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第3話 営業スマイル

 まるさんの「外の顔」ができあがるまでを、俺はたまに見てしまう。


 別に覗いてるわけじゃない。

 同じ家に住んでいて、リビングと寝室と洗面所がだいたい地続きみたいな距離感だから、見えてしまうだけだ。


 夕方の六時すぎ。

 俺が仕事用のノートPCを閉じる頃、まるさんはちょうど起きてきたばかりみたいな顔で、ソファの上にだらっと伸びていた。


「今日も働きたくない……」

「毎日言ってるな」

「毎日ほんとだから」

「真実に価値があるとは限らないぞ」

「うるさいな、働いてる人」


 Tシャツに短パン。髪は適当にクリップで留めただけ。足は裸足。

 昼のまるさんは、だいたいそういう感じだ。昨日の夜、あんなにちゃんとした顔で帰ってきた人と同じとは思えないくらい、家用の空気になっている。


 その足元では、エルちゃんがソファの影から前足だけ出していた。

 昼寝の途中らしい。王様は基本的に自由だ。


「今日何時から?」

「八時には出たい」

「じゃあそろそろ起きた方がいいだろ」

「もう起きてる」

「体がまだ寝てる」

「心も寝てる」


 言いながら、まるさんはのそのそ起き上がった。

 そのまま冷蔵庫を開けて麦茶を飲み、少しぼんやりした顔のまま洗面所へ消える。


 俺はキッチンでマグを洗いながら、その後ろ姿を見送った。


 数分後。


「たつくん」

「ん?」

「コンセント抜けてない?」

「なにの」

「ヘアアイロン」


 洗面所の方から声が飛んでくる。

 行ってみると、洗面台の横でまるさんが片手にコードを持っていた。見れば、先端のあたりをエルちゃんが興味津々で前足で押さえている。


「犯人いたわ」

「また?」

「まただな」


 エルちゃんはコード類を見るとだいたい噛みたがる。

 電源が入ってなくてよかった。


「ほら、だめ」

「……にゃ」


 エルちゃんを抱き上げると、本人はまったく悪いと思っていない顔で俺を見た。

 むしろ「点検していただけですが?」みたいな顔だ。


「仕事熱心すぎるだろ」

「うちの保安担当だから」

「設備壊してる側だけどな」


 まるさんが笑う。

 まだ化粧もしていない、家の中だけの笑い方だった。


 そのあと、エルちゃんをリビングに下ろし、俺はついでに水を一杯持っていく。

 まるさんは洗面台の前で髪を整え始めていた。


「はい」

「ありがと」

「寝起きの顔で出勤しようとしてたろ」

「さすがにそこまで終わってないですー」


 言いながら、鏡越しにこっちを見る。

 目元はまだ眠そうなのに、声だけ少しずつ起きていく。


 俺は洗面所の戸に軽くもたれて、その様子をなんとなく眺めた。


 髪をまとめる。

 前髪を整える。

 化粧水、下地、ファンデーション。

 手順はたぶんいつも同じなんだろうけど、俺にはそのたび少しずつ別人になっていくように見える。


 もちろん、別人なわけじゃない。

 ただ、家の中で使う顔と、外で使う顔があるだけだ。


「なに」

「いや」

「見すぎ」

「見えてるだけ」

「それを見てるって言うんだよ」


 まるさんはそう言って、スポンジを置いた。

 それから、ちょっとだけ肩をすくめる。


「仕事の前ってさ」

「うん」

「こうやって順番に作っていくと、ちょっと楽なんだよね」

「なにが」

「外の自分」


 鏡の中のまるさんは、もう半分くらい完成していた。

 肌の色が整って、目元が少しだけ強くなっている。


「スイッチ?」

「そんな感じ。家のままだと、あんまり戦えないから」

「戦場かよ」

「まあ、広義では」


 軽く言うけど、軽いだけの言い方じゃない。

 俺は「ふうん」としか返せなかった。


 たぶん、それはまるさんの仕事に限った話じゃない。

 俺だって、会議に入る前と家でぼーっとしてるときじゃ、使ってる声が違う。

 誰だって外用の顔くらいある。


