さい布ボールがノズルに吸い寄せられかけた。


「危な」

「ね?」

「今のは不可抗力」

「そういうの、現場では事故って言うんだよ」


 まるさんは肩にエルちゃんを乗せたまま、妙に偉そうだった。

 王様と側近みたいな顔をしている。こっちは反乱軍じゃないんだけど。


 寝室へ移動する頃には、エルちゃんの避難場所も変わった。

 さすがに肩の上が落ち着かなくなったのか、今度はベッドの端へ飛び移って、こちらをじっと警戒している。


「そこも掃除したいんだけど」

「だって」

「だって、じゃないだろ」


 ベッドの上にいるエルちゃんは、明らかに「ここまで来るならやってみろ」の顔をしていた。

 王座を守る覚悟だけはあるらしい。


「おまえ、夜はど真ん中で昼は窓辺のくせに、こういうときだけ端に寄るよな」

「状況判断ができる」

「都合がいいだけだろ」


 俺が一歩近づくと、エルちゃんはすぐに反対側へ移動した。

 さらに一歩近づく。

 また移動する。


「追い込み漁みたいになってる」

「おまえがどいてくれれば済む話なんだよ」

「がんばれ王様」

「応援する先そっちなんだ?」


 まるさんは大笑いしている。

 最終的に、エルちゃんはしびれを切らしたようにベッドから飛び降り、今度はカーテンの陰へ逃げた。


「勝った」

「勝ってないよ、嫌われただけだよ」

「それは最初からそう」


 ベッドの下まで掃除をかけて、シーツのずれを整えて、布団を軽く直す。

 部屋が片づいていくと、やっぱり気分はいい。


 まるさんが寝室の入口から中を覗いた。


「おー、きれい」

「だろ」

「やればできるじゃん」

「最初からできる側だよ」

「継続が苦手なだけで」

「痛いとこ突くな」


 掃除機を止めると、部屋は急に静かになった。


 あれだけ大騒ぎしていたのに、音が消えた瞬間、エルちゃんはカーテンの陰からそろりと顔を出す。

 慎重だ。

 でも好奇心も勝っている。


「終わったよ」

「……」

「もう敵いないって」

「信用されてないね」

「知ってる」


 エルちゃんは床を一歩踏んで、止まる。

 もう一歩踏んで、また止まる。

 まるで地雷原を進むみたいな顔で、部屋の安全を確認していた。


「そこまでされると、さすがにちょっと傷つくんだけど」

「掃除機相手に本気で命の危険を感じてたからね」

「大げさだろ」

「王様は繊細なんだよ」


 まるさんがそう言いながら手を差し出すと、エルちゃんはようやく近寄ってきた。

 そのまま足元を一周して、何事もなかったみたいにベッドへ飛び乗る。


 そして。


 当然のように、ど真ん中で丸くなった。


「は?」

「帰還した」

「いや、さっきまであんなに逃げてたのに」

「王座復帰が早いねえ」

「反省とかないのか、こいつ」


 エルちゃんは前足をきちんとそろえて座り、実に満足そうな顔でこちらを見下ろした。

 掃除の功労者が誰なのか、完全に勘違いしている顔だ。


「一番なにもしてないやつが一番偉そう」

「いつものことじゃん」

「理不尽すぎる」


 まるさんがベッドの端に腰かけて、エルちゃんの背中を撫でる。

 さっきまであれだけ怖がっていたくせに、もう喉を鳴らしている。


「でも、きれいになったね」

「まあな」

「ありがと」

「珍しく素直」

「労いを受け取れるうちに受け取っときなよ」

「次は?」

「次はないかも」

「あるなこれ」


 まるさんが笑う。

 その横で、エルちゃんがゆっくり目を細めた。


 窓から入る昼の光が、整ったシーツの上に落ちている。

 その真ん中に、王様がいる。

 たぶん本人の中では、侵略者を退けて国を守り抜いたあとの顔なんだろう。


「なあ、まるさん」

「ん?」

「掃除したの俺だよな」

「そうだね」

「なんであいつが勝者みたいな顔してるの」

「王様だから」

「便利な言葉だな、それ」


 返事の代わりに、エルちゃんは小さく喉を鳴らした。


 結局、この家では、きれいになった部屋の真ん中にも猫がいる。

 どれだけ逃げても、どれだけ騒いでも、最後にはそこへ戻る。


 俺は掃除機のコードをまとめながら、ベッドの上の王様を見た。


 まあ、部屋が片づいたなら、それでいい。

 少なくとも次に寝るとき、追い詰められる場所が少しきれいになっていることだけは確かだった。

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