 ただ、まるさんのそれは、目の前で見ると少し鮮やかだった。


 アイラインを引いて、リップを乗せて、最後に口角が少しだけ上がる。

 鏡の中でできあがった笑顔は、やわらかいのに隙がない。


「どう?」

 と、まるさんが言った。

「なにが」

「営業スマイル」


 そう言って、もう一段だけきれいに笑う。


 ああ、これか、と思う。

 店で客に向ける顔。仕事の顔。外の顔。


 ちゃんとしている。

 似合っている。

 たぶん、よくできている。


 でも家の中で見ると、少しだけ胸のあたりが落ち着かなくなる。


「……すごいな」

「褒め方が雑」

「いや、ほんとに」

「効きそう?」

「何に」

「売上に」

「知らんけど、たぶん」


 まるさんが吹き出した。


「なにそれ」

「感想を求めるなよ、こっちに」

「幼馴染なんだから、もっと気の利いたこと言って」

「気の利いたことって」

「似合ってる、とか」

「似合ってる」

「今の間はなに?」


 笑いながら、まるさんは立ち上がった。

 洗面所のライトの下で見ると、もう完全に夜の人だった。家でだらけていた同居人じゃなくて、外へ出るための輪郭を持った人に見える。


 黒っぽいトップスに、細めのパンツ。アクセサリーは控えめだけど、家にいるときより姿勢まで違う。


「変じゃない?」

「変ではない」

「また雑」

「でも似合ってる」

「それ、さっきも聞いた」

「本当にそうだから」


 まるさんは一瞬だけ黙った。

 それから、鏡の前じゃない方の顔で少し笑った。


「ありがと」


 その言い方は、営業スマイルじゃなかった。


 ちょうどそのとき、エルちゃんが洗面所の前に現れた。

 何か面白そうなことが起きている気配だけは察知していたらしい。


 まるさんがバッグを持つと、エルちゃんは当然のようにその前に座り込んだ。


「どいて」

「……」

「いや、その顔やめて」

「止めてるな」

「止めてるねえ」


 エルちゃんはまるさんの袖口に前足を引っかけた。

 行くなと言っているのか、ただ布の端が気になっただけなのかは分からないけど、とにかく離す気はないらしい。


「お見送り税ですか?」

「高いな」

「毎回取られる」


 まるさんがしゃがみこんで、エルちゃんの頭を撫でる。

 するとエルちゃんは満足したのか、今度は腕に額を押しつけてきた。


 その拍子に、せっかく作った外向けの表情が少し崩れる。

 目元がゆるんで、口元の力が抜ける。


 俺はその顔の方を知っている。


「ほら、王様の許可出たぞ」

「ほんと?」

「たぶん」

「適当だなあ」


 でも、まるさんは素直に立ち上がった。

 玄関へ向かう背中は、もうまた少しだけ外の顔に戻っている。


 靴を履いて、ドアの前で振り返る。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

「エルちゃん、警備よろしく」

「にゃー」


 返事だけはやけに立派だった。


 ドアが閉まる。

 部屋が静かになる。


 さっきまで洗面所に漂っていた化粧品の匂いだけが、少し遅れて残った。


 俺はリビングに戻って、ソファの背にかかったまるさんの部屋着を見る。

 さっきまでそこにいた、家の中のまるさんの抜け殻みたいだった。


 似合っていた、と思う。

 外の顔も、ちゃんと。


 たぶんあれは、嘘じゃない。

 ただ、家では使わないだけだ。


 足元で、エルちゃんが小さく鳴いた。

 見下ろすと、もう何事もなかったみたいな顔で、ソファに飛び乗って丸くなっている。


「切り替え早いな、おまえ」

「……にゃ」


 夜の仕事に行く人がいて、家に残る俺がいて、真ん中には猫がいる。


 そうやって今日も、この部屋の形は変わらない。


 俺は洗面所の明かりだけ消して、ひとり分静かになったリビングに戻った。

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